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2016年7月

2016年7月31日 (日)

イエスを神の御子と信じる

 紀元前6世紀に、ダニエルという預言者がいました。彼は少年の頃、エルサレムからバビロニアに連れて行かれました。非常に優秀だったので、王宮で働くようになりました。ある日、バビロニアのネブカデネザル王は不思議な夢を見ました。その夢には、何か意味があるように思えましたが、それが何なのか分かりませんでした。王は気になって、眠れなくなりました。そこで国中の知識人を集めて、彼らに命じました。「私がどんな夢を見たか当てて、その意味を言いなさい。」誰も答えられませんでした。王は頭に来て、知識人を皆殺しにしようとしました。ダニエルも殺されそうになりました。そこで彼は、神様に助けを求めて祈りました。すると神様は、夢の内容とその意味をダニエルに教えられました。それは4つの世界帝国の到来について、神様が告げたメッセージでした。1つ目はバビロニア、2つ目はペルシヤ、3つ目はギリシア、そして4つ目がローマでした。ローマの時代に天の神が特別な国を起こされるとも、ダニエルは預言しました。地上のあらゆる国々を打ち砕き、永遠に続く国です。

 4つ目の世界帝国ローマは、伝説によると双子の兄弟の一人ロムルスが建国したと伝えられます。最初の244年間は、王が治める都市国家でした。その後、王が追放されて市民の代表が治める共和国となりました。この共和国時代、ローマは領土が拡大しました。イタリア半島を統一し、ついには地中海を囲む広大な地域全体を支配しました。ギリシア・マケドニアにも勝利しました。ユダヤ地方も、支配下に収めました。皇帝が立てられ、多くの民族を治める巨大帝国となりました。何百年も前のダニエルの預言が、実現したのです。

 ローマの大躍進を支えたのは、百人隊長たちです。彼らは、ローマ軍の中核を担っていました。百人隊長は、自ら部隊の先頭に立って指揮をとりました。隊長の死亡率は、高かったそうです。訓練の時も百人隊長が厳しく指導し、軍の規律が保たれました。立派な指導者として、人々から敬意を払われたそうです。彼らは、何か神を信じていたでしょうか。軍人として、死を意識することは多かったはずです。神に助けを求めたい気持ちもあったかもしれません。ローマ人たちは、日本のように多くの神々を信じていました。神々の名前は、今も結構使われています。アポロ(太陽)、ヴィーナス(金星)、テラ(地球)、ダイアナ(月)、ジュピター(木星)、サターン(土星)、ネプチューン(海王星)、プルート(冥王星)など。これ以外にキューピッドやミネルバ、バッカス、プロメテウスなどの名前も知られています。アウグストゥスが初代皇帝になると、皇帝も神として拝むようになりました。これも日本と似ています。日本も軍国主義の時代、天皇を神として拝みました。

 イエス様が十字架につけられた時、大勢の人が処刑場に集まりました。悲しむ人がいました。喜ぶ人もいました。大声でののしる人もいました。警備中の百人隊長たちだけが、こうつぶやきました。「彼は、やはり神の子だった。」百人隊長たちは、ローマ帝国のために死ぬことを覚悟していました。天の御国のためにいさぎよく死なれたイエス様を見て、何か感じたかもしれません。この百人隊長たちがその後、どのように生きたのかは分かりません。でも彼らの言葉は、ダニエルが預言した特別な国が到来したことを意味していました。地上のあらゆる民族は、偶像の神々に支配されていました。イエス様は、その支配を打ち砕き、永遠の天の御国を築いて下さいました。イエスを神の御子と信じる人は、誰でもその御国の民となれるのです。

「百人隊長および彼といっしょにイエスの見張りをしていた人々は、地震やいろいろの出来事を見て、非常な恐れを感じ、『この方はまことに神の子であった』と言った。」(マタイ27:54)

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2016年7月24日 (日)

神のみこころを行う

 先日、テレビに島田洋七さんが出ていました。私は30年近く前、この人に会ったことがあります。教会のすぐそばのラーメン屋さんに、妻と二人で食べに行った時です。彼は当時、その店のオーナーでした。ラーメンを食べ終わり、帰る時に私はうっかり出口の扉を間違えました。すると横に立っていた彼はすかさず、こう言いました。「大ボケでんな、ダンナ!」さすがツッコミが上手だと、私は感心しました。彼のことは知っていましたが、私はあまり彼の漫才を聞いたことはありませんでした。漫才師としてピークだったのは、私が大学生の頃です。その頃、私は人生に悩んでいました。漫才を聞いて笑う気になれませんでした。しかも当時ブームだった漫才はテンポが早すぎて、ついていけませんでした。

 先週の番組で、島田洋七さんは人生でたくさん失敗をおかして来たと告白していました。「人の話を聞かず、思いつきで行動してしまう」ためでした。漫才師になろうと思ったのも、実は思いつきでした。他の人の漫才を聞いて、「これなら自分もできる」と思ったそうです。「人を15分笑わせるだけで稼げるなんて、こんなにいい商売があるのか」とも思ったそうです。それから大ブレークするまでの10年は、上り調子でした。でも一番ピークだった時、友人から助言されたそうです。「ブームが去った後どうするか、考えておくべきだ。」ところが彼は、何も考えませんでした。そして突然、仕事がなくなりました。その後、思いつくままに飲食店を始めたり、参議院選挙に出たりしました。全然うまく行きませんでした。希望を失って、自殺を考えたこともあったそうです。

 彼が再び自分のなすべきことを見つけたのは、友人であるビートたけしさんの助言がきっかけでした。本を書けと言われて、出版したのが「佐賀のがばいばあちゃん」です。彼を育てた、実にユニークなおばあちゃんの話です。ベストセラーとなって、シリーズの本が何冊も出ました。映画やドラマにもなりました。翻訳されて、海外でも出版されたそうです。私も何冊か本を読みました。面白くて、この時はたくさん笑いました。この本のヒットにより、島田洋七さんは日本全国で教育や人生に関する講演活動を行うようになりました。これまで講演した場所は、4000か所を超えるそうです。自分の思いつきではなく、友人の助言に従った時、彼は自分が何をしたら良いのか再び発見したのです。

 聖書の中にも、思いつきで行動して失敗した人たちがたくさん出て来ます。アブラハムは、思いつきで妻のサラをエジプト王に差し出しました。エサウは、思いつきで偶像を拝む女性2人と結婚しました。嫁たちは、エサウの両親の悩みの種になりました。ヨセフの兄たちは、思いつきで弟を奴隷として売りました。モーセは、思いつきでエジプト人を殺してしまいました。サウル王は、思いつきで祭司の役割を果たしました。それによって彼は、王位を失うことになりました。そしてダビデ王は、思いつきで家臣の妻バテシェバと浮気しました。思いつきによる行動は、大きな失敗をもたらします。

 イエス様は、私たちが思いつきで失敗しないように助けて下さいます。信じる人の友となり、聖霊様を通して最高のアドバイスを与えて下さいます。私たちが、神のみこころを行えるように導いて下さいます。その助言には、間違いがありません。私たちに最高の助言を下さる最高の友人を感謝します。

「それから、イエスは少し進んで行って、ひれ伏して祈って言われた。『わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。』」(マタイ26:39)

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2016年7月17日 (日)

天の御国を相続する

 「故郷は遠きにありて思ふもの」という言葉は、日本で良く知られています。室生犀星という人が書いた詩の、冒頭の一節だそうです。石川県金沢市が彼の故郷でした。彼は、芸者と馴染み客の子として生まれました。生後すぐにお寺の住職の妻に引き取られましたが、彼女も住職と正式に結婚していませんでした。子供の頃、「妾の子」と言われて、バカにされたそうです。14歳頃から詩を書き始め、21歳で上京しました。東京でも詩を書き続けましたが、貧しく苦しい生活が続きました。生活できなくなると、その度に故郷に舞い戻ったそうです。でも、そこにも自分の居場所はありませんでした。「故郷は遠きにありて思ふもの」という詩には、そのような切ない思いが込められているようです。

 ユダヤ人たちも、故郷を思い続けました。アブラハムは、メソポタミヤの故郷を離れ、神様から与えられる新たな故郷を目指しました。しかし彼は、そこに定住しませんでした。生涯、仮住まいのテント生活を続けました。孫のヤコブは兄エサウをだまし、故郷にいられなくなりました。メソポタミヤにしばらく避難して、そこで結婚し、男の子12人の大家族になりました。長い年月の末に帰郷しましたが、晩年また故郷を後にしなければなりませんでした。地域一帯の飢きんで、食料がなくなったからです。ヤコブはエジプトで亡くなりましたが、自分の遺体は故郷に運び、先祖代々の墓に埋葬してくれと子供たちに遺言しました。

 ヤコブの子ヨセフは兄たちに裏切られ、奴隷として故郷から連れ去られました。彼は何十年エジプトで生活しても、そこでどんなに重要な地位についても、決して故郷を忘れませんでした。そして、死ぬ時こう遺言しました。「神様は、必ずユダヤ人を約束の故郷に帰して下さる。その時には、必ず自分の遺体を故郷に帰してほしい。」その言葉を、彼の子孫は忘れませんでした。数百年後、モーセに率いられたユダヤ人たちは、ヨセフの遺骸とともにエジプトを後にしました。本人の希望通り、故郷のシェケムという町に遺骸は葬られました。そこは、かつてヨセフが捕えられ、奴隷として売られた場所でした。何百年にもわたる長い長い旅を終え、ヨセフの遺骸はようやく故郷に帰ったのです。

 バビロニアに連れて行かれたユダヤ人たちも、故郷への思いを募らせました。彼らの故郷は、バビロニアに滅ぼされました。多くの犠牲を払って建設された首都エルサレムも、ソロモンの神殿も、全て破壊されました。ユダヤ人たちは敵国に強制連行され、屈辱的な仕打ちを受けました。彼らは遠きにありて故郷を思い、悲しみの涙を流しました。神殿で神様を礼拝するために、喜んで都に上った祝福の時を思い出しました。神様が先祖たちをエジプトから解放し、故郷に帰して下さった歴史も思い起こしました。その後、捕囚の地から再び故郷に帰ったユダヤ人たちは、神様の恵みを心から喜んでお祝いの時を持ちました。

 天の御国は、このユダヤ人の故郷のイメージが背景にあります。それは、神様が与えると約束された相続地です。神様は、必ず約束を守って下さいます。故郷を受け継ぐために必要なのは、約束を信じて生きることです。イエス様は、私たちに新しい約束を与えて下さいました。信じる人は、誰でも天の故郷に迎え入れられるという約束です。天の故郷は、もはや遠く離れてはいません。私たちには、最高の居場所が永遠に備えられています。私たちは、日々その祝福を喜びつつ、生きることができるのです。

「そうして、王は、その右にいる者たちに言います。『さあ、わたしの父に祝福された人たち。世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい。』」(マタイ25:34)

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2016年7月 3日 (日)

大きな変化に備える

 「そちらの教会の総本山は、どこですか?」と聞かれることがあります。総本山とは、仏教のある宗派で中心となるお寺ですね。「キリスト教の総本山はバチカンですか?」と聞く人もいます。「カトリック教会の総本山は、バチカンかもしれません。でも私たちはプロテスタントの教会で、総本山はありません。私たちが属するフォースクエア教団は米国ロサンゼルスで始まり、そこから世界中に広がりました。でもカトリック教会と違って、組織的には各国の教団は独立しています。日本の本部事務所は所沢ですが、総本山ではありません。各教会がそれぞれ独自に活動しています。」そのように私は答えます。

 人類の歴史の中で、天地創造の神を礼拝する総本山が初めて定められたのは、ソロモン王の時です。それまでは特定の場所が、継続的に礼拝の中心地になることはありませんでした。アブラハムは旅先のあちこちで祭壇を築き、神様を礼拝しました。モーセ以降は、幕屋が礼拝の場所となりました。幕屋は、人々とともにあちこち移動しました。ダビデはイスラエルに統一王国を確立し、契約の箱を首都エルサレムに移しました。そしてその子ソロモンが、どこにも移動しない神殿を首都に建設しました。エルサレムの神殿は、永遠の王なる神を礼拝する全世界の人々の総本山となったのです。ユダヤ人たちは、立派な神殿が完成したことを心から喜びました。

 ところがその神殿は、永遠に続きませんでした。数百年後、バビロニア軍が全て破壊します。神殿は70年後に再建されましたが、最初のものと比べると、みすぼらしいものでした。それを大幅に増築して立派にしたのは、ヘロデ大王です。礼拝者としての純粋な心から、彼がそうしたとは思えません。増築したのは、おそらく政治的な意図からです。ヘロデはダビデ王家の子孫ではなく、ユダヤ人でもありませんでした。ローマ帝国のコネをうまく利用して、王の地位を手に入れました。ユダヤ人たちは、彼を王と認めていませんでした。神殿の大増築は、王権の支持率を上げるための一つの方法だったのでしょう。ヘロデは、ソロモンの神殿を超えるほどの大規模な神殿を築きました。その噂はローマ帝国内に広まり、帝国各地にいた多くのユダヤ人たちが参拝に訪れたそうです。

 イエス様の弟子たちが見た神殿は、この神殿です。彼らの多くは、ガリラヤの田舎で生まれ育ちました。大きな建物は、あまり見たことがなかったかもしれません。私の前任地・北海道七飯町の山道から東京に来て、初めて超高層ビル群を見るようなものです。神殿の規模の大きさに、弟子たちは圧倒される思いがしたのでしょう。しかしイエス様は、その大きな建物がなくなる時が来ると言われました。総本山がなくなる時です。エルサレムでもサマリヤでもなく、世界中のどこでも神様を自由に礼拝するようになる時です。イエス・キリストを信じる真の礼拝者たちが、霊とまことによって神を礼拝する時です。

 私たちは、目に見えるものによって判断しがちです。壮大な神殿を見た弟子たちは、それがいつかなくなるとは考えられませんでした。でも、イエス様はこう言われます。「いま見えているものによって判断してはならない。」神様が起こす大きな変化は、最初は目に見えません。私たちは、神様がなさる新しいみわざに期待し、変化に備えることが大切です。

「そこで、イエスは彼らに答えて言われた。『このすべての物に目をみはっているのでしょう。まことに、あなたがたに告げます。ここでは、石がくずされずに、積まれたまま残ることは決してありません。』」(マタイ24:2)

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