奇跡をともに体験する
年齢を重ねるにつれ、誰かが亡くなった知らせを聞く回数が増えるようです。先週は、若い頃からの友人2人が相次いで他界しました。そのうちの一人は、私の高校時代の友人です。ここしばらく闘病生活だったようです。今年6月、東京の同窓会で、彼の病状がかなり進んでいると耳にしました。8月に帰省した時、久しぶりに本人と会い、話をする機会を得ました。高校の1年と3年の時、私たちは同じクラスでした。私はバレー部でしたが彼はサッカー部で、体が大きく、明るく元気なクラスの人気者でした。(受験の時は、私が休み時間に必死に勉強していると、彼はよく邪魔しに来ました。笑)大学を出て歯医者さんになり、高校時代から好きだったらしい同期のマドンナの一人と結婚。3人のお子さんに恵まれ、仕事も順調そうでした。しかし先月会った時、彼はかなり痩せ細り、車椅子の上で辛そうにしていました。言葉もあまり出て来ませんでした。私は少しだけ話をして、彼のために短く祈りました。それが、彼との最期のお別れになりました。
この世の人生には、限りがあります。伝道者の書3章の初めに、こんなことばがあります。「すべてのことには定まった時期があり、天の下のすべての営みに時がある。生まれるのに時があり、死ぬのに時がある。」私たちがこの世で過ごす期間は、生まれるずっと前から創造主なる神に定められています。その長さは「神のみぞ知る」で、自分では何歳までか分かりません。ある人は、たいへん長生きします。私の祖母は102歳まで生きました。人生100年時代の先取りでした。体は丈夫でしたが、晩年は認知症が進み、自分の家族も全て忘れていました。思ったより早く人生を終える人もいます。私の祖父や叔父は60代、父はちょうど70歳で亡くなりました。認知症になる間もありませんでした。私も来年還暦です。人生の第4コーナーを回りつつあるように感じます。(競馬好きなある友人は、こう言っていました。「馬は、そこからムチが入ります。」笑)
考えてみると、この世に生まれ、生きていること自体が奇跡です。「子供ができた」と昔、妻から伝えられた時、私は実に不思議な感じがしました。最初は単細胞の受精卵が、母親のお腹の中で細胞分裂を繰り返し、少しずつ大きくなります。暫くすると心臓ができ、鼓動を始めます。目や耳や口ができます。手や足もできます。10ヶ月の準備を経て、「この世デビュー」をします。その後もどんどん大きくなり、立ち上がり、歩き始めます。そのうち言葉も話し始めます。友達と一緒に遊び、勉強し、いつしか親元からいなくなります。小さな一つの細胞が、複雑な仕組みを持つ大人の体となり、自立して生きるようになるのです。このプロセスは、驚くべき奇跡です。大切な人と出会い、さらに次の世代が生み出される奇跡も起こります。私たちは日々この奇跡を目撃し、体験しているのです。
この奇跡は、遙か昔に神が全てを創造して以来、ずっと続いています。創造主なる神は、奇跡の神です。生命の誕生以外の奇跡を行われたとしても、何の不思議もありません。イエス・キリストは、数々の奇跡をなさいました。聖霊の力により、誕生されました。病を癒し、悪い霊の呪縛から人々を解き放ちました。5つのパンと2匹の魚で、数千人のお腹を満たしました。水の上を歩くこともありました。十字架で死んだ後、3日目によみがえられました。これらの奇跡によりイエス様は、ご自身が創造主なる神で間違いないことを示されたのです。イエス・キリストを信じる人は、神の奇跡に目が開かれます。奇跡的な癒しがあってもなくても、私たちの人生には驚くばかりの奇跡が満ちていることを知ります。私たちは、神が起こされるそれらの奇跡をともに体験することができるのです。
「舟の中にいた弟子たちは『まことに、あなたは神の子です』と言って、イエスを礼拝した。」(マタイ14:33)
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