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2008年7月31日 (木)

水路のそばに植わった木

教会駐車場のリンゴの木には、またたくさんの実がつき始めています。先日、教会員のある人に話を聞くと、本当はきちんと選別して刈り込みをした方が、美味しい実がなるとのこと。ただ、私たちの教会のリンゴは観賞用なので、たくさん実がなっていた方が嬉しい気持ちがします(笑)。(教会のリンゴの木については、こちらもどうぞ→ http://lifestream.cocolog-nifty.com/blog/2007/07/7_b753.html

聖書の中で、私たちのあるべき姿は、「水路のそばに植わった木」に例えられています。日本は水が豊かなので、土さえ良ければどこでも木は育ちそうですが、聖書が記された中東の地は砂漠が大きく広がる一帯です。樹木が育つためには、水の流れに近いかどうかが必須条件だったのでしょう。

「水の流れ」は、創造主なる神の霊、つまり聖霊の自由な働きを象徴しています。聖霊の流れによっていつも私たちの心が神様の愛で満たされ、潤っている時、神様は私たちを人格的に大きく成長させ、豊かな実を実らせて下さるのです。(「実」については、こちらもご参考まで→ http://lifestream.cocolog-nifty.com/blog/2008/05/15_11b7.html

「水路のそばに植わった木」になるためには、詩篇1篇に三つの条件が記されています。第一の条件は、「おしえ(instruction)」です。私たちが健やかに成長するため、創造主なる神様はどんなことを教えられているのか、私たちは聖書のことばを通して学んでいく必要があります。

第二の条件は、「おはなし(intimacy)」です。神様の教えをいつも「口ずさみ」、黙想し、それが自分の日々の生活にどのような意味を持っているのか、祈りをもって神様に直接お伺いします。私たちが神様に近づいて「おはなし」する時、神様は私たちの心を喜びで満たして(infilling)下さいます。

第三の条件は、「おこない(impact)」です。神様の愛を教えられ、その愛で満たされた私たちは、周りの人々に愛をあらわしていく生き方が期待されています。それは、「罪人の道」から方向転換した人生であり、「悪者のはかりごと」や隣人への嘲笑などとはまったく無縁の新しい生き方です。

私たちの教会では、この三つの条件を「愛(i)の流れ」と呼んでいます。「愛(i)の流れ」は、キリストを信じる私たちの心に住まわれる聖霊が、私たちに真理を教え、歩むべき道を示し、喜びで満たし、そして愛をあらわす行動となって外側に流れ出していく働きです。

この聖霊の自由な流れを、人間のくだらない私心によって押しとどめないようにしたいですね。私たち一人ひとりを造られ、育てて下さっている神様は、私たちが人格的に大きく成長し、素晴らしい実を結んでいくことを楽しみにしておられるのです。

「幸いなことよ。悪者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、あざける者の座に着かなかった、その人。まことに、その人は(創造)主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ。その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える。」(詩篇1:1-3、新改訳第3版)

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