神のみこころを願い求める
「なぜ自分はこんな目に遭うのか」と思うことが、時にはあるかもしれません。今は特にそんな状況です。コロナウィルスに感染し、症状が悪化する人がいます。その人の家族がいます。経済が停滞し、大きな被害を受けている人もいます。東欧のクロアチアでは先週、悪いことが重なりました。日曜の朝6時半、大地震が発生したのです。クロアチアの首相は、国民にこう呼びかけました。「感染拡大を防ぐため、人との間に距離を保ちながら屋外に避難してください。」避難するのも大変です。日本では、東京オリンピックの延期が決まりました。代表に決まった選手たちや大会関係者、チケットを買った人たちなどは今、大混乱です。「なぜこんな目に?」と思う人も、中にはいるかもしれません。
私たちの人生は、ある日突然、大荒れになることがあります。9年前の3月、私たちはそれを経験しました。その日は、いつもと同じように始まりました。大きな揺れを感じた瞬間、私は自宅のトイレにいました。夕方から都心部に出て、中学時代の同級生と会食の予定でした。メールが来て、予定はキャンセル。でもすでに都心部にいた友人は、帰宅難民になったようです。私たちの教会堂には、大きな被害はありませんでした。わが家では、お米やガソリンがなくなりそうでした。当時は、育ち盛りの子が2人いました。でも私が自転車で走り回った頃はもう、お米はほとんどの店にありませんでした。その頃、私は教団の代表でもあったので、そちらの対応にも迫られました。メディアは、悲惨なニュースを次々に報道していました。時間とともに死者や行方不明者の数が、どんどん増えました。「なぜ自分がこんな目に遭うのか」と思う人は、たくさんいたのではないかと推察します。
聖書にも、いきなり大きな災難に遭った人が出て来ます。先週ちょっとお話した、ヨブです。ヨブは、誠実で真っ直ぐな人でした。悪事に手を染めませんでした。7人の息子と3人の娘に恵まれ、経済的にも豊かでした。神に祝福され、平和で幸せに暮らしていました。ところがある日突然、立て続けに災いがやって来ます。財産を全て失い、子供たちは全員死亡。ヨブ自身も重い病気にかかりました。彼の妻はそれを見て、こう言いました。「神を呪って死になさい。」(私は自分の妻に「こうは言わないでくれ」とお願いしています。笑)ヨブの親しい友人が3人来ると、さらに追い討ちをかけます。お見舞いに来たのに、「災難は全てヨブの責任だ」と責め始めたのです。追いつめられたヨブは、ついにこう言いました。「私は何も悪くないのに、神がこうされた。」すると、神はヨブに答えられました。一言で言うと、こういう回答です。「おまえに何が分かる。」このことばを聞き、ヨブは悔い改めました。その後、彼の健康は回復し、財産は以前の2倍になりました。再び7人の息子と3人の美しい娘に恵まれました。神は人の思いを遙かに超える祝福で、ヨブの後半生を豊かに満たされたのです。
イエス様は、「なぜ自分がこんな目に」と思えるような苦難を耐え忍ばれました。全ての人の罪を代わりに背負い、十字架につかれたのです。それは、天の父のみこころでした。私たちの人生には、理解できないことがたくさん起こります。でも神は、人の思いを遙かに超える計画を持ち、全てを益として下さいます。どんな時にも全知全能の神に信頼し、みこころがなるように願い求めて行きましょう。
(ここまでは通常のブログで、礼拝メッセージの導入部。以下は、メッセージの後半部分になります。)
イエス様は、みこころを願い求める模範を私たちに示して下さいました。今日はマタイ26章を通し、神のみこころについて考えてみましょう。
第一に、神のみこころは私たちが神を礼拝することです(12-13節)。イエス様は、エルサレムのすぐ近くのベタニアまで来ていました。マルタ、マリア、ラザロの3人兄弟が住んでいた町です。その町で、ある女性がイエス様の頭に香油を注ぎました。弟子たちが「もったいない」と思うほど、非常に高価な香油でした。なぜ女性は、そうしたのでしょう。イエス様がメシア=油注がれた王だと、おそらく信じていたからです。イエス様に油を注いだのは、イスラエルの王でも祭司でも預言者でもありません。社会的に何の影響力も持たない、名もない一人の女性です。これは、当時のユダヤ人社会でイエス様が置かれていた危険な立場を象徴する出来事でした。まさに「埋葬の準備」だったのです。イエス様はイスラエル、そして全世界の王です。同時に苦難のしもべであり、全ての人のために命を捨てに来られました。イエス様に油を注ぐことは信仰の告白、礼拝の行為であり、イエス様はこの女性がしたことを喜ばれました。私たちも今、彼女の信仰に心を合わせましょう。イエス様をメシアと信じ、このお方を心から礼拝しましょう。
イエス様はその後、弟子たちと過越の食事をともにしました(27-28節)。最後の晩餐です。過越の祭りは、エジプトからの解放を祝うイスラエルの祭りです。今年は、あと10日ほどで始まります。モーセの時代、神はユダヤ人にこう命じられました。「家族ごとに一匹の羊を生け贄にしなさい。その血を家の門柱と鴨居に塗りなさい。その血を塗った家は、死の災いから救われる。」イエス様は、この過越の生け贄でした。イエス・キリストを信じる人は、神が新しい契約を結んで下さいます。キリストの血により、罪と死の呪いから救われる契約です。この契約を可能にするため、イエス様は自ら過越の生け贄になって下さいました。イエス様の尊い犠牲に感謝し、礼拝をささげましょう。私たちの礼拝する心を見て、イエス様は喜んで下さいます。
第二に、神のみこころは私たちが神に祈ることです(31節)。最後の晩餐の後、イエス様は祈るため、ゲッセマネの園に向かいました。ゲッセマネは、エルサレムの東側にあるオリーブ山の麓にありました。道すがら、弟子たちはイエス様とお話しする時がありました。これから何が起きるか、イエス様は弟子たちに教えて下さいました。弟子たちは、語られたことばに応答しました。でも、素直な応答ではありませんでした。私たちは祈りの中で、似たような体験をするかもしれません。祈っている時、神が私たちに語りかけて下さるのです。聖書のみことばを通して、語りかけられることもあります。私たちは、語られたみことばに素直に応答しましょう。祈りを通して神と対話することを、神は喜んで下さいます。
ゲッセマネでイエス様は、3度祈りの時を持たれました(39、42、44節)。3回とも、ほぼ同じ祈りでした。父のみこころを確認する祈り。そして、十字架で死ぬ覚悟を固める祈りです。私たちもさまざまな場面で導きを求め、みこころを確認する祈りをします。神を信じ、洗礼を受ける決心をする祈り。人生を左右する大きな選択肢がある時、神の導きと祝福を求める祈り。大きな困難に直面し、どうすべきか導きと助けを求める祈り。今は、まさにそういう時です。祈りを通し、私たちは神のみこころを知ります。神が導きを与えて下さいます。私たちが祈る時、神は喜んで聞いて下さるのです。
第三に、神のみこころは私たちが神を証しすることです(57-58節)。イエス様は逮捕され、大祭司の家に連行されました。それは、イエス様が選んだ道でした。つまりイエス様は、自ら望んで大祭司の家を訪れたとも考えられます。約束を必ず守られる、神の真実を証しするためでした。ペテロもイエス様について、その家に一緒に行きました。イエス様について行くこと自体は、神のみこころだったのかもしれません。私たちも、行くべき場所に聖霊が導いて下さいます。神の真実を証しする場所です。時には、思わぬ場所に導かれるかもしれません。日々、聖霊の導きを求めつつ、行動して行きましょう。
イエス様は、ここで重要な証言をしました(63-64節)。ご自身がメシア=油注がれた王であることを認めたのです。死を覚悟しての証言でした。残念ながらこの時、ペテロは勇気ある証言ができませんでした。自分はあの人を知らないと、3回言ったのです。それは、神を悲しませる言葉でした。皆さんなら、どうしますか。自分の力では、勇気をもって証言できないかもしれません。でも聖霊は、私たちに力を注いで下さいます。神に喜ばれる証言ができるよう、聖霊が私たちを助けて下さるのです。
イエス様が、みこころを願い求める模範を私たちに示して下さったことを感謝しましょう。私たちは神のみこころを求め、みこころを行う生き方をして行きましょう。
「イエスは再び二度目に離れて行って、『わが父よ。わたしが飲まなければこの杯が過ぎ去らないのであれば、あなたのみこころがなりますように』と祈られた。」(マタイ26:42)
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