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2018年12月

2018年12月30日 (日)

心新たに新年を迎える

 伝統的に日本では、正月に特別な来客があると信じられて来ました。「年神」と呼ばれる神道の神です。一年の平和と繁栄をもたらすと言われます。年末には多くの人が、この訪問客を迎える準備をします。部屋を片付け、大掃除をします。しめ縄や門松などで飾り付けます。「どうぞお出で下さい」という神々への目印です。供え物も用意します。鏡餅も、その一つです。大晦日の除夜の鐘も、準備の一部のように思えます。新年を迎える前に、煩悩を祓うのです。煩悩とは、仏教の教えで汚れた心のことだそうです。汚れた心は、お寺の鐘の音で取り除かれると人々は考えました。鐘の音に神秘的なパワーがあると信じたのです。つまりお寺で鐘を鳴らすのは、神社でお祓いをする代わりです。大晦日の夜、一年の煩悩を全て取り除き、年神を迎える準備を終えるのです。

 年が明けると、人々は年神の来訪をお祝いします。年神は、先祖の霊と考えられています。その霊に自分たちの家が代々守られて来たことを、人々は感謝します。新しい年の平和と繁栄を願いつつ、人々は年神と一緒に食事をします。雑煮やおせち料理、鏡開きには、もともとそういう意味があったようです。特に鏡餅には、年神が宿ると考えられました。餅を食べると、年神の魂、力を得ると信じられて来たのです。

 創造主なる神は、ユダヤ人たちに新年の迎え方について教えられました。そのパターンには、私たちの見習うべき点があります。第一に新年は、神への礼拝から始まります。正月は1月でなく第7の月、日本の暦の9月か10月頃です。年が明けると、鐘ではなく角笛が吹き鳴らされます。「創造主なる神を礼拝しなさい」という呼びかけです。角笛の音は、イスラエルの人々に先祖たちのエピソードを思い出させました。角笛を吹くように、神はアダムに命の息を吹き込まれました。モリヤの山にいたアブラハムには、イサクの身代わりとして角のある羊が与えられました。シナイ山では角笛の音の中、モーセに十戒が与えられました。預言者たちは、角笛が鳴るように神の警告を伝えました。世界中に散らされた民は将来、角笛とともに集められ、ともに神を礼拝するという預言もありました。角笛の音自体に、神秘的なパワーはありません。でもその音は、神が先祖たちに良くして下さったという記憶にリンクするのです。「この恵み深い神を信じ、礼拝しなさい。」角笛の音は、そう呼びかけます。私たちにも、一年を神への礼拝から始めるように呼びかけるのです。

 礼拝とは、何かをささげる行為です。大掃除や正月飾りする人々は、年神に対してお金と時間、労力をささげています。神社やお寺へ初詣に行く人も、そこに祀られる神や仏等に時間と賽銭をささげます。ユダヤ人たちも、創造主なる神に時間と収穫物の一部をささげて来ました。しかし神は、こうも言われています。「最も大切なのは、形ではなく心だ。」神を愛する心です。うわべではなく、心を神はご覧になっています。ただ形だけの、人目を誤魔化すようなささげ物をしても、神は喜んで下さいません。私たちも愛のない、形だけのプレゼントをもらっても、あまり嬉しくないですね。それと同じです。聖書(ローマ人への手紙12章1節)には、自分自身を全て神にささげなさいと書かれています。私たちの心も、全てささげなさいという意味です。神を愛する心です。新たな年も祝福して下さる神に、私たちは愛する心をささげましょう。

 第二に年の初めは、悔い改めの時です。悔い改めとは、心を新たにし、神の方向に向き直すことです。神の完璧さを知ると、自分がいかに完璧でないかが分かります。その視点から、過去1年間の自分の歩みを見直します。1年を通して自分のしたことが全て完璧だった人は、いるでしょうか?自分の心に一点の曇りもなかった人は、いるでしょうか?おそらく、いなかったはずです。何か足りなかったかもしれない。ほんの少しでも、悪い思いを持ったかもしれません。ひょっとしたら自分も気づかない問題があったかもしれません。それら全てについて、神に謝ります。誰か他の人に迷惑をかけたなら、その人にも謝ります。角笛が鳴った日から10日間、ユダヤ人たちは悔い改めを求められます。私たちも、新年を悔い改めとともに迎えましょう。お寺の鐘を聞いても、心の汚れはなくなりません。私たちが悔い改める時、神が私たちの汚れた心をきよめて下さるのです。

 悔い改め最終日の10日目は、国を挙げて神の赦しを求める日、「宥めの日(贖いの日)」です。神殿のあった時代、イスラエルの国全体の汚れをきよめるため、大祭司が特別な生け贄をささげました。2匹の山羊です。1匹は屠られ、その死を告げるように、血が契約の箱に振りかけられました。もう1匹の山羊は、全国民の罪や汚れを背負い、荒野に追い払われました。いわゆるスケープゴートです。全ての人の罪や汚れが赦されるには、身代わりの生け贄が必要でした。イエス様は、全人類の身代わりをする山羊になって下さったのです。全ての人の罪を背負い、十字架の上で血を流されました。スケープゴートとして、死の世界に追い払われました。イエス様を自分の身代わりと認める人は、汚れた心がきよめられます。私たちの悔い改めは、イエス様の十字架を通し、神の赦しにつながっているのです。

 第三に年の初めは、感謝の時です。年が明けて15日目以降は、お祝い―収穫祭です。神から与えられた収穫を喜び、7日間お祝いの食事を食べます。蜂蜜付きのリンゴを食べ、甘い、祝福に満ちた一年であってほしいと願うそうです。ザクロも食べます。種が多いので、子孫繁栄という願いが込められているそうです。私たちも新年を迎える時、周りの人と神の恵みを喜び、お祝いしましょう。お雑煮でもおせちでも、すべての食材は創造主から与えられた恵みです。

 イスラエルの秋の収穫祭は、仮庵の祭りと呼ばれています。ユダヤ人たちは仮の小屋を作り、そこで時間を過ごします。エジプト脱出後、先祖たちが荒野でキャンプ生活をした時代に思いを寄せるのです。荒野の40年間、神は先祖たちを危険から守り、全ての必要を満たされました。仮庵の祭りは、その恵みを思い起こし、感謝する時です。新しい年、私たちの全ての必要も神が満たして下さいます。あらゆる危険から守って下さいます。荒野のユダヤ人を支えた神は、私たちの歩みも支えて下さいます。イエス様の別名はインマヌエルであり、「ともにおられる神」だからです。新しい年を、私たちも神に感謝して迎えましょう。

 イエス様は、永遠のいのちを与えるパンとして天から下られました。日本風に、「いのちを与える餅」とも言えるかもしれません。「イエス様の餅」を食べる人は、永遠のいのちが与えられ、天から特別な力を頂くことができます。その力により、私たちは生き方が変えられます。自分の思いではなく、神のみこころを行いたいと願うようになります。新しい年、「イエス様の餅」を頂きましょう。心を新たにし、祝福に満ちた新年を迎えましょう。

「この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分を変えていただきなさい。そうすれば、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります。」(ローマ12:2)

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2018年12月23日 (日)

飼葉桶に希望を見る

 今日は、天皇誕生日です。平成の天皇誕生日は、これが最後になります。今上天皇は85年前、東京都千代田区に誕生されました。当時、皇居の中に「産殿」と呼ばれるお産用の御殿があり、そこで生まれたそうです。天皇が神とされていた時代でした。生まれて来た皇太子様には特別室が用意され、皇室御用達の最上級の布団に寝たはずです。寒くないよう、十分に温かくされたに違いありません。何人もの医師や看護師、使用人たちに見守られ、当時としては最高の新生児ケアがなされたのでしょう。

 一方、2000年前にベツレヘムで生まれたイスラエルの王子様は、どこにも居場所がありませんでした。唯一いられたのは、家畜がつながれた暗い空間。牛やロバの臭いに満ちていました。干し草の入った飼葉桶があり、王子様はその上に寝かされました。医師も看護師も使用人もいません。なぜ、そうなったのでしょう。イスラエルの国は当時、ローマ帝国に占領されていました。ローマの皇帝は、ユダヤ人でない人をイスラエル国王に任命しました。その王様はやり手で、残虐でした。自分に代わって王になりそうな人を、次から次へと殺しました。誰も逆らえませんでした。イスラエル王家の血を引く王子様が生まれたら、王宮で歓迎されるどころか、命を狙われたのです。

 その時、王子様が寝た飼葉桶は、今もし残っていたら、たいへんなお宝だと思いませんか?どんな値段がつくか、想像もつきません。王宮や宿屋には、見た目も寝心地も素晴らしい、高級なベビーベッドがあったかもしれません。でも、天から下った特別な王子様が寝たのは、どこにでもあるごく普通の飼葉桶でした。その飼葉桶はその時、どんな高級ベッドにもはるかに勝る値打ち物になったのです。もし当時のベツレヘムの住民が赤ちゃんの素性を知っていたら、飼葉桶は蔵の中に大切にしまわれ、厳重に保管されたかもしれません。

 飼葉桶は、私たち人間を象徴すると考えられます。最初は、きれいです。でもしばらく使われると汚れ、臭いが漂います。(加齢臭?笑)飼葉桶として役目を終えたら、お別れの時を迎えます。私たち人間は、誰もが古い飼葉桶のように汚れ、臭いがしみ付いていました。そんな私たちのところに、イエス様は来て下さいました。私たちの汚れや臭いを取り去るためです。もし私たちが、このお方を喜んで心に迎え入れるなら、イエス様は私たちの心の大掃除をして下さいます。新品のようにピカピカに磨き上げ、麗しい香りを放つようにされます。どんなに汚れ、悪臭を放つ飼葉桶にも希望があります。永遠の値打ちを持つ、お宝の飼葉桶に変えられるのです。

 イエス様から与えられた希望には、3つの特徴があります。第一に、その希望はあらゆる立場を超越しています。イエス様がベツレヘムで生まれたのは、皇帝アウグストゥスがローマ帝国全土に住民登録を命じたからです。ナザレの大工ヨセフは、故郷ベツレヘムに向かいました。皇帝と大工は、全く立場、身分が違いました。でも創造主なる神は、この2人を用いて、キリストがベツレヘムで生まれるという預言を成就されたのです。アウグストゥス自身はイエス・キリストを信じませんでしたが、後のローマ皇帝はイエス様が治める神の国の希望を信じるようになります。ヨセフはもちろん、誕生する王子様に希望を抱いていました。皇帝たちにも大工にも、イエス様は希望となったのです。

 羊飼いにも、イエス様は希望となって下さいました。羊飼いは、落ち着く場所がどこにもない人の代表です。生まれたばかりのイエス様を誰よりも先に訪問したのは、彼らでした。イエス様は、落ち着く場所のない人に永遠の住まいを与えに来られました。立派な家に住む人もそうでない人も、あらゆる立場の人が、その永遠の希望を受け取ることができるのです。

 第二に、イエス様から与えられた希望は、時代を超越しています。生後40日経ち、ヨセフとマリアはイエス様をエルサレムの神殿に連れて行きました。そこにいたのは、シメオンとアンナという2人のお年寄りです。この出会いは、時代を超えた希望を象徴しています。若い夫婦にも2人のお年寄りにも、イエス様は希望だったのです。遠い昔になされた神の約束を、イエス様が実現されるという希望です。2000年後に生きる私たちにとっても、イエス様は希望です。イエス様が今、永遠の希望に満ちた神の国を築かれているからです。

 第三にイエス様から与えられた希望は、国境を超越しています。イエス様の誕生をお祝いし、遠い国から来た人たちもいました。東方の博士たちです。彼らは、ユダヤ人以外の全ての国の人を代表しています。日本に住む私たちの代表でもあります。イエス様はユダヤ人だけでなく、あらゆる国の人を神の国に招いて下さいました。神の国の王なるイエス様は、全世界の希望なのです。

 日本の今の天皇は、昭和天皇の5番目のお子様でした。皇室に初めて男の子が生まれ、日本の多くの人々は大喜びしました。「皇太子さまお生まれなつた」という歌まで作られました。作詞者は、あの北原白秋さんです。

 イエス様が生まれた時、賛美したのは天使と羊飼いたちだけでした。でも今や、全世界で20億以上の人々が救い主の誕生を喜び、賛美の歌を歌っています。私たちもともにイエス様のご降誕をお祝いし、賛美しましょう。どんなに粗末で汚い飼葉桶にも、私たちは希望を見ることができるのです。

「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。あなたがたは、布にくるまって飼葉桶に寝ているみどりごを見つけます。それが、あなたがたのためのしるしです。」(ルカ2:11-12)

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2018年12月16日 (日)

曙の光に導かれる

 今週土曜日は、冬至です。わが家では毎年、冬至にかぼちゃ入りのお汁粉を食べます。日本全国の家で普通に食べるのかと思っていたら、北海道や青森など北国の習慣だそうです。私と妻は二人とも道産子なので、子どもの頃から、冬至にはかぼちゃのお汁粉だと思っていました。お汁粉でなくても、冬至にかぼちゃや小豆を食べる習慣は、全国的に見られるようです。夜が長いためか、冬至は昔、死に一番近い日と言われたようです。そのため人々は、縁起の良い食べ物であるかぼちゃや小豆を食べたとのこと。もちろん、栄養をつけて寒い冬を乗り切るという意味もあったのでしょう。冬至に、ゆず湯に入る習慣もあります。ゆずの強い香りで、身を清めるという意味だそうです。血行を促進し、風邪の予防にもなるとも言われます。北海道ではゆずが高かったので、わが家では、湯船にみかんの皮を浮かべていました。

 クリスマスを12月25日に祝うのは、冬至の祭りが起源だと言われています。イエス・キリストがいつ生まれたのか、聖書にはっきり書かれていません。多くの人は、9月か10月の仮庵の祭りの頃だと考えています。ローマ帝国にキリスト教が広まった頃、冬至の祭りを盛大にお祝いする人がたくさんいました。太陽を神と信じる人たちのお祭りでした。冬至は一年で最も昼が短く、太陽の力が最も弱まります。この日が過ぎると、再び昼が長くなります。多くの人は、太陽の神の力がよみがえると考えたそうです。人々は、喜んで太陽の復活をお祝いしました。ローマ帝国のクリスチャンたちは、この偶像のお祭りを救い主の誕生をお祝いする日に変えました。ローマの人々にとって、それは分かりやすく、受け入れやすかったかもしれません。12月25日は太陽神の復活ではなく、イエス・キリストの誕生をお祝いする日になったのです。

 太陽の力は、偉大です。寒い季節には、特にそう感じます。その偉大な力を見て、太陽を神と信じ、拝む人々が現れました。古代エジプトやメソポタミア、インドやペルシア、そしてギリシアやローマにも。日本でも太陽を神と信じ、拝む人々がいます。アマテラス信仰です。伊勢神宮を初めとする多くの神社に、アマテラスが神として祀られています。所沢の中心的な神社にも祀られ、所沢の守り神と言われるようです。しかし太陽は神ではなく、意思を持たない物質に過ぎません。創造主なる神の偉大な作品の一つです。でも作品以上に偉大なのは、製作者です。創造主なる神は、太陽や他の星を宇宙空間で光と熱を出し続けるように造られました。核融合という仕組みを使いました。地球は太陽からちょうど良い距離に置かれ、ちょうど良い角度に傾きながら回転するように造られました。太陽が光を照らす仕組みを造ったのは、創造主なる神です。本当の光は太陽でなく、創造主なる神なのです。

 イエス様は、暗闇を照らす曙の光としてこの世に来られました。人類は、本当の光が何かを見失っていました。創造主なる神ではなく、神に造られた物を神と信じ、拝んで来たのです。創造主なる神に背を向け、神が造られた平和な秩序を破壊して来ました。そして、偶像の神々や自分たちの欲望に支配され、際限のない争いを繰り返して来ました。そんな私たち、暗闇に道を見失った人類を、イエス様はあわれんで下さったのです。天から地上の世界に来られ、正しい道が見えるように光を照らして下さいました。その道は、私たちが死に勝利し、永遠のいのちに至ることのできる道です。昼の時間が短くなっても、関係ありません。私たちはイエス様の光に照らされ、導かれる幸いを手にしているのです。

「これは私たちの神の深いあわれみによる。そのあわれみにより、曙の光が、いと高き所から私たちに訪れ、暗闇と死の陰に住んでいた者たちを照らし、私たちの足を平和の道に導く。」(ルカ1:78-79)

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2018年12月 9日 (日)

喜びを拡散する人になる

 今週、私の孫は6か月の「ハーフバースデー」を迎えます。多くの牧師は、孫が生まれると孫の話ばかりすると聞いたことがあります。以前は、その感覚が分かりませんでした。でも今は分かります。(笑)私と妻の最近の楽しみの一つは、LINEで孫の写真や動画を見ることです。私が動画を見ていると、その音をキャッチして妻がそばに寄って来ます。あるいは自分のタブレットに手を伸ばし、同じ動画を見始めます。私が感じている喜びを、妻も同じように味わいたいからです。

 感情は伝染するそうです。産婦人科で何人もの赤ちゃんが並んでいたら、一人が泣き出すと周りの赤ちゃんも泣きだすそうです。逆に一人がニコニコしだすと、周りの赤ちゃんもニコニコするとのこと。大人でもそういうことがあります。一人の人がピリピリしていると、周りにもその緊張が伝わり、ケンカが起きそうになります。パリのシャンゼリゼは今、そんな雰囲気なのかもしれません。逆に、新婚ほやほやのカップルがいると、そのラブラブな雰囲気が周りに伝わり、心がほんわかと温かくなります。可愛らしい赤ちゃんがいて、周りの大人たちを和ませる場合もそうです。

 Facebookは、6年前にある実験をしました。英語を使う人68万9千人を選び、その人の目にふれるニュースを細工しました。肯定的なニュースが減った人は、否定的な言葉を書くことが多くなりました。一方、否定的なニュースが減った人は、肯定的な言葉を書くことが増えました。Facebookはこの実験結果を見て、「SNSでも感情の伝染が証明された」と発表しました。(この実験は無断で行われたため、Facebookは批判されたようです。)私たちは、感情の伝染に注意しなければなりません。「自分は、誰からどんな感情の影響を受けているのか。そして、誰にどんな影響を与えているのか。」日々の生活の中で、自分の感情をチェックする必要があります。怒りや憎しみなど、ネガティブな感情をスポンジのように全て吸い込む必要はありません。吸い込んだ感情をそのまま周りに吐き出す必要もありません。イエス様が、私たちにあらゆるネガティブな感情に勝る喜びを与えておられるからです。

 聖霊によりマリアが身ごもった時、喜んで踊った人がいました。エリサベツのお腹にいた赤ちゃん、バプテスマのヨハネです。マリアが、エリサベツを訪問した時のことです。マリア自身も救い主の偉大な奇跡を喜び、神をたたえました。イエス様が生まれた時は、天使たちが喜んで賛美しました。羊飼いたちもイエス様にお会いして、喜んで賛美しました。東方の博士たちも、喜んで贈り物をささげました。大人になってからのイエス様の働きは、多くの人に喜びを与えました。病人は癒され、悪霊の働きに悩む人は自由にされました。罪深い生き方から解放された人もいました。そしてイエス様は、地上の生涯の最期に、史上最大の喜びを私たちにもたらされました。死からの復活です。奇跡的な大逆転勝利。それは当時の弟子たちだけでなく、今や全世界の喜びとなっています。

 イエス様誕生のお祝いは、全人類を代表して十字架につき、死に勝利する救い主が来られたお祝いでもあります。私たちには、何にも勝る喜びが与えられています。どんな最悪の事態にも、決して消え去らない喜び。この喜びの強力なウィルスに私たちは感染しています。周りの人に伝染します。喜びウィルスを拡散するため、日常生活の場に私たちは遣わされています。LINEでもFacebookでもInstagramでも世界中に拡散できます。イエス様に変えられた私たちの喜びが、インスタ映え、SNS映えするのです。アーメン!(今年風に言うと、「そだねー」。)

「彼らはイエスを礼拝した後、大きな喜びとともにエルサレムに帰り、いつも宮にいて神をほめたたえていた。」(ルカ24:52-53)

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2018年12月 2日 (日)

愚かな道から救われる

 ハワイでは、毎年12月7日に特別な催しがあります。日本の真珠湾攻撃で亡くなった兵士を追悼する式典で、今年77回目です。77年前のその日、ハワイにいた2,400人以上の米国人が命を落としました。レイ・チャベスさんという退役軍人の方は、その様子を目撃した一人でした。真珠湾攻撃の生存者で最高齢でしたが、つい先日106歳で亡くなったと報道がありました。昨年まで追悼式典に出席しましたが、今年はかないませんでした。

 私は33年前、洗礼を受けた年の秋、パールハーバーを訪問しました。アリゾナ記念館に向かう船内には、当時の新聞が置いてありました。1面トップが真珠湾攻撃の記事で、大きな見出しがついていました。「Blasphemy」、神への冒涜という言葉です。見出しを見た私は、心が痛みました。その年の12月7日はアドベント2週目の日曜日で、クリスマスが近づく頃でした。その朝、多くの人が教会に集まり、救い主を礼拝しようとしていたはずです。ところが日本の奇襲攻撃により、その喜びの日は悲しみと憎しみの日になりました。海に沈む戦艦アリゾナには、今も1,100人以上の遺体が残されているとのこと。そこから流れ出し、海面に浮かび上がって来るオイルも見ました。「アリゾナの涙」、「黒い涙」と呼ばれるそうです。真っ白な記念館の周りには、平和で静かな海と真っ青な空が広がっていました。そこに日本の飛行機が何百機もやって来て、爆弾や魚雷で攻撃したなど、信じられない思いがしました。なんて愚かなことをしたのかとも思いました。

 ジェイコブ・ディシェイザーという人は、オレゴンで真珠湾攻撃のニュースを聞き、日本人を激しく憎みました。自ら志願して、日本本土を空襲する爆撃隊に加わりました。空襲は成功でしたが、その後、燃料切れで中国に不時着しました。ディシェイザー軍曹は日本軍に捕えられ、収容所に入れられました。ところが彼は、そこで聖書を読み、イエス・キリストを信じたのです。日本人を憎んだ罪を悔い改め、神に赦しを求めました。自分をひどい目に遭わせた日本兵たちへの憎しみは、愛と憐れみに変わりました。イエス様が十字架の上で祈られたように、日本人が神に赦されるように祈ったそうです。戦後、彼は宣教師になり、日本に来ました。「私は日本の捕虜であった」という冊子も作り、日本で100万部以上配布しました。

 それを読んだ一人が、淵田美津雄さんです。淵田さんは、日本軍の真珠湾攻撃隊長でした。あの12月7日、真珠湾上空で全軍突撃の命令を出したその人。日本の司令部に向け、「トラトラトラ(我奇襲に成功せり)」と発信した本人です。日本が戦争に負け、淵田さんは絶望していました。しかしディシェイザーの冊子を読み、心が揺さぶられました。聖書を買って、自分でも読んでみました。すると、彼もイエス様の十字架上の祈りに心をとらえられたのです。イエス様が祈られた人々の中に、自分も含まれているように感じました。愛国心の名の下に、彼は多くの人の命を奪いました。その罪の赦しを神に求め、祈りました。すると人への憎しみが、愛とあわれみに変えられて行きました。淵田さんもその後、イエス・キリストの恵みを伝える伝道者になりました。ディシェイザー宣教師とも友人になり、一緒に奉仕する機会もあったようです。

 イエス様は、ご自身を十字架につけた人々を憎みませんでした。彼らを愛し、憐れまれたのです。全世界の創造主であり、王である神ご自身を十字架につけるほど、愚かな行為はありませんでした。でもイエス様は、人々がその愚かさから救われるように祈られたのです。私たちは誰もが、神に逆らう愚かな道を歩んでいました。イエス様はそんな私たちを愚かな生き方から解放し、新たな道を示して下さったのです。

「そのとき、イエスはこう言われた。『父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。』」(ルカ23:34)

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