神学
神学(Theology)とは、文字通り、神(theos)の学(logos)です。神様は、どのようなお方なのか、どんなことをなさるのか、私たちとどのような関係にあるのか、ということを調べ、理解し、まとめた知識の総体が神学です。
神学には、大きく分けて二つの研究方法が考えられます。一つは、自然、人間、歴史等の被造物の世界を研究し、そこに神の創造の秩序や道徳的性格、あるいは遠大な計画を見出そうとする方法。いわゆる「一般啓示」の研究です。この方法は、誰にでも取り組みやすいかもしれませんが、研究者の世界観により結論が大きく左右される欠点があります。そこに、真の神の「足跡」をまったく見出すことができない人たちも、数多くいます。
もう一つは、「特別啓示」と呼ばれる聖書を研究する方法です。聖書は、紀元前15世紀前後から紀元1世紀末まで、千数百年間におよぶ神の語りかけの記録が、慎重な吟味の末、正式な文書(正典)としてまとめられたものです。天地創造の経緯、イスラエルの起源と歴史、救い主イエスの生涯とキリスト教会の誕生、そして世界の終末等について記されています。聖書に表された神のメッセージを研究することにより、創造主なる神の性質や人類への祝福の計画などを知ることができます。
特別啓示である聖書の研究は、一般啓示よりも研究範囲が絞られていますが、それでもやはり、研究者の世界観が色濃く反映する結果となります。聖書全体が「神のことば(メッセージ)」なのか、一部なのか、あるいはまったく「神のことば」でないのか、立場の違いにより、さまざまな「神学」が生まれます。ちなみに私たちの教会では、聖書自体の内容の確かさに基づき、聖書全体が「神のことば」であると信じる福音主義的な立場をとっています。
しかし、聖書全体が「神のことば」だとしても、「神学イコール聖書」ではありません。神学は、「神のメッセージ」をどのように解釈し、どのように整合性をつけ、まとめたかという作業の結果、得られる知識です。聖書が絶対的真理だったとしても、神学は絶対的真理とは言えません。歴史上のある時点で正しいと思われていた神学が、後の時代に修正され、一部変更されることもあり得るのです。神学が「神の学」である限り、それは人間の知的営みであり、「科学」と同様、仮説に過ぎないと言えるのかもしれません。
もちろん、私たちは、自分たちの神学が、かなり信頼度の高い「仮説」だと信じています。そして、例えば「イエスは救い主である」というような根本的な教義については、未来永劫、変わりようがないと確信しています。しかし、神学の細部については、将来、修正の可能性もあり得るということさえ認めていれば、細かい点で違いのある他のキリスト教会とも一致し、協力していく道が開けるのではないでしょうか。
創造主なる神様が、永遠の愛をもって私たちに語りかけて下さっていることを感謝します。「真理の御霊(聖霊)」なる神様は、私たちに今、神の真理を教えようとしておられます。神様がどのようなお方かを知るためには、先ず、神の語りかけを聴こうとする、へりくだった姿勢が大切ですね。そうでないと、かつてのパリサイ人たちのように自らの神学を絶対化し、細事にとらわれて、重要な真実を見失う危険性があります。
「しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます。御霊は自分から語るのではなく、聞くままを話し、また、やがて起ころうとしていることをあなたがたに示すからです。」(ヨハネ16:13、新改訳第3版)
| 固定リンク
| コメント (0)
| トラックバック (0)
最近のコメント