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2019年10月

2019年10月27日 (日)

子どものように身を低くする

 私はコーヒー党ですが、抹茶も好きです。時々、抹茶が飲みたくなり、お店で注文します。一緒に出てくる美味しいお菓子も楽しみです。妻も時々、家で抹茶をたててくれます。新年に家族が集まった時や、海外から特別なお客様が来た時などです。(わが家も赤坂御所のようです!笑)妻は高校や大学の頃、茶道部で、先輩やお茶の先生から手ほどきを受けたそうです。(ガールズトークも楽しかったとのこと。)でも私は、大学を終えるまで茶道と縁がありませんでした。大学卒業後のある時、幸運なことに裏千家の先生からお話を伺う機会がありました。クリスチャンになる少し前です。初めて聞く話ばかりで、たいへん興味深く伺いました。

 深く印象に残った話の一つは、お茶室の「にじり口」です。にじり口とは、お茶室の狭い入り口のこと。縦横とも60数センチで、余計な物を身につけたまま入ることができません。昔、武士たちは、刀を外に置いて中に入ったそうです。入り口で手をつき、膝をつき、そのままの姿勢で少しずつ中に進みます。この奇妙な入り口を茶室に取り入れたのは、千利休だそうです。利休は、キリシタンの教えの影響を受けたとも言われます。にじり口は「狭い門から入りなさい」という聖書の教えに由来する、と考える人もいます。いらない物を捨て、頭をたれて狭い門から入ると、そこに日常生活と異なる空間があります。普段偉い人もそうでない人も、にじり口を通ればみな平等。先日即位した天皇も、晩餐会に出た来賓も、テレビで見るだけの一般庶民も、茶室に入ると同じ立場です。お茶とお菓子とお話を一緒に楽しむことができるのです。

 千利休のアイデアを面白がったのは、織田信長だそうです。お茶席では平等という話を聞いた信長は、「なかなか考えたな」と上機嫌になったとのこと。信長は利休にこう言いました。「茶の湯は面白い。俺も習おう。お前が師匠になれ。」これに対し豊臣秀吉は、天下をとる前と後で態度を一変させたそうです。信長の家来だった時は、主君と同じく、にじり口から茶室に入りました。しかし信長の死後、自分が天下人になると、こう言ったそうです。「今後、自分はにじり口から入らない。」お茶席でも、秀吉は自分の立場を変えたくなかったのでしょう。「狭い門から入りなさい」という教えも嫌だったようで、秀吉はキリシタンの迫害を始めました。

 イエス・キリストは、天のお茶室のにじり口です。この入り口でへりくだり、手をつき、膝をつく人は、お茶室の中に入れてもらえます。中に入ると、全ての人が平等です。偉い先生も「名も無い信徒」も関係ありません。社会的な立場やお金の有る無しも関係ありません。天のお茶席に集う人は、「ワンチーム」! にじり口で手をつき、膝をついて入室を許された仲間同士です。そこに入った人は、人に威張り散らせません。自分の凄さの自慢話もできません。お茶室に入るため、みな身を低くしているからです。子どものように身を低くすれば、どんな人でも天のお茶室に入って平等になれる――これは大きな恵みです。私たちを茶会に招いた神は、低姿勢の人をほめて下さいます。天のお茶室で私たちは、最高のお茶とお菓子とお話をいつまでも楽しむことができるのです。

「まことに、あなたがたに言います。向きを変えて子どもたちのようにならなければ、決して天の御国に入れません。ですから、だれでもこの子どものように自分を低くする人が、天の御国で一番偉いのです。」(マタイ18:3-4)



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2019年10月20日 (日)

神のことばに聞き従う

 神のことばに聞き従う人は、幸いです。人生が大きく変わり、周りの人も変えられます。聖書には、そんなエピソードがたくさん記されていいます。ノアは神のことばを聞き、人からバカにされるようなことを始めました。巨大な箱舟作りです。ノア以外の人には、神のことばは聞こえなかったようです。なぜ箱舟を作るのか、ほとんどの人は全く理解できませんでした。大洪水が来るとノアが警告しても、聞く耳を持ちませんでした。逆にノアに忠告し、役にも立たない物を作って人生を無駄にするなと言う人もいたかもしれません。でも想定外の大洪水が起きた時、箱舟だけが救いになりました。神のことばに従ったノアだけが、自分の命を守る行動をとったのです。そのことばを信じた彼の家族も、命が救われました。ノアの箱舟は、救い主の働きの象徴でもあります。

 アブラハムは神のことばを聞き、見ず知らずの国へ旅立ちました。家族の中には、反対する人もいたかもしれません。後期高齢者になって、なぜ新しいことを始めるのか。それより故郷にとどまり、祖国のラグビーチームを一緒に応援しよう――などと言う人もいたかもしれません。(南アフリカ戦もあったかな?笑)でもアブラハムは、雑音に耳を貸しませんでした。神のことばに従い、新たな世界を目指したのです。その行動は彼自身の祝福となり、全世界の祝福にもつながりました。彼は経済的に祝福され、跡継ぎの子が与えられました。彼の子孫は星の数ほどになり、世界中で活躍するようになりました。その子孫の一人は救い主として誕生し、全世界の人を神の約束の地へ招待して下さったのです。

 モーセは神のことばを聞き、決して帰りたくなかった場所に帰りました。エジプトの王宮です。彼はそこから逃げ、身を隠していました。殺人犯として死刑になりそうだったからです。でもある日、モーセは神からこう言われたのです。「エジプトの王宮に戻り、ファラオと話をしなさい。」そこに行くだけでも嫌だったのに、さらにこう命じられました。「ファラオが支配するユダヤ人奴隷全員を解放しなさい。」モーセは、神に言いました。「なんでやねん。そんなん無茶苦茶や。―― (関西弁ではなかったと思いますが。笑)――自分には絶対無理です。誰か別な人を遣わして下さい。」でも結局、モーセは神のことばに従う決心をしました。勇気をもって王宮に行くと、数々の奇跡が起きました。そして、ユダヤ人全員をエジプトから救い出したのです。神のことばに従ったモーセは、過去の大失敗による心の傷がおそらく癒されました。奴隷の解放は、救い主の働きを表す象徴的な出来事にもなりました。


 私たちも神のことばに聞き従うと、人生が変わります。神は聖書と聖霊を通し、今も私たちに語りかけて下さいます。私も神のことばを聞き、イエス・キリストを信じ、牧師になる決心をしました。両親は最初、猛反対しました。友人たちには、理解されませんでした。見ず知らずの土地に住むようになりました。帰りたくない場所にも帰りました。失敗もありました。でも神の憐れみにより、私と周りの人たちは祝福を受け取りました。神のことばに聞き従うなら、誰でも神に祝福されます。祝福された人を通し、周りの人も祝福されるのです。

「彼がまだ話している間に、見よ、光り輝く雲が彼らをおおった。すると見よ、雲の中から『これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞け』という声がした。」(マタイ17:5)

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2019年10月13日 (日)

自分の十字架を負う

 今年の夏、74年ぶりに里帰りした十字架があります。長崎の浦上天主堂で被爆した十字架です。原爆が落ちた時、教会堂は爆心地から500メートル以内にあり、原形をとどめないほど破壊されました。瓦礫に埋もれた十字架を発見したのは、進駐軍の米海兵隊員ウォルター・フックさん。彼はカトリックで、原爆投下に疑問を抱いていたようです。戦地から帰国した当時の長崎司教・山口愛次郎さんと親しくなり、彼はこの十字架を譲り受けました。米国に持ち帰り、戦友たちの写真とともに、十字架をリビングルームに飾ったそうです。その後、米オハイオ州に平和資料センターができると、十字架はそこに寄贈され、展示されました。

 その平和資料センターを設立したのは、バーバラ・レイノルズさんという女性です。彼女は、平和主義者として知られるクエーカーの一人でした。(以前5千円札の顔だった新渡戸稲造と同じ信仰です。)彼女は終戦後に広島を訪れ、原爆の被害を調査しました。あまりの悲惨さに衝撃を受け、反核平和運動を始めたそうです。平和資料センターには、ヒロシマとナガサキに関する世界有数の資料が集まりました。浦上の十字架が展示されると、長崎からはるばる見に来る人たちもいました。

 数年前、ターニャ・マウスさんが同センター所長になりました。彼女は、日本から来る訪問客の様子が気になり、あの十字架はやはり長崎に戻すべきだと考えました。こうしてとうとう今年8月、返還の時が来たのです。ターニャ・マウスさんは、こう語りました。「この十字架は戦争の残忍さを示し、核兵器使用の中止を呼びかけています。」十字架を受け取った現在の長崎大司教・高見三明さんは、こう言ったそうです。「(この十字架は)戦争の悲惨さだけでなく、罪悪を克服して生きる勇気と希望を与えてくれる。」

 十字架は、もともと死刑執行の道具でした。マケドニアのアレクサンダー大王は、ペルシャ人を通して十字架刑を知ったそうです。ローマに十字架刑が伝わったのは、宿命のライバルだった北アフリカの都市カルタゴからとのこと。十字架による死刑執行は屈辱的で、見せしめの意味がありました。ローマ市民権を持つ人が十字架刑になることは、まずなかったようです。使徒パウロは十字架ではなく、首をはねられたと伝えられています。十字架で処刑されたのは、おもに市民権のない人。奴隷や強盗、暗殺者、地方の反逆者たち等です。

 イエス様はユダヤ人の王、つまりローマへの反逆者として、強盗と一緒に十字架につけられました。弟子のペテロやアンデレも十字架につけられました。(日本では、長崎で殉教した多くのキリシタンが十字架刑でした。)彼らは時の権力者に反逆者とみなされ、人々の前で見せしめにされたのです。十字架刑は、聖書の中で別な意味もありました。木につるされた人は、神に呪われているという意味です。これだけマイナスイメージのある十字架が勇気と希望のシンボルになったのは、キリストによる奇跡の一つと言うことができます。

 イエス・キリストは、全人類を代表して十字架を負うため、この世に来られました。十字架を負うことは、イエス様が果たすべき大切な使命でした。私たち一人ひとりも、それぞれ十字架を負うために生まれています。この世で果たすべき大切な使命が与えられているのです。例えば、悲しむ人や苦しむ人のため祈り、互いに励ます使命。無益な戦いをやめ、平和な関係を築く使命。イエス様から頂いた新しいいのちの希望を、勇気をもって語る使命です。迫害や屈辱にもくじけずに自分の十字架を負う人を、神は喜んで下さいます。

「それからイエスは弟子たちに言われた。『だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。』」(マタイ16:24)

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2019年10月 6日 (日)

天の真理に目が開かれる

 全盲なのに、年に何十回も美術館通いをする人がいるそうです。白鳥建二さんという50歳の男性です。生まれつき弱視で、10歳の頃、完全に視力を失いました。絵本や漫画を見た記憶はなく、色も概念的に理解するだけだそうです。その彼が、なぜ美術館通いを始めたのか。きっかけは、大学の頃好きだった女性の言葉でした。(好きな人の影響は大きいですね。)「美術館に行きたい」と、その人が言ったのです。それを聞いた瞬間、白鳥さんはひらめきました――“一緒に行けば、デートできる!”「じゃあ俺も行く」と、彼は言いました。生まれて初めての美術館です。その時鑑賞したのは、レオナルド・ダ・ビンチの解剖図展。連れの彼女が、一つ一つの作品の前で解説してくれました。「こんなものが見えて、面白いよ。」デートの楽しさと美術館の楽しさで、白鳥さんは「なにもかもにワクワク」しました。「盲人っぽくないことをするのは面白い」と感じたそうです。それが、彼の人生の大きな転機になったのです。

 「せっかくトライするなら、自分一人でやろう」と、白鳥さんは一念発起しました。美術館に電話を掛けまくり、こう言いました。「自分は全盲だけど展覧会を鑑賞したい。誰かにアテンドしてもらい、作品の印象などを言葉で教えてほしい。」こうして美術館巡りが始まると、確かにそれまで経験しなかった面白いことが起こりました。最初に訪れた美術館では、ゴッホ展を3時間鑑賞しました。アテンドしてくれた人は、最後に白鳥さんに対してお礼を言ったそうです。「今まで、こんなにじっくり作品を見る機会はなかったから、とても楽しかったです。ありがとうございました。」別の美術館で印象派の作品を鑑賞した時は、アテンドした人が驚くべき事実を発見しました。絵の説明を始めた時、それまで湖だと思っていたものが、実は原っぱだと気づいたのです。“目が見える人も、実はよく見えていなかった!”ーー白鳥さんはこの事実を知った後、いろいろなことが気楽になったそうです。

 社会で指導的な立場にある人は、多くの場合、自分には物事がよく見えていると考えます。よく見えると思う人が、よく見えなさそうな人を教え導こうとするのです。(誰もが気をつけないといけませんね。)イエス様と対立したパリサイ人や律法学者たちが、まさにそんな人々でした。彼らは1世紀ユダヤ人社会のオピニオンリーダーでした。パリサイ人は律法の教えと先祖の言い伝えを固く信じ、こう主張しました。「それらを守らなかったからイスラエルの国は滅び、外国に支配されている。だからユダヤ人はみな、律法と言い伝えの両方を忠実に守るべきだ。」律法学者は、彼らの中心にいた律法の専門家でした。律法の教えを学び、解釈し、細かいルールを定めました。ユダヤ人の歩むべき道がよく見えると、パリサイ人や律法学者は自負していました。だから彼らは、イエス様がその道を歩まないと、寄ってたかってバッシングしたのです。

 パリサイ人や律法学者には見えないことがあると、イエス様は言われました。神に本当に喜ばれることは何か、彼らは見えていなかったのです。人は見た目で判断します。でも神は心を見られます。人が決めたルールを完璧に守ったら、人は褒めてくれるかもしれません。立派な人だと高く評価されるかもしれません。でも心が神から離れているなら、神はそれを見て悲しまれます。天の御国では、残念な評価になります。イエス様は、この天の真理を私たちに教えられました。イエス・キリストを信じる人は、聖霊なる神の導きにより、天の真理に開眼することができます。イエス様は、この特権を私たちに与えに来られたのです。

「彼らのことは放っておきなさい。彼らは盲人を案内する盲人です。もし盲人が盲人を案内すれば、二人とも穴に落ちます。』」(マタイ15:14)

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