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2021年11月

2021年11月28日 (日)

新たな時代をお祝いする

 将棋の世界は、新たな時代を迎えているようです。19歳の藤井聡太さんが先日、「竜王」のタイトル戦に勝利しました。史上最年少で4つのタイトル保持者となったことを、地元・愛知県瀬戸市の人たち等がお祝いしていました。

 将棋の世界では特に格式の高い大会が8つあり、優勝者はそのタイトルを獲得します。「竜王」はタイトルの序列の一番上で、優勝賞金は4,400万円とのこと。師匠の杉本昌隆さんによると、藤井さんは賞金にほとんど関心がなく、使うあてもないそうです。

 8つのうち4つのタイトルを獲得し、竜王にもなった藤井聡太さんは、プロ入り5年で将棋界のトップに立ちました。まさに天才ですね。将棋界では、「藤井時代」の幕開けとも言われるようです。今後のさらなる活躍が楽しみです。

 「時代」とは、ある目安によって区分された年月のことを言います。将棋の世界で言えば、圧倒的に強い棋士が多くのタイトルを獲得し、将棋界のトップに君臨する期間という意味かもしれません。

 かつては木村義雄さんが、「常勝将軍」と呼ばれた時代がありました。その後、大山康晴さんが、史上最強と言われた時代もありました。中原誠さんが、将棋界の「太陽」と呼ばれた時代もありました。所沢出身の羽生善治さんが、当時の7タイトル全てを独占した時代もありました。今は藤井聡太さんが、新たな時代を築きつつあります。

 藤井さんはAI(人工知能)を駆使し、将棋の奥深い可能性を切り開いているとも聞きます。そうした意味でも、将棋界は新たな時代を迎えているのでしょう。

 世界の歴史は、大きく2つの時代に分けられます。紀元前と紀元後です。キリスト到来以前の時代とそれ以後の時代ですね。

 紀元前の時代は、圧倒的多数の国々が天地創造の神から離れ、神を知らずに生きていました。バベルから世界各地に散った人々は、各国ごとにそれぞれ偶像の神々を祀りました。

 その中のたった一人アブラハムだけが、唯一の創造主から特別な祝福を頂きました。彼と彼の子孫は、永遠の真理を知る特権を得たのです。世界の成り立ちと行く末、そして人の生き方についての真理です。その真理を全世界に伝えることが、彼らの使命となりました。彼ら以外のほとんどの人は、偶像礼拝の深い闇の中で真理を知らずに生きていたからです。

 キリストの到来は、新たな時代の幕開けとなりました。イエス様は十字架と復活により、最も格式の高いタイトル戦に勝利されたのです。「永遠の王」のタイトルを獲得し、イエス様は今も全世界のトップに君臨されています。

 この「キリストの時代」は、信仰を通して全世界の人がアブラハムの子孫とされる時代です。真理の光に照らされ、無知の闇から人が救われる時代となりました。聖霊なる神は、永遠の御国の奥深い可能性を私たちに見せて下さいます。AIより遙かに勝る、完璧な助けです。

 私たちは天から特別な力を授かり、圧倒的な勝利者となります。この新たな時代、私たちは旧い生き方から解放され、新たな生き方ができるのです。

 今日からアドベント(降誕節)です。キリストによる新たな時代の到来を喜び、ともにお祝いしましょう。

「神はそのような無知の時代を見過ごしておられましたが、今はどこででも、すべての人に悔い改めを命じておられます。」(使徒17:30)

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2021年11月21日 (日)

幻に導かれる

 先週日曜日の朝は、関東や東海、近畿地方で「幻日」が見られたようです。太陽と同じ高度の両脇に輝く虹色の光が、写真で紹介されていました。空気中の小さな氷の粒が太陽の光を屈折させ、見える現象だそうです。

 太陽が低い位置の時に現れやすいため、朝や夕方に見える場合が多いとのこと。実際には太陽はそこにないのに、まるであるかのように見えるので、「幻の日=幻日」と名付けられたのでしょう。

 日本語で「幻」というと、「実際にはないのに、あるように見えるもの」という意味になります。あるいは「まもなく消えるはかないもの」という意味もあります。「幻日」は確かに実際の太陽ではなく、時間が経つと消えるはかない現象です。「幻」という形容が、ふさわしいと言えます。

 日本語の聖書で「幻」と訳された言葉は、ヘブル語では「ハーゾーン」、ギリシア語では「ホラマ」あるいは「オプタスィア」という単語です。どちらの単語も、「見えるもの」という意味です。「実際にはない」とか、「まもなく消えるはかないもの」という意味はありません。日本語の「幻」の意味とは若干異なるので、注意が必要です。

 聖書の翻訳者たちは、ヘブル語やギリシア語の意味に最も近い日本語訳として「幻」という言葉を選んだはずです。でも翻訳にはよくある話ですが、原語の意味とはどうしても少々ズレが生じます。英語で苦労した経験のある人は、この感覚がよく分かるはずです。

 ですから日本語で聖書を読む時は、日本語の言葉の意味をヘブル語やギリシア語の原語に合わせて定義し直さなければなりません。「幻」という言葉は、まさにその典型的な例の一つと言えます。

 聖書に記された「幻」は多くの場合、天地創造の神が人々に語られたメッセージです。アブラハムに対して神は、幻の中でこう言われました。「アブラムよ、恐れるな。・・・あなたへの報いは非常に大きい。」(創世15:1)

ヤコブには、こう言われました。「エジプトに下ることを恐れるな。わたしはそこで、あなたを大いなる国民とする。このわたしが、あなたとともにエジプトに下り、また、このわたしが必ずあなたを再び連れ上る。」(創世46:3-4)

預言者ナタンは、神から受け取った幻をダビデ王に告げました。ダビデの家から永遠の国を治める王が現れるという幻です。

預言者エゼキエルは、破壊された神の都が再建される幻を見ました。神殿の下からいのちの水の川が流れ出て、あらゆる生物が生かされる様子を、彼は幻を通して見たのです。

 創造主なる神の幻は、必ず実現します。その実現を信じたアブラハムは祝福され、彼は全世界の人にとって信仰の父となりました。

ヤコブの子孫はエジプトで増え広がり、カナンの地に凱旋しました。

ダビデの子孫であるイエス・キリストは今、永遠の御国の王として全世界を治めておられます。

そして御国が完成する時には、いのちの水の川が都を潤します。あらゆる国からそこに集う人々が、永遠のいのちの恵みを喜びます。

このような幻は私たちの人生の指針となり、私たちがする選択に導きを与えてくれます。ペテロは幻を見て、異邦人の家を訪問する決心をしました。パウロは幻を見て、ヨーロッパ宣教を開始しました。

 神は幻を用い、私たちを永遠の御国へ導いて下さいます。その導きに従う人は、神の祝福の実現を楽しみに生きることができます。

「パウロがこの幻を見たとき、私たちはただちにマケドニアに渡ることにした。彼らに福音を宣べ伝えるために、神が私たちを召しておられるのだと確信したからである。」(使徒16:10)

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2021年11月14日 (日)

神の恵みをともに喜ぶ

 女優の山口智子さんは先日、牧師になったそうです。NHKで放映されたドラマの話です。残念ながら私は視聴できませんでしたが、亀梨和也さんが演じる天才弁護士のストーリーだったそうです。

 初めての牧師役について、山口さんは次のようにコメントしました。「聖書を通して『人はどう生きるべきか』を考えることは、新鮮な感動でした。法の道を歩む者、神の道を歩む者、それぞれの道を生きながら探し続ける『正義』への答え……。役を演じながら、私も自分の心に問いかけていきたいと思います。」

 日本のクリスチャン人口は、総人口の0.3%と言われます。牧師の数はそれより1桁は少ないはずで、女性牧師はさらに少数派です。山口智子さんは、めったにない貴重な役を演じる機会を得ましたね。

 メディアで紹介された牧師役の山口さんは、白いブラウスに黒いベストというモノトーンの服装でした。牧師のイメージはやはりモノトーンかと、妙に納得しました。男性が牧師役だったら、黒い詰め襟シャツに白いカラーという出で立ちだったのかもしれません。

 私も子供の頃、牧師はそういう服装だと思っていました。近所の教会で、そんな格好の牧師たちを目にしたからです。でも20代の頃、私が洗礼を受けた教会では、牧師は背広にネクタイ姿でした。ハワイの教会では、牧師はアロハにショートパンツでした。初めてその姿を見た時は、カルチャーショックでした。

 よく考えれば、牧師がどんな格好をすべきか、聖書に書いてありません。周りに配慮した服装であれば、何を着ても自由なはずです。詰め襟でも背広でもアロハでも、どんなスタイルでも私たちは天地創造の神を礼拝し、その恵みを喜ぶことができます。

 時代や文化の垣根を越え、キリスト教会は大きく変化して来ました。エルサレムに初めて教会が誕生した時は、ユダヤ人だけの集まりでした。彼らはモーセの律法を守り、土曜日に集会を持ちました。食物規定を守り、神殿で動物の生け贄を献げました。男性は割礼を受け、女性は髪を布で覆いました。多くの人は質素な一枚布の服を着ましたが、お金持ちの祭司たちは高級服だったようです。

 その後、異邦人が弟子に加わると、教会は一変しました。彼らはイエス・キリストを信じても、ユダヤ文化には染まらなかったのです。エルサレムの神殿に行くことも、食物規定を守ることもなくなりました。男性は、割礼を受けなくなりました。

 ローマ皇帝が信者になった後の教会は、ローマ風になりました。立派な会堂が建設され、礼拝者は土曜日でなく、日曜日に集まるようになりました。そして特別な祭服をまとった聖職者が、旧約時代の祭司のようにおごそかに儀式を執り行なうようになったのです。

 宗教改革以来、プロテスタント教会では新約聖書の原則に立ち返る運動が始まりました。ある人たちは、土曜日に集まるようになりました。別の人たちは会堂でなく、家で礼拝するようになりました。聖職者を任命せず、集まった人が交代でみことばを語る教会も生まれました。

 多くの音楽家たちは聖書からインスピレーションを受け、さまざまな賛美を作曲しました。心を合わせて救い主を賛美するため、聖歌や賛美歌が礼拝の重要な一部となりました。あらゆる楽器を用い、現代的な賛美を何曲も続けて歌うムーブメントも広がりました。

 集まる人々や牧師の服装も、今や教会によってまちまちです。昨年からコロナの感染を避け、オンラインで礼拝する教会も増えました。あらゆる文化や表現方法を通し、私たちは今、神の恵みをともに喜ぶことができるのです。

「私たちは、主イエスの恵みによって救われると信じていますが、あの人たちも同じなのです。」(使徒15:11)

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2021年11月 7日 (日)

苦しみの先を楽しみに生きる

 高木慶子(よしこ)さんという、カトリックのシスターがいます。1936年熊本生まれで、85歳です。

 曽祖父の高木仙右衛門さんは、伝説の隠れキリシタンでした。彼は江戸・明治時代の長崎で捕えられますが、拷問に耐えて信仰を守り通しました。キリシタン禁教が解かれた後、全財産を投じて赤痢患者の救護や孤児救済、そして教会建設に力を尽くしたそうです。

 ひ孫である慶子さんは、父親から仙右衛門の話をこう聞かされました――「ほんとに神様だけがすべてだった。」その信仰を受け継いだ慶子さんは、中学2年の時に神の声を聞き、修道院に入る決心をしました。

 当時の修道院は今よりずっと規律が厳しく、とても辛かったそうです。でも今は、こう思っています。「あの苦しみに私は耐えて生き抜いて来られたんだ。ありがたい。」

 高木シスターは自らの体験を土台とし、苦しむ人や悲しむ人に寄り添う活動を何十年も続けて来ました。「生と死を考える会」を通して、人々が死の準備をする手助けをし、また家族を亡くした人のそばで悲しみを共有し、その人の心が癒されるお手伝いもして来ました。

 余命わずかな人に彼女は、お願いを3つするそうです。1つは、人生で出会った全ての人に「ありがとう」と言うこと。2つ目は、してきた悪い行いについて「ごめんなさい」と言うこと。そして3つ目は、関わった全ての人に天国での再会を約束することだそうです。

 最初は怒る人もいます。でも心に寄り添い、話を続けるうちに、ほとんどの人が素直になるとのこと。頑なだった人の心が死を前に柔らかくなり、穏やかな表情になるのは、この上ない喜びだそうです。そんな喜びを体験できる人は、幸いですね。

 旧約の時代にも、苦しみを乗り越えた人たちがたくさんいました。アブラハムとサラは何十年もの間、跡継ぎが生まれない苦しみを耐え抜きました。

ヤコブは、愛する息子ヨセフを失った痛みを長い間感じ続けました。

モーセは、人を殺めた過ちに40年間苦しみました。その後は、言うことを聞かない人々を導く苦しみに40年間耐えました。

ナオミは夫と息子たち、そして全財産を失う苦しみを味わいました。

ダビデは、家族内の数々のトラブルに苦しみました。

エリヤは、自らの命懸けの労苦が無になる苦しみを経験しました。

エレミヤは、国の指導者が神のことばを無視し、国を滅ぼす愚かさに苦しみました。

そしてヨブは、子供たちを亡くし、重病になり、妻から見捨てられ、友人たちからは非難される苦しみを耐え忍びました。

 イエス・キリストは、私たちをこの世の苦しみから永遠に解放しに来られました。アダムとエバが罪を犯して以来、世界は苦しみに満ちています。人類は悪い霊に支配され、全地は闇に覆われています。私たちの人生には、あらゆる苦しみが待ち構えています。

 イエス様は、そんな私たちに寄り添って下さいました。あらゆる苦しみの根元にある罪を、十字架で帳消しにされました。そして死の苦しみに勝利し、人類に復活のいのちをもたらされました。

 イエス・キリストを信じる人は、人生のあらゆる恵みに目を留め、神に感謝できます。神の御前で素直に罪を認め、謝ることができます。クリスチャン同士であれば、永遠の神の国で再会する喜びも共有できます。

 どんな苦しみの中でも、私たちはその先に広がる永遠の世界を楽しみに生きることができます。隠れキリシタンの高木仙右衛門さんも、きっとそんな生き方をしたはずです。

「二人は・・・リステラ、イコニオン、アンティオキアへと引き返して、弟子たちの心を強め、信仰にしっかりとどまるように勧めて、『私たちは、神の国に入るために、多くの苦しみを経なければならない』と語った。」(使徒14:21-22)

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