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2008年11月

2008年11月25日 (火)

熱心にみことばを聞き調べる(使徒17章)

081123_3 「指導者を敬い、指導に従う」というのは、聖書的な原則の一つですが、それは「盲目的に従う」という意味ではありません。指導者はあくまで人間であり、神様ではないのです。人間は時に間違いを犯します。間違っている時は、「違う」と正直に伝えてあげるのが愛の一つのカタチです。盲目的に従うと、カルト集団になってしまいます。

エペソ4章25節には、「あなたがたは偽りを捨て、おのおの隣人に対して真実を語りなさい」と書かれています。間違いだと感じながら、その真実を押し殺し、ただ黙ってついていくのは偽りの従順です。それは日本的なフォロワーシップ(followership; 従う姿勢)かもしれませんが、聖書的にあるべき姿とは言えません。

もちろん、「面従腹背」も聖書的ではありません。間違いを犯している(と思われる)人に対して、真実を語っていないからです。直接対決をせずに陰口をたたくのは、最悪の「破壊工作」です。指導者に愛をもって従っていきたいと本当に願うのなら、指導者に対しても、勇気をもって自分の感じていることを率直に伝えるべきです。

そしてリーダー(指導者)も、フォロワーたちのそのような言葉を身を低くして聴き、知恵をもって対処する度量を持たなければなりません。リーダーにその度量がなければ、フォロワーたちは心の中の真実を押し殺してついて行くか、黙って立ち去るか、そうでなければ陰口をたたくしか選択肢がなくなってしまいます。(真実を押し殺した人たちは、そのうち何が真実か分からなくなり、健全な判断力を失ってしまいます。)

ベレヤに住んでいたユダヤ人たちは、パウロやシラスのことばを熱心に聞き、それが聖書的に正しいかどうかを自分たちで確かめました。ただ盲目的に従うのではなく、またよく考えもせずに拒否するのでもなく、じっくりと(旧約)聖書を調べ、指導者たちの語ることばを吟味したのです。

その人たちは、「良い人たち」だったと記されています。私たちも、そのような人たちになりたいですね。熱心にみことばを聞き、調べ、互いに教え、真実を語り、創造主なる神様のみことばによって成長していきたいものです。

「ここ(ベレヤ)のユダヤ人は、テサロニケにいる者たちよりも良い人たちで、非常に熱心にみことばを聞き、はたしてそのとおりかどうかと毎日聖書を調べた。そのため、彼らのうちの多くの者が信仰に入った。」(使徒17:11-12、新改訳第3版)

(写真は、日曜夜に行った函館山からの夜景。すごい混雑でした! 一人ひとり、闇に光を照らす者となりたいですね。)

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2008年11月19日 (水)

ビジョンとともに歩む(使徒16章)

Flower081116 今月初めに決着のついた米国大統領選では、「ことばの力」を感じました。当選したオバマ氏を一躍有名にしたのは、「人種も主義主張も超え、アメリカは一つである」という4年前の力強い演説です。そして、分裂・混乱・閉塞状態を収拾するための「変化」というキーワード。M・L・キングJr牧師の演説を土台にした、「われわれの夢は一つになることができる」という言葉。リーダーは、語ることばを通して人々にあるべき姿、進むべき方向を示し、明確に訴えかけることが大切です。

「将来あるべき姿」や「進むべき方向」は、ビジョンと呼ばれます。一般的にビジョンは、リーダーや人々の夢だとか、理想像だというように理解されているようです。しかし、聖書的に言えば、ビジョンは人間が勝手に考え出すべきものではありません。世界の究極的なリーダーである神様が人々に語りかけ、約束して下さる将来像や方向性のことになります。

全知全能なる神様は私たちの過去、現在、未来のすべてをご存知であり、私たち一人ひとりに祝福の計画をお持ちです。これに対して有限の存在である人間は、未来のすべてを見通すことができません。ですから私たちは、神様の導きに聞き従い、一歩一歩進んでいく時にこそ最善の道を選択し、歩むことができるのです。

使徒パウロは、この真実をよく知っていました。第2次宣教旅行で「マケドニア宣教のビジョン」が与えられると、すぐに予定を変更して小アジアからギリシヤ方面へと海を渡ったのです。こうして人の思いや計画ではなく、創造主なる神様の導きにより、ヨーロッパへの福音宣教が始まりました。

私たちも、リーダーである神様にビジョンを祈り求め、与えられたビジョンとともに歩みを進めて行きたいですね。人間的な野心や欲望、感情などにただ流されるだけではいけません。

「ある夜、パウロは幻を見た。ひとりのマケドニヤ人が彼の前に立って、『マケドニヤに渡って来て、私たちを助けてください』と懇願するのであった。パウロがこの幻を見たとき、私たちはただちにマケドニヤへ出かけることにした。神が私たちを招いて、彼らに福音を宣べさせるのだ、と確信したからである。」(使徒16:9-10、新改訳第3版)

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2008年11月11日 (火)

慣習から自由にされる(使徒15章)

Flower081109 海の向こうでは「変化」がキーワードのようですが、海のこちら側は今のところ、それほど大きな「変化」が見られません。経済的には厳しいけれど、すべてが新しくなるような劇的変化を望まない人がおそらく今なお多いのでしょう。社会全体が高齢化しつつある傾向も、ひょっとしたらこの膠着状態と関係しているかもしれません。

何も考えず、「今までそうだったからこれからも同じようにしていく」、あるいは「みんながそうしているから私も同じようにする」という生き方は、「変化」の対極にあります。それは、「慣習の奴隷」としての生き方です。創造主なる神様は、私たちに自由を与えて下さいました。その自由には、「慣習からの解放」という意味も含まれています。

パウロやバルナバは、この自由をよく理解していました。ですから、異邦人クリスチャンがユダヤ人の慣習に従い、割礼を受けるべきだと言う主張に、真っ向から反対したのです。使徒15章に記される「エルサレム会議」では、その後のキリスト教会のあり方を規定する重要な決定がなされました。イエス・キリストを信じる異邦人は、ユダヤ人たちの慣習から解放され、割礼という行いではなく、信仰によって救われていると宣言したのです。

では、異邦人クリスチャンはすべてが自由で、勝手気ままに生きてよいかと言うと、そういうわけではありませんでした。ユダヤ人たちが忌み嫌ういくつかのことを避けるべきだと、書き送ったのです。それは新たな「律法」と言うよりは、ユダヤ人信者たちへの愛に基づく配慮と考えられます。異邦人クリスチャンの生き方を見て、近くにいるユダヤ人たちがつまずくことがないための心遣いでした。(殴り合いのケンカも、ダメですね。 苦笑)

私たちは、神様が起こされようとしている変化を敏感に感じ取り、その変化を担う者となって行きたいですね。エルサレム会議で判断基準となったのは、「聖霊なる神様がどのように働かれているか」、そして「聖書にはどのように書かれているか」でした。私たちも、「慣習からの自由」について、適切な判断を下して行きたいと思います。信じるすべての人を意味のない慣習から解き放ち、自由にして下さる救い主イエスに感謝します。

「そして、人の心の中を知っておられる神は、私たちに与えられたと同じように異邦人にも聖霊を与えて、彼らのためにあかしをし、私たちと彼らとに何の差別もつけず、彼らの心を信仰によってきよめてくださったのです。それなのに、なぜ、今あなたがたは、私たちの父祖たちも私たちも負いきれなかったくびきを、あの弟子たちの首に掛けて、神を試みようとするのです。私たちが主イエスの恵みによって救われたことを私たちは信じますが、あの人たちもそうなのです。」(使徒15:8-11、新改訳第3版)

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2008年11月 4日 (火)

主に目を留め続ける

Flower081102 先週土曜日、札幌で開かれた高校の同窓会に行って来ました。2年ぶり、2回目の参加です。前回と同様バスの往復で、土曜朝8時に出発し、深夜バスで日曜朝5時帰宅という強行スケジュールです。日曜午後には結婚式の司式もあり、体力の衰えを体感するツアーでした(笑)。

中島公園横にあるホテルで開かれた一次会には、数百名ほどの人がいたでしょうか。高校の吹奏楽部やトランペット、フルート奏者のソロ演奏があり、お馴染みのお好み焼屋さんも営業していました。3年のクラス担任の先生が来られていたので、29年ぶりにご挨拶してきました。4年ほど前に退職されたそうですが、語り口は昔とまったく同じでした。

同期にも、29年ぶりの人たちがいました。昔はこうだった、ああだったと語り合うのは懐かしいものです。今年はそう言えば、「どうして牧師になったの?」という質問は、ありませんでしたね。同期の中に牧師がいることに、皆さん少し慣れてきたのでしょうか(笑)。

来年は、卒業30周年になります。思えば、この30年間さまざまな出来事がありました。高校を出る時、私はクリスチャンではなく、まさか将来牧師になっているなどとは思ってもみませんでした。牧師になることを決心した後も、実に波乱万丈の歩みで、よくここまで歩き続けてきたと思います。

歩き続けるコツは、周りの状況に心を惑わされず、ただイエス・キリストに目を留めていくこと。ペテロのように風を見て恐れを抱くのではなく、どんな中にあっても私たちを導き、支えていて下さる救い主イエスに信頼し、主からいつも目を離さずにこれからも歩み続けていきたいですね。

「すると、ペテロが答えて言った。『主よ。もし、あなたでしたら、私に、水の上を歩いてここまで来い、とお命じになってください。』イエスは『来なさい』と言われた。そこで、ペテロは舟から出て、水の上を歩いてイエスのほうに行った。ところが、風を見て、こわくなり、沈みかけたので叫び出し、『主よ。助けてください』と言った。そこで、イエスはすぐに手を伸ばして、彼をつかんで言われた。『信仰の薄い人だな。なぜ疑うのか。』」(マタイ14:28-31、新改訳第3版)

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