みこころの成就を求める
「北の国から」は、1981年から21年間放送されたTVドラマです。第一話では、主人公の黒板五郎さんが、東京から故郷の北海道・富良野に帰ります。浮気した奥さんと別れ、2人の子供、純と蛍を連れて行きます。東京の都会生活しか知らない子供たちは、北海道のド田舎の暮らしに戸惑います。壊れた山小屋のような家で、電気もガスも水道もありません。熊が出るとも言われます。夜になると、何者かが外を歩いている音がしました。子供たちは「熊が来た」と思います。その時、彼らはどうしたでしょう?手を組んで、必死に祈りました。「天にまします我らの父よ」と祈ったのです。マタイ福音書6章にある、いわゆる「主の祈り」です。東京にいた頃、2人は日曜学校に通ったという設定だったようです。この祈りのシーンは、ラーメン屋のシーンと同じく、私の印象に残っています。
「主の祈り」は、イエス様が弟子たちに「こう祈りなさい」と教えられた祈りです。その中に、こんな一節があります。「みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ。」新改訳2017では、「みこころが天で行われるように、地でも行われますように」です。天とは、創造主なる神のおられる世界。地とは、私たちが住むこの世界です。天では全ての物事が、神のみこころ通りに完璧に動いています。ところが地上の世界は、必ずしもそうではありません。多くの人が神のみこころを無視し、神を悲しませています。神は、ご自身が造られた世界に壮大な計画をお持ちです。その計画に沿って生きる人々を、神は求めておられます。天と同じように、この地上の世界にも神の完璧な計画の実現を願う人々。自分の願いではなく、神のみこころの成就を求める人々です。先ほどの「主の祈り」の一節は、神社やお寺で多くの人が祈る祈りと全く違います。180度視点が異なります。地上から天を見上げ、ひたすら助けを求めるのでなく、天から地を見降ろすような祈りです。純と蛍は、「そんなことは何も知らなかった」のでしょう。
旧約の時代にも、みこころの成就を求めた人々がいました。アブラハムは神のみこころを求め、一度も見たことのない約束の地に旅立ちました。もちろん、電気もガスも水道もない地です。みこころに従い、彼は大切な跡継ぎ息子イサクを神にささげようとしました。モーセはみこころの成就を求め、ユダヤ人奴隷をエジプトから解放しました。救われた人々がみこころに従うよう、神の教えを彼らに伝えました。彼らとともに荒野で40年間過ごし、みこころに従う訓練も一緒に受けました。ダビデはみこころの成就を求め、ペリシテ人の巨人ゴリヤテと戦い、みごとに勝利しました。みこころに従い、自分がイスラエルの王になる時を辛抱強く待ち続けました。みこころの成就を求め、エルサレムの神殿建設を息子ソロモンに委ねました。そんな信仰の勇者たちも、時には失敗しました。でも生涯を通し、彼らは一つのことを求め続けました。みこころが天で行われるように、地でも行われることです。
イエス様も、みこころの成就を願われました。「杯」は神のさばき、死を意味しています。神に従わない罪に対する刑罰、死刑です。本来それは、イエス様が受ける罰ではありません。イエス様以外の全ての人が受けるべき刑罰です。イエス様は完璧に父なる神に従いましたが、私たちは誰も完璧ではありません。ところがイエス様は、私たちに代わって死刑になって下さったのです。その十字架の死により、全ての人の罪が帳消しになりました。イエス様は命を懸け、死の杯を私たちの手から取り去られたのです。神は、私たちもイエス様の後に続いてほしいと願われています。自分の願いではなく、みこころの成就を求める人を、神は喜んで下さるのです。
「父よ、みこころなら、この杯をわたしから取り去ってください。しかし、わたしの願いではなく、みこころがなりますように。」(ルカ22:41-42)
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