名古屋と「天下取り」
中日ドラゴンズが日本シリーズを制覇し、日本一に輝きましたね。ヒルマン監督と日本ハムを応援していた道産子としては残念でしたが、日ハムの選手たちも監督とGM交代のドタバタ劇の中、よく戦ってくれたのではないでしょうか。
かつて、「あいつに監督はできない」と陰口を叩かれながら、日本一の胴上げを受けるに至った落合博満監督。契約交渉に失敗し、入団テストからの再出発を図って、シリーズではみごとMVPに輝いた中村紀洋選手。今年の中日には、さまざまなドラマがあったように思います。
名古屋は、一度だけ行ったことがあります。8年ほど前、岐阜で開かれたクリスチャンの集会に出席した時、滞在しました。まあ何とかなるだろうと、よく調べもせずに訪れたところ、どの辺に何という町があり、何線に何駅があるのかもよく知らないため、電車一つ乗るにも右往左往したように記憶しています。(笑)
名古屋城を見に行った時だったでしょうか。何かに書いてあった、「天下」という言葉が心に残りました。信長も秀吉も家康も、この名古屋周辺で生まれ育ち、天下を取るに至ったと記されていたように思います。その一文には、「天下取り」への強い思いを感じました。金華山山頂にある岐阜城(稲葉山城)を山麓から見上げた時も、斎藤道三と織田信長の時代、そして「美濃を制するものは天下を制す」という言葉を思い起こしました。
「天下」とは、広い意味で世界のことですが、特に「天子(皇帝)の統治する地域」を指す古代中国の概念だそうです。日本では「天子」は天皇とされてきましたから、天下は「天皇の影響力が及ぶ範囲」ということになるのでしょうか。その範囲を治める武家のことは、「天子」とは区別して、「天下人」あるいは単に「天下(様)」と呼ぶようになったのでしょう。
聖書的に考えれば、「天」は創造主なる神様ご自身、そして神様がおられる場所を意味しています。全世界の「天下」を治める「天子」そして「天下人」は、十字架と復活によって「天下を取」られ、「天帝」として君臨しておられるイエス・キリストになりますね。
日本のプロ野球の世界で、約半世紀ぶりに「天下を取った」中日(旧称「名古屋軍」)は、大いに称賛に値します。もしそうなら、永遠にわたり、全世界の「天下を取った」イエス・キリストに対しては、「天下」の民による限りない賛美がふさわしいと言えるでしょう。
救い主イエスを、いつも心から賛美しつつ、歩んでいきたいですね。
「それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、『イエス・キリストは主である』と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。」(ピリピ2:9-11、新改訳第3版)
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