主イエスに全てをささげる
(以下ネタバレです。)映画では冒頭、ある殺人事件が起こります。女性とその娘が、暴力をふるう元夫を思わず殺してしまいます。呆然とする二人を、ある人が助けてくれます。アパートの隣に住む独り者の石神哲哉です。彼のトリックのおかげで、二人のアリバイは完璧になりました。警察はお手上げ。担当刑事は、大学時代の友人に相談します。ガリレオという異名を持つ天才物理学者・湯川学です。湯川は、見事にトリックを見破りました。石神がアリバイ作りに協力した理由にも気づきました。恋心でした。彼はある日、人生に絶望し、首をつろうとしていました。しかし丁度その時、隣に魅力的な女性が引っ越して来ました。彼女と娘の楽しそうな様子を見ることは、石神の生きがいになりました。彼らのためなら何でもすると、石神は考えました。完璧なアリバイを作り、罪の身代わりにもなりました。それが、容疑者・石神の献身でした。
聖書が教える献身は、犯罪とは関わりがありません。密かな恋愛感情が動機でもありません。動機は、神様への愛です。神様は、限りなく大きな愛で私たちを愛しておられます。愛される資格のない私たちを、無条件に愛されています。その愛の素晴らしさを知り、神様のためなら喜んで犠牲を払い、何でもするというのが聖書的な献身です。そうする人は、神様に喜ばれることが生きがいとなります。聖書の中には、そんな生き方をした人たちが多く記されています。ノアは、箱舟づくりに献身しました。そのために世間の評判を犠牲にしました。アブラハムは、約束の地への旅に献身しました。そのために故郷での安定した生活を犠牲にしました。モーセは、ユダヤ人の解放と訓練に献身しました。そのために穏やかな余生を犠牲にしました。そしてイエス様は、神ご自身でありながら、私たちに献身の模範を示して下さいました。神の愛の素晴らしさを全世界に伝えるため、十字架で自らを犠牲にされました。愛のゆえに、全ての人の罪の身代わりになったのです。
イエス様は、こう言われています。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」(マタイ16:24)使徒パウロは、この生き方を最期まで全うしました。彼は、無実の罪の容疑者として捕えられました。それでも、最期まで「転び」ませんでした。神様の愛に感謝し、自らの命を犠牲にしました。それが「容疑者パウロ」の献身でした。彼は、天国で授けられる義の栄冠を楽しみに地上の人生を走り抜きました。イエス様を信じ、ついて行く人は、誰でもそれを楽しみに生涯を全うできるのです。
「するとパウロは、『あなたがたは、泣いたり、私の心をくじいたりして、いったい何をしているのですか。私は、主イエスの御名のためなら、エルサレムで縛られることばかりでなく、死ぬことさえも覚悟しています』と答えた。」(使徒21:13)
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