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2018年2月

2018年2月25日 (日)

救い主を礼拝する

 今日は礼拝シリーズの2回目です。先週はアブラハムから、礼拝の心について学びました。礼拝は、心から創造主にひれ伏し、自らをささげることです。今週は、私たちの礼拝する創造主が救い主でもある点について考えましょう。

 日本の伝統的信仰では、「救い」とか「救い主」という言葉はあまり使われません。神道で救いと言えば、おそらくたたりや呪いからの解放という意味になるのでしょう。救いを得るには、たたりや呪いをもたらす霊的存在を正しく祀る、つまり礼拝する必要があると言われます。そのような霊的存在は、数に限りがありません。人が思いつく限り、いくらでも増えて行きます。そのためあらゆる神々が、日本の多くの家やお店の神棚に祀られています。全国の至る所には、さまざまな神々を祀る神社があります。初詣に行ったり、お守りを買ったりするのも、災いからの救いを求める信仰です。人々は、神棚や神社に祀られる神々を「救い主」と信じているのです。

 仏教で救いと言えば、輪廻からの解放を意味するはずです。輪廻とは、人がさまざまな姿になって生まれ変わることです。今の世界では人間でも、次の世界では豚かもしれません。さらにその次の世界では、ゴキブリかもしれません。釈迦は悟りを開き、輪廻のサイクルから解放されたと言われています。悟りを開いた人のことを「仏」、悟りを開くことを「成仏」と言います。釈迦と同じ悟りを開くなら成仏し、輪廻から救われる・・・仏教は当初、そのような教えだったはずです。自力で悟りを開き、自力で救いを得るので、自分が自分の「救い主」です。ところが仏教が各地に広まるにつれ、各地で祀られる神々の教えが仏教に入り込んだように思われます。人々は自力ではなく、さまざまな仏や菩薩等に救いを求めるようになりました。日本の多くの人は、お経を十分唱えると死者が成仏すると信じています。「お経による救い」です。お経を唱えるのは自分ではなく、他の人です。この場合「救い主」は誰か、仏か菩薩か、お経を唱える人なのか、よく分かりません。

 聖書で「救い主」と言えば、創造主なる神のことです。旧約の時代、神は何度も何度も繰り返し、アブラハムの子孫を苦難の中から救い出されました。最大の救いは、偶像の神々が支配するエジプトからの解放でした。神は、綿密に計画を立てておられました。アブラハムにも、何百年も前にその計画を告げられました。不思議な方法を用い、神はヨセフをエジプトの王宮に遣わされました。そして飢饉を用い、彼の家族70人をエジプトに移住させました。彼らには、エジプトで豊かな土地が提供されました。数百年のうちに、ユダヤ人人口は何百万人にも膨れ上がりました。そして迫害が来ると、神はエジプトにモーセを遣わされました。さまざまな奇跡の末、神はあることをユダヤ人に命じられました。家族ごとに子羊一匹をいけにえとし、その血を家の門柱と鴨居に塗ることです。ユダヤ人たちは、珍しく(!)神の命令に従いました。そして彼らは、エジプトの災いと苦難から救われたのです。この時、彼らは創造主で救い主でもある神を礼拝しました。その礼拝は、ただひざまずき、感謝の祈りをささげるだけのシンプルな形だったかもしれません。

 その後、救い主なる神は人となり、この世に来て下さいました。全世界の救いのため、自らいけにえの子羊になって下さいました。このお方、イエス・キリストを信じる人は、偶像の神々の支配から解放されます。たたりや呪いから救われます。悟りを得て、輪廻からも解放されます。イエス様を救い主と信じ、礼拝する人は、永遠の救いを手にすることができるのです。

「あなたがたはこう答えなさい。『それは主の過越のいけにえだ。主がエジプトを打たれたとき、主はエジプトにいたイスラエルの子らの家を過ぎ越して、私たちの家々を救ってくださったのだ。』すると民はひざまずいて礼拝した。」(出エジプト12:27)

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2018年2月18日 (日)

創造主を礼拝する

 今週からシリーズで、礼拝について考えてみましょう。礼拝というと、皆さんはどんなイメージを思い浮かべるでしょうか。子供の頃、私は礼拝に厳かなイメージを抱いていました。私が初めて見た礼拝堂は、近所のルーテル教会でした。壁は白で、床やベンチ、窓枠、ドアが全てダークブラウン。置いてあった楽器は、オルガンだけだったように思います。私はその教会の幼稚園に通い、小学校低学年まで日曜学校に出席しました。6年生まで、教会の英語教室にも行きました。残念ながら、大人の礼拝には一度も出席しませんでした。でもその会堂の様子から、賑やかなノリのいい賛美を歌う集まりは、全く想像できませんでした。会堂に入るたびに、なぜかいつも厳粛な気持ちになったものです。

 20代の頃、カトリック教会のミサに一度行ったことがあります。誰かに誘われたのではなく、一人でふらっと行きました。残念ながら、その時の様子はおぼろげにしか覚えていません。ガウンを着た神父さんが登場し、ミサが始まったように思います。式次第に祈りの言葉が印刷され、出席者が声を合わせてその祈りを唱えました。賛美や聖書朗読の時間もあったと思われます。最後に、何人もの人がぞろぞろ前に出て行きました。何だろうと思い、私も一緒について行きました。すると神父さんが、白くて薄い、小さなせんべいのようなものを口の中に入れてくれました。ウェハースのようで、口の中で溶けてなくなりました。それは「聖体」、つまりキリストの体だったのです。プロテスタント教会の聖餐式にあたります。その時は知りませんでしたが、受けられるのは信者だけだったようです。ミサ全体は形式的な印象でしたが、私は特別な体験をして、何か得した気分になりました。

 その後、ペンテコステ教会の礼拝に行くと、とにかく賑やかでした。配られた週報には、式次第も祈りも書いてありませんでした。礼拝の最初の30分は、現代風の賛美です。伴奏はピアノにエレクトーン、ギター、ベース、ドラム、そして時々フルート。歌詞はOHPでスクリーンに映し出され(30数年前です!)、出席者は大きな声で歌いました。「霊の賛美」といって、一人ひとりが自由に歌う時間もありました。異言という、聞いたこともない言葉で祈る人たちもいました。歌う曲は事前に決まっていましたが、突然、予定にない曲が歌われることもありました。(OHP担当者があわててシートを探しました。)賛美の終わりに献金を集め、その後「メッセージ」が始まりました。スーツにネクタイを締めた牧師が登場し、40~50分聖書の話をしました。毎週毎週、手を変え品を変え、あらゆるジャンルの話がありました。あんなにたくさん話をするのは、私には無理だと思いました。(今、私の教会の人たちは神の奇跡の証人となっています! 笑)

 個人的な趣味から言えば、私は形式的な礼拝より、自由な雰囲気の方が好きです。歴史的な古い賛美より、歌詞が分かりやすい、新しい曲の方が好きです。パイプオルガンの伴奏で厳かに歌うより、ギターやドラム等に合わせ、楽しく賛美する方が好きです。でも礼拝のあり方は、私たちの好き嫌いで決めるべきではありません。礼拝とは、神の前にへりくだり、自分自身を神にささげることです。自らを神への贈り物、献上品にするのです。その時、最も大切なのは心がこもっているかどうかです。どんなにささやかな贈り物も、心がこもっているなら神は喜ばれます。逆にどんなに豪華な贈り物も、心が伴わないなら神は喜ばれません。神は、どんな形の礼拝も受け入れて下さいます。形よりも、心を見られるからです。

 アブラハムは、心から神を礼拝しようとしました。神に命じられた通り、ひとり子イサクを神への献上品にするつもりでした。その礼拝には音楽も聖書朗読もありませんでしたが、神はアブラハムの心を喜ばれました。私たちも、アブラハムの礼拝にならいましょう。どんな形やスタイルでも、心を込めて、神に喜ばれる礼拝をささげましょう。

「それで、アブラハムは若い者たちに、『おまえたちは、ろばと一緒に、ここに残っていなさい。私と息子はあそこに行き、礼拝をして、おまえたちのところに戻って来る』と言った。」(創世記22:5)

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2018年2月11日 (日)

神を恐れる

 私が聖書を読み始めた頃、好きだった箇所の一つは旧約聖書の「伝道者の書」でした。その冒頭のことばは、私の心に強く響きました。「空の空。伝道者は言う。空の空。すべては空。日の下でどんなに労苦しても、それが人に何の益になるだろうか。」それは聖書のことばというより、仏教の教えのように思えました。

 若い頃、私は般若心経を暗記したことがあります。仏教式の葬儀でよく唱えられるお経です。「カンジーザイボーサー…」という言葉から始まります。葬儀で唱えても、多くの人はお経の意味を知らないかもしれません。お経は、日本では昔から呪文やおまじないのように使われて来ました。「ちちんぷいぷい」とか「アブラカダブラ」とか「バルス」等と同じです。(最近は「ちちんぶいぶい」もありますね。笑)お経は悪い霊の働きをとどめたり、病気を治すと信じられて来たようです。呪文やおまじないは、言葉の意味より効果が重要です。効果があると信じる人は、言葉の意味を気にしないかもしれません。般若心経には、仏教の根本的な教えが記されているそうです。有名な言葉は、「色即是空」ですね。「全ての存在は空しい」という意味です。このお経を暗記した頃、私はその言葉に共鳴する思いがありました。人生の空しさを感じていたのです。もし人生が食べて出して死ぬだけなら、頑張って生きる意味がないように思いました。それ以上の何かがあってほしいと思いました。仏教の本を少し読みましたが、答えが見つかりません。聖書には、答えがあるのではないかと期待しました。すると聖書にも、仏教の教えと似たようなことばがあったのです。私は驚いて、伝道者の書の続きを読みました。

 伝道者の書を書いたのは、ソロモンだと言われています。彼はダビデの後を継ぎ、イスラエルの王になりました。その時、夢の中に神が現れ、彼に「何がほしいか」と聞かれました。ソロモンは、正しい判断力がほしいと言いました。神はその言葉を喜び、判断力以外でも彼を祝福すると約束されました。ソロモンは優れた知恵を身につけ、非常に豊かになりました。父ダビデが建てられなかったエルサレムの神殿を完成させました。ソロモンの名声は、周辺の国々に広まりました。人から見れば全てが満たされた、うらやましいような人生を彼は送っていました。しかしソロモンは、心に空しさを覚えるようになったのです。知恵が増すと、悩みも多くなりました。事業が成功し超リッチになっても、心は満たされませんでした。数えきれないほどの女性に手を付けても、心の虚無感はなくなりませんでした。苦しみ抜いた末、ソロモンはとうとう空しさから抜け出す道を発見したのです。それは、人生が創造主なる神のプレゼントだと知ること、そして、そのプレゼントを喜んで生きることだったのです。

 ソロモンは、「神を恐れる」ことの大切さを人々に伝えました。「神を恐れる」という表現は、聖書に繰り返し出て来ます。創造主なる神は、確かに怖い存在です。ノアの箱舟に乗らなかった人々は、みな洪水で死に絶えました。ソドムとゴモラの住民は、天からの火と硫黄で滅びました。(「天空の城」の攻撃ではありません!)全知全能の神は誰よりも強く、どんなことも可能です。敵に回すと、限りなく恐ろしい存在です。しかし「神を恐れる」という場合、それはただ恐怖感を持つという意味ではありません。偉大な存在を前にして自分の小ささを自覚し、神に大きな尊敬の思いを抱くという意味です。神を恐れる人は、神の偉大な恵みを知ることができます。神から与えられた人生を喜び、感謝して生きることができます。

 ソロモンの子孫として生まれたイエス様は、世界中の全ての人の味方をしに来られました。イエス・キリストを「恐れる」人は、空しい思いから解き放たれます。人生の意味を知り、喜びに満たされた生き方ができるのです。

「結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。神は、善であれ悪であれ、あらゆる隠れたことについて、すべてのわざをさばかれるからである。」(伝道12:13-14)

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