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2020年8月

2020年8月30日 (日)

天与のことばを共有する

 コロナ禍の試練が続く中、「キリスト教会とは何か」、「教会はどうあるべきか」が今、問われています。インターネットだけでつながる教会は、教会と呼べるのでしょうか。もし呼べないとしたら、何が足りないのでしょうか。教会のアイデンティティと存在理由を、私たちは今一度、整理する必要があります。

 「教会」という呼び名は、「エクレシア(ἐκκλησία)」というギリシア語の日本語訳として造られました。(エクレアではないです。笑)エクレシアは、「呼び出された人々」という意味です。何らかの目的のため、神に呼び出された人々です。今日から何回かシリーズで、この「エクレシア=呼び出された人々」について考えてみましょう。

 クリスチャンでない人は、教会と言うと、十字架のついた洋風建築を思い浮かべる人が多いかもしれません。信仰を持つ前の私も、そうだったように思います。私が育った家はほとんど無宗教で、教会とのつながりもほぼ皆無でした。ただ近所にルーテル教会があり、私はそこの幼稚園や日曜学校、英語教室に通いました。教室に行く途中、誰もいない礼拝堂内を通り抜けると、子供ながら厳かな雰囲気を感じました。白壁以外は、扉も天井も窓枠も床もダークブラウンだったと記憶しています。整然と並ぶ木のベンチも、重々しいダークブラウンでした。壁の高い所に、厳粛な表情をしたキリストの肖像画がありました。私にとって教会と言えば、その静けさと重々しさに満ちた、洋風の教会堂だったのです。

 ところが洗礼を受けた直後、教会とは建物ではなく、神に呼び出された人々だと聞きました。イエス様は大工でしたが、「わたしの教会を建てる」と言われた時、世界中に立派な教会堂を建てるという意味ではなかったのです。ペンテコステの日、エルサレムに誕生した教会にも、教会堂はありませんでした。人々は神殿や仲間の家など、どこでも集まりました。どこに集まろうと、神に呼び出された人々は「教会」だったのです。

 新約聖書はギリシア語で書かれましたが、実際にイエス様が弟子たちに話したのは、アラム語かヘブル語だと言われます。イエス様が「教会」と言った時、それは外国語ではなく、弟子たちが理解しやすい、よく知る言葉だったはずです。旧約聖書で「エクレシア」に相当するのは、「カハール(קָהָל)」というヘブル語の単語です。日本語では「集会」「集い」「群れ」などと訳されます。つまりイエス様は、「わたしの集会を建てる」と弟子たちに言われたのです。

 旧約時代の最も重要な「集会」の一つは、シナイ山の麓で開かれました。エジプトから呼び出されたユダヤ人たちが、神に律法を授かった集会です。荒野の野外集会で、キャンプ用のテントはあっても、集会用の建物はありませんでした。モーセはシナイ山の頂で律法を受け取り、それを麓の人々に伝えました。ステパノはその時の様子を、こう語っています。

「また、モーセは、シナイ山で彼に語った御使いや私たちの先祖たちとともに、荒野の集会にいて、私たちに与えるための生きたみことばを授かりました。」(使徒7:38)

 ここに出てくる「集会」は、ギリシア語聖書では「エクレシア」です。その集まりは、ユダヤ人たちが天の王なる神から授かったみことばを共有する場でした。

 キリストの教会=エクレシアも、天の王のみことばを共有する集まりです。みことばの共有であれば、インターネット経由でも可能です。私たちはオンライン上の集まりを通し、天の王から授かったみことばを共有できるのです。

 今日は申命記4章を開き、みことば共有の目的について考えてみましょう。

 第一にみことばを共有するのは、天の王を尊ぶためです。

「あなたがホレブで、あなたの神、主の前に立った日に主は私に言われた。『民をわたしのもとに集めよ。わたしは彼らにわたしのことばを聞かせる。それによって、彼らが地上に生きている日の間わたしを恐れることを学び、また彼らがその子どもたちに教えることができるように。』」(申命記4:10)

 モーセがシナイ山に登った時、上空の厚い雲に稲妻が光り、雷鳴がとどろきました。地震もありました。山全体は煙に包まれ、主が火の中から語られました。下手な行動をとる人は死ぬと、警告されました。その数週間前、彼らはエジプトの大軍が海の中で全滅する様子を見たばかりでした。緊張が高まる中、角笛が大きく鳴り響くと、ユダヤ人たちは震え上がりました。彼らは、とにかく恐ろしかったのです。でも神が彼らに求められたのは、そのような恐怖心ではありません。天地創造の唯一の神だけを信じ、敬う心だったのです。主を「恐れる」とは、主なる神を敬い、尊ぶという意味です。この当時も世界中の人々が、さまざまな偶像を拝んでいました。エジプトにも、たくさんの神々がいました。エジプトの王=ファラオも、神と敬われました。でも創造主なる神は、それらの偶像礼拝からユダヤ人を解放し、全ての神々に勝る偉大な力を示されました。それは、ユダヤ人が地上に生きる限りこのお方だけを敬い、尊ぶためであり、彼らの子供たちにも、そうした生き方を教えるためだったのです。

「気をつけて、あなたがたの神、主があなたがたと結ばれた契約を忘れることのないように、またあなたの神、主の命令に背いて、いかなる形の彫像も造ることがないようにしなさい。」(申命記4:23)

 神は、彼らと契約を結ばれました。彼らが、全世界の中で特別な使命を果たす契約です。神のことばに聞き従うなら、ユダヤ人は神の宝となり、祭司の王国、聖なる国民とされる約束でした。天の王、唯一の神に仕える祭司として、ユダヤ人は特別な生き方が求められました。偶像の神々と袂を分かつ生き方。唯一の神だけを敬い、尊ぶ生き方です。シナイ山で授けられた律法は、その契約書でした。イエス・キリストを信じる人は、誰もがアブラハムの子孫、契約の民とされています。ユダヤ人に与えられたみことば、契約を受け継いでいます。イエス様は、偶像礼拝の暗闇から私たちを呼び出して下さいました。私たちは天の王のみことばを共有し、唯一の神だけを敬い、尊ぶ生き方ができるのです。

 第二にみことばを共有するのは、祝福を得るためです。

「あなたにこのことが示されたのは、主だけが神であり、ほかに神はいないことを、あなたが知るためであった。」(申命記4:35)

 シナイ山に集まったユダヤ人たちは、天の王を知る祝福にあずかりました。彼らは、驚くべき体験をしました。エジプトで、彼らは奴隷でした。神とされるファラオが、彼らを決して手放そうとしませんでした。でも天の王なる神は次々に奇跡を起こし、彼らをエジプトから解放されました。海が二つに分かれ、ユダヤ人はそこを歩いて渡りました。エジプト軍が渡りかけると海は元に戻り、部隊は全滅しました。その後、ユダヤ人がシナイ山に着くと、神は火の中から語られました。それらの驚異的な体験を通し、彼らは神の偉大さを知る祝福を得ました。創造主なる神は、どんな偶像にも勝っています。偶像の神々は全てフェイクであり、主なる神だけが唯一まことの神だということを、彼らは知ったのです。

「今日、私が命じる主の掟と命令を守りなさい。あなたも、あなたの後の子孫も幸せになり、あなたの神、主が永久に与えようとしておられるその土地で、あなたの日々が長く続くようにするためである。」(申命記4:40)

 申命記のこれらのことばは、実はシナイ山の集会の40年後に語られています。40年前に授かったみことばを思い起こし、荒野を生き延びたユダヤ人たちに、モーセがもう一度語っているのです。40年の訓練を終えたユダヤ人たちは、いよいよ約束の地に入る時を迎えていました。彼らがその地を受け継ぎ、神の祝福を得る条件は、みことばに従うことでした。その教えを守れば、彼らは約束の地で幸せを手にできたのです。逆に教えを守らないと、その地を失い、外国に散らされると神から警告されていました。教えの一番の中心は、偶像の神々に浮気せず、唯一の神だけを一途に愛することでした。その同じ教えを、イエス様は全ての人に伝えに来られました。イエス・キリストを唯一の神として愛する人は、永遠の御国の祝福を受け取ります。みことばを共有する私たちは、永遠のいのちの祝福を手にしているのです。

 第三にみことばを共有するのは、全世界に伝えるためです。

「これを守り行いなさい。そうすれば、それは諸国の民にあなたがたの知恵と悟りを示すことになり、彼らはこれらすべての掟を聞いて、『この偉大な国民は確かに知恵と悟りのある民だ』と言うであろう。」(申命記4:6)

 みことばに従う人は、天から授かる知恵と悟りを周りの人に分かち合うことができます。全知全能の神の知恵と理解力は、人の知恵や悟りに遙かに勝ります。エジプトに行ったヨセフは、神から知恵と悟りを授かりました。それらは、ファラオや家臣たちの知恵や悟りに遙かに勝っていました。当時のファラオは素直にそれを認め、ヨセフにエジプト全土の支配を任せました。イエス・キリストを信じる人は、聖霊なる神が心のうちにおられます。聖霊が私たちに神の知恵と悟りを与え、他の人に伝えさせて下さるのです。

「まことに、私たちの神、主は私たちが呼び求めるとき、いつも近くにおられる。このような神を持つ偉大な国民がどこにあるだろうか。」(申命記4:7)

 ユダヤ人たちには、唯一の神に近づく特権が与えられました。アブラハム以来、彼らは唯一の神に祈り続けました。エジプトでも、神に救いを求めました。この神に近づく特権は、イエス・キリストにより、私たちにも与えられています。聖霊を通し、イエス様はいつでもどこでも私たちとともにおられます。誰もが神に直接近づき、愛に満ちたみことばを受け取れます。受け取ったみことばを仲間内で共有し、イエス様を知らない人にも伝えることができるのです。

 天の王なる神が私たちを呼び出し、みことばを共有する集まりに加えて下さったことを感謝しましょう。最後にもう一度、以下のみことばを引用します。

「また、モーセは、シナイ山で彼に語った御使いや私たちの先祖たちとともに、荒野の集会にいて、私たちに与えるための生きたみことばを授かりました。」(使徒7:38)

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2020年8月16日 (日)

天の王を知る

 昨日は、75回目の終戦記念日でした。今年はコロナの影響で、各地の記念行事はいつもとは違う形になりましたが、形はどうあれ、戦争の悲惨さを語り継ぎ、平和と命の大切さを再確認することは大切です。戦後の平和と繁栄が、多大な犠牲の末にもたらされたことも忘れてはなりません。クリスチャンは、また違う視点で終戦を記念できます。聖書的な観点から、立派に生きた人々をたたえ、神に感謝できます。残念な生き方をした人々を振り返り、問題点を整理できます。彼らに成り代わり、私たちが神の前で罪を告白することもできます。毎年8月15日に、私たちは過去の罪を悔い改め、現在の恵みを感謝し、未来の祝福を祈ることができるのです。

 1945年の夏は、日本が国を挙げての偶像礼拝から解放された時でもあります。それ以前の77年間、日本は「天皇を中心とした神々の国」でした。天皇はアマテラスの子孫で、人の姿をした神とされていました。そう認めない人は迫害されました。天皇が治める日本は不滅だと言われました。危機になったら「神風」が吹き、勝利が来ると人々は信じました。日清・日露戦争で2連勝し、「神々の国」の不滅信仰は強まりました。でも、ついに敗戦の時が訪れたのです。日本の神々を拝まない、クリスチャンのつくった国に日本は敗れました。米国側にも、残念ながらクリスチャンらしからぬ行為が多々ありました。大量破壊兵器の一つである原爆も、2度使用されました。でも不幸中の幸いは、「天皇を中心とした神々の国」も滅び得ることを、日本人が知ったことです。天皇が無敵の神でないことを、日本人は悟りました。終戦の日に私たちは、偶像の支配からの解放を記念し、お祝いできるのです。

 創造主なる神は、長い年月をかけ、人類を偶像から解放して来られました。人類の代表としてアブラハムを選び、偶像に支配されたメソポタミアから彼を解放されました。モーセの時代には、アブラハムの子孫はエジプトの偶像支配から解放されました。彼らは、約束の地に住み始めると、カナンの神々に何度も心を奪われました。その度に戦争が起き、神は外国の軍勢を用いて、ユダヤ人を悔い改めに導かれました。ソロモン王は、何百人もの妻や愛人を外国から迎えました。彼女たちは偶像礼拝を輸入したため、イスラエルはそれらの神々の影響下に入りました。多くのユダヤ人が偶像に支配されると、また戦争が起きました。神は再び外国の軍隊を用い、ユダヤ人を偶像から解放しようとされたのです。ユダヤ人は70年の捕囚後、故郷に帰りました。その悲惨な経験を通し、彼らは創造主なる神がどんなお方かを知ることができました。天地創造の神は偶像の神々より遙かに偉大なこと、そして全世界を治める天の王であることを、彼らは悟ったのです。

 イエス・キリストは、この天の王なる神です。全人類を偶像の支配から解放するため、アブラハムの子孫として地上に来られました。全人類に成り代わり、全ての罪を十字架の上で償われました。復活の後、天に昇り、王として今も全世界を治めておられます。この「天の王=キリストを中心とした神の国」は、永遠に不滅です。どんなに強力なウィルスとの戦いも、天の王は終息させて下さいます。私たちは天の王の偉大さを知り、このお方を称賛することができるのです。

 今日は詩篇46篇を通し、この天の王について私たちが知るべきことを考えてみましょう。

 第一に天の王なる神は、避難所です。

「神は われらの避け所 また力。苦しむとき そこにある強き助け。」 詩篇46:1

 神は、「駆込み寺」のようなお方です。何かトラブルが起きれば、いつでも私たちは神のもとに駆け込むことができます。ユダヤ人たちは、長い歴史の中で身をもってこれを体験しました。彼らの歴史は、トラブル続きでした。エジプトでは奴隷にされ、男の子が皆殺しにされ、絶滅の危機にありました。でも彼らが神のもとに駆け込むと、彼らはエジプトから解放されました。カナンに住み始めると、外国の軍勢に何度も攻め込まれました。でも神のもとに避難すると、彼らは勝利できました。捕囚の地に連れ去られると、彼らはアブラハムの子孫というアイデンティティを見失いそうでした。でも神のもとに身を避けると、ユダヤ人は約束の地に帰ることができました。詩篇は、その捕囚の時代に編纂されたと言われています。彼らは外国の地で過去の歴史を振り返り、神の強き助けを思い起こしました。イエス・キリストを信じる人は、彼らと同じように、誰でも天の避難所に駆け込むことができるのです。

「それゆえ われらは恐れない。たとえ地が変わり 山々が揺れ 海のただ中に移るとも。たとえその水が立ち騒ぎ 泡立っても その水かさが増し 山々が揺れ動いても。」詩篇46:2-3

 たとえ天変地異が起こっても、私たちは恐れることはありません。神が、私たちの心を平安で満たして下さいます。日本には、自然災害がたくさん起こります。大地震。大雨と洪水。土砂崩れ。火山の噴火。大雪や雪崩。竜巻。落雷。そして猛暑。今年は、全く新しいウィルスの感染も拡がっています。経済的な危機にある人もいます。結婚式等の予定がキャンセルになり、先が見えずに困っている人もいます。多くの人が、将来に不安を抱えているようです。でも神は、私たちに手を差し伸べ、強力な助けになって下さいます。だから私たちは、何が起きても恐れることはありません。目の前のトラブルに心をかき回されず、天の王なるイエス様に避難しましょう。このお方の偉大さを思い起こしましょう。天の王なる神は、私たちの心を平安で満たして下さいます。

 第二に天の王なる神は、砦です。

「川がある。その豊かな流れは 神の都を喜ばせる。いと高き方のおられる その聖なる所を。神はそのただ中におられ その都は揺るがない。神は朝明けまでに これを助けられる。」詩篇46:4-5

 神は、私たちのために天の都を用意されています。そこは城壁で囲まれた要塞です。敵の攻撃から、私たちは守られています。その都には、豊かな川の流れがあります。水は聖霊の象徴であり、命の象徴でもあります。イスラエルの首都エルサレムの水源は、城壁の外にあるギホンの泉でした。そこから300メートル以上の水路を経て、エルサレム城内まで水が引かれていました。その水の流れが、聖なる都を潤していたのです。私たちに用意されている永遠の都にも、いのちの水の流れがあります。その都は、永遠のいのちに満ちています。神がそこにおられ、神の敵対者はその中に入ることができません。私たちは、永遠の都の中で神に守られるのです。

「国々は立ち騒ぎ 諸方の王国は揺らぐ。神が御声を発せられると 地は溶ける。万軍の主は われらとともにおられる。ヤコブの神は われらの砦である。」詩篇46:6-7

 私たちは今、目に見えない敵と戦っています。ウィルスも小さくて目に見えませんが、それとは別の霊的な敵が私たちに戦いを挑んでいます。サタンや悪霊たちです。サタンや悪霊は、偶像の神々の背後にいます。多くの国々において偶像礼拝を用い、人の心を天地創造の神から引き離しています。しかし神は、いつまでもこの状態を放って置かれません。時が来たら、偶像の勢力は一掃されます。サタンと悪霊たちは、全て滅ぼされます。でもイエス・キリストを信じる人は、神がともにおられます。神が砦となり、悪の力は全て排除されます。偶像を拝むアッシリアとの戦いで、神はエルサレムの都を守られました。時の王ヒゼキヤの祈りに答え、神が砦になって下さいました。神は私たちが祈る時にも砦となり、私たちをあらゆる敵から守って下さるのです。

 第三に天の王なる神は、全世界の統治者です。

「来て 見よ。主のみわざを。主は 地で恐るべきことをなされた。主は 地の果てまでも戦いをやめさせる。弓をへし折り 槍を断ち切り 戦車を火で焼かれる。」詩篇46:8-9

 時が来たら、神は全ての戦いを終わらせて下さいます。神の国の平和が完成する時です。日本では75年前、天皇が終戦の宣言をしました。「天皇を中心とする神々の国」の敗北が告げられました。そして、新たな平和の時代が訪れました。当時、日本の統治者だった天皇の「おことば」には、国の行く末を左右する大きな力がありました。天の王なる神のみことばには、世界の行く末を左右する力があります。神は全世界の統治者だからです。神のことばであるイエス様は、自らの命をかけ、永遠の平和の時代を切り開かれました。その尊い犠牲のゆえに今、全世界に神の平和が広がりつつあります。

「『やめよ。知れ。わたしこそ神。わたしは国々の間であがめられ 地の上であがめられる。』万軍の主は われらとともにおられる。ヤコブの神は われらの砦である。」詩篇46:10-11

 全世界の統治者である神は、御前で膝をかがめる人々を求めておられます。天の王を礼拝する、まことの礼拝者たちです。イエス様は、そんな礼拝者たちを募集しに来られました。イエス・キリストを信じる人には、神との平和が与えられます。互いに平和を築く世界的なネットワークに加えられます。偶像の神々が生み出す無用な争いから解放され、世界に永遠の平和をもたらす働きに携われます。イエス様は今、全世界の統治者として私たちの働きを導き、支えておられます。私たちは天の王の素晴らしさを知り、このお方を世界中の人々とともに称賛することができるのです。

 天の王なるイエス様を知る幸いを感謝します。このお方をさらに深く知り、その素晴らしさを日々ほめたたえて生きましょう。

 最後にもう一度、本日の中心聖句を引用します。


「主は 地の果てまでも戦いをやめさせる。・・・『やめよ。知れ。わたしこそ神。わたしは国々の間であがめられ 地の上であがめられる。』」詩篇46:9-10

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2020年8月 2日 (日)

しもべのネットワークを広げる

 今年5月、「結婚相手に望む勤め先」について、ある調査が行われました。20代から50代の男女800人が回答したそうです。1位は国家公務員で、全体の39.3%。2位は地方公務員で、39.1%。合計すると、約8割の人が公務員との結婚を望んでいるようです。昨年は国家公務員が14.3%、地方公務員が12.7%だったので、今年は3倍ほどに増えました。新型コロナの影響のようです。調査した会社は、こんなコメントを残しています。「失業や収入減少への不安感が社会全体で増している中で、雇用や収入が安定しているイメージの強い公務員に人気が集中した。」

 ただ公務員と結婚しても、全てが安泰ではありません。時には、思いもしない不幸に見舞われることもあります。岡山出身の雅子さんは、残念ながらそんな辛い経験をしました。彼女は23歳の頃、薬局の同僚から公務員の男性を紹介されました。彼は8つ年上の31歳で、同じ岡山の出身。大きな声でよく笑う人で、明るくて誠実そうでした。2回目のデートで「結婚しよう」とプロポーズされ「はい、お願いします」と答えたそうです。26年前のことでした。

 男性の名は赤木俊夫さんで、勤務先は財務省の近畿財務局でした。俊夫さんは真面目な人で、「僕の契約相手は国民です」というのが口癖だったそうです。大切にしていた「国家公務員倫理カード」には、こんな質問がありました。「国民全体の奉仕者であることを自覚し、公正に職務を執行していますか」、「職務や地位を私的利益のために用いていませんか」、「国民の疑惑や不信を招くような行為をしていませんか」。彼はこれらの原則に違反したと思い悩み、2年前、自ら命を絶ちました。妻の雅子さんは、当時をこう振り返っています。「国民の皆さんに死んでおわびすることにしたんだと思う。」

 公務員は、社会に対して大きな責任を負っています。日本国憲法第15条も、こう記しています。「すべて公務員は、全体の奉仕者であつて、一部の奉仕者ではない。」公務員を意味する「公僕(公のしもべ)」という言葉がありますが、これは「public servant」の訳語として明治時代に造られたようです。それ以前の時代は、「下々がお上に仕える」のが常識でした。「お上が下々に仕える」という発想は、ほとんどなかったはずです。第2次大戦後に定められた今の憲法には、「公僕」としての公務員の位置づけがはっきり示されています。赤木俊夫さんは、この原則を忠実に守りたかったのでしょう。先日始まった裁判を通し、真実がさらに明らかにされることを願っています。

 イエス・キリストは世界全体のしもべとなり、全ての人の罪を背負って死なれました。そして弟子たちにも、しもべとしての生き方を求められました。それは、弟子たちにとって新しい生活様式でした。彼らが属した社会も、「下々がお上に仕える」文化だったからです。イエス様は「メシア=油注がれた王」だと、弟子たちは信じていました。イエス様が即位すれば、自分たちは最高権力者の「お友達」で、側近になれると期待していました。一番偉くなるのは誰か、互いに張り合っていました。でもイエス様が彼らに命じたのは、人々に奉仕することだったのです。イエス・キリストの弟子になったら、「偉い人」になるのではなく、しもべの仲間に入ります。私たちは、世界中にしもべのネットワークを広げる働きに招き入れられているのです。

 今日はヨハネ13章を通し、この「しもべネットワーク」拡大のため大切なポイントについて考えてみましょう。

 第一に大切なポイントは、しもべの国王を知ることです(ヨハネ13:4-5)。イエス様は最後の晩餐の場で、弟子たちの足を洗われました。十字架の前の最後の交わりを通し、イエス様は弟子たちに重要な教訓を教えられたのです。足を洗うのは、しもべの役割でした。当時のユダヤ人は、たいていサンダルを履いていました。木やシュロの皮、アザラシの皮等で作った底に皮ひもを通し、足に結びました。道はほこりだらけだったので、サンダルで歩けば当然、足は汚れました。家の中に入る人は足を洗いましたが、それはその家のしもべの仕事だったそうです。弟子たちは、足を洗う人がどこにいるのかとキョロキョロ探していたかもしれません。すると、なんとイエス様がたらいに水を入れ、弟子たちの足を洗い始めたのです。イスラエルの国王が、彼らのしもべになって下さいました。

 これを見た弟子たちは、たいへん驚きました(ヨハネ13:8)。特にペテロは、そんな恐れ多いことをしてほしくないと思いました。国王は、国王らしくしてほしいと彼は思ったのです。ペテロはイエス様に、自分の足は決して洗わないでくれとお願いしました。するとイエス様は、こう答えられました。「もし洗わないなら、あなたと私の関係はもう終わりだ。」ここでイエス様が伝えられたメッセージは、重要でした。それは、「天の御国の王は全ての人のしもべだ」というメッセージでした。天地創造の神は全世界の人を愛し、仕えておられます。その重要な真理を、弟子たちは知る必要がありました。イエス様は今、私たちにも同じメッセージを語っておられます。イエス様が全世界の王であり、同時にしもべであることを、私たちは知る必要があるのです。

 第二に大切なポイントは、しもべの国王にならうことです(ヨハネ13:14-15)。イエス様の行動は、弟子たちが見習うべき模範でした。最高権力者の行動は、国民に影響を及ぼします。国のトップが一般庶民に心を配り、全体に奉仕する無私の姿勢を貫くなら、多くの人は喜びます。指導者の立派な姿に心打たれ、自分もそんな生き方をしたいと願う人もいるかもしれません。でも、もし国のトップがそれと真逆の生き方をしたら、多くの人に悪影響が及びます。「そんな生き方でも良いんだ」と考える人が増えるからです。ソロモン王以降のイスラエルが、そうでした。多くの国王が悪い見本を示し、国民はそれにならいました。その結果、国が滅びました。イエス様は国王として、最高の模範を示されました。そして弟子たちに、その模範にならう生き方をするよう命じられたのです。

 この命令を守る人は神に祝福され、天の祝福の管となることができます(ヨハネ13:16-17)。父なる神は、御子イエス・キリストをこの世に遣わされました。イエス様はしもべとして人々に仕え、十字架で命を捨てられました。そしてイエス様は復活のいのちの祝福を受け、その祝福を全世界に流す管となられたのです。天の父がイエス様をこの世に送り出したように、今度はイエス様が弟子たちを世界中に送り出されました。彼らも神に祝福され、天の祝福の管として用いられました。今もクリスチャン一人ひとりが、イエス様に送り出されています。しもべのように仕える人を、神は祝福して下さいます。永遠の祝福を伝える管として、神が用いて下さいます。しもべのように仕えたイエス様にならい、私たちは世界に拡がるしもべのネットワークに参加できるのです。

 第三に大切なポイントは、国王の愛を伝えることです(ヨハネ13:20-21)。イエス様は、弟子たちを深く愛しておられました。3年半にわたり弟子たちと一緒に生活し、神の限りない愛を伝えられました。その愛を世界中に伝えるため、弟子たちに最高の訓練を施されました。最後の晩餐の場で弟子たち全員の足を洗ったのも、彼らがその愛を体験し、理解を深めるためでした。でも残念ながら、弟子の中には最後までその愛を受け取らない人がいました。イスカリオテのユダです。彼は結局、イエス様のことを何も理解しなかったようです。天の御国の王がしもべとなり、神の愛を伝えようとした真実を、最後まで受け取りませんでした。それでもイエス様は、最後までユダを愛されたのです。

 他の弟子たちに対し、イエス様は「互いに愛し合いなさい」と命じられました(ヨハネ13:34-35)。私たちが愛をもって互いに仕え合う時、その姿を見た周りの人は、イエス様の愛を知ることができます。互いにいがみ合っていたら、イエス様の愛は伝わりません。弱い人や困っている人を無視しても、愛は伝わりません。今はコロナ禍でいろいろたいへんですが、私たちはできる限り周りの人に目を配りましょう。そして天の御国の王なるイエス様の限りない愛を、周りの人に伝えていきましょう。

 イエス様が、私たちをしもべのネットワークに加えて下さったことを感謝しましょう。そして、このネットワークをさらに広げていきましょう。

「主であり、師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのであれば、あなたがたもまた、互いに足を洗い合わなければなりません。」(ヨハネ13:14)



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