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2019年8月

2019年8月25日 (日)

グッドニュースを語り継ぐ

 日本の8月は、戦争体験を語り継ぐ月となっています。8月6日は広島原爆の日。9日は長崎原爆の日。15日は終戦記念日。それぞれの日に平和を祈る式典があり、テレビで全国放送されます。他のメディアも、この時期に戦争特集を報道します。日本中の人が悲惨な戦争体験を振り返り、二度と同じ過ちを繰り返さないという決意を新たにします。第2次大戦では、全世界で数千万人の人が亡くなりました。そのうち日本人犠牲者は310万人。当時の人口の約4%です。銃弾や爆弾で死んだ人たち。船が沈み、水死した人たち。自ら命を絶った人たち。病気で死んだ人や餓死した人も、たいへん多かったと聞きます。8月半ばは、ちょうどお盆の時期と重なります。多くの人が墓参りをし、亡くなった人を偲ぶ時です。8月に戦争犠牲者を思い、平和を祈るのは、時にかなっているのかもしれません。

 8月15日は、日本に初めて平和の福音が伝わった日でもあるそうです。1549年のこの日、カトリックの宣教師フランシスコ・ザビエルが鹿児島に上陸。彼らの熱心な宣教活動により、70万人を超える日本人がキリシタンになったとも言われます。彼らの多くは厳しい迫害に屈せず、信仰を守り抜きました。平和の福音を子々孫々にも伝えました。キリシタンは、同じ信仰を持つ人たちと集落を作り、生活をともにするようになりました。

 そのような集落の一つが、長崎・浦上地区にありました。2発目の原爆が投下された場所です。多くのカトリック信者が、まるで呪いを引き受けてくれたかのように原爆の最後の犠牲者となりました。浦上天主堂にいた多くの信者は全員死亡。カトリックの医師だった永井隆夫妻も被爆。奥様は自宅で即死し、台所跡に骨のかけらだけ残りました。救護活動をした永井医師も、白血病で6年後に命を落とします。長崎原爆の直後、昭和天皇はとうとう戦争を終える決断を下しました。「平和をもたらしたい」と、ラジオで直接国民に語りかけました。8月15日は再び、平和の良い知らせが伝わった記念すべき日になったのです。

 世界の全てを造られた唯一の神は、平和を心から願っておられます。「一神教が戦争をもたらす」という言葉を、日本ではよく耳にします。でも実際は、多神教の人々も戦争を起こします。八百万の神々を信じる日本人は、中国や米国と戦争を始めました。神を信じない人々も、戦争を仕掛けます。共産主義のソ連は、何度も外国を侵略しました。「戦争が起きるのは唯一の神のせいだ」と考えるのは、責任転嫁です。神は、人類の平和を願われています。この世界に永遠の平和を築くため、神は、先ずアブラハムを全人類の代表として選ばれました。神との平和を保つなら、彼の子孫は平和に暮らせると約束されました。永遠の平和を完成させる王がいつか現れるとも、神は彼らに約束されたのです。


 イエス・キリストは、その約束の王として私たちの世界に来られました。武力でこの世を鎮圧せず、愛をもってご自身を犠牲にされました。神との平和を土台とし、世界に平和を築くためです。私たちはこれまでの大きな犠牲を思い、過ちを二度と繰り返すべきではありません。人の力によらず、キリストの力、全能の神の権威により永遠の平和が完成するという良い知らせを信じましょう。神の国のグッドニュースを心から喜び、後の世代に語り継いで行きましょう。

「行って、『天の御国が近づいた』と宣べ伝えなさい。」(マタイ10:7、新改訳2017

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2019年8月18日 (日)

ハブられた人とつながる

 「ハブられる」とは若者言葉で、仲間はずれにされるという意味だそうです。「省かれる」や「村八分にされる」などの言葉が語源とのこと。自分が仲間はずれにされたり、逆に他の誰かを仲間はずれにしたりという経験が全くない人は、少ないかもしれません。3年前、ある研究所がいじめの調査結果を発表しました。日本の小学4年生から中学3年生を対象にした調査です。その6年間、いじめの典型である「仲間はずれ」「無視」「陰口」があったかどうか聞きました。被害経験のない子は9.6%。一方、加害経験のない子も9.6%。90%の子供が、一度はいじめの被害にあったか、または加害者側になったということです。子供の世界だけではありません。「ハブる」「ハブられる」という行為は、高校や大学、職場やママ友の世界にもあるようです。数ヶ月前、村八分が原因で裁判になったとの報道もありました。

 小学生の頃、私のクラスに皆から嫌われている女の子がいました。その子は、不潔だと思われていました。アレルギーだったのか、いつも鼻をかんでいた。それだけなら問題なかったのですが、鼻をかんだ紙をゴミ箱ではなく、なぜかいつも机の物入れに入れたのです。その中は鼻紙で一杯でした。それが一番の理由で、誰もがその子と距離を置いていました。彼女と親しい友達はいなかった――。ハブられていたのです。ところがある日、皆に嫌われているその子に、あえて近づいた女の子がいました。小柄な彼女は、特に目立つ子ではありませんでした。クラスの人気者だったり、成績が良かったり、リーダーシップのあるような子でもなかった。でも彼女は、皆から嫌われている子を気づかい、自ら進んでその子の友達になったのです。私は、たいへん感銘を受けました。自分には、そんな勇気ある、優しい行動ができるだろうかと考えさせられました。

 どんな社会にも、嫌われ、ハブられる人がいます。1世紀のユダヤ人社会にも、そんな人たちがいました。汚らわしい病気にかかり、隔離された人。悪霊につかれ、人迷惑な行動をとる人。さまざまな罪を犯し、軽蔑されている人。ユダヤ人に敵対していたサマリア人やローマ軍兵士。ローマの片棒を担ぎ、税金集めで私腹を肥やす人。彼らは多くのユダヤ人から忌み嫌われ、ハブられるような人たちでした。でもイエス様は、彼らを除け者にはしませんでした。彼らに近づき、限りなく愛し、生きるべき道を示されたのです。ハブられていた多くの人の生き方は、イエス様により一変しました。病や悪霊から解放されました。罪深い生き方から離れ、人に信頼される生き方をするようになりました。ハブられていた人たちが、自ら新たなつながりをつくれるようになったのです。

 イエス・キリストを信じる人は、ハブったりハブられたりするような、空しい人間関係から解放されます。イエス様により、あらゆる関係が新しくされるからです。全ての人を造られた神は、どんな人をも限りなく愛しておられます。私たちをハブることは、決してなさいません。私たちは、この限りなく深い神の愛を知り、周りの人と新しい関係を築くことができます。ハブられている人とも、つながれます。どんな人をも、神の変わらない愛の中に招くことができるのです。

「・・・医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人です。『わたしが喜びとするのは真実の愛。いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためです。」(マタイ9:12-13)

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2019年8月 4日 (日)

奇跡をともに待望する

 「宗教改革は、聖書を読む運動だ」と、ある神学者が言っています。聖書を先ず一人で読む。次にみんなで一緒に読む。そして読んだことを互いに分かち合う――そういう運動です。マルティン・ルターがその運動を始め、彼の大学の学生に広まり、さらに一般の人にも広がって行きました。聖書も大学の講義も、当時は全てラテン語でした。でもドイツでラテン語の読み書きができた人は、10人に1人。一般民衆だと20~30人に1人だったそうです。一般人は、聖書が読めなかった。そこでルターは聖書をドイツ語に翻訳し、誰でも読めるようにしました。説教もドイツ語で語り、聖書のことばを説き明かしました。ルターの運動は、またたく間に世界中に広がりました。今では、部分訳を含めると3千以上の言語に聖書が翻訳されているそうです。500年以上経った今も、「聖書を読む運動」は全世界で続いています。日本でも多くのクリスチャンが今、この運動の参加者となっています。


 聖書は一人だけで読むと、分からないことがあります。勘違いもあるかもしれません。メッセージ(説教)の準備をする時、私は先ず一人で注意深く聖書を読みます。書かれた内容を正確に把握しようとします。いつ、どこで、誰が、何をどのようにしたのか。それは、なぜか。書かれた当時の状況を考えます。今の私たちにとって、どんな意味があるのかも考えます。何度読んでも、どうしてもよく分からないこともあります。聖書が書かれた時代や文化が、私たちのそれと大きく異なるからです。そうした違いを越え、聖書を理解するには、他の人の助けが必要です。私は注解書をいくつか読み、学者の先生たちによく助けを求めます。身近な人に意見を聞く場合もあります。皆さんも是非、自分で聖書を読んで下さい。読んで学んだことをみんなで分かち合いましょう。そのようにして私たちは、みんなで一緒に聖書を味わうことができるのです。

 日本の多くの人に理解されにくいエピソードの一つは、イエス・キリストの奇跡です。福音書を読むと、次から次へと奇跡が出て来ます。多くの人はこれを読むと、でたらめな作り話と思うかもしれません。でも書いた人たちにとっては、でたらめでも作り話でもなかったのです。旧約聖書の延長線上にある超マジな話です。1世紀のユダヤ人にとって、旧約時代の奇跡は常識でした。――神のことばにより、世界が造られた。モーセは、紅海を2つに分けた。エリヤやエリシャが祈ると、死んだ人がよみがえった。ダニエルの友人たちは、燃えさかる火の中でも焼け死なかった。――ユダヤ人たちは、神の奇跡を信じていたのです。「いつかメシアが来て、イスラエルを諸外国の支配から奇跡的に解放する。」彼らは、その日を待望していました。イエス様の奇跡は、そんな彼らの期待にまさに応えるものだったのです。

 聖書を読む私たちは、彼らの期待感を追体験することができます。旧約時代の神の奇跡。新約時代のイエス様の奇跡。それらの目撃証言が、聖書に記されています。その証言を読み、神の奇跡を私たちも信じることができます。イエス様は、昔も今も将来も驚くべき奇跡を行われると期待することができます。聖書を一緒に読む仲間とともに、奇跡を待望することができるのです。

「イエスはこれを聞いて驚き、ついて来た人たちに言われた。『まことに、あなたがたに言います。わたしはイスラエルのうちのだれにも、これほどの信仰を見たことがありません。』」(マタイ8:10、新改訳2017

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