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2020年8月30日 (日)

天与のことばを共有する

 コロナ禍の試練が続く中、「キリスト教会とは何か」、「教会はどうあるべきか」が今、問われています。インターネットだけでつながる教会は、教会と呼べるのでしょうか。もし呼べないとしたら、何が足りないのでしょうか。教会のアイデンティティと存在理由を、私たちは今一度、整理する必要があります。

 「教会」という呼び名は、「エクレシア(ἐκκλησία)」というギリシア語の日本語訳として造られました。(エクレアではないです。笑)エクレシアは、「呼び出された人々」という意味です。何らかの目的のため、神に呼び出された人々です。今日から何回かシリーズで、この「エクレシア=呼び出された人々」について考えてみましょう。

 クリスチャンでない人は、教会と言うと、十字架のついた洋風建築を思い浮かべる人が多いかもしれません。信仰を持つ前の私も、そうだったように思います。私が育った家はほとんど無宗教で、教会とのつながりもほぼ皆無でした。ただ近所にルーテル教会があり、私はそこの幼稚園や日曜学校、英語教室に通いました。教室に行く途中、誰もいない礼拝堂内を通り抜けると、子供ながら厳かな雰囲気を感じました。白壁以外は、扉も天井も窓枠も床もダークブラウンだったと記憶しています。整然と並ぶ木のベンチも、重々しいダークブラウンでした。壁の高い所に、厳粛な表情をしたキリストの肖像画がありました。私にとって教会と言えば、その静けさと重々しさに満ちた、洋風の教会堂だったのです。

 ところが洗礼を受けた直後、教会とは建物ではなく、神に呼び出された人々だと聞きました。イエス様は大工でしたが、「わたしの教会を建てる」と言われた時、世界中に立派な教会堂を建てるという意味ではなかったのです。ペンテコステの日、エルサレムに誕生した教会にも、教会堂はありませんでした。人々は神殿や仲間の家など、どこでも集まりました。どこに集まろうと、神に呼び出された人々は「教会」だったのです。

 新約聖書はギリシア語で書かれましたが、実際にイエス様が弟子たちに話したのは、アラム語かヘブル語だと言われます。イエス様が「教会」と言った時、それは外国語ではなく、弟子たちが理解しやすい、よく知る言葉だったはずです。旧約聖書で「エクレシア」に相当するのは、「カハール(קָהָל)」というヘブル語の単語です。日本語では「集会」「集い」「群れ」などと訳されます。つまりイエス様は、「わたしの集会を建てる」と弟子たちに言われたのです。

 旧約時代の最も重要な「集会」の一つは、シナイ山の麓で開かれました。エジプトから呼び出されたユダヤ人たちが、神に律法を授かった集会です。荒野の野外集会で、キャンプ用のテントはあっても、集会用の建物はありませんでした。モーセはシナイ山の頂で律法を受け取り、それを麓の人々に伝えました。ステパノはその時の様子を、こう語っています。

「また、モーセは、シナイ山で彼に語った御使いや私たちの先祖たちとともに、荒野の集会にいて、私たちに与えるための生きたみことばを授かりました。」(使徒7:38)

 ここに出てくる「集会」は、ギリシア語聖書では「エクレシア」です。その集まりは、ユダヤ人たちが天の王なる神から授かったみことばを共有する場でした。

 キリストの教会=エクレシアも、天の王のみことばを共有する集まりです。みことばの共有であれば、インターネット経由でも可能です。私たちはオンライン上の集まりを通し、天の王から授かったみことばを共有できるのです。

 今日は申命記4章を開き、みことば共有の目的について考えてみましょう。

 第一にみことばを共有するのは、天の王を尊ぶためです。

「あなたがホレブで、あなたの神、主の前に立った日に主は私に言われた。『民をわたしのもとに集めよ。わたしは彼らにわたしのことばを聞かせる。それによって、彼らが地上に生きている日の間わたしを恐れることを学び、また彼らがその子どもたちに教えることができるように。』」(申命記4:10)

 モーセがシナイ山に登った時、上空の厚い雲に稲妻が光り、雷鳴がとどろきました。地震もありました。山全体は煙に包まれ、主が火の中から語られました。下手な行動をとる人は死ぬと、警告されました。その数週間前、彼らはエジプトの大軍が海の中で全滅する様子を見たばかりでした。緊張が高まる中、角笛が大きく鳴り響くと、ユダヤ人たちは震え上がりました。彼らは、とにかく恐ろしかったのです。でも神が彼らに求められたのは、そのような恐怖心ではありません。天地創造の唯一の神だけを信じ、敬う心だったのです。主を「恐れる」とは、主なる神を敬い、尊ぶという意味です。この当時も世界中の人々が、さまざまな偶像を拝んでいました。エジプトにも、たくさんの神々がいました。エジプトの王=ファラオも、神と敬われました。でも創造主なる神は、それらの偶像礼拝からユダヤ人を解放し、全ての神々に勝る偉大な力を示されました。それは、ユダヤ人が地上に生きる限りこのお方だけを敬い、尊ぶためであり、彼らの子供たちにも、そうした生き方を教えるためだったのです。

「気をつけて、あなたがたの神、主があなたがたと結ばれた契約を忘れることのないように、またあなたの神、主の命令に背いて、いかなる形の彫像も造ることがないようにしなさい。」(申命記4:23)

 神は、彼らと契約を結ばれました。彼らが、全世界の中で特別な使命を果たす契約です。神のことばに聞き従うなら、ユダヤ人は神の宝となり、祭司の王国、聖なる国民とされる約束でした。天の王、唯一の神に仕える祭司として、ユダヤ人は特別な生き方が求められました。偶像の神々と袂を分かつ生き方。唯一の神だけを敬い、尊ぶ生き方です。シナイ山で授けられた律法は、その契約書でした。イエス・キリストを信じる人は、誰もがアブラハムの子孫、契約の民とされています。ユダヤ人に与えられたみことば、契約を受け継いでいます。イエス様は、偶像礼拝の暗闇から私たちを呼び出して下さいました。私たちは天の王のみことばを共有し、唯一の神だけを敬い、尊ぶ生き方ができるのです。

 第二にみことばを共有するのは、祝福を得るためです。

「あなたにこのことが示されたのは、主だけが神であり、ほかに神はいないことを、あなたが知るためであった。」(申命記4:35)

 シナイ山に集まったユダヤ人たちは、天の王を知る祝福にあずかりました。彼らは、驚くべき体験をしました。エジプトで、彼らは奴隷でした。神とされるファラオが、彼らを決して手放そうとしませんでした。でも天の王なる神は次々に奇跡を起こし、彼らをエジプトから解放されました。海が二つに分かれ、ユダヤ人はそこを歩いて渡りました。エジプト軍が渡りかけると海は元に戻り、部隊は全滅しました。その後、ユダヤ人がシナイ山に着くと、神は火の中から語られました。それらの驚異的な体験を通し、彼らは神の偉大さを知る祝福を得ました。創造主なる神は、どんな偶像にも勝っています。偶像の神々は全てフェイクであり、主なる神だけが唯一まことの神だということを、彼らは知ったのです。

「今日、私が命じる主の掟と命令を守りなさい。あなたも、あなたの後の子孫も幸せになり、あなたの神、主が永久に与えようとしておられるその土地で、あなたの日々が長く続くようにするためである。」(申命記4:40)

 申命記のこれらのことばは、実はシナイ山の集会の40年後に語られています。40年前に授かったみことばを思い起こし、荒野を生き延びたユダヤ人たちに、モーセがもう一度語っているのです。40年の訓練を終えたユダヤ人たちは、いよいよ約束の地に入る時を迎えていました。彼らがその地を受け継ぎ、神の祝福を得る条件は、みことばに従うことでした。その教えを守れば、彼らは約束の地で幸せを手にできたのです。逆に教えを守らないと、その地を失い、外国に散らされると神から警告されていました。教えの一番の中心は、偶像の神々に浮気せず、唯一の神だけを一途に愛することでした。その同じ教えを、イエス様は全ての人に伝えに来られました。イエス・キリストを唯一の神として愛する人は、永遠の御国の祝福を受け取ります。みことばを共有する私たちは、永遠のいのちの祝福を手にしているのです。

 第三にみことばを共有するのは、全世界に伝えるためです。

「これを守り行いなさい。そうすれば、それは諸国の民にあなたがたの知恵と悟りを示すことになり、彼らはこれらすべての掟を聞いて、『この偉大な国民は確かに知恵と悟りのある民だ』と言うであろう。」(申命記4:6)

 みことばに従う人は、天から授かる知恵と悟りを周りの人に分かち合うことができます。全知全能の神の知恵と理解力は、人の知恵や悟りに遙かに勝ります。エジプトに行ったヨセフは、神から知恵と悟りを授かりました。それらは、ファラオや家臣たちの知恵や悟りに遙かに勝っていました。当時のファラオは素直にそれを認め、ヨセフにエジプト全土の支配を任せました。イエス・キリストを信じる人は、聖霊なる神が心のうちにおられます。聖霊が私たちに神の知恵と悟りを与え、他の人に伝えさせて下さるのです。

「まことに、私たちの神、主は私たちが呼び求めるとき、いつも近くにおられる。このような神を持つ偉大な国民がどこにあるだろうか。」(申命記4:7)

 ユダヤ人たちには、唯一の神に近づく特権が与えられました。アブラハム以来、彼らは唯一の神に祈り続けました。エジプトでも、神に救いを求めました。この神に近づく特権は、イエス・キリストにより、私たちにも与えられています。聖霊を通し、イエス様はいつでもどこでも私たちとともにおられます。誰もが神に直接近づき、愛に満ちたみことばを受け取れます。受け取ったみことばを仲間内で共有し、イエス様を知らない人にも伝えることができるのです。

 天の王なる神が私たちを呼び出し、みことばを共有する集まりに加えて下さったことを感謝しましょう。最後にもう一度、以下のみことばを引用します。

「また、モーセは、シナイ山で彼に語った御使いや私たちの先祖たちとともに、荒野の集会にいて、私たちに与えるための生きたみことばを授かりました。」(使徒7:38)

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