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2017年6月

2017年6月25日 (日)

あり得ない望みを抱く

 聖書には、あり得ない望みを抱いた人たちが、何人も登場します。アブラハムは神の約束を信じ、全世界の人々を祝福する望みを抱きました。その時、彼は75歳。今の日本では、後期高齢者です。若い頃と比べると、かなり体力が落ちていたはずです。もう引退して、どこかで静かに暮らしたいと思ってもおかしくありません。8年前のある調査によると、日本では65歳まで働きたいと考える人が41.5%とか。70歳までは27.1%。60歳までは11.8%。全部合わせると、90%以上の人が75歳までに引退を希望しているようです。その年齢になって外国の知らない土地に行き、新しいことを始める人は、ほとんどいないでしょう。ところがアブラハムは、75歳で新たな冒険旅行に乗り出しました。約束の地に向かい、全世界を祝福する旅です。神に示されたカナンの地に着くと、そこには住んでいる人たちがいました。にもかかわらず神は、その地をアブラハムとその子孫に与えると約束されました。全世界を祝福する国を造るためです。目の前の現実を見るなら、カナン全土の所有など、あり得ませんでした。そこに彼らの国ができるとは、全く思えない状況でした。それでもアブラハムは、望みを捨てませんでした。どんなにあり得なくても、神が必ず望みを実現して下さると信じたのです。

 モーセがあり得ない望みを抱いたのは、80歳の時です。彼は、エジプトの王女に拾われ、息子として育てられました。成人すると、王族としての公務も果たしたはずです。しかし40歳の時、ユダヤ人を虐待するエジプト人を殺してしまいました。それがエジプト王に伝わり、モーセは死刑にされそうでした。そこで彼は、エジプトから「高飛び」しました。40年間、ミデヤンの地で羊飼いをしました。おそらく彼は、最期までそこで静かに暮らすと考えていたでしょう。ところが神は、80歳のモーセにこう命じられました。「エジプト王と話をし、ユダヤ人奴隷を解放しなさい。」エジプトは超大国で、支配者の王は神とあがめられていました。一方のモーセはお尋ね者で、住所不定の放浪者です。エジプト王が、彼の言うことを聞くとは思えませんでした。それでもモーセは、神のみこころに従いました。数百万の奴隷を解放するという、あり得ない望みを抱いたのです。神は、その望みを実現させて下さいました。アブラハムの子孫に約束の地を与えられたのです。

 預言者ダニエルも、あり得ない望みを抱きました。長い間バビロニアとペルシャの王宮で働いた彼は、おそらく80代になっていたはずです。彼は、バビロン捕囚の生き残りでした。70年前、祖国が滅亡し、首都エルサレムは破壊されました。ダニエルたちは約束の地から連れ去られ、バビロニアで働かされました。しかしダニエルは、信仰を失いませんでした。何が起きても、神が必ず約束を守られると信じていました。ライオンのいる穴に投げ込まれても、彼の信仰は揺るぎませんでした。80歳を過ぎた頃、いよいよ約束の時が来たと彼は信じました。そして、エルサレムの復興を求めて祈ったのです。エルサレムは70年間、荒れ果てたままでした。現実を見れば、復興など考えられませんでした。それでもダニエルは、望みを抱きました。昔、与えられた予言が、必ず実現すると信じていたからです。ダニエルの望み通り、エルサレムは復興しました。アブラハムの子孫は、約束の地に戻れたのです。そしてイエス様が、その地に来て下さいました。

 イエス様も、あり得ない望みを抱かれました。全人類を罪の支配から解放し、永遠の約束の地に導くという望みです。イエス・キリストを信じる人は、アブラハムの後継者とされます。彼らと同じように、あり得ない望みを抱くことができます。望みを実現する神を信じることができます。イエス様とともに、不可能なミッションを可能にすることができるのです!

「彼は望みえないときに望みを抱いて信じました。それは、『あなたの子孫はこのようになる』と言われていたとおりに、彼があらゆる国の人々の父となるためでした。」(ローマ4:18)

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2017年6月18日 (日)

正しく生きる

 文部科学省のホームページには、学校における道徳教育について次のような説明があります。「児童生徒が,…善悪の判断などの…道徳性を身に付けることは,とても重要です。」この考え方に基づき、3年前から「私たちの道徳」という教材が小中学校で配布されているようです。この教材は学校だけでなく、家庭や地域での活用も期待されているとのこと。ホームページに掲載されているので、小学校1、2年生向けの「私たちの道徳」を見てみました。良いことがいろいろ書いてあります。例えば、こういう教えです。「自分でやらなければならないことを、しっかりとやろう。」「良いと思ったことは、どんなに小さなことでも進んでやろう。」してはならないことについても、書いてあります。「嘘をついてはいけません。」「悪口を言ってはいけません。」自分の生活を思い起こし、ちゃんとできたか書き込むページもあります。子供たちはこうした道徳性を身に付け、将来、立派な大人になってほしいですね。中には政治家や官僚など、国を指導する立場につく子もいるはずです。

 道徳性とは、何が正しいかを判断し、正しく生きようとする心のこと。白と黒の違いを見分け、正しい方を選ぶ心です。この心を養うことは、16世紀にドイツで始まった宗教改革のテーマでもありました。当時、人々は上から正しいと言われたことにただ従っていました。カトリック教会のトップ(「最高レベル」)であるローマ教皇が、白か黒かを決めました。一般の人々には、白黒を判断する基準がなかったのです。彼らは、ラテン語の聖書を読めませんでした。教皇や教会の教えが聖書と一致しているかどうか、分かりませんでした。しかし修道士ルターは、聖書を自由に読むことができました。ローマ教皇や教会の教えが、聖書から大きくずれていると感じ、こう主張しました。「指導者たちも間違える可能性がある。だから、聖書を正しさの基準にすべきだ。」そして一般の人々も聖書を読み、独自に判断できるように、聖書をドイツ語に翻訳しました。それは、飛ぶように売れたそうです。人々は聖書に基づき、白か黒か判断できるようになりました。誰もが道徳性を身に付け、正しく生きられる条件が整ったのです。

 ただ、正しさの基準を知ったからといって、その通り生きられるとは限りません。人は間違いを犯しやすいことを、聖書は証言しています。エデンの園でアダムとエバは、神との約束を破りました。食べてはいけない木の実をとって食べました。自分の間違いを人のせいにもしました。人類共通の祖先は、道徳性に問題があったのです。シナイ山でユダヤ人たちは、モーセの律法を授けられました。律法は、道徳性の完璧な基準でした。ところがユダヤ人たちは、しばらくすると律法を無視して生きるようになりました。律法のない異邦人と変わらなくなりました。国の指導者たちは白を黒、黒を白と言いくるめるようになりました。そして、国は滅びました。人々は、諸外国に散らされました。自分たちがどこで間違ったのかを反省する時が与えられたのです。

 イエス様は、誰もが正しく生きられるよう、助けに来られました。私たちはアダムやエバと同じく、道徳性に問題を抱えています。ユダヤ人たちのように、間違いを犯すかもしれません。そんな私たちに、イエス様は新しい生き方を示されました。正しく生きるため、天の助けを求める生き方です。イエス・キリストを信じる人は、天の完璧な正しさが心に刻まれ、生き方が変えられます。自分の力によらず、学校教育によらず、天地創造の神により、私たちの道徳性は磨かれるのです。

「しかし、今は、律法とは別に、しかも律法と預言者によってあかしされて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。」(ローマ3:21-22)

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2017年6月 4日 (日)

聖霊の恵みを受ける

 今日は、ペンテコステの日です。キリスト教会の誕生日です。イエス様が天に昇られた後、エルサレムで祈っていた120人の弟子たちにこの日、聖霊が注がれました。その奇跡に驚いた人3000人が、新たに弟子に加わりました。聖霊の恵みにより、エルサレムに突然、大きな教会が生まれたのです。

 この日は、ユダヤ人が神から律法を授けられた記念日とも言われます。エジプトを後にしたユダヤ人たちは、3か月目にシナイ山のふもとに到着しました。モーセが以前、燃える柴を見た山です。彼はエジプトの王宮から逃げ、40年間、羊飼いをしていました。殺人犯で、身を隠していたのです。そのモーセに、神はこう命じられました。「エジプトに戻り、ユダヤ人たちをここに連れて来なさい。」「そんなことは無理です」とモーセは最初、断りました。しかし神様は、数々の驚くべき奇跡を成し遂げて下さいました。そしてモーセは、数百万人のユダヤ人とともに、シナイ山に戻って来たのです。その山で、モーセは律法の土台となる十戒を受け取りました。律法は、創造主なる神がアブラハムの子孫に与えた契約書でした。古代イスラエルの憲法でもありました。イスラエルの国はこの時、誕生したと言えます。この憲法記念の日に、教会も誕生しました。聖霊の恵みを受けた人々により、神の国の新たな国づくりが始まったのです。

 ペンテコステの日は、小麦の収穫開始のお祝いでもあります。約束の地に入ったユダヤ人たちは、年に3回、収穫を祝いました。春は過越の祭り、初夏は七週(ペンテコステ)の祭り、そして秋は仮庵の祭りです。春の祭りでは大麦の収穫開始を祝い、ユダヤ人はパン種(イースト)を入れないパンを食べます。パン種は罪の象徴であり、種なしパンは罪のないお方=イエス様の象徴でした。イエス様が十字架につき、復活されたのは、この春の祭りの時です。ご自身は、人に永遠のいのちを与えるパンだと示して下さいました。一方、初夏のペンテコステには、パン種の入った小麦のパンが食べられます。それは、罪ある普通の人の象徴だと言えます。ペンテコステの日、祭司は2つのパンを天に向かって揺り動かし、神の恵みを感謝しました。この日誕生した教会は、律法を完璧に守る罪のない人の集まりではありません。罪ある普通の人が聖霊の恵みを受け、神の国の民とされました。2つのパンは、ユダヤ人と異邦人という人類の2つのグループを象徴すると考えられます。聖霊の恵みにより、ユダヤ人と異邦人がともに神の国の国民とされる時代が来たのです。

 聖霊は、父なる神や御子イエスとともに、全てを創造されました。イスラエルの国を造るため、指導者たちを導かれました。預言者を満たし、神のことばを語らせました。そして、みことばが人の心に記される時がいつか来ると約束されました。ペンテコステの日、その約束が実現したのです。聖霊が弟子たちを満たし、心のうちに住まわれるようになりました。ともにおられる聖霊は、いつでも神のことばを思い起こさせて下さいます。その恵みは、ごく一部の指導者だけのものではありません。イエス・キリストを信じる全ての人に、聖霊の恵みが与えられています。イエス様は聖霊に満たされ、新たな国づくりを始められました。弟子たちも聖霊に満たされ、世界中にその良い知らせを広めて来ました。私たちにも同じように、素晴らしい聖霊の恵みが分け与えられています。その恵みを心から喜び、ともにお祝いしましょう。喜ぶ私たちの姿を見て、神様も喜んで下さいます。

「外見上のユダヤ人がユダヤ人なのではなく、外見上のからだの割礼が割礼なのではありません。かえって人目に隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、文字ではなく、御霊による、心の割礼こそ割礼です。その誉れは、人からではなく、神から来るものです。」(ローマ2:28-29)

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