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2020年1月

2020年1月26日 (日)

愛を人生の目標とする

 人生に目標のない人は、どのくらいいるのでしょう、2年前、日本の20~60代の男女1,357名に聞いた人がいます。人生に目標がないと答えた人は、全体の42.2%。年代別に見ると30代女性、40代男女、50代男性の半数近くが、目標がないと答えました。その年齢層は、目標を持ちにくい年代なのでしょうか。(いわゆる「中年の危機」?)

 20代のある男性は、こう言ったそうです。「それなりに働いて、そこそこの給与がもらえて、休みもまあまあ取れればそれでよい。目標がなくて困ることもない。」40代の女性は、こう言いました。「今はそれなりに恵まれた環境にいて、楽しく幸せな生活をしている。その時、その時に良い選択をして結果的に幸せに生きられれば、私自身は満足だ。」このお二人は意識せずに、人生の目標となりうる重要なポイントを語っているように思います。「それなりの仕事、そこそこの給与、まあまあ取れる休み、それなりに恵まれた環境、楽しく幸せな生活」等です。そのうちどれかが欠けていたら、それを得ることや保つことが、目標の一つになるかもしれません。

 目標を持つことについて、人の意見は2つに分かれるようです。人生の目標はあった方が良いという意見と、なくて良いという意見です。あった方が良いという人は、例えばこう言います。「目標を持つと、生きがいが生まれる。人生が豊かになり、色鮮やかな毎日になる。目標達成のため努力し、成長できる。死ぬ間際に良い人生だったと思える。」一方、目標はなくて良いという人は、例えばこう言っています。「多くの人は人生の目的が分からないので、目標も立てようがない。その時その時にやりたいことをやれば良い。生きている今この瞬間を楽しめば良い。」どちらの意見にしても、不幸でつまらない人生が良いという人はいないようですね。人生には幸福感、達成感、満足感等が必要だとする人が、多数派のように思えます。

 聖書は、人生には目標があると語っています。神の愛という目標です。神は、限りなく大きな愛に満ちたお方です。その愛をぎゅっとまるごと詰め込んで、人が造られました。「神の愛の結晶」です。ところが人は神との関係が切れ、神の愛を忘れてしまいました。人同士の関係にもひびが入りました。争いが起こり、怒りや憎しみが生まれました。疑いや不安、恐れも生まれました。弱い人は置き去りにされ、自分の仲間さえ良ければそれで良いという傾向が強まりました。私たちは今、そんな壊れた世界に住んでいます。この世界は、神の願われる理想的な世界からかけ離れています。愛に満ちた神は、愛に欠けた人の世界を見て悲しんでおられます。全ての人が人生本来の目標を再発見してほしいと、神は願われています。神の完全な愛という大きな目標です。

 イエス・キリストは、私たちが人生の目標を再発見する助けをしに来られました。私たちの心をきよめ、神の偉大な愛に気づかせて下さいます。私たちの良心を回復させ、愛を行う動機を与えて下さいます。十字架の愛を私たちに示し、信仰の道を歩ませて下さいます。キリストの愛を人生の目標にする人は、神の愛に満ち溢れた祝福を受け取れます。その人は充実感や達成感、満足感のある幸いな生き方ができるのです。

「この命令が目指す目標は、きよい心と健全な良心と偽りのない信仰から生まれる愛です。」(Ⅰテモテ1:5)



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2020年1月19日 (日)

永遠の世界に備える

 「死後の行き先が天国か地獄かだったら、あなたはどちらに行くと思いますか?」5年前、日本でそんなアンケートがあり、8,322人が回答しました。55%の人は、地獄と答えたそうです。なぜでしょう。理由は例えば、「生き物を殺している。善い行いをしていない。隠れて悪いことをしている。不倫している」等。一方、天国に行くと思う人は、44%でした。理由は、「虫や動物に優しくしている。ブラック企業でキツイ仕事を頑張った。人を傷つけていない」等。つまり、善いことをすれば天国、悪いことをすると地獄という考え方です。

 年齢別に見ると、地獄に行くと言う人が最も多いのは20代で、63%。20代に悪さをする人が多いのか、それとも善悪に敏感な人が多いのか・・・。30代以降は天国に行くと言う人が増え、60代では過半数になります。60代のある女性は、こう言ったそうです。「歳をとって死が現実的になると、地獄に行くとは考えたくない。」(笑)これも「楽観バイアス」の一種でしょうか。危険があっても自分は大丈夫だと思う――その傾向は、年齢とともに強まるのかもしれません。

 日本では伝統的に、死んだら別の世界に行くと考えられて来ました。神道で言う「黄泉の国」です。体が朽ち果て、恐ろしい姿になる国。「あの世」とも呼ばれる、終わりなき世界です。死者の霊は、「あの世」で必ずしも幸せになりません。不幸な霊は「この世」に働きかけ、災いをもたらすと、多くの人が信じました。そのため人々は死者の霊の幸せを願い、祈ったのです。仏教が日本に伝わると、死者はさまざまな世界に何度も生まれ変わると、人々は信じました。その苦しみから逃れるため、善い行いや修行をする人もいました。

 その後、さらに新たな教えが広まりました。善い行いや修行がなくても、念仏を唱えれば極楽浄土に行けるという教えです。今では多くの人が、こう信じています。「死んだ本人が何もしなくても、遺族が念仏を唱えれば、死者は極楽浄土に行ける。」死者はそこで祖先の霊と一体になり、いつまでも幸せに暮らすと考えられています。最近はキリスト教の影響からか、死んだら天国だと言う人も多いようです。(「あの人は地獄に行った」と言う人は、あまりいません。)あの世と極楽浄土と天国が、都合良くミックスされているようです。

 聖書の教える「天の御国」は、あの世でも極楽浄土でもありません。創造主なる神が王として全てを治める国のことです。「神の国」とも呼ばれます。神は、この永遠の国の建設を永遠の昔に計画されました。その国で一緒に住む人類を創造し、いつまでも楽しく過ごそうと、神は考えられたのです。途中で人が裏切ることも、ユダヤ人がしくじることも、最初から全てお見通しでした。でも神は人類を心から愛し、永遠の国の計画を着々と進められました。人類の代表としてアブラハムを選び、彼とその子孫たちに永遠のビジョンを語り続けられました。人が約束を破っても、神は必ず約束を果たすと教え続けられました。永遠の国を完成するため、救い主が来るとも告げられました。そして予定通り、イエス・キリストが来られ、永遠の計画は完成に近づいたのです。

 イエス・キリストを信じる人は、永遠の祝福の世界に入ることができます。全てが完成した天の御国です。そこは、死んだら誰もが入る国ではありません。遺族が何十年もとりなして祈ったら、死者が入れる国でもありません。善いことをした人が入る国でもありません。その国を造りつつある神が、入国の条件を定めておられます。イエス様を信じ、このお方に従って生きることです。イエス様は私たちの歩みを支え、あらゆる災いへの勝利も与えて下さいます。永遠の世界から見れば、今の私たちの世界は一瞬に過ぎません。でもその一瞬をどう過ごすか、どんな準備をするかが、永遠の違いをもたらすのです。

「ですから、目を覚ましていなさい。その日、その時をあなたがたは知らないのですから。」(マタイ25:13)

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2020年1月12日 (日)

大変動に備える

 この年末年始、国内外で大きな動きがありました。3週間ほど前の12月20日、イランのロウハニ大統領が来日。米国トランプ政権が2年前に離脱した核合意維持への協力を、日本に求めました。安倍首相はその時、ロウハニ大統領に自衛隊の中東派遣計画を伝え、理解を求めたそうです。中東を行き来する日本船舶の安全確保という名目です。1週間後の27日、安倍内閣は自衛隊の中東派遣を閣議決定。日本全体がお休みモードに入る直前のタイミングです。メディアも休みに入るためか、あまり大きく扱わなかったようでした。トランプ米大統領は半年前、イラン近海を通る船の安全確保のため、日本を含む65カ国に協力を要請しました。今回の自衛隊派遣は、この要請に応じる結果となりました。

 中東では、米国とイランの報復合戦が続きました。自衛隊派遣が決まったその日、米軍が駐留するイラク北部の基地に30発以上のロケット弾が撃ち込まれ、米国人1名が死亡、4名が負傷。イランの支援を受ける武装組織「カタイブ・ヒズボラ」の仕業だと、米国は考えました。2日後の12月29日、米軍は彼らの拠点5カ所を空爆。25人が死亡、55人以上が負傷。さらにその2日後の31日と翌1月1日には、カタイブ・ヒズボラを中心とする抗議デモが、2日間にわたりバグダードで行われ、数十人が米大使館の敷地内に入って火をつけ、一部を破壊。すると1月3日、トランプ大統領の指示により、米軍はバグダード空港にロケット弾を発射。カタイブ・ヒズボラの司令官とイランの軍司令官を殺害。このニュースは、世界中に大きな衝撃を与えました。先週のイランによる報復爆撃の後、ひとまず応酬は収まったかのようですが、中東を往来する日本のタンカーや自衛隊等は心配ですね。

 イランの司令官が亡くなった3日の夜、世界各国のツイッターでは、「イラン」や「第3次世界大戦(WWIII)」という言葉がトレンドワードになりました。同じ頃、日本のトレンドワードは「#BABA嵐」だったそうです。アイドルグループ「嵐」がババ抜きをするTV番組の「新春豪華3時間スペシャル」です。ババ抜きは、トランプつながりだったのでしょうか(苦笑)。

 人類は、数え切れないほど戦争を経験してきました。聖書にも、多くの戦争が記録されています。アブラハムと甥のロトは、戦争に巻き込まれました。ロトは外国軍の捕虜となり、アブラハムが戦いの末に彼を救出しました。モーセはヨシュアを司令官に任命し、荒野でアマレク人と戦いました。モーセ自身は後方で祈り、勝利に貢献しました。ユダヤ人は約束の地に入る時も、カナン人たちと戦争をしました。約束の地を手に入れた後も、戦争は続きました。ギデオンはミディアン人と、サムソンはペリシテ人と、ダビデは何カ国もの人々と戦いました。ソロモン時代の平和は、長く続きませんでした。国は2つに分裂し、北の国はアッシリアに、南の国はバビロニア(今のイラク)に攻め滅ぼされました。その後はペルシア(今のイラン)、ギリシア、ローマが戦争に勝利し、世界帝国を築きました。人類の歴史は、まさに戦争の歴史だったのです。

 イエス・キリストは、戦争を永遠に終わらせるため、この世に来られました。血塗られた人類の歴史はいつか終わり、永遠に平和な神の国が完成します。イエス・キリストを信じる人は、誰でもその平和を手にできます。どんな大変動が起きても、私たちはキリストによる永遠の平和を信じ、心待ちにできます。その準備を今からすることもできるのです。

「民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、あちこちで飢饉と地震が起こります。しかし、これらはすべて産みの苦しみの始まりなのです。」(マタイ24:7-8)

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2020年1月 5日 (日)

祝福の道を歩む

 皆さんは、今年をどんな年にしたいですか?ニューヨークでは毎年年明けに、ある場所が大混雑するそうです。サラダ専門店です。今年は健康的な食事をしようと、年明けに決意する人が多いのです。「ハンバーガーやピザなど、ジャンクフードは良くない。サラダを食べなきゃダメだ・・・。」そう考える人が、新年になるとサラダ店に殺到するとのこと。昨年は、あるサラダ店の店内がカオス状態になりました。店に入れない人が、100人以上行列しました。普段からヘルシーな食事をする常連客の中には、「大迷惑だ」と怒る人もいたようです。同じ頃、ファストフード店はガラガラになります。でもこの状態は、長く続きません。ほとんどの人は、またジャンクフードに戻るのです。(笑)ある調査によると、米国で新年の抱負をやり遂げた人は、わずか8%だったそうです。

 日本は、どうでしょう?日本でも毎年、多くの人が新年の抱負を掲げます。例えば「仕事や勉強を頑張る。貯金する。ダイエットや運動をする。趣味を充実させる。彼氏や彼女をつくる。結婚する」等です。私も若い頃、そんな抱負を掲げました。やり遂げたことも、挫折したこともあります。「私、失敗しないので」といえる人は、それほど多くはなさそうです。最後までやり抜く人は、日本では12%という調査があります。なぜ、抱負は実現しないのでしょう?いくつか理由が思い浮かびます。第1に、抱負が現実離れしている場合。それは抱負ではなく、奇跡を信じる信仰です。(笑)もちろん、時には奇跡も起きます!第2に、抱負が心からの願いでない場合。一年の途中で、抱負などどうでも良くなります。第3に、抱負より大事なことがあった場合。もちろんその時は、大事な方を優先します。そして第4に、神のみこころでない場合。神の許可なくしては、何も実現しません。

 実は聖書は、挫折話のオンパレードです。出てくるのは、「しくじり先生」ばかり・・・。ある年の初め、アダムとエバは、今年も楽園で楽しく暮らそうと思っていました。でもその年、彼らは大ちょんぼして楽園から追い出されました。エジプトを脱出した翌年の初め、ユダヤ人は「今年はいよいよ約束の地だ」と期待したはずです。でも彼らもやらかして、計画は40年後に先送りされました。約束の地に入ったユダヤ人は、これからは平和で豊かに暮らせるだろうと思い描きました。でも彼らもしくじり、外国の武装勢力に度々襲われました。多くの人が死に、一年の収穫を失う年が何度もありました。ある年の正月、彼らは多くの日本人のように偶像の神々に手を合わせ、家内安全や商売繁盛を祈ったかもしれません。でもその年、彼らの国は滅び、多くの人が着の身着のまま、知らない国に連れ去られたのです。バラ色の一年にならなかった理由は、何だったのか。彼らが創造主なる神から離れ、祝福の道から外れたからです。

 アダムとエバ以来、全ての人が祝福の道からそれた生き方をしていました。イエス・キリストは、迷子になった私たちを祝福の道に連れ戻しに来られたのです。祝福の道を見分け、その道を歩き続ける力も与えて下さいました。聖霊の力です。イエス・キリストを信じる人は、聖霊の助けにより、祝福の道を歩むことができます。聖霊の導きにより、新年の抱負を立てられます。そして聖霊の力により、最後までやり抜くことができるのです。

「律法学者たちやパリサイ人たちはモーセの座に着いています。ですから、彼らがあなたがたに言うことはすべて実行し、守りなさい。しかし、彼らの行いをまねてはいけません。彼らは言うだけで実行しないからです。」(マタイ23:2-3)

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