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2019年5月12日 (日)

まことの礼拝者を育てる

 「弟子」と訳される言葉は、原語のギリシア語では「マテーテス(mathetes)」、「学ぶ人」という意味です。この言葉に相当するヘブル語の単語は「タルミッド(talmid)」ですが、不思議なことに「タルミッド」という単語は、旧約聖書に1カ所しか出て来ません。神殿で奉仕する見習いミュージシャンのことです(Ⅰ歴代誌25:8)。一方、新約聖書には「マテーテス」は250回ほど登場します。その全てが福音書と使徒の働きです。聖書全体が「神のことば」であることを考えると、非常に偏った分布になっています。聖書で「弟子づくり」と言うと、ほとんどイエス・キリストから始まったような印象を受けるほどです。イエス様は、全く新しいことを始められたのでしょうか?旧約聖書を廃棄するためでなく、成就するために来たと、イエス様は言われました。だとしたら「弟子づくり」も、不完全な形かもしれませんが、旧約の時代に前例があった可能性があります。その方が、1世紀のユダヤ人たちにも分かりやすかったはずです。

 旧約時代、神の国の民は、ほとんどみな血のつながりがありました。アブラハムの子孫=ユダヤ人=神の国の民だったのです。彼らは、親の信仰を受け継ぎました。日本の多くの人と同じです。家の宗教が自分の宗教だったのです。先日、日本人のある女性のこんな話を聞きました。自分の家は浄土真宗だったが、嫁ぎ先の家は日蓮宗だった。自分は、親から浄土真宗の仏壇と納骨堂を受け継いだ。一家に2つの宗派はダメだと言われ、夫の了解を得て、家ごと浄土真宗に宗旨替えした。するとつい先日、嫁ぎ先の家も昔は浄土真宗だったことが分かったと言うのです。日蓮と親鸞のどちらが正しいかは、関係ない。教えの内容を比較・検討したわけではない。家の仏壇と納骨堂を相続したから、私はこれを信じる。そういう信仰です。ユダヤ人の信仰も、少しこれと似たところがあります。アブラハム以来、先祖代々受け継がれる家の宗教を彼らは信じたのです。親が子どもに家の信仰を継がせました。つまり、親が子どもを弟子として育てたのです。

 モーセの律法にも、子どもに神のことばを教えるのは親の責任だと書いてあります。妻と私は、子どもたちが小さいうちから、この責任をできるだけ果たそうとしました。北海道で開拓した教会に、教会学校はありませんでした。小学校1年生の長女を相手に、妻は一対一で教会学校を始めました。2歳の息子は、部屋の中を走り回っていました。0歳の次女は、兄を全く気にせず寝ていました。家でも毎週、聖餐式をしました。聖書のみことばを読み、一緒に祈りました。子どもが外に出掛ける時は、いつも祈りました。寝る前にも祈りました。何か問題があれば、聖書にどう書いているか考え、話し合いました。学習発表会で、長女が「かさこ地蔵」の劇に出演させられた時は、小学校にクレームをつけました(幸いなことに?、娘は地蔵役ではありませんでしたが・・・苦笑)。アンケートが配られたので、こう書きました。「特定の信仰に基づく劇への出演を生徒に強制しないでほしい。」その後、わが家の子どもたちが小学生のうちは、「かさこ地蔵」は上演されませんでした。ハレルヤ!

 アブラハムは、息子イサクを弟子として育てました。イサクは、息子ヤコブを弟子にしました。ヤコブは、12人の息子たちを弟子にしました。何世代にもわたり、天地創造の神を礼拝する弟子たちが育てられて行ったのです。今日は、母の日です。母親は父親とともに、子どもたちに大きな影響を与えます。もちろん子どものいない人も、アブラハムの弟子づくりから学べることがあります。私たちもアブラハムのように、弟子づくりをする弟子をつくって行きましょう。

「・・・イサクは尋ねた。『火と薪はありますが、全焼のささげ物にする羊は、どこにいるのですか。』アブラハムは答えた。『わが子よ、神ご自身が、全焼のささげ物の羊を備えてくださるのだ。』こうして二人は一緒に進んで行った。」(創世記22:7-8)

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