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2018年10月

2018年10月28日 (日)

救いのために遣わされる

 私の友人の一人は、東京で精神科医をしています。今年7月、彼は自分の弟が出版した本をFacebookで紹介しました。「うつ病九段:プロ棋士が将棋を失くした一年間」というタイトルです。私は弟さんには会ったことがありませんが、関心あるテーマなので、すぐ買って読みました。最近、うつになって自殺する人の話をよく聞くからです。他人事ではありません。本の著者、先崎学さんは昨年6月、突然うつになりました。前日まで元気で、忙しい毎日を送っていました。ところがある朝、起きると疲れを感じ、一日中頭が重く、気分が暗かったそうです。その日から症状はどんどん重くなり、よく眠れなくなりました。仕事(将棋)に集中できなくなり、猛烈な不安に襲われました。毎日何十回も、電車に飛び込むイメージが頭を駆け巡りました。寝る前に睡眠薬を飲み、「明日は元の自分に戻っていますように」と神に祈ったそうです。祈るしかありませんでした。

 奇跡的な癒しの代わりに、神から遣わされたのはお兄さんだったようです。お兄さんは、弟の自殺を恐れ、全く入院する気のなかった学さんを説得しました。そして発症の1か月後、学さんは入院し、1か月間病院で過ごしました。お兄さんからは、LINEでいつも一言メッセージが届いたそうです。「必ず治ります。」ゆっくり休み、次第に生活のリズムが戻って来ました。他の入院患者と話もできるようになりました。退院後は毎日散歩をし、本を読み、時には落語も聞きに行きました。少しずつ将棋も指し始めました。でもプロの世界に復帰できるかどうかは、不安があったそうです。そんな時、兄からいつも送られてくるLINEのメッセージに励まされました。「必ず治ります。」お兄さんは、こうも言いました。「人間は、不思議なことに誰でもうつ病になるけど、不思議なことにそれを治す自然治癒力を誰でも持っている。だから絶対に自殺だけはいけない。」発病から1年後、学さんは公式戦に復帰できました。うつ病と自殺から救われるため、お兄さんが弟のもとに遣わされたようです。

 イエス様は、全ての人を救うため、私たちの世界に遣わされました。イエス様が訪れた1世紀のエリコの町にも、救いの必要な人がいました。ザアカイという名の人です。うつや自殺からの救いではありません。罪と罪責感、人々の冷たい視線からの救いです。ザアカイは取税人でしたが、あくどいやり方で金儲けをしていました。税金を集める時、多くとって余ったお金を自分の物にしていたのです。彼は、悪人としてよく知られていました。でも彼は、人知れず救いを求めていたようです。イエス様がエリコに来ると、木に登ってまでその様子を見たいと思いました。イエス様はザアカイの心を見抜き、声を掛けられました。「今日はあなたの家に泊まるから、そこから降りておいで」と言われました。ザアカイは、イエス様の愛と気遣いに感動しました。そして彼は、自分が不正に儲けたお金を人々に返し、社会に還元すると言いました。生き方が180度変わりました。イエス様がエリコに遣わされたことにより、ザアカイは自らを破滅させる生き方から救われたのです。

 イエス様は今、私たちをこの世界に遣わされています。イエス・キリストを信じる人は、破滅的な生き方から救われます。私たちは、周りの人にこの救いの喜びを伝えられます。信じる仲間とともに、永遠の救いを喜ぶことができるのです。

「イエスは彼に言われた。『今日、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。人の子は、失われた者を捜して救うために来たのです。』」(ルカ19:9-10)

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2018年10月21日 (日)

子どものように神に近づく

 「チコちゃんに叱られる!」というTV番組が、人気だそうです。NHKのクイズバラエティ番組です。チコちゃんとは着ぐるみの女の子で、5歳という設定。好奇心旺盛で、何でも知っています。大人たちに素朴な疑問を投げかけます。例えば、こうです。「なぜヒトはパンツをはくのか。なぜ大人になると、1年があっという間に過ぎるのか。日本の中心はどこか。」答えられないと、チコちゃんの顔が真っ赤になり、巨大化します。そして、こう言って大人たちを叱ります。「ボーっと生きてんじゃねえよ!」この決めゼリフが人気なようで、多くの人がこの番組を見ています。5歳の女の子が叱るので、あまり嫌味を感じないそうです。でも私は、この番組を見る気がしません。クイズに答えられないだけで、小さな子から「ボーっと生きてんじゃねえよ」と言われたくないからです。(笑)何でも知っていて「上から目線」で話す子は、子供らしくないようにも思います。

 ツイッターでは数か月前、10歳の女の子が書いたメモが話題になったそうです。「全世界の子供が思っている大人への不満」というタイトルです。メモには、3つの不満が書いてありました。1つ目、「子供が水やお茶などをこぼすと、大人は子供をおこるクセに、大人がこぼすと、笑ってごまかし、だれにもおこられない。」2つ目、「子供がリビングなどで寝ていると、『ふとんで寝なさい!』と注意するクセに、大人もリビングなどで寝ている。」3つ目、「大人は子供に、『ゲームは1時間だけ!』とか言うクセに、大人は7時間ほどゲームをしている。」まとめ「大人は、人の事(子供の事)を言えない!」こういう視点は、私は好きです。小さい頃、同じように感じたからです。皆さんもそうかもしれません。これは子供らしい「下から目線」の観察結果で、知識があるないの話ではありません。子供を指導する大人は、子供の目線から自分を見ることも大切です。「ボーっと生きてんじゃ」いけません。(笑)

 聖書の中の子供は、大人に指導される立場です。モーセは、約束の地を目の前にしたユダヤ人たちに、こう語りました。「子供たちに、神のことばを教え込みなさい。家にいる時も外に出た時も、起きた時も寝る時も、子供たちに教えなさい。」大人はもちろん、子供たちのお手本になるべきです。でも時には、子供が大人のお手本になることもあります。ペリシテ軍と戦ったイスラエル兵士は、みな怖じ気づいていました。ゴリヤテという巨人が現れると、大人は誰も戦おうとしませんでした。お手本になったのは、兄たちに弁当を届けに来た羊飼いの少年ダビデです。彼は見事勝利を収め、信仰による戦いの模範を大人に示しました。新約聖書にも、小さなヒーローが登場します。その子も、弁当を持っていました。5つのパンと2匹の魚です。少年がその弁当を差し出すと、イエス様は5千人以上の大人に食事を振る舞われました。自分が持つわずかな物をささげた子は、神に大きく用いられました。その姿は、今も世界中の大人や子供のお手本になっています。

 イエス様は、小さい頃から聖霊の英才教育を受け、何でも知っていました。エルサレムの神殿に行くと、大人と神学論争できるほどでした。でも子供のうちは、両親の指導を受けました。「ボーっと生きてんじゃねえよ!」と、大人を叱らなかったはずです。大人になると、イエス様は子供たちの人気者でした。そばに寄って来る子供を歓迎されました。大人に対しては、「子供のようにわたしに近づきなさい」と言われました。イエス様は、誰が寄って来ても歓迎して下さいます。大人風に、近づき方のマナーを考える必要はありません。何も考えず、子供のように懐に飛び込めば良いのです。イエス様のそばにいれば、ボーっと生きることもなくなります。

「子どもたちを、わたしのところに来させなさい。邪魔してはいけません。神の国はこのような者たちのものなのです。まことに、あなたがたに言います。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに入ることはできません。」(ルカ18:16-17)

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2018年10月18日 (木)

それらで何かできるのではないか

 以下は、月刊誌「舟の右側」9月号に掲載された文章です。出版社の了解が得られたので、このブログに再掲します。冒頭に出て来るバレー部顧問の阿部浩羊先生は8月に亡くなられ、先週土曜日に札幌で元バレー部員たちによる「偲ぶ会」が開かれました。私が将来の進路に悩んだ末、「牧師になることにした」と報告に行くと、先生は「やっと落ち着いたようだな」と言って下さいました。大きな試練の直後だったので、私はその言葉に励まされた覚えがあります。神様が与えて下さった貴重な出会いを感謝します。

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 「東大を受けてみないか」。高3の春、所属するバレー部の顧問から、突然そう言われました。その先生は、担任でも進路指導担当でもありませんでした。でもなぜかその時、「自分は東大に受かるのか」と初めて考えました。チャレンジしたいと思いました。神様は、その先生の言葉を用い、「神のことば」と出会う旅に私を招いて下さったのです。

 高2の終わりまでは、漠然と医者になろうと思い、地元・北海道の大学を受けるつもりでした。東大医学部は、どう考えても無理でした。東大なら工学部、理学部系しか、受かる可能性がないと思いました。そして私は、医者の道を諦めたのです。将来、何になるかは、大学に行ってからじっくり考えることにしました。

 有難いことに翌年3月、なんとか合格できました。大学の友人に将来の夢を聞くと、たいていの人は技術者か研究者になりたいと言いました。私の祖父は医者、父は技術者でしたが、私自身は研究者を目指そうと思いました。どの分野に進むかさんざん悩んだ挙句、理系から文系に移り、言語学を専攻することにしました。言葉と文化の関わりに関心を持ったからです。

 ただその一方で、私には、成功の頂を目指す山登り競争に、ためらいもありました。先を争い、長く急な坂道をひたすら上る人生は、苦しいだけのように思えたのです。苦行の末、死んで終わりなら、そんな人生に意味があるのか、大いに疑問でした。それが人生なら、今すぐ死んで、レースを棄権しようかとも思いました。でも、息子を札幌から東京に送り出した両親を思うと、自殺はできませんでした。

 大学3年のあるクラスで、神様は一人のクリスチャンとの遭遇を用意されていました。東大女子バレー部の主将です。聖書を読み、教会に来るよう熱心に勧められましたが、私は元来へそ曲がりで強情です。仏教の本を何冊か買い込み、読み始めました。でも結局、人生の意味を教えてくれる本は、その中にありませんでした。

 4年生になった私は、卒業論文のテーマを考え始めました。研究者を目指すなら、将来の研究につながるようなテーマを選びたいと思いました。でも、いくら探しても、何が良いか分かりません。そのうち、重大なことに気が付きました。自分には、ライフワークにしたいテーマがないということです。研究者にはなれないと思いました。何を目指したら良いのか、全く先が見えなくなりました。

 池袋の薄暗いアパートで、私は絶望感を抱き、一人うずくまりました。気力を失い、もう何もできないように思いました。その時、心にこう語りかける「ことば」を感じたのです。「あなたは何もできないと思っているけれど、あなたには目があって見ることができるし、耳があって聞くことができる。手があって物をつかむことができるし、足があって歩くことができる。頭で考えることもできる。それらで何かできるのではないか」。その瞬間、不思議なことに、それは創造主なる神のことばだと直感しました。深い愛に包まれていると感じたのです。目から涙が溢れて来ました。「この神様のために生きよう」。そう思いました。

 それから長い年月が流れ、私のライフワークは、「神のことばを語ること」になりました。今なお悪戦苦闘中の研究テーマは、「聖書のことばを日本文化の中でどう伝えるか」です。その後も、何度も行き詰まりました。でもその度に、あの深い愛に満ちた神のことばを思い出しました。そのことばに、今も私は生かされています。永遠の天の都に続く、長いゆるやかな坂道を、旅の仲間とともに楽しみつつ上っているのです。

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2018年10月14日 (日)

自らの生き方をチェックする

 昨日、札幌で開かれたある集まりに出席して来ました。私の出身高校で、長年バレーボール部を指導した顧問の先生を偲ぶ会です。その先生は、今年8月に亡くなりました。私は夏休みに帰省した時、友人と2人でご自宅を訪ね、奥様としばらくお話して来ました。その時、「舟の右側」という雑誌に最近掲載された、私の文章(証)もお渡ししました。その冒頭は、亡くなった先生の言葉から始まるのです。「東大を受けてみないか」という言葉です。それを書いた時、先生の最期が迫っていることを私は全く知りませんでした。40年前を振り返り、先生の言葉でいかに自分の進路が大きく変わったかと考えました。その言葉がなければ、私は医者を目指し、牧師にならなかったかもしれません。今の妻と出会わず、3人の子供や孫もこの世にいなかったかもしれません。先生の言葉は、私の人生に大きな影響をもたらしたのです。

 影響を受けたのは、私だけではありませんでした。昨日の「偲ぶ会」には、40代から60代の元バレー部員が50人近く集まりました。献花をし、奥様やその他の何人かが挨拶をしました。各年代の代表が、短く思い出を語るコーナーもありました。私も一言お話させていただきました。ビデオレターが上映され、お別れのメッセージをまとめた文集が奥様に手渡されました。私は、先生から学んだ3つの教訓について書きました。1つは、常にチャレンジャーであること。全く勝てない相手でも、全力を尽くしてチャレンジすれば、何か得るものがあります。2つ目は、チームプレイヤーであること。個人ではなくチームで力を合わせて、初めて敵に勝利することができます。3つ目は、互いにコーチであること。仲間同士で励まし、学び、教え合うことにより、互いに向上することができます。「偲ぶ会」では、他の人たちも先生から学んだことを語っていました。学んだ教訓は、それぞれがその後の人生を生きるための指針になったようです。その指針に照らし、自らの生き方をチェックすることができたのです。

 聖書のことばは、ある高校でバレーをした一部の人だけでなく、全ての人に与えられた人生の指針です。神が昔、誰かに語られたことばが、他の人の指針にもなっています。神はアダムに、こう命じられました。「地上で増え広がり、全ての生き物を管理しなさい。神の教えに従いなさい。そうでないと、あなたは死んでしまう。」アブラハムには、こう命じられました。「故郷を出て、わたしの示す地へ行きなさい。あなたを通して世界中の人々が祝福される。」モーセには、こう命じられました。「人々に、わたしの教えを伝えなさい。わたしを愛し、教えを守る人は祝福される。」罪を犯した人には、神はこう命じられました。「悔い改めなさい。わたしの方を向くなら、あなたの罪は赦される。あなたは、本来の姿に回復する。」これらのことばは、聖書時代の人だけでなく、今の私たちにとっても重要な人生の指針です。

 イエス様は、正しい生き方を見失った私たちに、人生の指針を与えに来られました。イエス・キリストを信じる人は、創造主なる神の教えに導かれ、生きることができます。心に聖霊が住まわれ、聖書にある神の教えを思い起こせます。神の教えは、全ての経験や教訓の土台になります。その基準に基づき、自分が学んだことが間違っていないか判断できます。人によって違う考え方に振り回されることもありません。例えばチャレンジャー、チームプレイヤー、互いのコーチという考え方も、神の教えに即していると判断できます。世界共通の基準を用い、私たちは自らの生き方をチェックできるのです。

「あなたがたは、自分自身に気をつけなさい。…」(ルカ17:3)

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2018年10月 7日 (日)

天の信頼を得る

 先日、ある牧師からサイン入りの著書を頂きました。「主の霊が私たちの上にある」というタイトルの本で、著者はレスリー・キーグルというスリランカ人牧師。私たちフォースクエア教団では、全世界的にその名が知られている方です。キーグル牧師は18歳の時、牧師になる決心をしました。フィリピンの聖書学校を卒業後、仏教国スリランカで伝道する予定でした。すると首都コロンボの大きな教会から、主任牧師にならないかと話がありました。新婚の妻と楽しく快適な生活をするチャンスでした。でもそれは、神の計画ではなかったのです。断食して祈り、導かれたのは、スラム地域での教会開拓でした。地球上で最も暗い場所の一つだそうです。

 しかし、そこから神の奇跡が始まりました。ある日、一人の男性と出会いました。耳が聴こえず、言葉も話せない人です。導きを感じ、その人のために祈りました。すると彼は生まれて初めて口をきき、母親と話し始めたのです。その人は、後に牧師になったそうです。その後も数々の奇跡が起こりました。聖書時代と同じ超自然的な伝道により、スラム地域に家の教会が拡がって行きました。迫害にも耐え、スリランカのフォースクエア教会は現在2,000近くに増えています。キーグル牧師は今、スリランカ以外にも世界各地のフォースクエア教会を訪れ、人々を励ます使徒的な役割を果たしています。

 私がキーグル牧師を初めて見たのは、日本フォースクエアの40周年大会だったかもしれません。1990年に千葉県で開催された大会で、私は受付やワーシップチームの奉仕をしました。集会中、キーグル牧師は、要約すると次のような預言のことばを語りました。「ここにいる人たちは今後、飲める水がなくなりそうになる。でも、ある人たちが水のある場所を発見し、他の人々にその恵みを分かち合う。」私はその時、預言を初めて聞いたので、深く印象に残りました。

 スリランカの教会では、礼拝賛美中に人から悪霊が出て行くという話も耳にしました。キーグル牧師は物静かで、謙遜な方です。超自然的で力強い働きの秘訣がどこにあるのか、私はずっと関心を持っていました。今回頂いた本に、その秘訣がいくつか書かれていたように思います。祈りを通して、神に近づくこと。必要を満たす神を信頼し、導きに忠実に従うこと。そして、そのように生きる人として、神から信頼されることです。その信頼の度合いに応じ、神は私たちに大切な働きを委ねられるようです。

 信仰の父アブラハムは、神の信頼を得ていました。偶像の神々を拝む国に生まれ育ったのに、彼は創造主の声を聞き分けました。導きに従い、約束の地を目指しました。失敗もしましたが、肝心な時には神に祈り、みもとに近づきました。神はアブラハムを信頼し、2千年後に生まれる子孫の秘密を打ち明けて下さいました。モーセも、神に信頼されていました。彼は逃亡中の殺人犯でしたが、ある時、天の声を聞きました。導きに従い、ユダヤ人をエジプトから解放しました。いつも神と対話をし、その顔は神の栄光で光り輝いていました。神はモーセを信頼し、十戒を始めとする重要な教えをたくさん語って下さいました。イスラエル王となったダビデも、神から信頼されていました。数々の試練をくぐり抜け、祈りを通して神に近づきました。神の導きに従い、王になる時を待ち続けました。神はダビデを信頼し、彼の子孫が永遠の国の王となる秘密を告げて下さいました。

 イエス様はアブラハムの子孫、ダビデの子孫としてこの世に来られました。モーセのような預言者として、地上での働きを忠実に果たされました。イエス・キリストを信じる人は、天の信頼を得る生き方ができます。神に祈り、近づくことができます。導きに従い、必要を満たす神を信頼することができます。神との関係が深まれば深まるほど、神は私たちを信頼し、さらに秘密を打ち明けて下さいます。神が計画されている大切な働きを、私たちに委ねて下さるのです。

「ですから、あなたがたが不正の富に忠実でなければ、だれがあなたがたに、まことの富を任せるでしょうか。また、他人のものに忠実でなければ、だれがあなたがたに、あなたがた自身のものを持たせるでしょうか。」(ルカ16:11-12)

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