« 2008年5月 | トップページ | 2008年7月 »

2008年6月

2008年6月30日 (月)

キリストの証人となる(使徒1章)

Flower080629 経営学者のジェームズ・C・コリンズ氏は、その著書「ビジョナリー・カンパニー2・飛躍の法則」の中で、偉大な組織をつくるための条件について記しています。飛躍的に成長する組織のリーダーは総じて謙虚であり、次世代における成功を目指した後継者選びをする。必ずしもカリスマ的な個性を持たず、自分がいなくなったとしても永続的に成長を続ける仕組みを作り上げるという話です。

イエス・キリストは、少なくとも一時的にはイスラエルにおいてカリスマ的な指導者でしたが、弟子たちの足を洗い、「罪人(つみびと)たち」のために命を投げ出すほど謙虚でした。そして、次世代の成功のため後継者を選び、永続的な成長を続けることのできる「教会」という仕組みを作り上げたのです。

偉大な師であるキリストが天に昇られ、神の国を築いていく働きを弟子たちに引き継いだ時、弟子たちは最初、不安だったに違いありません。彼らのリーダーを十字架につけたイスラエルの有力者たちは、まだそのまま残っていました。復活のキリストがそばにいれば心強かったでしょうが、いなくなってしまえば、今度は弟子たちが捕らえられ、処刑されるかもしれないのです。

しかし、イエス・キリストは、自分は弟子たちのもとを去った方が良いのだと言われます。去ることにより、弟子たちを通して、さらに神の国の働きが拡大していくことになったからです。キリストが天に昇られた後、弟子たちは心を合わせて祈りました。するとその直後のペンテコステの祭りの日、弟子たちに聖霊の力が注がれます。そして彼らは、各地にイエス・キリストの証人として遣わされ、信者の集まりである「教会」が世界中に生み出されていったのです。

キリストを信じる私たちは、今もその証人としての働きを引き継いでいます。全世界の王からそれぞれ独自のミッション(任務)が与えられ、神の国の大使として世界中に派遣されているというのは、たいへん光栄なことです。永続的に成長を続ける神の国の働きのため、私たちも力を尽くし、愛と謙虚さをもって、次世代がさらに飛躍できるよう後継者づくりをしていきたいですね。

「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」(使徒1:8、新改訳第3版)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年6月27日 (金)

人材育成

うちの子が通う中学校の学級通信で、最近、携帯電話の使用に関して注意を喚起していました。先生が生徒指導をテーマとした近隣の会議に参加して、さまざまな実態や問題点を耳にする機会があったそうです。

携帯電話は便利で魅力的だが、子どもたちの利用状況については十分配慮し、きちんと約束事を決めて使用するようにして下さいと書かれていました。それぞれ家庭の事情もあるでしょうから、家庭での携帯電話使用については、保護者がその状況に応じて考えていかなければなりませんね。

子どもたちを健全に育てる責任は、親が第一に負っています。学校へは、武者修行に行かせているようなものです。以前書いたように、学校の先生は一定期間、主として就学時間だけの限られた責任を負っていますが、親は子どもが巣立つまでは毎日24時間責任があり、その後も一生涯を通じて子どもに影響を与え続けます。(以前の記事はこちら→ http://lifestream.cocolog-nifty.com/blog/2007/10/post_413b.html

同じように、新しく信仰を持った人々、つまり「永遠のいのち」をもって誕生する「霊的な子どもたち」は、「神の家」である教会で育てられます。牧師や教会のリーダーたちは、「子育て」に大きな責任を担っています。聖会やキャンプ、神学校などは、武者修行か他流試合みたいなものです。各教会がまず第一に責任をもって、次世代のリーダーたち、牧師たちを育てなければなりません。(教会での人材育成については、こちらの記事もどうぞ→ http://lifestream.cocolog-nifty.com/blog/2006/10/post_c6f9.html

今年の大会講師をして下さった千田次郎牧師も、同じことを語っています。教会は人材を育てる場所であり、訓練のために最も素晴らしい場所を手放すことはない。親が子どもを育てるのと同じように、みことばによって次の世代を育て、送り出していかなければならないと話されました。

今の神学教育は、学校という制度が前提になっているため、どうしても知識の習得が中心となります。しかし、知識をたくさん得ると正しい、敬虔な生き方ができるようになったり、親として子どもを健全に育て、送り出すことができるようになるわけではありません。「子ども」を育てること、つまり次代の人材育成は、親や牧師たちが言葉と行動をもって次の世代に神の愛を伝え、彼らがまた新たなキリストの愛の証人として力強く生きていけるようにサポートすることが肝要なのです。

人が成長するために不可欠なのは、知識を詰め込むための完璧なカリキュラムではありません。広い意味で「師弟関係」と言えるような、継続的で意味ある人間関係が重要なのです。私たちは、周りの誰からでも学ぶことができます。神様は、私たちの成長のために大きな役割を果たす人を、私たちの近くに遣わして下さいます。あるいは私たち自身が、他の人の成長のために遣わされます。天から与えられるそのような人間関係を大切にしていきたいですね。

ダイヤの原石が掘り出され、磨かれると、素晴らしい輝きを発します。私たちも同じように将来の人材を発掘し、訓練し、「世の光」として送り出していきたいと願っています。

「多くの証人の前で私から聞いたことを、他の人にも教える力のある忠実な人たちにゆだねなさい。」(2テモテ2:2、新改訳第3版)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年6月26日 (木)

派遣とネットワークづくり

昨年、私たちは長女を関西へ送り出しました。大阪の教会の集まりにせっせとおやつを作って持っていったり、フルートを吹いたり、通訳を頼まれたりしているようです。最近は、教会学校でも教え始めたとのこと。大学の勉強の方もたいへんなようですが、教会でも「実地訓練」で鍛えられているようです。

今年は、また教会員を一人、札幌の大学に送り出しました。両親ともクリスチャンで、小学生の頃から私たちの教会の一員として育ってきた青年です。札幌のいくつかの教会を紹介し、そのうちの一つに毎週通うことに決めたようです。先月、会ってきたら、元気そうな様子で安心しました。

地方の多くの教会から、毎年のように大都市圏へクリスチャンが流出していきます。地方には進学できる学校が少なく、また仕事もないからです。私たちの地域は、20代の若者を普段あまり目にすることがありません。高校を卒業すると、進学や就職のため、彼らのほとんどが町を出て行きます。閑静な住宅街を歩いているのは、小中学生、高校生、そしてウォーキングをするお年寄りたち。それ以外は、車で移動する「昔の若者」たちになります。

山形県米沢市で大学生伝道を続けてきた千田次郎牧師は、かつて同じ問題をかかえていました。多くの人が救われ、そして米沢を後にしました。せっかく育てた青年たちが出て行くことはたいへん残念であり、春になるとがっかりしたそうです。しかし、ある時、それは神様の恵みだということに気がつきました。救われ、育てられた人たちを、神様が日本各地に遣わされ、福音が広がりつつあったのです。

これこそが神様の計画だと分かった時、毎年春に行われていた送別会は、派遣祈祷会になりました。米沢にいる大学生たちを2、3年のうちに訓練し、整え、送り出して、各地に新たな教会が生み出されていったのです。親教会と子教会のネットワークが増殖し、牧師という肩書きをもたない「普通のクリスチャン」たちが、神様の働きの最前線で用いられています。

千田牧師は、従来の教会開拓の概念を打ち破らなければならないと力説します。開拓の働きを担うのは必ずしも牧師でなくてよく、場所も家(ハウスチャーチ)、スターバックス、カラオケボックスなど、さまざまな可能性が考えられます。進学、就職、転勤によって日本各地に「散らされる」クリスチャンたちには、神様の素晴らしい祝福の計画が用意されているに違いありません。

私たちは、神様からそれぞれ派遣された場所で、喜びの知らせを伝える者となっていきたいですね。そして送り出す教会としては、そのようなクリスチャンたちをサポートできるような、開放的でかつ家族的なネットワークづくりをしていきたいと願っています。

「その日、エルサレムの教会に対する激しい迫害が起こり、使徒たち以外の者はみな、ユダヤとサマリヤの諸地方に散らされた。…散らされた人たちは、みことばを宣べながら、巡り歩いた。」(使徒8:1&4、新改訳第3版)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年6月25日 (水)

ビジョン

沖縄で開かれた今年の教団大会のメイン・スピーカーは、恵泉キリスト教会の千田次郎牧師でした。千田師は、大学生の頃、虚無感と戦っていたそうです。クラシック音楽が好きで、ラジオ番組を欠かさず聴いていました。曲を聴いている時は心が慰められましたが、終わってしまうと、また虚無感がしっかりと心の中にあぐらをかいています。

千田青年は、そのような中で聖書を読み始めます。毎朝5時に起きて、聖書を5章以上読んだそうですが、どんなに読んでもさっぱり分かりません。いろいろな素晴らしいことばに出会って感激したり、文学書に引用されている名言を発見し感動したりしました。しかし、聖書が伝えようとしている中心的なメッセージが理解できなかったのです。

そこで、KGK(キリスト者学生会)というグループの学生キャンプに参加し、講師の一人に質問しました。「もし神様がおられるなら信じたい」とも言ったそうです。キャンプ直前の1ヶ月間、「神様、あなたはおられるのですか。おられるなら私と会ってください」と叫び求めていました。

講師の答えは、「そう思うなら、イエス様を信じなさい。ただ、それだけです」というものでした。千田青年は、本当に素直な気持ちになって信じようと思ったそうです。そう決心した時から、心の中の虚無感がなくなり、二度と戻って来ませんでした。さらに素晴らしかったのは、聖書を読んで分かるようになったのです。神様が、聖書のことばを通して語りかけて下さる事実に初めて気づきました。

牧師になる決意を固め、大学卒業後、神学校に進み、28歳で教会開拓を始めます。その後、山形県米沢市にある母教会に赴任しました。思いつくことすべてを試し、種が尽き果てた時、神様からビジョンの大切さを教えられます。そこで教会の人たちとともに、「夢と幻を語る会」を持ったそうです。

「自分たちができることではなく、できるだけ大きなことを話し合いましょう」という条件で、3日間、語り合いました。その結果、東京、大阪など日本各地に新たな教会を開拓しようという、教会のビジョンが誕生したのです。

現在は、東北で5箇所、関東で7箇所のチャペルを開拓し、さらに数箇所の教会開拓をスタートさせているとのこと。2026年までに1000の家族、チャペル、セル教会を生み出すことを目指しています。米沢の教会は若い牧師にゆだね、千田牧師自身は「バルナバ牧師」として、生み出された教会を励まし、育てていく働きをしているようです。

「神様から与えられたビジョンを掲げた時、そのビジョンによって私たちが導かれ、不思議なことが起こり始めた」と千田師は語ります。私たちも、神様がどのようなビジョンを与えられるのか祈り求め、その教えと導きに従って力強く前進していきたいですね。

「幻(ビジョン)がなければ民は堕落する。教えを守る者は幸いである。」(箴言29:18、新共同訳)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年6月24日 (火)

自発的な心

今年の私たちの教団テーマは、「私を遣わしてください」でした。ご存知、イザヤ6章8節の言葉です。イザヤは、イスラエルが道徳的に堕落していた時代、神のことばを伝える使命を受け取りました。それは、強制的に割り当てられた義務ではなく、イザヤ自身が自発的に志願した任務だったのです。

以前、預言のことばが与えられるある牧師に祈っていただいた時、こう言われたことがあります。「あなたは心の中に意欲的でない、消極的な部分を持っているため、神様があなたの働きの一部を凍結されている。」それではいけないと一念発起して始めたことの一つは、実は、このブログです。(笑)

今回の大会でも、神様は私の心に語りかけて下さいました。創造主なる神様は、これから私をどのような方向に導こうとしておられるのかについてです。

新しい道に踏み出すには、神様からの語りかけとビジョンが必要です。その方向とタイミングが正しいかどうかは、人々の反応と自分をとりまく状況を見て――あるいは予想して――判断しなければなりません。(悪天候の中、船出する場合もあるかもしれませんが。)そして、実際に天から与えられた使命を果たしていくためには、勇気が不可欠です。新たな任務にともなう心配や不安、マイナス要因は、いくらでも頭に浮かんでくるからです。

神様の素晴らしい栄光の姿を目撃し、その罪が除かれた時、イザヤの心の中から人間社会のささいな問題は、すべて消え去ってしまいました。神様が、「だれを遣わそう」と語られた瞬間、彼は自発的に、「私を遣わしてください」と応えたのです。神様の語りかけによりビジョンが与えられ、人々と状況を判断する力が備えられ、そして神のことばを大胆に語る勇気で満たされました。

今回の大会における選挙で、私は、次期教団代表(通称「総理」)に選出されました。任期は、来年4月からの4年間です。たいへんな重責を担うことになりましたが、神様から与えられた使命を自発的、積極的に受け取る心をもって、忠実に仕えていきたいと願っています。イザヤのように、ビジョンと判断力と勇気で満たされ、私たち一人ひとりに与えられる天命を十分に果たす人生を歩んでいきたいですね。

「私は、『だれを遣わそう。だれが、われわれのために行くだろう』と言っておられる(創造)主の声を聞いたので、言った。『ここに、私がおります。私を遣わしてください。』」(イザヤ6:8、新改訳第3版)

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2008年6月23日 (月)

キリストの家族をつくる(ヨハネ21章)

Flower080622 先週は、沖縄で教団大会がありました。日本各地で福音を伝え、教会を開拓しているフォースクエアの牧師や教会の人々が一堂に会し、神様により一つの家族とされていることをともに喜びました。

私たちの教団には、日本人はもちろん、アメリカ人、ブラジル人、フィリピン人、韓国人など、さまざまな国々の人が集まっています。大会の各集会も、日本語、英語、ポルトガル語の三ヶ国語で行われます。日本にいながら国際的な雰囲気を味わうことのできる、不思議なファミリーです。

今回、講師としてお話しいただいた先生には、「こういう教団は日本では珍しい」と言われました。確かに、あまり「日本的」ではありません。聞くところによると、どうも「アメリカ的」でもないらしいですね。いろいろな国籍、文化がブレンドされて、ユニークな新しいカラーが生み出されているようです。

私は今回、一番後ろの席で記録をとっていましたが、ひょっとして諸国の民が集まって来る天国(新しい天と新しい地)というのは、こんな感じなのだろうかと思いました。すべての国籍や文化の壁を越え、一つの家族とされている恵み。その素晴らしい「前味(まえあじ)」を堪能することができ、感謝します。

イエス・キリストは、新しい家族をつくるために世に来られました。私たちは、家族としてともに、先ず「漁」に出かけます。キリストを信じ、新たに家族に加わる人を募るということです。次に、「羊」を育てます。家族の霊的成長を助け、互いに祈り、励まし合うことです。そして、神様の栄光を現す生き方をします。各自に与えられている天命を全うし、日々の生活を通して、創造主なる神の愛を伝えていく家族となるのです。

イエス・キリストは、ペテロに問われたのと同じく、今、私たちにも問いかけられています。「あなたは、わたしを愛しますか」と。私たちは、神の子イエス・キリストを愛し、そして互いに愛し、受け入れ合うキリストの家族、国籍や文化を超越した新しいファミリーをさらに全世界に拡大していきたいですね。

「イエスは三度ペテロに言われた。『ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛しますか。』ペテロは、イエスが三度『あなたはわたしを愛しますか』と言われたので、心を痛めてイエスに言った。『主よ。あなたはいっさいのことをご存じです。あなたは、私があなたを愛することを知っておいでになります。』イエスは彼に言われた。『わたしの羊を飼いなさい。』」(ヨハネ21:17、新改訳第3版)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年6月16日 (月)

天命を完了する(ヨハネ19章)

Flower080615 「はじめてのおつかい」という絵本があります。「1976年こどものとも発行」と書いてありますから、30年以上のロングセラーですね。内容は、「みいちゃん」という5歳の女の子が、近所のお店で牛乳を買って来てと、お母さんにお願いされる話です。おつかいの途中に起こるさまざまなハプニングを乗り越え、みいちゃんは見事、「ミッション(任務)」を完了することができました。

この絵本がもとになったのか、同名のテレビ番組もあります。こちらも10数年続いているスペシャル番組のようで、小さな子どもに生まれて初めてのおつかいを頼み、その様子を本人が気づかないように撮影するというもの。見ているとあまりにハラハラしたり、子どもが可愛そうになったりするので、私は見ないことにしています。(笑)

神の子イエス・キリストも、天の父の家からこの世に、「おつかい」に来られました。もちろん、牛乳を買いに来たわけではありません。十字架上で全人類の罪を背負い、人々を罪と死ののろいから救い出す「天命」を帯びて、私たちのもとに来られたのです。それは、旧約の時代から与えられていた神の約束を成就する「天命」でもあり、また同時に、世界中の救われた人々により、神の国を完成させる「天命」でもあったのです。

今、私たちにも「天命」が与えられています。救い主イエスを信じ、それぞれ遣わされる場所で神の国の恵みを伝え、人々を天の父の家へ案内する「天命」です。「はじめてのおつかい」のように、ドキドキ、ハラハラし通しかもしれません。「おつかい」の目的を忘れそうになったり、途中で転んでしまうようなこともあるかもしれません。しかし、神様はいつも私たちとともにいて、私たちの「おつかい」を手助けして下さいます。

イエス・キリストは、十字架の上で最期に、「完了した」と言われました。地上における「天命」を全うされたのです。私たちも、神様からそれぞれ与えられている「天命」を完了して、地上における人生に終止符を打ちたいですね。

「この後、イエスは、すべてのことが完了したのを知って、聖書が成就するために、『わたしは渇く』と言われた。…そこで彼らは、酸いぶどう酒を含んだ海綿をヒソプの枝につけて、それをイエスの口もとに差し出した。イエスは、酸いぶどう酒を受けられると、『完了した』と言われた。そして、頭をたれて、霊をお渡しになった。」(ヨハネ19:28-30、新改訳第3版)

P.S. 今週の更新は本日のみとし、明日以降はお休みします。また来週、お会いしましょう。読者の皆様の今週の歩みの上に、神様の祝福が豊かにありますように。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年6月13日 (金)

科学者たち

先日、ある大学の教授をしている友人を久しぶりに訪問しました。キャンパス近くのイタリアン・レストランで昼食をご馳走になり、歓談の時を持ちましたが、何でも最近、村上陽一郎氏の講演を聴いたとのこと。同氏の著書、「科学史からキリスト教をみる」について私が話すと、その本の内容についても、村上氏は講演で語ったそうです。

(「科学史からキリスト教をみる」については、こちら→ http://lifestream.cocolog-nifty.com/blog/2008/03/post_51ee.html

啓蒙主義以降、多くの科学者たちは、神抜きの知識体系を構築しようとしてきました。しかし、それでは「科学的に」説明がつかない現象があることも確かです。科学が万能であるかのような現代にあっても、クリスチャンの科学者たちは、すべてが全知全能の神によって創造されたことを信じています。そして、創造論的な立場から科学的研究を進め、その仮説の是非を世に問う人たちも出て来ています。

米国ペンシルバニア州リーハイ大学で生化学を教えるマイケル・ビーヒー(Michael J. Behe)博士は、「ダーウィンのブラックボックス(Darwin's Black Box)」という著作で、進化論では説明不可能な「最低限の複雑さ(irreducible complexity)」について語っています。(この本の日本語訳は、古本ならアマゾンのマーケットプレイスで手に入るようですが、9,000円近くの値段がついています。苦笑)

最近の研究で明らかになってきたのは、ダーウィンが「見る」ことのなかったミクロの世界でさえ、突然変異ではまったく説明がつかない整然とした秩序があるとのこと。ビーヒー博士は、この「奇跡的」な秩序は偶然の産物ではあり得ず、「知的な存在」が設計したものとしか考えられないという説を展開します。いわゆる「インテリジェント・デザイン(Intelligent Design; 知的設計)」論です。

天文学者のヒュー・ロス(Hugh Ross)博士は、「宇宙の起源(The Creator and the Cosmos)」という本の中で、世界の主要な宗教の聖典を調べた経験について記しています。同博士はその調査の結果、聖書の天地創造の記述が、最新の科学的な宇宙研究、特にビッグバン理論とまさに合致していることを発見したのです。

「宇宙は、生命が誕生するためのさまざまな条件を、奇跡的に『ちょうど良い』ように備えている。数え切れないほどの諸条件がみごとに調和する、宇宙の奇跡的な秩序を目のあたりにすれば、創造主なる神が存在することは明らかである」というのが、ロス博士の主張です。(「宇宙の起源」日本語版は、こちらで購入できるようです。→ http://www.konkyo.org/

ひたむきに研究を進める科学者たちの中にも、創造主なる神様の秩序と愛を告げ知らせる「証し人」たちがいます。聖霊なる神様は、彼らの声を通しても、人々に真理とは何かを語りかけられています。私たちは、神様の素晴らしい栄光のわざを喜び、いつも感謝をもって生きていきたいですね。

「神はお造りになったすべてのものを見られた。見よ。それは非常に良かった。」(創世記1:31、新改訳第3版)

P.S. こちらのDVD「生命の謎に迫る」-岐路に立った進化論-もオススメです。→ http://www.ffj.gr.jp/new/video.htm

| | コメント (2) | トラックバック (2)

2008年6月12日 (木)

メッセンジャーたち

「メッセンジャー」という言葉は、普通は「伝言を伝える人」という意味です。もともとは、私信を届けるための使い走り役のことを言ったのでしょう。最近は、ネット経由でチャットや通話するためのサービスの意味だったりもしますが、「メッセージを伝える」という働きであることに変わりはありません。

ネットで検索すると、自転車で小さな荷物を配送するサービスがあることも分かりました。私は知りませんでしたが、1999年に自転車便を舞台にした「メッセンジャー」というラブコメ映画まで製作されていたのですね。主演は、飯島直子さんと草彅剛さんだそうです。「メッセンジャー」というお笑いコンビも活躍中のようです。きっと、聞いた人が笑えるようなメッセージを伝えているのでしょう。(笑)

日本の教会で「メッセンジャー」と言うと、通常、礼拝説教者や講演会講師のことです。英語では、それぞれ「preacher」、「speaker」と言うことが多いように思いますが、なぜか日本では「メッセンジャー」が多いですね。「プリーチャー」は通じないし、「スピーカー」と言うと、音響機器を連想するからでしょうか(笑)。

牧師は、教会で行われる礼拝その他の集会で、聖書に記される神様のメッセージを語ります。招かれれば、どこかで講演会をする人もいるでしょう。本を書く人もいます。日本の牧師の本は、時々、一般の出版社から発行され、普通の書店で売られる場合もあります。「元ヤクザ」だとか、「サラリーマン兼牧師」というようなちょっと変わった経歴だと、注目度が高かったりしますね。

しかし、海外の牧師の書籍は、私の知る限り、クリスチャン関係以外の出版社から出ることは少ないように感じます。これまで見たのは、ノーマン・ヴィンセント・ピールやロバート・シュラーなどの「積極思考」系の著作ですね。牧師が書いた本であっても、「自己啓発」方面の書籍なら売れるだろうと出版社が考えたのかもしれません。

最近は、ジョエル・オスティーン牧師の書籍が日本で翻訳され、「あなたはできる」というタイトルでPHPから出版されています。米国テキサス州ヒューストンにある同牧師の教会には、毎週3万人以上の人が集まり、テレビ伝道も行っています。原著「Your Best Life Now」は、全米で400万部以上のベストセラーとなり、世界19ヶ国で翻訳・出版され、韓国でも70万部のベストセラーになったとのこと。

私は、何年か前に来た韓国YWAMチームから、この本の英語版(ディボーション用=90日の聖書日課版)をプレゼントされ、読んでたいへん励まされました。神様からの励ましのメッセージをオスティーン牧師が多くの人々に伝え、それを韓国チームが私のもとに運んで来てくれたのです。

「あなたはできる」では、私たち一人ひとりが神様から与えられた力を十分に活かし、今、最高の人生を生きるための7つのステップについて記されています。1)視野を広げる、2)健全な自己イメージを育む、3)思考と言葉に潜むパワーに気づく、4)過去を捨て去る、5)逆境のときこそ強くあれ、6)与えるために生きる、7)幸せを選び取る、の7つです。

聖書に出てくるエピソードがふんだんに盛り込まれているので、聖書のちょっとした内容紹介にもなっているかもしれません。

創造主なる神は、私たちのもとに「メッセンジャー」たちを遣わし、愛と希望のメッセージを伝えて下さいます。神様は私たち一人ひとりに、素晴らしい将来の計画をお持ちであり、そのことを知ってほしいと願われているのです。私たちは、メッセンジャーたちを通して伝えられる聖霊なる神様の語りかけをしっかり聴き、受け取っていきたいですね。

「わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。──(創造)主の御告げ──それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。」(エレミヤ29:11、新改訳第3版)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年6月11日 (水)

証し人たち

昨晩は、近隣の教会で行われた伝道集会に行って来ました。「Change Your Life(あなたの人生を変える)」と題する集会で、音楽のゲストがロン・ブラウンというサックス奏者とマキーダというR&Bシンガー。講師はご存知、伝道者の滝元明師。素晴らしい音楽と力強いメッセージが心に響いた一時でした。

3人とも、自らの「救いの証し(あかし)」を語っていました。「救いの証し(testimony)」とは、クリスチャンがどのようにして信仰を持つに至ったかを語る「証言」のこと。「証し」をする人のことを、「証し人(あかしびと; witness)」と言います。神様は、クリスチャン一人ひとりを、それぞれユニークな「証し」のある「証し人」として下さっています。

ロン・ブラウン氏は、子どもの頃からサックスが好きでプロとなり、ダイアナ・ロスやスティービー・ワンダー、ホィットニー・ヒューストンらのバックミュージシャンとして、世界中をツアーしたそうです。しかし、ある時、麻薬中毒となり、生活がどん底にまで落ち込みました。その時、イエス・キリストとの出会いがあり、生き方がまったく新しくされ、今はその喜びを音楽を通して表現しているそうです。

マキーダさんは、かつて破壊衝動があり、病院に隔離されて監視されたとのこと。自殺をしたり、他人を傷つけたりしないためでした。彼女はその中で、神様の語りかけを聞きます。「あなたは死んではならない。生きるのだ。そして、わたしの光を世に輝かせなさい」という「神の声」でした。彼女は、パワフルな歌声で今、神様の愛を歌っています。(お二人のCDは、こちらから購入できるようです。→ http://saxron.jp/index.htm

滝元明師は、愛知と長野の県境の山村で育ちましたが、終戦直後の焼け野原となっていた東京で勉強する中、あまりにお腹がすいて、友人たちとともに夜な夜な野菜を盗みに行ったそうです。ある時、なぜか人から「あなたは牧師が似合いそうだ」と言われたので、思い立って近くの教会に行ってみると、そこに集まっている人たちの澄んだ目に心を打たれます。自分は泥棒だけれど、彼らのような生き方をしたい、と思った滝元青年は悔い改め、すべての罪を告白し、まったく新しい生き方ができるようになりました。

救いの証しを聞くと、励まされますね。神様は、誰がどのような中にあろうと、限りなく愛しておられ、希望を与えて下さることを確認することができます。そして、証し人たちの言葉を通して、イエス・キリストを知らない人たちの心にも、聖霊なる神様が語りかけて下さいます。「わたしは、あなたのことも同じように愛しています。あなたにも希望があるのです」と。

最近、読んだ「証し」で感銘を受けたのは、淵田美津雄氏の自叙伝「真珠湾攻撃総隊長の回想」(講談社)です。パールハーバーの上空から「トラトラトラ(われ奇襲に成功せり)」を打電した海軍大佐が、なぜ戦後、イエス・キリストを信じ、伝道者としてアメリカ各地を回ったのか、その詳しい経緯を知ることができます。彼は、神による平和を訴え、憎しみの連鎖を断つことのために力を尽くしたのでした。

救い主イエスを信じる私たちは、神様が私たち自身に与えて下さった新しいいのち、新しい生き方を喜び、そのグッド・ニュースを伝える者として生きていきたいですね。まだ信じていない人は、聖霊の語りかけを受け取り、この恵みを体験することができるよう、お祈りいたします。

「イエスは私たちに命じて、このイエスこそ生きている者と死んだ者とのさばき主として、神によって定められた方であることを人々に宣べ伝え、そのあかしをするように、言われたのです。イエスについては、預言者たちもみな、この方を信じる者はだれでも、その名によって罪の赦しが受けられる、とあかししています。」(使徒10:42-43、新改訳第3版)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年6月10日 (火)

驚くべき神の声

日本でトップクラスのある大学を卒業した、たいへん優秀な方から以前、「聖書を読んでもよく分からない」と言われたことがあります。

日本ではクリスチャンが数パーセントほどしかいないため、聖書の内容自体がよく知られていない面があります。また、2000年以上前の外国の出来事が記されているため、理解しにくい部分もあります。科学万能の現代において、聖書に出てくる数々の奇跡をどう解釈してよいのか、という側面もあるでしょう。

しかし実は、真の問題は、聖書のことばが人間の知力だけでは理解できないことなのです。神が語られる真理は、いくら勉強しても、深く研究しても、どれだけ頭が良くても、学識があっても、人知のはるかに及ばない領域にあります。聖書に「奥義(mystery)」と記されている通り、それは創造主なる神の「秘密(secret)」なのです。

この「奥義」を知り、理解するようになるには、聖書を読むと同時に、聖霊なる神様の語りかけに素直に耳を傾けようとする心が必要です。誰も聖霊によらなければ、救い主イエスを信じることはできません(1コリント12:3)。そして、「真理の御霊(みたま)」なる聖霊によって、私たちは、神様のすべての真理を悟るようになるのです(ヨハネ16:13)。聖霊の語りかけに心を開けば、小さな子どもでも聖書のことばを理解することができます。

聖霊はまた、私たちに別な方法でも語られます。日常生活の出来事、人の言葉、自分が受けた印象、夢や幻、試練や奇跡、あるいは直接、「声」をもって語りかけられる場合もあります。かつては、現代に奇跡などないと信じていた神学校教授ジャック・ディアー博士は、ある日、訪ねてきた学生の秘密を神様から超自然的に語られるという驚くべき体験をしたそうです。

ディアー博士は、その著書「神の声に驚かされる(Surprized by the Voice of God)」の中で、神の声を聞くには、次の3つが大切だと指摘しています。第一に、神様と親密な関係を築くこと。第二に、神様のみこころを喜んで行うこと。第三に、謙遜であること。まだクリスチャンでない場合は、そのような心を持つ準備のできている人が、「神の声」を聞くのかもしれません。

同博士はまた、その語りかけが本当に神様からのものかどうかを見分ける基準についても、三つ記しています。先ず、聖書のことばと矛盾していないかどうか。次に、神の愛に基づいているかどうか。そして、「良い実」を結んでいるかどうか、つまり人々を人格的に成長させるような結果につながっているかどうか、です。

私たちは、神の御霊なる聖霊の語りかけによって、創造主なる神の奥義を悟り、真理を明らかにされる聖霊の働きに協力する者となっていきたいですね。

「この奥義は、今は、御霊によって、キリストの聖なる使徒たちと預言者たちに啓示されていますが、前の時代には、今と同じようには人々に知らされていませんでした。その奥義とは、福音により、キリスト・イエスにあって、異邦人もまた共同の相続者となり、ともに一つのからだに連なり、ともに約束にあずかる者となるということです。」(エペソ3:5-6、新改訳第3版)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年6月 9日 (月)

真理の王に聞き従う(ヨハネ18章)

Flower080608 ヨハネ福音書も、いよいよクライマックスの時が近づいてきました。18章はイエスが逮捕され、「大祭司」アンナスとローマ総督ピラトのところで尋問を受ける場面です。もちろん、逮捕した側がイエスを尋問しているのですが、そのやり取りを見ると、まるでイエス・キリストが逆にアンナスやピラトを尋問しているかのようです。

アンナスがイエスの教えについて尋問すると、イエスは、こう答えました。「わたしは、ユダヤ人がみな集まって来る会堂(シナゴーグ)や宮(神殿)で、いつも教えていた。…なぜ、あなたはわたしに尋ねるのか。」その言葉は、「わたしの教えを、あなたは知っているはずだ。どうしてあなたは、その教えに聞き従わないのか」という、叱責のように聞こえます。

ユダヤ人の王なのかどうか問い詰めるピラトに対してイエスは、「わたしは確かに王であるが、わたしの国はこの世のものではない」と答えました。そして、「わたしは真理を伝えにこの世に来たのであり、真理に属する者は、わたしの声に聞き従う」とも言われました。ピラトに対し、「あなたはわたしの声に聞き従わないのか」と問い掛けられたような言葉でしたが、ピラト自身は、「真理」にも「聞き従うこと」にも関心がなかったようです。

19章の最初の部分では、ピラトがイエスに、「私には、あなたを釈放することも、十字架につけることもできる権威(権限)があることを知らないのか」と迫っています。しかし、彼に対してイエスが語った言葉は、「あなたのその権威は上から授けられたものに過ぎない」と言うものでした。

その権威をピラトに授けたのは、直接的にはローマ皇帝でしたが、究極的には天地創造の神。つまり、尋問されている側のイエス・キリストが、尋問者ピラトにその権限を与えていたのです。「あなたは、それを知らないのか」という言葉は、今度は、イエスから総督ピラトに向けられていました。

このように尋問の場においても、イエスは尋問者たちに対して、真理(真実)の教えに聞き従うかどうかを問われています。神の国の王なるイエス・キリストは今、私たちに対しても同じように、神の真理を受け取り、その教えに聞き従うかどうかを問い掛けられているのです。

私たちは、イエス・キリストが語られた真理を悟り、そのみ声にいつも忠実に従う生き方をしていきたいですね。

「そこでピラトはイエスに言った。『それでは、あなたは王なのですか。』イエスは答えられた。『わたしが王であることは、あなたが言うとおりです。わたしは、真理のあかしをするために生まれ、このことのために世に来たのです。真理に属する者はみな、わたしの声に聞き従います。』」(ヨハネ18:37、新改訳第3版)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年6月 6日 (金)

ペンテコステ・聖霊運動

1901年1月1日、米国カンザス州トピーカにあった小さな聖書学校で一人の若い女性が、特別な体験をしました。メソジストの牧師でホーリネス運動とも関わりのあったチャールズ・フォックス・パーハムが手をおいて祈ると、アグネス・オズマンというその女性に神の御霊(みたま)、聖霊が注がれ、彼女は天から奇跡的に与えられた言葉、「異言」を語り出したのです。

この小さな出来事が、新世紀を迎えたキリスト教界をゆるがし、教会史上最大のリバイバル運動、世界宣教運動へとつながるとは、当時、誰も予想できなかったでしょう。一握りの人々から始まった「ペンテコステ・聖霊運動」は、100年の歴史を経た現在、世界のプロテスタント教会における最大勢力となっているそうです。

その特別な「聖霊体験」で画期的だったのは、もちろん、異言が与えられたことでした。メソジスト運動の流れをくむ人々は、ジョン・ウェスレーが語った「聖霊体験」を真摯に求め、19世紀にホーリネス運動を開始していました。その体験は「聖霊のバプテスマ」と呼ばれるようになり、その不思議な体験とともに、使徒時代以降見られなくなった超自然的な力の回復を祈り求める人たちが次第に現れて来たのです。

トピーカの出来事は、「聖霊のバプテスマ」とともに、今まで話したこともない言語を突然話すようになったことが特徴的でした。それは異言だけにとどまらず、預言や奇跡的ないやし、悪霊追い出しなどの超自然的な力が聖書時代と同様、再び与えられるようになるという意味があったのです。聖書は、一部の知識人たちが主張するような「神話」では決してなく、そこに記されている奇跡的な出来事はそのまま事実であり、現代にも同じことが起こりうるのだと信じる新たな運動が始まりました。

この運動は、以前記したように、ウィリアム・セイモア(シーモア)によってロサンゼルスのアズサ・ストリートにおけるリバイバルを生み出し、それが後のカリスマ運動、第三の波運動へと続きます。(聖霊運動の三つの波については、こちら→ http://lifestream.cocolog-nifty.com/blog/2008/02/post_73d3.html

ペンテコステ・聖霊運動に詳しい歴史家、ヴィンセント・サイナン博士は、この運動の特色として次の5つを挙げています。(1)超自然的な力(「聖霊の賜物」)の回復、(2)人種間の和解、(3)女性の活躍、(4)新しい音楽、(5)世界宣教。

聖霊により超自然的な力が注がれるのは、人種も性別も(そして学歴や牧師資格を持っているかどうかも)関係ありませんでした。パーハムは白人、セイモアは黒人、そしていやしの伝道者であった私たちの教団の創始者エイミー・センプル・マクファーソンは女性です。聖霊によって与えられる喜びによって、新たな音楽が生まれ、そして人々は世界中にその喜びの福音(良い知らせ)を伝えに行きました。

ペンテコステ・聖霊運動に連なるクリスチャンは、20世紀の全世界で急速に増加し、世界の「キリスト教地図」を塗り替えました。南北アメリカはもちろん、アフリカ、ヨーロッパ、そしてアジア各地で、この運動が拡大しています。日本は、こうした部分でも世界的な動きにずいぶん乗り遅れてしまったかもしれません。

日本でも神様が定められた時に、聖霊による力強いリバイバル運動が開始されることを期待して、祈り続けていきたいですね。

「イエスは言われた。『…聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。』」(使徒1:7、新改訳第3版)

P.S. 今日のブログ記事は、ヴィンセント・サイナン博士が編さんした「聖霊の世紀(The Century of the Holy Spirit)」および同博士による講演を参考にしています。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年6月 5日 (木)

リバイバル運動

キリスト教と関わりの少ない多くの日本人にとって、「リバイバル(信仰復興)運動」ほど、分かりにくい社会現象はないかもしれません。それは、生き生きとした信仰を失っていた教会において、人々が神様への思いを新たにし、活性化され、使徒たちの時代と同じような躍動的な姿へと再生する動きのことを言います。

リバイバル運動は通常、一つの教会や教団・教派の枠を超え、地域や国全体に影響を及ぼします。その運動を通し、大勢の人々が新たにイエス・キリストを信じたり、あるいはその信仰が回復し、深められる体験をします。最近ではリバイバル運動の結果、一国の政治・経済ばかりか自然環境まで奇跡的に改善される例が報告されており、それは特に「トランスフォーメーション(社会変革)」と呼ばれています。

アメリカのキリスト教会の一つの特徴は、このリバイバル運動が何度も繰り返し起こったことでした。新大陸に移住した人々は、すべての人が必ずしも熱心な信仰生活を続けたわけではありません。開拓地には無法地帯や戦争もあり、信仰が冷めてしまったり、道徳的に退廃する状況もありました。そのような傾向に歯止めをかけ、人々の心を新たに創造主なる神様へと向けたのが、信仰復興の動きだったのです。

最初の大きなリバイバル運動は、1730~40年代に起こった「(第一次)大覚醒(The Great Awakening)」です。改革派や長老派の教会で始まった信仰復興運動は、ジョナサン・エドワーズの力強い働きを通し、会衆派のニューイングランド全体に広がりました。さらに、イギリスから渡米したメソジストの伝道者ジョージ・ホィットフィールドは、新大陸の植民地各地に信仰復興をもたらしました。

第二次大覚醒は、1800~30年代に起こります。この時から野外の天幕集会(キャンプ・ミーティング)が始まり、チャールズ・フィニーらの活躍により、多くの回心者が生まれました。刑務所改革や禁酒、女性参政権、奴隷制撤廃への動きも、このリバイバル運動が発端だそうです。この運動を通し、メソジスト教会とバプテスト教会が大きく成長し、また聖霊の満たしときよめを求めるホーリネス運動も始まりました。

1850年以降には、ドワイト・ライマン・ムーディーらを中心とする第三次大覚醒が起こり、その後も米国各地において数々のリバイバル運動が発生しています。米国から世界各地に宣教師が派遣されるようになったのも、これらのリバイバル運動の結果と言ってよいでしょう。大統領選の度に動向が注目される「福音派」も、こうした信仰復興運動の流れをくむ教会です。

私たちは、イエス・キリストによって新しい生き方をする者とされています。創造主なる神様により、心の中に新しいいのちが注ぎ込まれ、喜びに満ち、生き生きとした新たな人生を歩んでいきたいですね。

「その教えとは、あなたがたの以前の生活について言うならば、人を欺く情欲によって滅びて行く古い人を脱ぎ捨てるべきこと、またあなたがたが心の霊において新しくされ、真理に基づく義と聖をもって神にかたどり造り出された、新しい人を身に着るべきことでした。」(エペソ4:22-24、新改訳第3版)

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2008年6月 4日 (水)

使徒ウェスレーとメソジスト運動

私たちの教会では、「愛(i)の流れ」を重視しています。神様の愛の「おしえ(instruction)」が心の中に流れ込み、神様と直接、「おはなし(intimacy)」をすることにより、一人ひとりが無限の愛によって「満たし(infilling)」を受け、それが周りの人々への愛の「おこない(impact)」となって流れ出すという考え方です。

メソジスト運動の創始者であるジョン・ウェスレーも、神様の愛が心に流れ込み、その愛に満たされることによって、産業革命期の混乱・退廃したイギリス社会に一大変革をもたらし、また開拓時代のアメリカにおけるリバイバル(信仰復興)運動の基礎を築きました。

今日の多くの福音派教会も聖霊派(ペンテコステ・カリスマ派)教会も、ウェスレーの偉大な霊的遺産を相続した子どもたちであるかのようです。彼は「英国の使徒」と呼ばれたようですが、世界中に広がる「福音主義教会の使徒」、あるいは「リバイバル運動の使徒」と呼んでも、おそらく過言ではないでしょう。

英国国教会の牧師の15番目の子として生まれたジョン・ウェスレーは、自らも牧師の道を選びます。弟のチャールズたちとともに「ホーリー・クラブ(Holy Club)」というグループを作り、規則正しい信仰生活を目指し、日々の聖書研究、祈り、断食、病人や囚人への訪問、貧民家庭での奉仕などを実践しました。周囲から半分馬鹿にされ、つけられた「Methodists(きちょうめん屋)」というあだ名が、彼らのその後の運動の名称となりました。

敬虔主義運動との出会いは、ウェスレーに一大転機をもたらします。彼は米国ジョージア植民地に赴任した際、船で一緒になったモラヴィア兄弟団の姿に感銘を受けます。彼らは嵐の中、死が迫っているように見える時にも決して動揺せず、静かに祈り、賛美していたのでした。ウェスレーは、モラヴィア兄弟団にある救いの確信が、自分にはないことを悟りました。

帰国後の1738年5月24日、ウェスレーは、ロンドンのアルダスゲイト街で行われたモラヴィア派の集会で不思議な体験をします。ルターが書いた「ローマ人への手紙講解」序文を司会者が読んでいると、心が温まるような感覚があり、その瞬間、キリストが自分を罪から救って下さった確信が与えられたのです。

1739年1月1日には、同じくロンドンのフェッター小路で、朝の3時に祈っていた人々が特別な「聖霊体験」をしました。ウェスレーの日誌は、こう記しています。「神の力が強く私たちに臨んだため、多くの者は非常な喜びをもって叫び、また多くの者が地に倒れた。神の威厳ある臨在に対する恐れと驚きから少し我に帰ると、私たちはすぐに一つの声で叫び出した。『神様、あなたを賛美します。あなたが主であることを認めます。』」

ジョン・ウェスレーは、その後、精力的な宣教活動により英国労働者の生活を一変させます。馬に乗って総計36万キロ余りを走破、4万回以上の説教をし、50冊以上の本を書いたそうです。弟のチャールズは、6,000以上の賛美歌を書き、その一部は今でも世界中で歌われています。

ウェスレーらの運動は、やがて英国上層階級にまで影響を与えました。イギリスにフランスのような暴動や血の革命が起きず、産業革命後の世界に「イギリスによる平和(パックス・ブリタニカ)」が築かれたのは、ウェスレー兄弟たちの働きが一端を担っていたとも言われているそうです。

メソジスト運動は、英国国教会内のリバイバル運動でしたが、ジョン・ウェスレーの死後、国教会から分離・独立します。19世紀のアメリカにおいては最大教派となり、日本にも宣教師が派遣されました。学校設立にも熱心で、青山学院、関西学院、遺愛学院、弘前学院、長崎の活水学院、そして福岡女学院などが生み出されています。

ジョン・ウェスレーとメソジスト運動は、「愛の流れ」により、創造主なる神様の愛を世界中の人々に伝えました。私たちも同じように、神様の愛を知り、その愛によって満たされ、愛を伝える者となっていきたいですね。それは「生ける水の川」の流れ、つまり、イエス・キリストを信じる者の心の奥底に宿って下さる聖霊なる神様の働きです。

「…イエスは立って、大声で言われた。『だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。』」(ヨハネ7:37-38、新改訳第3版)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年6月 3日 (火)

敬虔主義運動

昨日引用したヨハネ17章のイエスの祈りは、キリスト教会が「一つであること」を願い求めています。キリスト教2000年の歴史においてクリスチャンたちは、師であるキリストの願い通りには、必ずしも歩んで来なかったように思えます。東方の正教会と西方のカトリック教会がまず二つに分かれ、宗教改革以降は、神学あるいは聖書理解の違いから、数多くの教派・教団が生まれました。

世界中に広がるキリスト教会を、組織上、一つに束ねるのは無理があります。大きな組織になれば小回りが利きづらくなり、問題が発生した場合も適切でかつ速やかな解決を得ることが難しくなるかもしれません。そういう意味では、カトリック教会に対する問題提起から宗教改革が起こり、志を同じくする小さな集まり(少なくとも当初)が組織上、分離独立したことは良かったのでしょう。

しかし、内面の信仰の相違が政治問題化し、戦争まで起きる事態は、イエス・キリストが弟子たちに願われたことではありませんでした。信教の自由がまだ保障されていなかったヨーロッパでは、ドイツ農民戦争、シュマルカルデン戦争、ユグノー戦争、オランダ独立戦争、そして30年戦争と血みどろの戦いが続きました。特に30年戦争ではドイツの国土は荒れ果て、ペストの流行もあり、人口が激減したそうです。このような争いは、キリストはもちろん、ルターが願ったことでもなかったでしょう。

16世紀のルターによる宗教改革は、先ずは彼自身の内面、心の渇きに対する神様の語りかけから始まりました。(ルターについては、こちら→ http://lifestream.cocolog-nifty.com/blog/2008/04/post_a787.html

神学者あるいは教会の組織者としてではなく、信仰者としてのルターの志を最も強く引き継いだのは、17~18世紀に生きた敬虔主義の人たちかもしれません。ルーテル(ルター派)教会牧師だったフィリップ・シュペーナーは、牧師や信徒の区別なく、クリスチャン一人ひとりが実践的な聖書研究と祈りを通して神に近づき、日々の生活において道徳的完全さを目指すための家庭集会を開始しました。これが、ドイツ敬虔主義運動の始まりとなります。

彼の影響を受けたアウグスト・ヘルマン・フランケは、ハレ大学を拠点として貧民の児童向けの学校や孤児院を設立し、インドに宣教師を派遣しました。フランケの学校で学んだフォン・ツィンツェンドルフ伯は、ボヘミアからのフス派難民(ボヘミア兄弟団)を領地にかくまい、その一団はモラヴィア兄弟団(ヘルンフート同胞教団)と呼ばれるようになります。モラヴィア兄弟団は宣教のビジョンに燃え、世界各地に宣教師を送り出し、メソジスト運動の創始者であるジョン・ウェスレーにも多大なる影響を与えました。

敬虔とは、創造主なる神を慕い求め、キリストと一つになって生きることです。そのような生き方をする同志たちにより、初めてキリスト教会は一つの方向を目指すことができるのかもしれません。私たち一人ひとり、敬虔な生き方を求めていきたいですね。

「俗悪で愚にもつかぬ空想話を避けなさい。むしろ、敬虔のために自分を鍛練しなさい。肉体の鍛練もいくらかは有益ですが、今のいのちと未来のいのちが約束されている敬虔は、すべてに有益です。」(1テモテ4:7-8、新改訳第3版)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年6月 2日 (月)

一つの家族となる(ヨハネ17章)

Flower080601 現在放映中のNHK朝の連続テレビ小説・「瞳」は、「家族」がテーマになっているようです。東京・下町の洋品店を営む家が舞台。娘と喧嘩別れした店主が里子を預かり、妻の死後、ヒップホップダンサーを目指す孫娘が代わりに同居するようになります。里子や孫娘たちとともに一つの「家族」を築いていくうち、おそらくは、店主と実の娘との関係も次第に回復していくような「気配」が感じられます。(笑)

家族とは、手元の辞書によると、「夫婦・親子を中核として、血縁・婚姻により結ばれた近親者を含む生活共同体」と定義されています。血縁とは、もちろん、血のつながりを意味し、通常の親子、兄弟等の関係を意味します。しかし、婚姻は血のつながりによる関係ではありません。それは、「契り(ちぎり)」による関係、つまり、契約関係なのです。

血縁または契約に基づいた生活共同体ということであれば、通常の夫婦・親子だけではなく、「家族」はもっと広がりを持つことになります。養子縁組は契約による親子関係ですが、法律上の親子ではない里子・里親も、ある種の契約に基づいた生活共同体を築くことができるはずですね。

イエス・キリストを信じる私たちは、一つの家族とされています。キリストは私たちを家族とするため、自ら十字架につかれ、「血による新しい契約」を可能として下さいました。私たちは、この契約により神の家族、「神の養子」とされていることを感謝しています。神様が一つの家族として下さっているのですから、互いに愛をあらわし、周りの人たちにも神様の愛を伝えていきたいですね。

「それは、父よ、あなたがわたしにおられ、わたしがあなたにいるように、彼らがみな一つとなるためです。また、彼らもわたしたちにおるようになるためです。そのことによって、あなたがわたしを遣わされたことを、世が信じるためなのです。」(ヨハネ17:21、新改訳第3版)

| | コメント (0) | トラックバック (1)

« 2008年5月 | トップページ | 2008年7月 »