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2018年2月

2018年2月18日 (日)

創造主を礼拝する

 今週からシリーズで、礼拝について考えてみましょう。礼拝というと、皆さんはどんなイメージを思い浮かべるでしょうか。子供の頃、私は礼拝に厳かなイメージを抱いていました。私が初めて見た礼拝堂は、近所のルーテル教会でした。壁は白で、床やベンチ、窓枠、ドアが全てダークブラウン。置いてあった楽器は、オルガンだけだったように思います。私はその教会の幼稚園に通い、小学校低学年まで日曜学校に出席しました。6年生まで、教会の英語教室にも行きました。残念ながら、大人の礼拝には一度も出席しませんでした。でもその会堂の様子から、賑やかなノリのいい賛美を歌う集まりは、全く想像できませんでした。会堂に入るたびに、なぜかいつも厳粛な気持ちになったものです。

 20代の頃、カトリック教会のミサに一度行ったことがあります。誰かに誘われたのではなく、一人でふらっと行きました。残念ながら、その時の様子はおぼろげにしか覚えていません。ガウンを着た神父さんが登場し、ミサが始まったように思います。式次第に祈りの言葉が印刷され、出席者が声を合わせてその祈りを唱えました。賛美や聖書朗読の時間もあったと思われます。最後に、何人もの人がぞろぞろ前に出て行きました。何だろうと思い、私も一緒について行きました。すると神父さんが、白くて薄い、小さなせんべいのようなものを口の中に入れてくれました。ウェハースのようで、口の中で溶けてなくなりました。それは「聖体」、つまりキリストの体だったのです。プロテスタント教会の聖餐式にあたります。その時は知りませんでしたが、受けられるのは信者だけだったようです。ミサ全体は形式的な印象でしたが、私は特別な体験をして、何か得した気分になりました。

 その後、ペンテコステ教会の礼拝に行くと、とにかく賑やかでした。配られた週報には、式次第も祈りも書いてありませんでした。礼拝の最初の30分は、現代風の賛美です。伴奏はピアノにエレクトーン、ギター、ベース、ドラム、そして時々フルート。歌詞はOHPでスクリーンに映し出され(30数年前です!)、出席者は大きな声で歌いました。「霊の賛美」といって、一人ひとりが自由に歌う時間もありました。異言という、聞いたこともない言葉で祈る人たちもいました。歌う曲は事前に決まっていましたが、突然、予定にない曲が歌われることもありました。(OHP担当者があわててシートを探しました。)賛美の終わりに献金を集め、その後「メッセージ」が始まりました。スーツにネクタイを締めた牧師が登場し、40~50分聖書の話をしました。毎週毎週、手を変え品を変え、あらゆるジャンルの話がありました。あんなにたくさん話をするのは、私には無理だと思いました。(今、私の教会の人たちは神の奇跡の証人となっています! 笑)

 個人的な趣味から言えば、私は形式的な礼拝より、自由な雰囲気の方が好きです。歴史的な古い賛美より、歌詞が分かりやすい、新しい曲の方が好きです。パイプオルガンの伴奏で厳かに歌うより、ギターやドラム等に合わせ、楽しく賛美する方が好きです。でも礼拝のあり方は、私たちの好き嫌いで決めるべきではありません。礼拝とは、神の前にへりくだり、自分自身を神にささげることです。自らを神への贈り物、献上品にするのです。その時、最も大切なのは心がこもっているかどうかです。どんなにささやかな贈り物も、心がこもっているなら神は喜ばれます。逆にどんなに豪華な贈り物も、心が伴わないなら神は喜ばれません。神は、どんな形の礼拝も受け入れて下さいます。形よりも、心を見られるからです。

 アブラハムは、心から神を礼拝しようとしました。神に命じられた通り、ひとり子イサクを神への献上品にするつもりでした。その礼拝には音楽も聖書朗読もありませんでしたが、神はアブラハムの心を喜ばれました。私たちも、アブラハムの礼拝にならいましょう。どんな形やスタイルでも、心を込めて、神に喜ばれる礼拝をささげましょう。

「それで、アブラハムは若い者たちに、『おまえたちは、ろばと一緒に、ここに残っていなさい。私と息子はあそこに行き、礼拝をして、おまえたちのところに戻って来る』と言った。」(創世記22:5)

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2018年2月11日 (日)

神を恐れる

 私が聖書を読み始めた頃、好きだった箇所の一つは旧約聖書の「伝道者の書」でした。その冒頭のことばは、私の心に強く響きました。「空の空。伝道者は言う。空の空。すべては空。日の下でどんなに労苦しても、それが人に何の益になるだろうか。」それは聖書のことばというより、仏教の教えのように思えました。

 若い頃、私は般若心経を暗記したことがあります。仏教式の葬儀でよく唱えられるお経です。「カンジーザイボーサー…」という言葉から始まります。葬儀で唱えても、多くの人はお経の意味を知らないかもしれません。お経は、日本では昔から呪文やおまじないのように使われて来ました。「ちちんぷいぷい」とか「アブラカダブラ」とか「バルス」等と同じです。(最近は「ちちんぶいぶい」もありますね。笑)お経は悪い霊の働きをとどめたり、病気を治すと信じられて来たようです。呪文やおまじないは、言葉の意味より効果が重要です。効果があると信じる人は、言葉の意味を気にしないかもしれません。般若心経には、仏教の根本的な教えが記されているそうです。有名な言葉は、「色即是空」ですね。「全ての存在は空しい」という意味です。このお経を暗記した頃、私はその言葉に共鳴する思いがありました。人生の空しさを感じていたのです。もし人生が食べて出して死ぬだけなら、頑張って生きる意味がないように思いました。それ以上の何かがあってほしいと思いました。仏教の本を少し読みましたが、答えが見つかりません。聖書には、答えがあるのではないかと期待しました。すると聖書にも、仏教の教えと似たようなことばがあったのです。私は驚いて、伝道者の書の続きを読みました。

 伝道者の書を書いたのは、ソロモンだと言われています。彼はダビデの後を継ぎ、イスラエルの王になりました。その時、夢の中に神が現れ、彼に「何がほしいか」と聞かれました。ソロモンは、正しい判断力がほしいと言いました。神はその言葉を喜び、判断力以外でも彼を祝福すると約束されました。ソロモンは優れた知恵を身につけ、非常に豊かになりました。父ダビデが建てられなかったエルサレムの神殿を完成させました。ソロモンの名声は、周辺の国々に広まりました。人から見れば全てが満たされた、うらやましいような人生を彼は送っていました。しかしソロモンは、心に空しさを覚えるようになったのです。知恵が増すと、悩みも多くなりました。事業が成功し超リッチになっても、心は満たされませんでした。数えきれないほどの女性に手を付けても、心の虚無感はなくなりませんでした。苦しみ抜いた末、ソロモンはとうとう空しさから抜け出す道を発見したのです。それは、人生が創造主なる神のプレゼントだと知ること、そして、そのプレゼントを喜んで生きることだったのです。

 ソロモンは、「神を恐れる」ことの大切さを人々に伝えました。「神を恐れる」という表現は、聖書に繰り返し出て来ます。創造主なる神は、確かに怖い存在です。ノアの箱舟に乗らなかった人々は、みな洪水で死に絶えました。ソドムとゴモラの住民は、天からの火と硫黄で滅びました。(「天空の城」の攻撃ではありません!)全知全能の神は誰よりも強く、どんなことも可能です。敵に回すと、限りなく恐ろしい存在です。しかし「神を恐れる」という場合、それはただ恐怖感を持つという意味ではありません。偉大な存在を前にして自分の小ささを自覚し、神に大きな尊敬の思いを抱くという意味です。神を恐れる人は、神の偉大な恵みを知ることができます。神から与えられた人生を喜び、感謝して生きることができます。

 ソロモンの子孫として生まれたイエス様は、世界中の全ての人の味方をしに来られました。イエス・キリストを「恐れる」人は、空しい思いから解き放たれます。人生の意味を知り、喜びに満たされた生き方ができるのです。

「結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。神は、善であれ悪であれ、あらゆる隠れたことについて、すべてのわざをさばかれるからである。」(伝道12:13-14)

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