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2008年8月

2008年8月25日 (月)

聖霊によって語る(使徒7章)

Flower080824使徒7章は、ステパノの殉教を記しています。ステパノは聖霊と知恵に満たされ、神様から語りなさいと命じられたことを大胆に語りました。まったくの冤罪によって逮捕された彼は、いくらでも解放される道があったはずです。しかしステパノは、妥協や保身に走りませんでした。彼はただ、聖霊によって与えられたメッセージを私心なく語ったのです。

今回、この聖書箇所を読んでいて、大学生の頃(?)拾い読みをした「葉隠(はがくれ)」をふと思い出しました。「葉隠」とは1716年頃、佐賀鍋島藩の山本常朝が口述した武士の心得をまとめたものだそうで、「武士道というは死ぬことと見つけたり」という一節で有名です。

何のために死ぬかと言うと、主君からゆだねられた職務を全うするために死ぬのです。ただひたすらに主君を思い、いつ討ち死にしても良い覚悟で、一瞬一瞬を大切に生きるというのが、「葉隠」が教える武士道のあり方です。

この武士道の教えは、ステパノの生き方につながるような気がしました。ステパノは、主君であるイエス・キリストを愛し、語るべきメッセージを大胆に語り、その使命を全うしました。彼のいのちは、すべて「主君」にささげられていました。そして、殉教をも恐れず、最期の一瞬まで聖霊によって語り、祈ったのです。

ステパノは、感情的になり暴徒化した聴衆により、殺害されました。しかし、彼の死は決して犬死にはなりませんでした。これ以降、エルサレムから散らされた人々により福音が各地に宣べ伝えられ、教会がユダヤ、サマリヤ、そして「地の果て」にまで拡大していきます。神様は、ステパノの尊い犠牲を「地に落ちた一粒の麦」のように祝福し、大きく用いて下さったのです。

私たちもステパノのように、ただひたすら「主君イエス」を思い、聖霊によって語る生き方をしていきたいですね。それは、創造主なる神様の愛を人々に伝え、迫害する者のために祈る生き方でもあります。

「こうして彼らがステパノに石を投げつけていると、ステパノは主を呼んで、こう言った。『主イエスよ。私の霊をお受けください。』そして、ひざまずいて、大声でこう叫んだ。『主よ。この罪を彼らに負わせないでください。』こう言って、眠りについた。」(使徒7:59-60、新改訳第3版)

P.S. 今週の更新は、都合により本日のみとします。また来週お会いしましょう。読者の皆様の上に、今週も神様の祝福が豊かにありますように。

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2008年8月22日 (金)

最後?のとうきび狩り

0808080817 先日の日曜日は、礼拝の後、夏恒例のとうきび(とうもろこし)狩りに出掛けました。(去年の記事は、こちら→ http://lifestream.cocolog-nifty.com/blog/2007/08/post_65b3.html

七飯の教会が始まってから続けられて来たとうきび狩りは、もう10回以上になるでしょうか。今回は長女と長男が張り切って取り、家族で合わせて200本を超えたのではないかと思います。あまり取り過ぎると後がたいへんなので、私は2本だけにしておきました。(笑)

今年も品種は、ゴールドラッシュ。取って来たとうきびを選別し、大きくてしっかり実が入っているものを10本くらいずつレジ袋に詰め、近所に配ります。小さいのはうちで消費することにし、作業の合間に妻がゆでたとうきびを食べると、今年も甘くて美味しかったです。実をすり下ろして作ったコーンスープも、極上の味でした。

夏休み最後の日曜日だったので、夕方から5人で揃って妻の実家に出掛けました。大きな袋にお土産のとうきびをたくさん詰め、夜もとうきび三昧です。この日は毎年、函館・湯の川の花火大会を見ていたのですが、予算削減で土曜日だけとなったのか、残念ながら花火を見ることはできませんでした。それでも、家族全員で義母を訪ねることができ良かったです。夏休みの宿題のメドが、何とか立ったからでした。(ハレルヤ!)

とうきび狩りをさせて下さった教会員の農家の方は、「今年が最後だね」と長女に言ったそうです。確かに、私たち家族がこのような形で自由にとうきびを取る機会は、もうないかもしれません。これまで、存分にとうきび狩りを楽しめたことを感謝します。

来年以降は、別の形の収穫を喜んで行きたいですね。創造主なる神様が計画されている新たな収穫を信じ、期待します。

「涙とともに種を蒔く者は、喜び叫びながら刈り取ろう。種入れをかかえ、泣きながら出て行く者は、束をかかえ、喜び叫びながら帰って来る。」(詩篇126:5-6、新改訳第3版)

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2008年8月21日 (木)

野外コンサート

夏休みは札幌訪問とファミリー・キャンピングというのが、2000年以降のわが家の「伝統」だったのですが、とうとう今年はキャンプができませんでした。長男と次女が中学校の吹奏楽部で、先週の木・金は朝から夕方まで練習。そして、土曜日には野外コンサートが予定されていたからです。

去年は大沼でキャンプし、部活のある長男を学校まで送迎しましたが、今年は中学生が二人となり、キャンプをしようという声もさすがに聞こえませんでした。天気も札幌・旭川訪問中はきれいに晴れていましたが、七飯に帰って来てからは雨模様。キャンプ日和でもなかったです。

土曜日は、コンサートに合わせたかのように雨が上がります。会場に行くと、青い空と白い雲、緑の芝生に白い洋館風の建物、譜面立てを飾るピンク、オレンジ、黄色、黄緑、水色の画用紙。そして、部員たちが着るピンクと紫2種類のTシャツ。実に鮮やかな彩りでした。

教会の人たちも、私たち以外に2家族が応援に駆けつけてくれました。トンボも飛び交うのどかな開放感のある会場で、見事な演奏を聞かせてもらい、感謝します。

すべての楽器は、本来、創造主なる神様を賛美するために存在しています。私たちは、あらゆる楽器を用いて、周囲が神の栄光の雲で満たされるような素晴らしい賛美をしていきたいですね。

「ラッパを吹き鳴らす者、歌うたいたちが、まるでひとりででもあるかのように一致して歌声を響かせ、(創造)主を賛美し、ほめたたえた。そして、ラッパとシンバルとさまざまの楽器をかなでて声をあげ、『主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで』と主に向かって賛美した。そのとき、その宮、すなわち主の宮は雲で満ちた。」(2歴代誌5:13、新改訳第3版)

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2008年8月20日 (水)

旭山動物園

Penguin0808 Lesserpanda0808夏休みツアーの中日、先週火曜日は、旭山動物園に行って来ました。朝9時頃、札幌のホテルを出て、高速をとばして1時間半ほどで到着。650台収容の一番大きい無料駐車場を目指していくと、何ともう満車とのこと。でも、空いていた有料駐車場は一日たった500円でした。

ナンバーを見ると、全国各地から車が集結しています。西門から中に入ってみると、ぺんぎん館、もうじゅう館、オオカミの森などの施設は、長い行列が出来ています。暑い夏の日に、こんなに人がたくさん集まっている動物園は、初めて見たような気がします。

混んでいる場所を適当にとばしながら、パンフレットの指示通り、反時計回りに見て歩きました。思ったより小さな動物園で、全国からこれだけの人が押し寄せてくるのは、たいへん不思議に感じました。

ただ、確かにいろいろな工夫がなされていました。ペンギンが空を飛ぶように泳いでいたり、キリンが首を伸ばして人の目の前にあるエサを食べていたり、レッサーパンダがいきなり空中のつり橋を散歩したり、アザラシが筒の中を通り抜けたり。動物たちが寝てばかりいる動物園よりは、見ていてずっと楽しいですね。

園内のいたる所には、バイオトイレ(おがくずトイレ)が設置されていました。これも初めて見ましたが、北海道内で下水道がない観光地には、いいかもしれませんね。夏は臭わず、冬は凍結しないとのことです。

さまざまな動物を見るたび、創造主なる神様の独創性に感嘆せざるを得ません。世界中のすべての動物を造り、複雑な生態系を保持し、さらに動物たちとのふれ合いを通して私たちを楽しませて下さっている神様の偉大なみわざに感謝します。

「神は、種類にしたがって野の獣を、種類にしたがって家畜を、種類にしたがって地のすべてのはうものを造られた。神はそれを見て良しとされた。」(創世記1:25、新改訳第3版)

(写真は、空を飛ぶように泳ぐペンギンとレッサーパンダの空中散歩。長女撮影)

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2008年8月19日 (火)

実家

母は今、札幌市南区に住んでいます。私が幼稚園から高校を卒業するまでは、中央区の同じ家に住んでいましたが、大学を出た1、2年後、両親は今の場所に引っ越しました。子どもが親元を離れてからどうして前より大きな家を建てるのかと思いましたが、父はずっと以前から家を新築したかったのだそうです。

引越し後、初めて帰省したある夜、新しい家に馴染めなかった私は、玄関においてあったママチャリに乗り、以前住んでいた家を見に行きました。少し様子は変わっていましたが、建物はそのまま建っています。しかし、もう別な人がそこに住んでいました。自分の帰る場所がなくなってしまったように感じました。

私の心の中で「故郷」の位置づけが変わったのは、ひょっとしたらあの時からかもしれません。中央区のもとの実家付近は、思い出のたくさん詰まった昔なじみの土地です。しかし、そこはもう帰るべき場所ではなく、新たな「実家」はただ両親が住んでいるというだけで、その近隣には何の思い出もありませんでした。

それからもう、20年以上経っています。子どもたちが小さい頃は家族連れで実家に泊まったこともありましたが、今は全員で泊まるスペースもなく、札幌ではホテル泊となります。札幌の実家は「帰る場所」というより、「訪れる場所」と言った方が実態に近いでしょう。

イエス・キリストを信じる私たちには、天の故郷に永遠の住まいが用意されています。父なる神のみもとに神の家族がそろって「帰郷」し、天上の祝福を喜び合う、「帰るべき実家」が新たに与えられていることを感謝します。私の父は、新築した家に10数年住んだ後、天に「帰郷」して行きました。今は、「天の実家」の方がずっと良いと言っているに違いありません。(笑)

「私は一つのことを(創造)主に願った。私はそれを求めている。私のいのちの日の限り、主の家に住むことを。主の麗しさを仰ぎ見、その宮で、思いにふける、そのために。」(詩篇27:4、新改訳第3版)

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2008年8月18日 (月)

天の故郷を目指す

先週前半は、札幌に帰省してきました。と言っても、家族5人のうち「札幌出身」は私だけなので、「帰省」にあたるのは私だけです。子どもたちにとっては帰郷でなく、お祖母ちゃんや叔父さんの顔を見、お小遣いをもらい、都会のショッピングを楽しむ夏休みのツアーに他なりません。(笑)

私は高校卒業と同時に故郷を後にし、東京(永福町と池袋)、神奈川(茅ヶ崎)、函館、埼玉(所沢)、カリフォルニア(ロス近郊)、そして七飯と移り住んできました。札幌を出る時、もう戻らないと心に誓ったわけではありません。しかし、函館で信仰をもって以来、少なくともこれまでは、郷里とは別の場所に行きなさいと神様から示され続けています。

信仰の父アブラハムは、「生まれ故郷を出て、わたしの示す地へ行きなさい」と神様から語られます。そうすることにより、全人類が祝福されるという大きな使命を帯びていました。メソポタミアの郷里ウルを出立し、約束の地カナン(今のイスラエルの地)に向かった彼は、その後、二度とウルに戻りませんでした。アブラハムとその子孫にとっては、カナンの地こそが新たな故郷となったのです。

アブラハムが約束の地を求めて歩んだ旅路は、イエス・キリストを信じ、天国を目指して歩む私たちの人生を象徴しています。私たちは今、神様が用意して下さった天の故郷を待ち望み、そこを目指して生きる者とされています。地上の旅路では、神様の導きに従いどこに移り住むか分かりませんが、どこを経由したとしても、終着地が天の都だという確信があることは感謝ですね。

「これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。彼らはこのように言うことによって、自分の故郷を求めていることを示しています。

もし、出て来た故郷のことを思っていたのであれば、帰る機会はあったでしょう。しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。」(ヘブル11:13-16、新改訳第3版)

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2008年8月11日 (月)

新たなリーダーを発掘する(使徒6章)

どんな組織でも、新しいリーダーが育っていかなければ、いつか立ち行かなくなります。ましてや組織が成長・拡大しつつある時は、どんどん新たなリーダーを見出し、働きをゆだねていかなくては、その勢いが次第に停滞してしまいます。使徒6章における初代教会も、まさに曲がり角にありました。

ギリシヤ語を話すユダヤ人たちが配給の問題で苦情を申し立てた時、そこには言葉と文化の問題もありました。イスラエルで生まれ育ったヘブル語(ヘブライ語)を話すユダヤ人たちとは、背景がまったく違う人々が教会に加わって来たのです。人数が増えて手が足りなくなってきただけではなく、コミュニケーション・ギャップ(意思疎通の不足)やパーセプション・ギャップ(認識の相違)も存在しました。

使徒たちが教会に対して行った提案は、拡大する働きをともに担う新たなリーダーを選出することでした。そのためには、3つの条件がありました。第一に、御霊と知恵とに満ちた人。つまり、創造主なる神の霊にいつも導かれ、御霊の実(愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制)を実らせている人です。

第二には、評判の良い人。本当に御霊と知恵とに満ちているかどうかは、周りの人々の評判を聞けばおおよそ見当がつきます。そして第三に、使徒たちとの信頼関係の下、配給の管理ができること。安心してその働きが任せられる人でなければ、使徒たちは祈りとみことばの奉仕に専念することができなかったでしょう。

新たにリーダーとして選出された7人は、この条件を十分に満たしていたようです。神のことばがますます広まり、エルサレムで救い主イエスを信じる人々が増加し続け、社会の指導的立場にある人たちも次々と信仰を持つようになりました。

私たちも、新たなリーダーを見出し、訓練や活躍の場を提供してあげられるような教会づくりをしていきたいですね。

「…十二使徒は弟子たち全員を呼び集めてこう言った。『私たちが神のことばをあと回しにして、食卓のことに仕えるのはよくありません。そこで、兄弟たち。あなたがたの中から、御霊と知恵とに満ちた、評判の良い人たち七人を選びなさい。私たちはその人たちをこの仕事に当たらせることにします。そして、私たちは、もっぱら祈りとみことばの奉仕に励むことにします。』」(使徒6:2-4、新改訳第3版)

P.S. 今週の更新は、本日のみとします。また来週お会いしましょう。読者の皆様の今週の歩みの上に、創造主なる神様の祝福が豊かにありますように。

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2008年8月 8日 (金)

復活した「リーダー養成所」

アメリカの神学校で教会増殖運動について学んだ時、七飯での教会開拓について詳細な企画書をまとめました。(宿題の一つでした。)日本に帰ってからその要旨を翻訳し、函館の親教会に提出。正式な手続きを経て承認を受け、1996年夏から七飯シオン教会は、一つの教会として本格的にスタートします。

最初から教会増殖を視野に入れた開拓でしたから、企画書段階からリーダー育成が一つの柱でした。新たなリーダーが育たなければ、新たな教会も生み出せないからです。リーダー育成は勉強中心ではなく、ミニチャーチ(小グループ)を活用した現場での実地訓練と師弟関係(メンタリング、コーチング)によって行うというのが、七飯開拓の肝でした。

教会が始まってまもなく、函館の親教会から移ってきた人から、マクノートン宣教師の思い出話を聞きました。最初の七飯会堂が建った1960年代、同宣教師は、この地に神学校建設のビジョンを抱いていたというのです。次代を担うリーダー育成という点では、奇しくも方向性が共通しており、私はたいへん感銘を受けました。

七飯の教会は、「死んでよみがえった」教会です。函館で新会堂建設計画が持ち上がった時、七飯伝道にビジョンのなかった当時の牧師が、旧七飯会堂の土地建物を売却してしまいました。ところがその後、函館の新会堂建設が牧師交代等のさまざまな事情から、大幅に延期されます。

時はバブルの最盛期。銀行に預けておいた新会堂建設資金は、利子が大きく膨らみます。函館の新会堂は、元金だけで建設が可能でした。七飯会堂がなくなってしまったことに心を痛めていた古くからの教会員たちもおり、利息は七飯の新会堂建設のために用いられることになったのです。こうして1993年に会堂が建ち、七飯の伝道拠点がよみがえりました。

そこに一組の夫婦が遣わされます。ご主人は札幌の聖書学校に学び、伝道師となって一度札幌の教会をまかされますが、すぐに函館教会の一スタッフに転任します。その後、ブライダルの働きが中心となり、七飯開拓が始まった頃は、函館の牧会スタッフからも外れていました。

この夫婦は、忠実に七飯の働きを支えて来ました。いくつかのミニチャーチのリーダーを務め、礼拝賛美のリードと奏楽を担い、またあちこちに出かけて人々に福音を伝えて来ました。ご主人は、教団で新たに採択された規約に基づき2002年に教団教師と認定され、七飯シオン教会の正式な協力牧師となりました。来春から私が所沢に異動するにあたり、今度は彼が七飯教会の主任牧師に任命されることになります。

神様は、確かに七飯の教会を「リーダー養成所」として復活させ、用いて下さいました。私がこの七飯の地に遣わされたのは、ひょっとしたらマクノートン宣教師の「仕事の整理」をし、長老(牧師)を任命するためだったのかもしれませんね。創造主なる神様の「深謀遠慮」に感謝します。

「私があなたをクレテに残したのは、あなたが残っている仕事の整理をし、また、私が指図したように、町ごとに長老たちを任命するためでした。」(テトス1:5、新改訳第3版)

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2008年8月 7日 (木)

とりなし手

世界的に有名な宣教学者C・ピーター・ワグナー博士の「個人的なとりなし手」の一人に、以前お会いしたことがあります。「個人的なとりなし手」というのは、自らの生活や働きのさまざまな状況を率直に伝え、祈りをもって支えてもらう人のこと。霊の戦いを進めていく上で、とりなしの祈りは重要な役割を担っています。

ロス郊外の神学校で同じクラスをとっていたその人は、小柄で穏かな女性でした。分かち合いの時間か何かで、私が前日に一人で自室にこもり祈っていた内容を話すと、ほとんど初対面の彼女は、「あなたの祈りが聞こえていました」と言います。私は仰天して、もっと話を聞きたいと思い、わが家に招待しました。

私たちが日本に帰国し、道南で教会を開拓する話をすると、その地域での霊の戦いについて、的確なアドバイスをくれました。かなり激しい戦いになることも予見していたようです。内容の濃い話をした後、彼女と妻、私の三人で祈り、霊的な一つの備えをすることができました。

七飯シオン教会を正式に立ち上げるにあたり、とりなしの祈りは、重要な働きの一つとして位置づけられていました。親教会の役員会などに提出した資料にも、核となる働き人の中に「祈り手」が挙げられています。さまざまな人たちが、教会のために祈ってくれたと思いますが、私と妻のための「個人的なとりなし手」は、しばらく現れませんでした。

それは、実に不思議な「神の国の人事異動」でした。私たちがアメリカから帰国し、教会立ち上げ準備に入ってから5年後の2000年、大阪から一組のクリスチャン夫婦が引っ越してきます。私は、教団の新たな規約作成に携わり、教団事務局的な働きを兼務し始めた頃でした。

転勤でも何でもなく、また私や妻の知り合いでもありません。北海道には何度か来て、道南で結婚式も挙げ、好きな場所とのこと。それにしても大都市圏から田舎に来て、不況にあえぐ函館周辺で仕事を探すという無茶な話です。なぜかと聞くと、それが神様の導きだと言うのです。

このカップルは、私たちの「個人的なとりなし」をするミッション(使命)を帯びて、創造主なる神様が七飯に遣わされたのでした。ご主人は朝から晩まで目一杯仕事をして家計を支え、奥さんは私たちのために熱心に祈り続けてくれました。神様が、重要な働き人を私たちのもとに派遣して下さったことを感謝します。

かの王妃エステルは、自らの民族のためペルシヤ王にとりなし、命をかけて助けを求めました。私たちも神様が遣わされる場所に行き、とりなしの祈りを必要とする人たちのために祈り続けていきたいですね。

「あなたがこの王国に来たのは、もしかすると、この時のためであるかもしれない。」(エステル4:14、新改訳第3版)

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2008年8月 6日 (水)

ミニ・キャンプ

今週日曜日は、夕方から小中学生向けの夏休みスペシャルイベントがありました。ゲームと食事、キャンプファイヤーと花火、そして会堂でのお泊りというミニ・キャンプです。今回は、小中学生合わせて10人ほどの参加がありました。

土曜日から断続的に激しい雨が続き、週末に予定されていた函館の港まつりのパレードも二日連続で延期になったと聞きました。月曜朝までたっぷりと降り続く予報です。教会のキャンプファイヤーと花火も、できるかどうかビミョーでしたが、参加者の一人である長男は、たとえ雨の中一人でもやりたいと言い張りました(笑)。長男と次女にとっては、七飯最後のサマーイベントだったのです。

夕食後、7時少し前から薪を組み始めました。まだ雨が降っており、ビニールシートでおおいながらの作業です。準備完了後、会堂の中で「きみは愛されるため生まれた」を歌い、聖書のショートメッセージがあり、さらにゲームと続きます。8時近くになると、雨音がしなくなってきたので、外に出てみました。なんと雨はやんでいました。

急いでキャンプファイヤーに点火し、みんなで「キャンプだホイ」を歌い踊りました。そして、グループごとに出し物をし、花火をし、その後、マシュマロを火にあぶって食べました。スタッフの一人が、「天気が味方してくれた」と言ったので、私はすぐ言い換えました。「いや、神様が味方してくれたんです。」どしゃぶりの雨が上がったのは、まさに神の奇蹟のようでした。

このミニ・キャンプ(お泊り会)が始まったのは、長男が小学校1年生の時です。その年、ある人が結婚するため、弘前から七飯に移ってきました。その人は、教会学校(日曜学校)を何年も教えてきた、子どもミニストリーのスペシャリストでした。私たちは、神様がその人を七飯に遣わして下さったことを感謝しました。たった一人で子どもたちに聖書を教えてきた妻に、強力な助っ人が与えられたのです。

それから9年間、手を変え品を変え、教会学校と子ども向けのスペシャル・イベントを続けてきました。数多くの子どもたち、時には高校生や旅行中の大学生も飛び入りで参加し、また大阪から講師を呼んだり、アメリカからチームを招いて手伝ってもらったこともあります。神様が、私たちに素晴らしい体験を与えて下さいました。

数字の「9」には、終わりという意味があるそうです。今年のミニ・キャンプは9回目でしたが、妻と私、そしてうちの子どもたちにとっては、ちょうど七飯における「宿営」の終わりを象徴していたのでしょうか。キャンプファイヤーの火が消え、雲が晴れて星空が見えた時、神様は私たちに旅立ちを命じられていたのかもしれません。

この9年間、神様が「七飯キャンプ」を祝福して下さったことを感謝します。

「彼らは(創造)主の命令によって宿営し、主の命令によって旅立った。」(民数記9:23、新改訳第3版)

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2008年8月 5日 (火)

異動

一昨日の日曜日、礼拝後に臨時教会員総会を開催しました。来年(2009年)春より私が、埼玉県所沢市の「ホープチャペル所沢」に異動し、七飯シオン教会主任牧師は斎藤政幸さんが引き継ぐことを正式に発表するためです。

私は実は、ずっと七飯にいるつもりでした。ホープ所沢のコーリー牧師も、ずっと所沢にいるつもりだったそうです。ところがつい最近、創造主なる神様から、「所沢を出てハワイに行きなさい」と語られたとのこと。私のところにメールが来たのは6月13日で、所沢を引き継いでくれないかと書いてありました。

最初そのメールを読んだ時、すぐに断ろうかと思いました。しかし、先ず神様に聞かなければならないと思い、祈るからちょっと待ってくれと返信します。妻は、函館に母がいるため、真っ先に反対するだろうと思いきや、何と「所沢に行くのが神様のみこころではないか」と言い出します。翌週16日からは教団大会でした。きっとその中で神様の導きが与えられるだろうと思い、開催地の沖縄へと飛び立ちました。

今回の大会テーマは、「わたしを遣わしてください」(イザヤ6章8節)。テーマを見ただけで、すでに答えが出ているような感じでした(苦笑)。それでも私の頭の中には、それぞれの教会のこと、子どもたちの学校のこと、函館の義母や札幌の母のことなど、整理しなければならない問題がいくつも巡っていました。

大会講師の千田次郎牧師が語った最初の晩のメッセージは、私の心を溶かしました。「ウジヤ王が亡くなり、指導者が交代する時、人々は多くの不安を抱いたに違いない。イザヤも祖国を思い、悩み苦しんだ。しかし、彼が神様の臨在におおわれた時、問題はすべて消え去ってしまった。」そのように、言われたのです。

帰宅して再び妻と祈り、所沢への異動が神様のみこころだと確信した私は、教団の正式な異動手続きに入りました。7月の教団会議(理事会)で承認を受け、その後の教会役員会(長老会)で打ち合わせた上で、一昨日に教会での正式発表となったのです。

総会に出た教会の皆さんは、寂しさを言い表しつつも、これが神様のみこころだと受け入れてくれたようです。多くの人が発言し、率直に心の思いを分かち合いました。所沢に行った後も、何らかの形で交わりを継続したいという希望もありました。七飯における「神の家族」が健やかに成長した姿を実感することができ、そのような教会の牧師をさせていただいたことを、たいへん光栄に思いました。

七飯シオン教会は、直前の準備期間を含めると、来春で14年になります。7は完全数で完成を意味していますから、14年は二つの完成を象徴しています。それは、私と斎藤牧師の準備が完成した意味かもしれません。創造主なる神様が、「神の国の人事異動」の時期を正確に決め、私たちがその大きなあわれみにより生かされていることを感謝します。

「あなたのあわれみは大きい。(創造)主よ。あなたが決めておられるように、私を生かしてください。」(詩篇119:156、新改訳第3版)

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2008年8月 4日 (月)

いのちのことばを語る(使徒5章)

私たちがいのちを与えられ、この世に生かされているのは、それぞれの人生に創造主なる神様のご計画があるからです。その神様の計画を邪魔しようとする勢力が、時に私たちに強い影響を及ぼすこともありますが、それで計画がすべて「おじゃん」になるわけではありません。神様は、そうした妨害をも、プラスの体験として用いて下さるのです。

ペテロたちが二度目に捕えられた時、彼らは、ほとんど殺されてもおかしくない状況でした。禁教と宣告されたキリストの教えを再び語り、エルサレム周辺に大きなインパクトを与えていたからです。しかも、彼らを捕えた指導者たちこそが、救い主イエスを十字架につけた張本人だと人々に明言していたのでした。

再び逮捕され、万事休すと思われたその時、不思議な出来事が起こります。「天使」が遣わされ、彼らは奇跡的に牢獄から解放されたのです。それには、神様の特別な目的がありました。殉教の時は、まだ来ていませんでした。エルサレムの神殿で「いのちのことば」を語り続ける使命を果たすことが、創造主なる神様のご計画だったのです。

三度目につかまった時、今度は有力な議員の一人ガマリエルの言葉によって、ペテロたちは解放されます。ガマリエルは、知恵と良識に満ちた人でした。ひょっとしたらペテロたちの働きは、創造主なる神様がさせているのかもしれないと考え、他の議員たちを説得したのです。神様は、このガマリエルの言葉をも、そのご計画の実現のために用いられました。

解放された使徒たちは、むち打たれ、禁教を再度言い渡されたにも関わらず、喜んでいました。迫害され、ひどい目に合わされ、はずかしめを受けたことを感謝していたのです。自分たちもキリストと同じく、十字架を負うに値する者とされたことを光栄と考えたのでした。これも、マイナスの体験をプラスに変えることのできる、神様の奇跡的な力と言えるでしょう。

キリストを信じる私たちは、このような素晴らしい神様のご計画の中に生かされています。この地上での人生において、創造主なる神様からゆだねられている「いのちのことば」をしっかりと伝え、与えられた使命をことごとく達成していきたいですね。

「ところが、夜、主の使いが牢の戸を開き、彼らを連れ出し、『行って宮の中に立ち、人々にこのいのちのことばを、ことごとく語りなさい』と言った。彼らはこれを聞くと、夜明けごろ宮に入って教え始めた。」(使徒5:19-21、新改訳第3版)

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2008年8月 1日 (金)

結実への訓練

私たちが「水路のそばに植わった木」となり、豊かな実を結んでいくための条件は、「愛(i)の流れ」だと昨日、書きました。それは、「おしえ(instruction)」、「おはなしと満たし(intimacy & infilling)」、「おこない(impact)」の三つからなる流れです。私たちが、天の父なる神様からいつも教えを受け、「親子」のコミュニケーションを欠かさず、その愛で満たされていく時、聖霊の水が心のうちから外側へと流れ出し、愛する生き方の実を結んでいくのです。

こうした生き方を一人ひとりがしていくため、神様は私たちに訓練の機会を与えて下さり、またその手助けをする人たちを遣わして下さいます。訓練には、大きく分けて三つの方法があります。非公式な「師弟関係」による訓練、短期的な講習会による訓練、そして正式な教育機関による訓練の三つです。

多くの場合、牧師などの教会指導者になるためには、聖書学校や神学校で勉強することが必要と考えられています。そのような正式な教育機関には通常、優秀な講師陣が集められ、総合的に多くの学びをすることができます。しかし、教育機関における訓練は、どうしても知識偏重になりやすく、また勉強のために奉仕の時間が犠牲になったり、教会を一時的に離れ都会に移り住まなければならなかったりします。

セミナーや特別集会などの短期的講習会は、正式な教育機関ほどの時間的制約はありません。そして、深い学びにふれられるメリットがあります。しかし、もちろん一回に学べることは特定のテーマに限定されていて、広い分野の学びをするには、たいへん長い期間を必要とするでしょう。

「非公式な師弟関係」というのは、親子や先輩・後輩の関係、師匠と内弟子の関係、指南役とインターンや丁稚などとの関係のことです。こうした関係を通して、日常生活と直接つながった「実地訓練」がなされるため、学ぶ内容は実践的・実用的です。しかし同時に、学べる範囲には自ずと限りがあり、また「師匠」の質(特に品性)に左右される弱点があります。

一つの教会で牧師や教師の働きをする人は、公式・非公式さまざまなケースがありますが、たいていの場合、「師弟関係」を通して人々を訓練していると言えるでしょう。「弟子」にあたる人が、「水路のそばに植わった木」として大きく成長し、豊かな実を結んでいく手助けをするため、大きな責任を担っています。

「師匠」の務めを与えられている人は、「弟子」にあたる人々が「いのちの水」によって健やかに成長し、「愛(i)の流れ」を体験・実践する訓練が受けられるよう、いつも心を配ってあげたいですね。そのためには先ず「師匠」たちが、「弟子」や教会全体の成長プロセスをすべて自分たちのコントロール下に置こうとする人間的な「支配欲」を捨て去り、自ら本当の「愛(i)の流れ」を体験し、日々の生活の中で実践する模範を示していかなければなりません。

「あなたがたのうちにいる、神の羊の群れを、牧しなさい。…卑しい利得を求める心からではなく、心を込めてそれをしなさい。あなたがたは、その割り当てられている人たちを支配するのではなく、むしろ群れの模範となりなさい。」(1ペテロ5:2-3、新改訳第3版)

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