福音を信じる
今年は、宗教改革500周年です。それが始まったのは、カトリックの中心都市ローマや神聖ローマ帝国の本拠地ウィーンではありません。人口数千人(当時)の小さな町、ドイツ・ヴィッテンベルク。そこにできたばかりの大学で、若い修道士が神学を教えていました。マルティン・ルターです。彼は親の期待を背負い、法律家になるはずでした。ところがある日、激しい雷雨が彼の人生を変えました。学校に向かう途中、雷が落ちて死ぬかもしれないと彼は恐れを感じました。その時、思わずこう叫びました。「助けて下さい、聖アンナ。私は修道士になります。」このアンナは、聖書に登場しません。イエスの母方の祖母(マリヤの母)と人々に伝えられ、敬われていたようです。ルターが聖人に祈り求めたのは、カトリック的ですね。彼はこの誓いを守り、エリートコースを捨て修道士になりました。
修道士ルターには、大きな悩みがありました。罪の意識で苦しみ続けたのです。最後の審判で、無罪になる確信がありませんでした。ある時は6時間ぶっ続けに罪を告白し、数分後、さらに告白すべき別の罪を思い出したそうです。どれだけ良いことをし、祈っても、心の平安がありませんでした。弱く小さな自分が聖く偉大な神の御前に立つことに、恐れがありました。しかしとうとう、大きな転機が訪れました。彼が教えていた聖書のみことばに、希望を見出したのです。神の前で人が無罪とされるのは、良い行いによってではない。イエス・キリストを信じる信仰によるのだと、聖書にはっきり書かれていました。これこそ、彼が求めていた福音=良い知らせでした。この福音により、ルターの心は深い絶望から解放されました。信仰により無罪となる確信を初めて持つことができました。彼は、ようやく心の平安を手にしたのです。
そんなルターが、贖宥状(免罪符)の販売に疑問を感じたのは当然です。これを買えば天国に行けると、大々的に宣伝されていたからです。当時、聖書が読める人はほとんどいなかったようです。聖書はラテン語訳のみで、限られた人しか読めませんでした。聖職者ですら、聖書の教えを知らない人が多かったとのこと。圧倒的多数は、上から正しいと言われたことを信じるだけでした。(危険な社会ですね!)贖宥状を売る側は、この状況をうまく利用しました。聖書と異なる教えを語り、天国に行きたい人々からお金を巻き上げたのです。「天国詐欺」ですね。ルターは、この問題に関する公開討論を呼びかけました。カトリック教会を刷新すべきだと考えました。福音の発見が、ルターを改革運動へと導いたのです。
贖宥状販売は間違っているという話は、ヨーロッパの多くの人々にとって良い知らせでした。ルターの主張は、あっという間に何か国語にも翻訳されました。大量に印刷され、ヨーロッパ中に届けられました。ルターは、反対派から命を狙われました。(中傷もありました!)しかし彼は、福音の真実を手放しませんでした。ルターに賛同する人々は、次第に増えて行きました。こうしてさまざまなプロテスタント教会が世界中に広がって行きました。私たちの教会も、その中の一つです。ルターが命を懸けて伝えたからこそ、いま私たちは福音を手にしています。彼の勇気ある行動と、それを大きく用いて下さった神様に感謝します。
イエス様も、福音を伝えるため命を懸けて下さいました。私たち全ての罪を引き受け、十字架によりつぐなって下さいました。イエス・キリストを信じる人は、キリストに免じて、天の最高裁判所で無罪が確定しています。これが、聖書の伝える福音=良い知らせです。これを信じる人は、神様からいただいた永遠の祝福の「お福分け」ができるのです。
「私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。なぜなら、福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです。『義人は信仰によって生きる』と書いてあるとおりです。」(ローマ1:16-17)
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