信仰の遺産を残す
長崎の教会群の代表的建築物は、大浦天主堂です。1865年に建設された、現存する日本最古のキリスト教建築物だそうです。正式名称は、「日本二十六聖殉教者堂」。1597年に日本で最初に殉教した、26人のキリシタンにささげられた会堂です。殉教地の西坂に向かって立っています。処刑を命じたのは、時の天下人・豊臣秀吉。当時の京都奉行・石田三成に、京都・大坂に住むキリシタン全員を捕えよと命じました。「布教を禁じたキリスト教を広めている」という理由です。3000人余りのキリシタンの名簿が作られましたが、三成は犠牲者をできるだけ減らそうとしました。結局24名が捕えられ、左の耳たぶが切り落とされました。京都・大坂の市中引き回しの後、1か月かけて裸足で長崎まで歩かせられました。真冬の寒さと人々の罵声の中です。長崎はキリシタンが多かったため、見せしめの意味がありました。途中2名が加えられ、計26名となりました。日本人20名、スペイン人4名、メキシコ人とポルトガル人が各1名。全て男性でした。
長崎に到着した26人は2月5日の朝、祈りつつ西坂の丘を登りました。周囲には、4千人のキリシタンが見守っていました。目の前の長崎湾にはポルトガル船が停泊していて、祝砲を鳴らしました。26人は、それぞれの十字架の前で跪きました。彼らを縛り付けた十字架が一斉に立てられると、群衆からどよめきが起こりました。26人は「すべての国民よ、神をほめたたえよ」と賛美しました。リーダーのパウロ三木は、こう叫びました。「私は、キリストの教えを説いただけで殺されます。この上ない喜びで、神の大いなる恵みに感謝します。死を前にして、私は皆さんを欺きません。信じて下さい。人の救いの道は、キリスト教以外にはないと断言します。皆さんの迷いを私は正したいのです。」最年少の少年は、12歳のルドビコ茨木でした。処刑責任者の役人は憐れに思い、「信仰を捨てたら助けてやる」と彼に言いました。しかし彼の答えは、こうでした。「つかの間の命と永遠の命を取り替えるわけにはいきません。」13歳のアントニオは、涙を流していた両親をこう慰めました。「泣かないで。自分は天国に行くのだから。」彼らは、十字架上で「天国、天国」と叫びました。そして槍で両脇を突かれ、息絶えたそうです。
特別な使命を全うした26人は、キリシタンたちの信仰を奮い立たせました。秀吉にしてみれば、全く逆効果でした。迫害はその後、300年近く続きました。その間、26人の雄姿は多くの人の励ましとなりました。そして今なお彼らの姿は、ステパノのような他の殉教者たちとともに、世界の信仰遺産になっているのです。
「こうして彼らがステパノに石を投げつけていると、ステパノは主を呼んで、こう言った。『主イエスよ。私の霊をお受けください。』そして、ひざまずいて、大声でこう叫んだ。『主よ。この罪を彼らに負わせないでください。』こう言って、眠りについた。」(使徒7:59-60)
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