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2018年11月

2018年11月18日 (日)

みこころの成就を求める

 今月から吉野屋は、「牛すき鍋膳」を始めました。これに合わせ、新しいテレビCMを流しています。ドラマ「北の国から」のパロディです。元々のラーメン屋のシーンは、なんと34年前の放送です。パロディにするくらいですから、見た人には今でも強烈な印象が残っているのかもしれません。

 「北の国から」は、1981年から21年間放送されたTVドラマです。第一話では、主人公の黒板五郎さんが、東京から故郷の北海道・富良野に帰ります。浮気した奥さんと別れ、2人の子供、純と蛍を連れて行きます。東京の都会生活しか知らない子供たちは、北海道のド田舎の暮らしに戸惑います。壊れた山小屋のような家で、電気もガスも水道もありません。熊が出るとも言われます。夜になると、何者かが外を歩いている音がしました。子供たちは「熊が来た」と思います。その時、彼らはどうしたでしょう?手を組んで、必死に祈りました。「天にまします我らの父よ」と祈ったのです。マタイ福音書6章にある、いわゆる「主の祈り」です。東京にいた頃、2人は日曜学校に通ったという設定だったようです。この祈りのシーンは、ラーメン屋のシーンと同じく、私の印象に残っています。

 「主の祈り」は、イエス様が弟子たちに「こう祈りなさい」と教えられた祈りです。その中に、こんな一節があります。「みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ。」新改訳2017では、「みこころが天で行われるように、地でも行われますように」です。天とは、創造主なる神のおられる世界。地とは、私たちが住むこの世界です。天では全ての物事が、神のみこころ通りに完璧に動いています。ところが地上の世界は、必ずしもそうではありません。多くの人が神のみこころを無視し、神を悲しませています。神は、ご自身が造られた世界に壮大な計画をお持ちです。その計画に沿って生きる人々を、神は求めておられます。天と同じように、この地上の世界にも神の完璧な計画の実現を願う人々。自分の願いではなく、神のみこころの成就を求める人々です。先ほどの「主の祈り」の一節は、神社やお寺で多くの人が祈る祈りと全く違います。180度視点が異なります。地上から天を見上げ、ひたすら助けを求めるのでなく、天から地を見降ろすような祈りです。純と蛍は、「そんなことは何も知らなかった」のでしょう。

 旧約の時代にも、みこころの成就を求めた人々がいました。アブラハムは神のみこころを求め、一度も見たことのない約束の地に旅立ちました。もちろん、電気もガスも水道もない地です。みこころに従い、彼は大切な跡継ぎ息子イサクを神にささげようとしました。モーセはみこころの成就を求め、ユダヤ人奴隷をエジプトから解放しました。救われた人々がみこころに従うよう、神の教えを彼らに伝えました。彼らとともに荒野で40年間過ごし、みこころに従う訓練も一緒に受けました。ダビデはみこころの成就を求め、ペリシテ人の巨人ゴリヤテと戦い、みごとに勝利しました。みこころに従い、自分がイスラエルの王になる時を辛抱強く待ち続けました。みこころの成就を求め、エルサレムの神殿建設を息子ソロモンに委ねました。そんな信仰の勇者たちも、時には失敗しました。でも生涯を通し、彼らは一つのことを求め続けました。みこころが天で行われるように、地でも行われることです。

 イエス様も、みこころの成就を願われました。「杯」は神のさばき、死を意味しています。神に従わない罪に対する刑罰、死刑です。本来それは、イエス様が受ける罰ではありません。イエス様以外の全ての人が受けるべき刑罰です。イエス様は完璧に父なる神に従いましたが、私たちは誰も完璧ではありません。ところがイエス様は、私たちに代わって死刑になって下さったのです。その十字架の死により、全ての人の罪が帳消しになりました。イエス様は命を懸け、死の杯を私たちの手から取り去られたのです。神は、私たちもイエス様の後に続いてほしいと願われています。自分の願いではなく、みこころの成就を求める人を、神は喜んで下さるのです。

「父よ、みこころなら、この杯をわたしから取り去ってください。しかし、わたしの願いではなく、みこころがなりますように。」(ルカ22:41-42)

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2018年11月11日 (日)

永遠の世界に備える

 9月に北海道で大地震が起きた時、私のある友人は札幌のホテルに一人で宿泊していました。高校で私の同級生だった女性で、今は青森県のお医者さんです。ジャズピアニストでもあり、最近CDを自主制作しましたが、その時は自分のコンサートのため札幌訪問中でした。地震発生は午前3時頃で、すぐ停電になりました。ホテル内に非常放送が流れました。「非常電源が尽きる前に、バスタブに水を張って下さい。」トイレの水を流すためです。その放送の後、何の案内もありませんでした。真っ暗な中、彼女は不安になりました。12階のその部屋は、不気味な静けさでした。様子を見るため、非常階段で下に降りようとしました。ところが階段は何も明かりがなく、真っ暗な洞窟のようでした。部屋に備え付けてある懐中電灯では、何も見えません。か弱い光で、1階に着く前にバッテリーがなくなりそうでした。急に息苦しくなり、パニックになりかけました。すると幸いなことに、反対側にも非常階段があると、別の部屋の人が教えてくれました。そちらは、少し明るかったようです。

 その日の夕方、彼女の親友がホテルに来てくれました。ランタンとラジオを持ってです。親友は、「自分の家に泊まりにおいで」と言ってくれました。でも彼女は、もう一晩ホテルで頑張ってみようと思いました。その夜も停電でしたが、ランタンとラジオはたいへん役立ったようです。コンサートは中止になり、彼女は青森に戻りました。そして、Facebookのページに今回の体験と教訓を書き込みました。教訓その1、旅行には必ずポータブル電源を持ち歩く。無料の充電所は4時間待ちでした。教訓2、懐中電灯、ランタン、ラジオも持ち歩く。教訓3、カップ麺があれば、水に20分浸して食べられる。鴨そばが美味しいそうです。教訓4、停電になったらバスタブに水を貯める。教訓5、地域の具体的な情報を得るには、昔からのラジオが良い。インターネットラジオでは、被災者に役立つ情報は聞けないとのこと。教訓6、災害の時には、遠慮なく他の人に聞く。部屋に閉じこもっていない方が良いようです。私はその投稿を読み、すぐに旅行用の懐中電灯とランタン、ラジオを買いました。バッグやスーツケースが少し重くなりました。でも非常時の備えは大切です。

 聖書には、「永遠の世界が来る」という約束があります。「その前に今の世は終わる」という警告もあります。創造主なる神は、私たちが住むこの世界を造られました。でも今の世界は、このまま永遠に続くのではありません。この世界には「消費期限(使用期限)」があります。期限切れになると、今のこの世はなくなります。今と同じように住むことは、できなくなります。ここで一つ、非常に大きな問題があります。「消費期限」がいつなのか、誰も知らないことです。スーパーやコンビニで売っている食べ物には、賞味期限や消費期限がはっきり書かれています。期限が過ぎたら味が落ちます。食べるとお腹をこわす場合もあります。なので私たちは、できるだけ期限内に食べようとします。ところがこの世界全体は、どこにも「消費期限」が書いてありません。いつなくなるのか、誰も知りません。神の国のトップシークレットです。私たちは、この世の終わりとその後の世界に常に備えておく必要があります。

 イエス様は、暗闇を照らすまことの光です。世界がどんなに真っ暗になっても、私たちの進む道は明るく照らされます。イエス様は、「聖霊放送」のパーソナリティーでもあります。天のスタジオから流れる放送で、私たちに重要な情報を伝えて下さいます。私たちが世の終わりを生き延び、その後、永遠の世界の祝福を満喫するための貴重な情報です。「聖霊放送」に心の耳を傾け、永遠の世界への備えをしましょう。

「しかし、あなたがたは、必ず起こるこれらすべてのことから逃れて、人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈っていなさい。」(ルカ21:36)

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2018年11月 4日 (日)

天の命を帯びる

 先日、「林先生が驚く初耳学!」というTV番組で面白いコーナーがあったそうです。3人の外国人男性が現れ、誰が本物の牧師か当てるコーナーです。残念ながら私は、番組を見ませんでした。3人のうち1人は本物で、後の2人は偽物だったそうです。なぜそんなことをしたかと言うと、結婚式の司式牧師は偽物が多いという話が紹介されたからです。アルバイトの求人サイトで、牧師を募集しているそうです。日給8千円から5万円!何組挙式するかにより、おそらく金額が違うのでしょう。林修先生は初耳ではなく、驚かなかったようです。でもゲストの中には、ショックを受けた人もいたとのこと。日本のクリスチャン人口は、1%以下です。牧師の数は、さらに一桁は少ないはずです。しかも「本物の牧師」は、普通、自分の教会の働きが中心です。全く知らない人の結婚式は、たとえ引き受けても片手間になります。以前ここにも書いたように、もし日本で結婚する過半数のカップルがキリスト教式ウェディングを望むとしたら、「本物の牧師」だけでは全く手が足りないはずです。

 興味深かったのは、クリスチャンでない人が「本物の牧師」にこだわる点です。キリスト教式の結婚式を行うホテルやウェディングチャペルは、「本物の教会堂」ではありません。新郎新婦も参列者も式場スタッフも、ほとんどが「本物のクリスチャン」ではありません。なのに、なぜ牧師だけは本物が良いのでしょう。北海道にいた頃、私も複数のウェディングチャペルで司式をお手伝いしました。もちろん教会奉仕の合間にです。私は一応「本物の牧師」だったので、偽物とばれる心配はありませんでした。(笑)でも全く別の場所で、「偽牧師」と呼ばれたことがあります。よその教会のクリスチャンからです。その人の考えでは、ギリシア語で聖書を読まない牧師は偽物でした。私は、それほどギリシア語に詳しくありません。時々、気になるキーワードを調べるくらいです。私を偽牧師と決めつけたその人は、私のFacebookのページにそう書き込みました。すぐに対処しましたが、私はひょっとして「偽牧師」なのかと考えさせられました。

 日本語(新改訳)の聖書には、「牧師」という言葉は1か所しか出て来ません。エペソ書4章11節です。それは「ポイメン(poimen)」というギリシア語の翻訳で、「羊飼い」という意味です。羊飼いの仕事は、羊の群れのお世話です。羊が健やかに育つよう、食べたり飲んだりできる場所に群れを連れて行きます。狼などの敵から守られるよう、注意深く見張ります。弱った羊や病気の羊がいたら、介抱します。迷子の羊は、群れに連れ戻します。これが羊飼いの主な仕事です。聖書の中で人は羊に、創造主なる神は羊飼いに例えられています。全ての人は生まれてから死ぬまで、ずっと神のお世話になっています。本人が知らなくてもそうです。神は羊一匹一匹を全てご存知で、深く愛されています。最高の羊飼いです。羊同士でも互いにケアできるよう、神は羊の中にリーダーを任命されています。牧師はそのようなリーダーの一人で、すべきことは自分のグループに属する羊のお世話です。お世話するのにギリシア語が役立つこともありますが、必須ではありません。牧師以外にも、さまざまなリーダーがいます。旧約時代には祭司や王、預言者たちが神に任命されました。新約の時代には使徒、預言者、伝道者、牧師、教師などのリーダーがいます。どんな働きをしても、天から任命されたら「本物の働き人」です。

 イエス様は、信じる人一人ひとりに何らかの働きを委ねておられます。私たちは天の命を帯びて、地上に遣わされているのです。忠実に使命を果たす人を、神は喜んで下さいます。「あなたは本物だよ」と、イエス様が言って下さるのです。

「イエスは彼らに答えられた。『わたしも一言尋ねましょう。それに答えなさい。ヨハネのバプテスマは、天から来たのですか、それとも人から出たのですか。』」(ルカ20:3-4)

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