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2017年12月

2017年12月31日 (日)

喜び、祈り、感謝する

 私が今年、感謝したことの一つは、夏にミサ子さんという83歳の女性を天国に無事送り出せたことです。ミサ子さんとの出会いは、2年前、教会に掛かって来た電話がきっかけでした。見ず知らずの女性からで、こういう話でした。「いま警察署にあるアメリカ人男性の遺体を、一緒に引き取ってほしい。」ユージーンという名のその男性は、私たちの礼拝に何回か来られました。年賀状もいただきました。無口な人で、あまり話はしませんでした。でも確かフィリピンで洪水被害があった時は、教会にわざわざお米を持って来られました。お米は送れないので、優しいお気持ちだけ受け取り、感謝しました。電話を掛けて来たのは、そのユージーンの奥様のケアマネの方です。妻のミサ子さんは軽い認知症で、後見人をつける手続き中でした。彼女にはお子様も連絡の取れる親戚も、誰も身寄りがいませんでした。そのためミサ子さんは、亡くなった夫の遺体や遺品を引き取れなかったのです。ケアマネの方はそれを気の毒がり、あちこち当たった結果、最後に教会に電話して来たのです。

 ユージーンさんの火葬には、ミサ子さんの介護スタッフ等数名が参列しました。私たち夫婦と葬儀社の方以外に、クリスチャンはいませんでした。火葬の直前に聖歌「驚くばかりの(アメイジング・グレイス)」を一緒に賛美し、詩篇23篇を朗読しました。私は、天国の希望について短くお話ししました。遺骨は、ケアマネさんと私で誰もいないユージーンさんのアパートに置きに行きました。彼は毎日、すぐ近くの介護施設まで歩き、奥様に会いに来ていたそうです。ところがある日、突然来なくなりました。ミサ子さんは心配になり、人に頼んでアパートを見に行ってもらいました。すると、ご主人の遺体が発見されました。78歳でした。死因を確かめるため、遺体は警察に運ばれました。火葬の翌月、私は妻と二人でミサ子さんを訪問しました。彼女はにこやかな笑顔で、私たちを歓迎してくれました。夫と同じところに行きたいと、ミサ子さんは願っていました。私がイエス様の話をし始めると、彼女は目から涙を流し、こう言いました。「私は、イエス様を信じています。」若い頃、教会に行ったことがあるという話でした。私はミサ子さんの信仰を確認し、車椅子の上の彼女に洗礼を授けました。ミサ子さんは、本当に喜んでいました。

 それから毎月一度、私たち夫婦はミサ子さんを訪問しました。私たちの顔を見ると、いつも彼女は笑顔を見せ、喜んでくれました。私たちは聖書のことばを読み、彼女と一緒に祈りました。帰る時、私たちが「また来ます」と言うと、彼女はいつも必ず「ありがとうございます」と言いました。その後、ミサ子さんは郊外の長期滞在型の施設に移りました。訪問者がほとんど来ないような、静かな施設でした。去年のクリスマスは教会の子供たちと一緒にそこへ行き、クリスマスキャロルを歌いました。ミサ子さんは、たいへん喜んでくれました。年が明けた今年1月、彼女は体調を崩し、入院しました。そして、7月の終わりに危篤状態になりました。最後にお見舞いした時、ミサ子さんは呼吸困難で、言葉を出せませんでした。苦しそうな表情でした。「イエス様はいつも一緒ですよ」と私が何度か言うと、その度ごとにかすかな笑顔を見せました。帰り際、私たちは「また来ますね」と言いました。すると彼女は、最後の力を振り絞るかのような声で、「ありがとうございます」と言ったのです。そんなに苦しそうなのに、私たちに手も振ってくれました。その2日後、彼女は天に召されました。火葬場で再び「驚くばかりの」を賛美し、聖書のみことばを朗読しました。以前のケアマネの方も参列し、こう言ってくれました。「ミサ子さんは幸せでしたね。」

 イエス・キリストを信じる人は、永遠の天の御国に迎え入れられます。そこで他のクリスチャンと再会することができます。ミサ子さんはきっと今、天国でご主人と再会し、輝くような笑顔を見せていると信じます。私たちも、いつかミサ子さんと天国で再会できる日が来ます。最期まで感謝の心を失わなかった彼女の姿に、私はたいへん感銘を受けました。2年足らずでしたが、ミサ子さんとともに喜び、祈る時が与えられた幸いを感謝します。

「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことにおいて感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。」(Ⅰテサロニケ5:16-18)

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2017年12月24日 (日)

金色の栄光をほめたたえる

 今日は、クリスマスカラーシリーズの最終回です。第1回目は赤について考えました。赤は罪の色、救いの色、そして神の愛の色です。2回目は緑について考えました。緑は祝福の色、安息の色、そして希望の色です。3回目のテーマは白でした。白は祈りの色、聖さの色、義(正しさ)の色です。4回目の今日は、金色について考えてみましょう。金色も、クリスマスに欠かせない色です。金色は、その名の通り金の色です。オレンジがかった黄色で、金属的な輝きがあります。多くの金属は、目に見える光を全て反射するそうです。そのため白っぽく、銀色に見えます。しかし金は、波長の短い紫や青、緑の光を吸収します。残った黄緑や黄色、赤などの光だけ反射するため、オレンジ寄りの黄色に輝くそうです。その輝きは、多くの人の心をとらえる美しさです。地上の金の量には限りがあるため、希少価値もあります。錆びることがなく、柔らかくて加工しやすい金属です。そのため、古くからアクセサリーに用いられて来ました。金箔にして建物や工芸品に用いたり、糸にして刺繍にも使われたりします。お金としても用いられて来ました。金は豊かさの象徴で、多くの人々ができるだけたくさん手に入れたいと願って来ました。

 日本は、かつて「黄金の国」と呼ばれたことがあります。カトリック教会が西ヨーロッパで大きな力を持っていた中世、1300年頃のこと。ヴェネツィアの商人マルコ・ポーロは、ヨーロッパの人々に日本の国を紹介しました。「東方見聞録」という本を通してです。マルコ・ポーロは、商人だった父と一緒にアジアを訪問しました。日本には来ませんでしたが、中国で日本の噂を聞きました。「そこは金がたくさん採れる国だ。家は金でできている。宮殿は屋根も廊下も窓も、全て金。人々は礼儀正しい。でも偶像を礼拝し、人の肉を食べる。人肉は、他の肉よりはるかに美味しいと彼らは言っている。」人の噂は、そのまま信じてはいけませんね。金の家とは宮殿ではなく、岩手県のお寺・中尊寺金色堂だったようです。全て金で作られたのではありません。木造の建物を金箔で覆ったのです。マルコ・ポーロの本は、大きなインパクトがありました。何か国語にも翻訳され、多くの人が読みました。その中の一人が、クリストファー・コロンブスでした。彼は、スペインから船で「黄金の国」を目指しました。カリブ海の島がその国だと勘違いし、黄金探しをしました。しかし金は、たくさんありませんでした。住民が隠していると考え、彼らを虐殺したそうです。金を求める心は、争いや人殺しの種になりました。

 金自体は、悪くはありません。人間の心に問題があります。創造主なる神は、地球上に金を造られました。エデンの園の時代にも金があったと、聖書に記されています。人が初めて罪を犯す前のことです。旧約聖書の世界でも、金色は豊かさや力の象徴でした。神はアブラハムを経済的に祝福され、金をたくさん与えられました。ヨセフがエジプトの支配者になった時は、金のネックレスが与えられました。金色は、神がおられる象徴でもありました。神はモーセに、「契約の箱」を作るよう命じられました。神輿のような形をした木の箱ですが、全てが金箔で覆われ、輝いていました。映画「インデイ・ジョーンズ」シリーズを観た人は、第1作「レイダース/失われたアーク《聖櫃》」に出て来た箱を覚えているかもしれません。ナチスドイツが略奪した箱をジョーンズ博士が奪い返すストーリーです。映画はもちろんフィクションですが、その箱のモデルはモーセたちが作った契約の箱です。その金色の箱は、人とともにおられる神の象徴でした。

 キリスト誕生のお祝いとして、東方の博士たちは黄金を贈り物にしました。それはイエス様が神であり、全ての人とともにおられることを象徴していました。(契約の箱は、イエス様の象徴でもあります。)イエス・キリストを信じる人は、心が新しく造り変えられます。黄金よりもはるかに慕わしい神のみことばによってその人生が導かれ、純金で造られた天の都、永遠の「黄金の国」に迎え入れられます。金色の光を世に輝かす「神の宝の民」として、いつまでも変わらない神の金色の栄光をほめたたえることができるのです。

「その星を見て、彼らはこの上もなく喜んだ。それから家に入り、母マリヤとともにいる幼子を見、ひれ伏して礼拝した。そして宝の箱をあけて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。」(マタイ2:10-11)

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2017年12月17日 (日)

純白にきよめられる

 今日は、クリスマスカラーシリーズの第3回目です。最初は赤、2回目は緑の意味を考えました。今日は、白について考えてみましょう。白は、私の好きな色の一つです。雪の色だからです。私は札幌で生まれ育ったので、雪が積もらないと冬が来た気がしませんでした。首都圏で暮らし始めた頃は、春夏秋の後、いつの間にかまた春になる感じがしました。雪が降ると、私はなぜか嬉しくなります(犬のよう? 笑)。子供の頃の楽しい記憶がよみがえるからかもしれません。雪だるまを作ったり、雪合戦をしたり・・・。雪上サッカーもしました。山の近くに住んでいたので、毎日のようにスキーにも行きました。「ミニスキー」や「雪スケート」と呼ばれる用具を靴に装着し、家の前の雪道で遊ぶこともありました。北海道で牧師をしていた頃は、冬になるとほぼ毎週月曜日、スキーかスノーボードに行きました。山頂付近から見下ろすと、地域全体は純白の雪で覆われていました。その景色を見るたび、神様がこう言われているように感じました。「美しいだろう。わたしがこれを造ったのだ。」

 先日、天に召されたある女性も雪が好きだったそうです。社交ダンスをする方でしたが、お気に入りは純白のドレスでした。そのドレスを着て、雪が降る様子をダンスで表現したそうです。2年前、私が病床洗礼を授けた時には、ベッドの横にそのドレスが飾ってありました。踊った時の写真も見せていただきました。ダンスをやめてドレスを処分しても、その白いドレス1着だけは手元に残してありました。奥様の看病をしていたご主人は、真冬に一人でカメラを背負い、雪山の写真を撮影しに行きました。マイナス10度の場所に行くと、カメラの調子も悪くなったそうです。それでも、カレンダーに使われるような見事な雪景色を撮影して来られました。病床の奥様も写真を見たら、喜ばれたはずです。奥様が亡くなられた夜も、雪が降っていました。神様の優しい心遣いのようでした。大好きな白いドレスを身に着け、棺に納められたそうです。天国でも今頃、白いドレスを着て、楽しく踊っているかもしれません。

 聖書の中で、白は天の衣の色です。イエス・キリストを信じ、天国に迎えられる人に、神様は白い衣を着せて下さいます。純白のウェディングドレスです。永遠の牧場の羊なので、ウールでしょうか?今日、私が着ていたような白いセーターかもしれません(笑)。イエス様も神の子羊ですから、白いウールの衣ですかね???白い衣を先取りして着たのは、エジプトにいたヨセフでした。彼が着たのはウールではなく、亜麻布(リネン)の衣です。ファラオの夢を解き明かしたヨセフは、エジプト全土の支配を任されました。その時ファラオは、彼に白い亜麻布の服を着せたのです。エジプトの王宮は、ヨセフにとって天国のような場所でした。暗い監獄から救い出され、まばゆいばかりに日の当たる場所に迎え入れられました。白い衣も、光り輝いていたはずです。

 ヨセフの後、白い亜麻布を着たのはイスラエルの祭司たちです。彼らは神の羊の群れであるイスラエルを代表し、羊飼いである神様に近づきました。「ヒソプ」という植物を用い、きよめの儀式を執り行いました。彼らの礼拝所だった幕屋自体も、「白い衣」を着ていました。幕屋の一番外側が、白い亜麻布の幕で覆われていたのです。白は、神の聖さや義(正しさ)を象徴する色でした。幕屋の祭壇ではいけにえがささげられ、白い煙が立ち上っていました。聖所の中では香がたかれ、そこからも白い煙が上っていました。煙の白さは、礼拝と祈りの象徴でした。イエス様が生まれた時は、東方の博士が贈り物を持って来ました。その一つは白い乳香でした。それは、イエス様が果たした祭司の務めの象徴だと考えられます。白い衣を着た祭司として、またいけにえの白い子羊として、イエス様は全人類の罪を除きに来られました。この救い主イエスを信じる人は、誰でもあらゆる罪がぬぐわれ、雪よりも白くきよめられるのです。

「ヒソプで私の罪を除いてください。そうすれば私はきよくなります。私を洗ってください。そうすれば 私は雪よりも白くなります。」(詩篇51:7)

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2017年12月10日 (日)

永遠の緑に癒される

 先週からシリーズで、クリスマスの代表的な色について考えています。前回のテーマは、赤でした。今日は、聖書の中で緑色が何を象徴するのか考えてみましょう。

 第一に、緑は神の祝福を象徴する色です。神は人類を創造した時、緑豊かなエデンの園を住まいとして与えられました。そこは、人類のため特別に造られた祝福の園でした。あらゆる木が生えていて、それらの実を人は自由に食べることができました。たった一本の木以外は、どの木から実をとって食べても良かったのです。アダムはその土地を耕し、緑の木々の番人になりました。愛する妻エバは、夫の大切な助け手となりました。彼らの仕事場はグリーンが豊かで、決してブラックではありませんでした。仕事に充実感があり、毎日が喜びと楽しみで満ちていました。しかし人類は、残念ながらその緑の楽園を手放さなければなりませんでした。楽園のオーナーである神との約束を破り、禁断の木の実を食べたからです。でも神は、実に恵み深いお方です。希望する人は誰もが住めるような、新たな緑の楽園造りを計画されていたのです。

 第二に、緑は神の安息、安らぎを象徴する色です。人類最初の安息の地、エデンを後にした人類は、長い長い旅に出ました。世界中に広がった人々に、神はそれぞれの安息の地、「緑の牧場」を用意されていました。アブラハムとその子孫に用意されたのは、緑豊かなカナンの地、いわゆる「乳と蜜の流れる地」です。そこは、彼らの長い旅の目的地となりました。そこが目的地だと告げられた後、実際にその地に定住するまで、彼らは数百年の長い旅路を歩みました。アブラハム、イサク、ヤコブの家族はその間、テント暮らしを続けました。彼らは羊飼いでした。ですから神が彼らを羊飼いのように導かれていることを、彼らはよく理解していたはずです。どこに緑の牧場があり、羊が休めるのかを、神は全てご存知でした。カナンの地に緑がなくなると、神はヤコブの家族をエジプトにまでも導かれました。そこに彼らを一時的に避難させ、再び「乳と蜜の流れる」安息の地に連れ戻すためでした。

 第三に、緑は神の与える希望を象徴しています。神は旧約の時代から、新たな時代が来ると宣言されていました。切り倒されたイスラエル王家の切り株から、新しい芽が出る時代です。その芽が大きく生長し、全世界に神のぶどう園を広げるのが、創造主の計画でした。この新芽こそがイエス様です。イエス様は真のぶどうの木として、この世に芽生えて下さいました。今やその新しい芽、緑の若枝は世界中に広がり、人々に神の与える希望を伝えています。 世の終わりには、新しいぶどう畑が完成します。イエス・キリストを信じる人は、誰もがこの永遠の「緑の牧場」に迎え入れられ、新たな緑の楽園で永遠に生きることができます。イエス様は、この永遠に変わらない希望を私たちに与えて下さったのです。

「…こちら側にも、あちら側にも、十二の実をならせるいのちの木があって、毎月一つの実を結んでいた。その木の葉は諸国の民を癒やした。」(黙示録22:2)

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2017年12月 3日 (日)

赤い色を喜びとする

 今日からアドベント。イエス・キリストの誕生を4週間かけてお祝いする時を迎えました。私たちの教会も先週日曜日の午後、皆さんのご協力により会堂をきれいに飾り付けました。最近、日本では教会より一般社会の方が早くクリスマスの飾り付けを始めます。ハロウィーンの大騒ぎが終わると、すぐクリスマスシーズンに入るようです。クリスマスのシンボルカラーは普通、赤、緑、白、金色などです。それぞれの色に何らかの意味があります。でも教会以外の飾り付けでは、それ以外の色も使われます。所沢駅西口の銀杏は毎年、青いイルミネーションで飾られます。駅2階通路の大きなハートは、ピンクです。別な場所に行くと、紫色に飾られたツリーを見ることもあります。今日から4回シリーズで、クリスマスの代表的な色について考えます。今日のテーマは、赤です。

 赤い色は、人類の歴史と深いつながりがあります。人類共通の祖先アダムは、名前の由来を考えると赤い土から造られたようです。体の中を流れる血液は、赤く染められました。手のひらを太陽にすかしてみれば、赤い色が見えるかもしれません(笑)。赤い血は、いのちの象徴です。エデンの園にあった禁断の木の実は、何色だったのか分かりません。しかし多くの人は、リンゴのような赤い実を思い浮かべるようです。赤は、罪を象徴する色でもあります。神は皮の衣を作り、裸だったアダムとエバに着せて下さいました。罪を犯した人類のため、動物の血が初めて流されたのです。アダムとエバの子供たちが献げ物をした時、神が喜ばれたのは弟アベルの献げ物でした。それは、赤い血が流された子羊のいけにえでした。赤は、いけにえの血の色でもありました。

 神の選びの民イスラエルも、赤い色と深いつながりを持って来ました。アブラハムは、一人息子イサクを献げ物にするように命じられました。しかし、イサクの命を奪おうとした瞬間、神からストップがかかりました。イサクの身代わりとなるいけにえが与えられたのです。祭壇の上で、子羊の赤い血が流されました。エジプトにいたアブラハムの子孫は、家族ごとに子羊一頭を用意しました。子羊の赤い血を家の門柱とかもいに塗りました。その赤い目印がある家は、神のさばきを逃れることができました。その日は、彼らがエジプトから解放される記念すべき日となりました。それがイスラエルの3大祭りの一つ、「過越の祭り」の起源です。エジプトを出たユダヤ人たちは、シナイ山で神の律法を受け取りました。礼拝場所である幕屋を作り、祭司たちはそこで毎日いけにえの血を流しました。最も重要ないけにえは、秋の「宥めの日(贖罪の日)」にささげられたものです。その日には、イスラエルが1年間に犯した全ての罪を背負うため、羊と山羊と牛の赤い血が流されたのです。

 イエス様は、十字架の祭壇で全人類のために赤い血を流されました。イエス・キリストを信じる人が、全ての罪を帳消しにされるため、そして永遠のいのちを受け取るためです。旧約の時代には、数えきれないほどの動物の血が流されました。それらは全て、イエス様の血による新しい契約の前ぶれでした。エリコの町の遊女ラハブが窓に結んだ赤いひもは、イエス様の血の象徴だと言われています。彼女の家族には、死が間近に迫っていました。しかし赤いひもにより、彼らは死を逃れることができました。このひもはラハブの家族だけではなく、全人類の救いの象徴です。この赤い色を今、世界中の人々が飾り付け、喜びとしているのです。

「見なさい、私たちはこの地に入って来ます。私たちをつり降ろした窓に、この赤いひもを結び付けておきなさい。あなたの父、母、兄弟、そして、あなたの一族全員をあなたの家に集めておきなさい。」(ヨシュア2:18)

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