熱心にみことばを聞き調べる(使徒17章)
「指導者を敬い、指導に従う」というのは、聖書的な原則の一つですが、それは「盲目的に従う」という意味ではありません。指導者はあくまで人間であり、神様ではないのです。人間は時に間違いを犯します。間違っている時は、「違う」と正直に伝えてあげるのが愛の一つのカタチです。盲目的に従うと、カルト集団になってしまいます。
エペソ4章25節には、「あなたがたは偽りを捨て、おのおの隣人に対して真実を語りなさい」と書かれています。間違いだと感じながら、その真実を押し殺し、ただ黙ってついていくのは偽りの従順です。それは日本的なフォロワーシップ(followership; 従う姿勢)かもしれませんが、聖書的にあるべき姿とは言えません。
もちろん、「面従腹背」も聖書的ではありません。間違いを犯している(と思われる)人に対して、真実を語っていないからです。直接対決をせずに陰口をたたくのは、最悪の「破壊工作」です。指導者に愛をもって従っていきたいと本当に願うのなら、指導者に対しても、勇気をもって自分の感じていることを率直に伝えるべきです。
そしてリーダー(指導者)も、フォロワーたちのそのような言葉を身を低くして聴き、知恵をもって対処する度量を持たなければなりません。リーダーにその度量がなければ、フォロワーたちは心の中の真実を押し殺してついて行くか、黙って立ち去るか、そうでなければ陰口をたたくしか選択肢がなくなってしまいます。(真実を押し殺した人たちは、そのうち何が真実か分からなくなり、健全な判断力を失ってしまいます。)
ベレヤに住んでいたユダヤ人たちは、パウロやシラスのことばを熱心に聞き、それが聖書的に正しいかどうかを自分たちで確かめました。ただ盲目的に従うのではなく、またよく考えもせずに拒否するのでもなく、じっくりと(旧約)聖書を調べ、指導者たちの語ることばを吟味したのです。
その人たちは、「良い人たち」だったと記されています。私たちも、そのような人たちになりたいですね。熱心にみことばを聞き、調べ、互いに教え、真実を語り、創造主なる神様のみことばによって成長していきたいものです。
「ここ(ベレヤ)のユダヤ人は、テサロニケにいる者たちよりも良い人たちで、非常に熱心にみことばを聞き、はたしてそのとおりかどうかと毎日聖書を調べた。そのため、彼らのうちの多くの者が信仰に入った。」(使徒17:11-12、新改訳第3版)
(写真は、日曜夜に行った函館山からの夜景。すごい混雑でした! 一人ひとり、闇に光を照らす者となりたいですね。)
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