祝宴の喜びをシェアする
最近は、祝宴の話題が多いですね。感謝祭やクリスマスの話ではありません。日本政府が開催した正式な宴会です。先月は、新天皇の即位宣言後に祝宴が4回あり、国内外から総勢2,000人以上の人が参加しました。今月の大嘗祭の後は、祝宴が2回で参加者は570名でした。その全てに参加された皇室の方々は、さぞお疲れだったと推察します。天皇の即位とは関係のない、季節外れの祝宴も話題になっています。桜を見る会です。安倍総理が1万8千人を招待し、新宿御苑で花見を楽しんだとのこと。その前夜も高級ホテルで豪華な立食パーティー。参加した人たちは、嬉しかったのでしょうね。多くの人がブログ等で発信し、その後なぜか投稿を削除しました。何のための祝宴だったのか、誰がどのように招待されたのか、前夜祭では誰がいくら払ったのか等、いろいろ注目を浴びています。
日本初の花見の宴は、天皇が始めたそうです。今から1200年以上前、神泉苑という京都のお寺が会場でした。京都に遷都されて間もなくで、天皇が権力の中心にいた頃です。主催した嵯峨天皇は桜好きで、花見は定例行事になったそうです。その後、花見の習慣は貴族の間で急速に広まり、一般庶民にも広がっていきました。500年ほど後、吉田兼好は代表作のエッセイ「徒然草」でこう語っています。「貴族は桜を上品に観賞する。でも田舎者は騒いで酒を飲み、マナーも悪い。」さらにその300年ほど後、豊臣秀吉は、権力の絶頂期に盛大なお花見会を2回開催しました。絶大な権勢を誇るためだったのでしょう。1回目は奈良県の吉野山で、総勢5,000人を集め、5日間の宴会を催しました。2回目は京都の醍醐寺です。(今は世界遺産とのこと!)秀吉はそこに700本の桜を植え、1,300人を招待しました。この花見会の5ヶ月後、秀吉は死去します。桜が散るように、豊臣一人勝ちの時代が終わったのです。(花見は危険ですね。笑)
神の国は、聖書の中で祝宴に例えられています。桜ではなく、いのちの木を見る宴です。地上のどんな国にも勝る、天国のおもてなしがあります。この世のどんなホテルや寿司屋(!)にも勝る、最高の料理が用意されています。そこに招かれるのは、ごく一部の人ではありません。政治家のお友達や後援会の人ではありません。何かの分野で素晴らしい功績を残した人というわけでもありません。全ての人がそこに招かれています。神は全ての人を造られ、その全員に天の祝宴の素晴らしさを味わってほしいのです。でも残念ながら、招待状をもらっても来ない人がいます。祝宴の恵みを知らない人や関心のない人、あるいは他のことにとらわれている人等です。神はその絶大な権勢を誇るため、全員を強制参加させることも、もちろん可能です。でも、そうはされません。一人ひとりが自らの意思で喜んで参加してほしいと、神は願われているからです。祝宴への参加を自ら選ぶ人が、出席者として選ばれるのです。
イエス・キリストは、天の祝宴に私たちを招待しに来られました。実は、祝宴の参加資格を満たす人は誰もいません。天の祝宴の厳しいセキュリティーを、誰も通過できないのです。天の王であるイエス様は、そんな私たちに近づき、お友達になって下さいました。イエス・キリストを信じる人なら、誰でもお友達にして下さるのです。イエス様からいただく招待状を持参する人は、祝宴参加者として選ばれています。天の祝宴の喜びを堂々とシェアし、世界中に発信できるのです。(投稿を削除する必要もありません!)
「招かれる人は多いが、選ばれる人は少ないのです。」(マタイ22:14)
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