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2008年7月22日 (火)

大学受験

もう2年くらいブログを書いていると、何を書いて何を書かなかったのか、分からなくなって来ています(笑)。今日の話は、すでにあちこちでお話ししている内容ですが、たぶん、ブログにはまだ書いていないように思います。どこかに書いていたとしたら、ごめんなさいね。

日曜日の礼拝メッセージは、「信仰のゆえに強くされる」というテーマでした。もちろん、それはイエス・キリストを信じる信仰を通して、新しい力が与えられることを意味しています。しかし、メッセージを準備する中、私が思い出していたのは大学受験の頃の経験でした。

高校生の時、私は将来、医者になることを漠然と考えていました。すでに亡くなっていた祖父がへき地医療に従事した医者だったことが、大きな要因だったと思います。三者面談でも地元の某大学医学部が第一志望だと伝え、親もすっかりその気でいたようです。

ところが高校3年の春、所属していたバレーボール部顧問の先生が私のところに来て、どの大学を志望しているか質問しました。私が某大医学部だと言うと、先生は、こう言ったのです。「(うちの高校で)医者を志望しているのは、たくさんいる。お前は、東大を受けてみないか。」

私はそれまで、東大を受験するなど考えてみたこともありませんでした。受かると思っていなかったのです。高校は進学校でしたが、ほとんどバレー漬けの学校生活でした。バレー部顧問の先生は、体育が専門で、進路指導の担当でもありませんでした。

しかし、不思議なことに、なぜかその先生の言葉に説得力を感じたのです(笑)。ひょっとして受かるんだろうかと、その時、初めて思ったのでした。親元を離れて、東京に行ってみたいという気持ちもありました。

それから少しずつ、受験準備を始めます。友人たちが薦めていた参考書、問題集、模試、ラジオ講座など、手当たり次第に試してみました。6月の高体連までは、部活との両立がたいへんでした。今から考えると、バレー部顧問の先生の言葉により、最後の高体連に向け、部活に集中しきれなくなったのですから、皮肉なものです。(最後の試合については、こちら→ http://lifestream.cocolog-nifty.com/blog/2006/09/post_cf38_1.html

何度模試を受けても、合格率が出ませんでした。最後まで、「圏外」だったのです。それでも受かる可能性を信じていたのは、いま思えば、素晴らしい「信仰」だったかもしれません(笑)。現役で合格したのは、まさに奇跡のようです。しかし、その「奇跡への信仰」が、受験勉強に集中する力を生み出したように思えます。

東大(理科一類)への入学は、私のその後の人生に大きな変化をもたらしました。医学部に進まなかった私は、将来の進路選択に悩むことになります。そして、「何のために生きるのか」という人生の目的を探し求める大学生活となります。当時はまったくの手探り状態でしたが、そのような苦悶の時期も、すべて神様の救いの計画の中にあったのでしょう。

私たちは、最善の方向へと導いて下さり、前進する力を与えて下さる神様にいつも信頼し、示された道をしっかり歩んでいきたいですね。

「人の歩みは(創造)主によって確かにされる。主はその人の道を喜ばれる。」(詩篇37:23、新改訳第3版)

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