« 2021年4月 | トップページ | 2021年6月 »

2021年5月

2021年5月30日 (日)

不可視の神の国に生きる

 しばらく前、妻の実家の屋根裏から、神道のお札を取り外しました。「棟札(むなふだ、むねふだ)」と呼ばれる、木製のお札です。建物が新築または修築される際、建物内部の高い場所に設置されるそうです。

 新築の家は骨組みができると、「上棟式(棟上げ)」と呼ばれる儀式を行うことがあります。多くは神道式で行い、建物が無事完成し、その後も守られるように神々に祈るようです。棟札は、その時に取り付けられるとのこと。日付や家主、工事業者の名前の他、お札を作成した神社や祀る神々の名も記されます。どの神々を祀るかは決まっているようで、その土地の守り神、木や家屋の守り神、それに大工の守り神だそうです。

 取り外した時、私は初めて棟札を目にしましたが、どの神々を祀っていたのか、それまで全く知りませんでした。その家が偶像の神々から自由にされたことを感謝します。

 日本では建物を建てる際、3つの儀式を行う慣例があるそうです。地鎮祭、上棟式、そして竣工式です。

 地鎮祭は工事を始める前に行うもので、その土地を守る神に土地使用の許可を求め、工事の安全を祈願します。上棟式はすでにお話した通り、工事の途中で再び行う安全祈願です。そして竣工式は工事が完成した時、神々に感謝し、末永い繁栄を祈願する儀式だそうです。完成後に神棚を置き、先祖の霊などの神々をさらに祀る家もあります。もちろん棟札は、しっかり付けられたままです。

 一つ一つの家は、まるで神々を祀る社(やしろ)、神社のようです。日本の建物の大部分は、おそらくそのような「神々の家」なのでしょう。「神々の家」が建ち並ぶ「神々の国」に、日本はなっているのかもしれません。

 ユダヤ人の家の門柱には、「メズーザー」と呼ばれる羊皮紙が取り付けられます。羊皮紙には旧約聖書・申命記6章と11章の抜粋が記され、その中にこんなみことばがあります。「これ(=神のことば)をあなたの家の戸口の柱と門に書き記しなさい。」(申命記6:9、11:20)

 そうするのはユダヤ人が、唯一の創造主なる神の祝福を決して忘れないためでした。そして彼らが偶像の神々に浮気して、国を滅ぼさないためでもありました。ユダヤ人の一つ一つの家は、日々、唯一の神を礼拝する場所――唯一の神の「社」だったのです。イスラエルは、そんな家が国中に建ち並ぶ「神の国」のはずでした。

 ユダヤ人たちは、唯一の神の素晴らしい祝福を何度も何度も体験しました。なのに彼らは、神々を祀る周りの国々に影響され、偶像を拝むようになりました。そして国が滅びました。でも神は、彼らの国の再建も約束されていました。ユダヤ人たちは、その時の到来を待ち望んだのです。

 イエス・キリストは、「神の国」の再建に来た国王です。ただその王国は、1世紀のユダヤ人が想像したような、目に見える国ではありませんでした。人の視界を遙かに超えた、時間的にも空間的にも果てしのない、超巨大な国だったのです。

 当時、ユダヤ人社会で影響力を持っていたパリサイ人たちも、「神の国」再建を求めていたはずです。でも国王を目の前にしても、彼らにはその国が見えませんでした。キリストが治める神の国は、それほど深い奥行きを持つ、果てしない国なのです。

 神の国の領域は、今も世界中で広がり続けています。その国民一人ひとりには聖霊が宿り、唯一の神を祀る家=「社」とされています。私たちは偶像の呪いから解放され、唯一の神の目に見えない国に生きる祝福を満喫できるのです。

「パリサイ人たちが、神の国はいつ来るのかと尋ねたとき、イエスは彼らに答えられた。『神の国は、目に見える形で来るものではありません。・・・見なさい。神の国はあなたがたのただ中にあるのです。』」(ルカ17:20-21)

| | コメント (0)

2021年5月23日 (日)

神を忠実に愛する

 神は、忠実なお方です。多くの失敗をして来た私を、決して見捨てず、支え続けて下さいました。

 私が牧師を志したのは、24歳の時です。進路を見失っていた私に、神はこう声を掛けて下さいました。

「洗礼を受けて、わたしのことばを語りなさい。」

ただ一つ、問題がありました。私は、人にまとまった話をするのが苦手だったのです。礼拝で牧師が長く話す様子を見て、「自分はあんなにたくさん話せない」と思っていました。

 小学生の頃、私はあるテレビCMが好きでした。「男は黙ってサッポロビール」というCMです。三船敏郎さんが何も言わず、ビールを飲む映像でした。小学生の私にはビールの銘柄ではなく、男は黙っていていいんだというメッセージが伝わりました。(笑)

 モーセは、「私はことばの人ではありません」と言いました。そのことばにも私は非常に共感し、励まされました。私にとって、誰かに長い話をすることは、大きなチャレンジだったのです。

 そんな私が洗礼直後に聞いた次のことばは、心に強く響きました。

「忠実さを証明するのは、時間だ。」

たとえ不得意でも、委ねられた働きをただ忠実に続けようと、その時思いました。

 語る訓練のため、神はさまざまな場を備えて下さいました。洗礼を受けた翌年、私は教会学校のスタッフに加わりました。私以外はベテランの教師が3人揃った、小学校5、6年生のクラスでした。その後、所沢に来てからは中高生男子のクラスを1人で担当しました。土曜夜の礼拝で語る機会も与えられました。渋谷周辺で集まっていた「ミニチャーチ」の担当にもなりました。

 教会が分裂し、牧師がいなくなった時は、月に3度、日曜礼拝でメッセージを語りました。神学校で学び、牧師資格を得る前の話です。神はその都度、語ることばを与えて下さいました。

 時間をかけて忠実さを証明したのは、実は私ではありませんでした。私に語ることばを与え続けた神だったのです。

 神は人類の歴史を通し、長い時間をかけて、ご自身の忠実さを証明して来られました。何千年も前にアブラハムに与えた祝福の約束を、神は今も忠実に守られています。アブラハムの子孫を通し祝福を受けた人々が、空の星、海辺の砂のように今も全世界に増え広がっています。

 モーセを通し、ユダヤ人に与えた「祝福と呪いの契約」を、神は忠実に守られました。彼らが神に従うと祝福され、従わないと呪いが実現しました。

 ダビデに与えた永遠の王の約束も、神は忠実に守られました。ダビデの子孫イエス・キリストは今、永遠の御国の王座につかれています。イエス様はそれ以外にも、神による数々の預言を成就されました。それらの事実を通し、必ず約束を守る神の忠実な愛を、私たちは知ることができます。

 イエス・キリストご自身も、自らの忠実さを証明されました。イエス様は、父なる神から永遠の昔に委ねられた働きを、聖霊とともに忠実に成し遂げられました。神の忠実な愛を示すため、十字架の上でいのちを捨てられました。死から復活し、天に昇ったイエス様は、預言通り、弟子たちに聖霊を注がれました。今日は、その記念日・ペンテコステです。

 聖霊なる神は、神を愛する力で私たちを満たして下さいます。その力を通し、私たちは小さなことも忠実に行うことができます。語るべきことばも与えられます。失敗からも立ち直れます。聖霊の働きを通し、私たちは神の忠実な愛をさらに深く知ることができます。そして私たちもまた、その愛に応える生き方ができるのです。

「最も小さなことに忠実な人は、大きなことにも忠実であり、最も小さなことに不忠実な人は、大きなことにも不忠実です。」(ルカ16:10)



| | コメント (0)

2021年5月16日 (日)

神の愛を知る

 「愛を知る」で検索したら、2つの楽曲が表示されました。一つは、昨年4月にリリースされた「ラストアイドル」という女性グループの曲です。秋元康さんプロデュースによる、「究極のアイドルグループ」だそうです。「愛を知る」というタイトルの曲も、秋元さんが作詞しました。

 その曲は、愛を知って人生が一変する「僕」の思いを歌っています。「僕」は自分が嫌いで、死にたいと考えていました。ところが同じ痛みを感じる「君」と出会い、「僕」はその子を愛する「もう一人の自分」を発見します。生きがいを見出し、幸せに気づいて感謝します。生きてて良かったと感じます。

 ハッピーエンドの歌ですね。でも余計な心配をしがちな私は、「その2人はずっとハッピーなのだろうか」とも思ってしまいます。(笑)

 検索でヒットしたもう一つ曲は、今月配信開始されたばかりの「愛を知るまでは」という曲です。作詞作曲は、26歳の女性シンガーソングライター、あいみょんさん。今は大活躍中の彼女がデビュー1年目、焦りを感じた頃に書いた曲だそうです。

 その曲は、思い通りに行かず、自信を失う若い人の思いを歌っています。その人は、「愛を知るまでは死ねない」と考えています。「導かれた運命を辿って、今日も明日も生きて行こう」と決意します。

 誰の愛を求めているのかは、よく分かりません。でもそんな若い人のひたむきな思いを聞くと、親世代の私は応援したくなります。私も若い頃、思い通りにならず、自信を失いました。愛とは何かが、よく分かりませんでした。導かれた方向に向かい、生きて行こうと決心しました。今の若い人も進むべき道を辿り、本当の愛を知り、ハッピーエンドを迎えてほしいと願っています。

 聖書は一貫して、神の愛を知ることの大切さを語っています。天の父なる神は、私たち一人ひとりを大切な存在として造られました。全ての人を深く愛しておられます。アダムとエバが裏切っても、神は彼らを愛しておられました。神の愛を見失ったまま永遠に生きないように、愛を知る長い旅路へ彼らは送り出されました。

 その旅路の中でユダヤ人が選ばれ、彼らを通して、神はその限りない愛を示されました。彼らがその愛を見失っても、神の愛は変わりませんでした。彼らがその愛を思い出し、救いを求めると、神は何度も手を差し伸べました。苦難をも用い、神はユダヤ人たちに本物の愛を教えられました。イスラエルの国が滅んだ時も、神は救い主を通し、愛する彼らの国を再建すると約束されました。

 イエス・キリストは、その救い主です。天の父なる神の限りない愛を、全世界の人に知らせに来られました。その知らせを信じる人は、神の愛を知る旅に参加できます。その旅を通し、父なる神の愛が少しずつ分かるようになります。

 神は私たちを愛し、祝福の人生を計画されています。さまざまな出会いを私たちに与えて下さいます。

 私たちは神の愛によって変えられ、「もう一人の自分」を発見します。永遠の喜びと生きがいを見出し、幸いな人生を歩むことができます。生かされていることを感謝できます。

 神の愛を知り、永遠のいのちを頂くので、私たちはいつ死んでも大丈夫です。神の導きに従い、今日も明日も希望をもって生きて行けます。父なる神の愛を知る人には、永遠のハッピーエンドが用意されているのです。

「・・・子よ、おまえはいつも私と一緒にいる。私のものは全部おまえのものだ。だが、おまえの弟は死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから、喜び祝うのは当然ではないか。」(ルカ15:31-32、新改訳2017

| | コメント (0)

2021年5月 9日 (日)

キリストの弟子として生きる

 今日は母の日なので、母の思い出を少しお話しします。昨年91歳で亡くなった母は、わがままだった私を辛抱強く育ててくれました。母は正義感が強く、曲がったことが嫌いな人でした。長男の私にも「過ちを犯さず、正しく生きてほしい」と、強く願っていたようでした。その分、躾けも厳しかったように思います。私が何か悪さをすれば、必ずきつく叱られ、お尻を叩かれました。「悪いことをしたら痛い目にあう」という教訓を、小さい頃から私は体に叩き込まれました。

 当時の母は、クリスチャンではありませんでした。聖書の教えも、あまり聞く機会がなかったはずです。それでも「子供を愛し、しっかり躾ける」という聖書的な子育てを、自ら実践していたかのようでした。

 私の将来の進路について、母はほとんど口を出したことがありませんでした。でも牧師になると私が言った時は、父と一緒に猛反対しました。「人生を悲観して『世捨て人』になるのか」と言われました。「大学時代の多額の仕送りは無駄だった」と嘆かれました。話し合いが決裂したまま、私は母教会の奉仕を手伝い始めました。母から連絡はありませんでしたが、父は何度か手紙を送って来ました。「そんなことは辞めて、早くまともな仕事に就け」と書いてありました。

 ところが驚いたことに、神は奇跡を起こされました。決裂から1年半ほどで両親は洗礼を受け、クリスチャンになったのです。母はその時こうつぶやき、笑っていました。「『老いては子に従え』って言うからね。」

 その後、私は結婚し、子供が3人生まれました。母の躾けを思い出し、妻とともに聖書を学びながら、子育てをしました。孫たちが健やかに成長する姿を見せ、私も少しは親孝行できたかと思います。牧師として母の葬儀を司式できたことも、私にとっては恵みでした。

 旧約の時代、天地創造の神は、親子関係を用いてご自身の教えを後世に残されました。アブラハムはイサクに、イサクはヤコブに、ヤコブは12人の息子たちに神の約束を伝えました。モーセは、ユダヤ人たちにこう命じました。「神のことばを、あなたの子供たちによく教え込みなさい。」

 ユダヤ人の中には今もこの命令に従い、次の世代に神の教えを伝え続ける人たちがいます。7日に一度休みをとり、家族で天地創造の神に感謝をささげます。春の過越の祭りでは、エジプトからの解放を家族で喜びます。初夏の七週の祭りでは、シナイ山で与えられた律法を家族で感謝します。秋の仮庵の祭りでは、荒野の訓練と約束の地の収穫を家族で感謝します。神が計画されたイスラエルの国は、親が子にみことばを伝える家族の集まりであり、国自体が一つの大きな家族=神の家族だったのです。

 イエス・キリストは、新たな家族づくりを始められました。血縁に関係なく、キリストの弟子となる人が天地創造の神の家族とされる時代になったのです。旧約時代のユダヤ人家庭では、親が子供を弟子として育てました。でも時とともに、みことばを受け継がない子供たちが増え、イスラエルの国は滅亡しました。今はイエス様の弟子に加わる人が、新たな弟子づくりに参加します。血縁関係があってもなくてもです。

 弟子入りの際には、血縁上の家族から反対されるかもしれません。大事にして来たものを捨てる覚悟がいるかもしれません。でもイエス様の弟子には、何よりも素晴らしい永遠の祝福が約束されています。神の恵みにより、失ったものが奇跡的に回復されることもあります。自分の十字架を背負い、キリストの弟子として生きる人は、幸いなのです。

「自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしの弟子になることはできません。」(ルカ14:27)

| | コメント (0)

2021年5月 2日 (日)

狭き門から御国に入る

 今は、コロナ禍で海外旅行どころではありません。でも以前は、私もあちこちの国に行く機会がありました。米国やブラジル、中東の3カ国、東アジアの3カ国、東南アジアの7カ国、南アジアの2カ国――合計17カ国を訪問したことがあります。さまざまな国の人と会い、異文化にふれた貴重な体験を感謝しています。

 時には、福音宣教の機会も与えられました。ある国の集会が、特に印象に残っています。何百人もの人々にメッセージを語った時、ステージ脇では警備員がライフルを持ち、周囲に目を光らせていました。集会場への道は危険なため、地元警察が車で先導してくれたこともありました。

 ほとんどの国はもっと安全でしたが、海外滞在中の私には日本と違う緊張感がありました。帰りの便が日本に無事着陸すると、いつも内心ほっとしたものです。

 帰国の時は、飛行機を降りた後、3つのチェックポイントがあります。先ず、検疫です。健康状態に関する質問票を提出し、機械で自動的に検温されました。今はコロナ禍でチェックがかなり厳しいようですが、以前はよほど具合悪くなければほぼフリーパスでした。

 次のチェックポイントは、入国審査です。外国人用の窓口は行列ができていましたが、日本人用の窓口はたいてい空いていました。パスポートを提出し、スタンプを押してもらえば、すぐ通過できます。

 預けた荷物を受け取った後は最後のチェックポイント、税関のカウンターがあります。申告書を提出し、いくつか質問に答えれば、たいてい問題なく通過できます。「アヤシイ奴だ」と思われなければ、荷物を開けてチェックされることもありません。

 そこを抜けた先は、到着ロビーです。妻にメールを送り、ようやく私は海外旅行の緊張感から解放された気がしました。

 神の国に入国する際にも、チェックポイントがあります。完成した神の国には病気がないので、検疫はありません。自分の体以外、手荷物もないので、税関もありません。唯一あるのは、厳格な入国審査です。どの国の出身者でも、窓口に違いはありません。

 入国の条件は、神の国に国籍があり、それを示す「パスポート」を所持していることです。そのパスポートがあれば、即座に入国が認められますが、ないと入国はできません。

 入国審査を通過し、神の国に入った人は、この世のあらゆる苦しみ、悲しみ、病気や死から解放されます。余計な緊張感もありません。神の国は、永遠の愛と安らぎ、喜び、楽しみに満ち溢れています。私たちは限りない祝福で満たされ、永遠に笑顔が絶えません。

 神の国の国籍を取得し、その国から「パスポート」を受け取るには、たった一つの方法しかありません。イエス・キリストを神の国の王と認め、王に忠誠を誓うことです。

 イエス様は全世界を創造し、全ての人を愛しておられます。十字架と復活により、私たちが御国に入る道を開いて下さいました。世の終わりには、永遠の御国を完成されます。イエス様を王と認め、御国の国籍を得た人は、いわば「パスポート」として聖霊が心のうちに住まわれます。

 イエス様こそが、神の国に入る唯一の門であり、狭き門なのです。

「すると、ある人が言った。『主よ、救われる人は少ないのですか。』イエスは人々に言われた。『狭い門から入るように努めなさい。あなたがたに言いますが、多くの人が、入ろうとしても入れなくなるからです。』」(ルカ13:23-24)

| | コメント (0)

« 2021年4月 | トップページ | 2021年6月 »