学問・資格

2008年4月 1日 (火)

神学

神学(Theology)とは、文字通り、神(theos)の学(logos)です。神様は、どのようなお方なのか、どんなことをなさるのか、私たちとどのような関係にあるのか、ということを調べ、理解し、まとめた知識の総体が神学です。

神学には、大きく分けて二つの研究方法が考えられます。一つは、自然、人間、歴史等の被造物の世界を研究し、そこに神の創造の秩序や道徳的性格、あるいは遠大な計画を見出そうとする方法。いわゆる「一般啓示」の研究です。この方法は、誰にでも取り組みやすいかもしれませんが、研究者の世界観により結論が大きく左右される欠点があります。そこに、真の神の「足跡」をまったく見出すことができない人たちも、数多くいます。

もう一つは、「特別啓示」と呼ばれる聖書を研究する方法です。聖書は、紀元前15世紀前後から紀元1世紀末まで、千数百年間におよぶ神の語りかけの記録が、慎重な吟味の末、正式な文書(正典)としてまとめられたものです。天地創造の経緯、イスラエルの起源と歴史、救い主イエスの生涯とキリスト教会の誕生、そして世界の終末等について記されています。聖書に表された神のメッセージを研究することにより、創造主なる神の性質や人類への祝福の計画などを知ることができます。

特別啓示である聖書の研究は、一般啓示よりも研究範囲が絞られていますが、それでもやはり、研究者の世界観が色濃く反映する結果となります。聖書全体が「神のことば(メッセージ)」なのか、一部なのか、あるいはまったく「神のことば」でないのか、立場の違いにより、さまざまな「神学」が生まれます。ちなみに私たちの教会では、聖書自体の内容の確かさに基づき、聖書全体が「神のことば」であると信じる福音主義的な立場をとっています。

しかし、聖書全体が「神のことば」だとしても、「神学イコール聖書」ではありません。神学は、「神のメッセージ」をどのように解釈し、どのように整合性をつけ、まとめたかという作業の結果、得られる知識です。聖書が絶対的真理だったとしても、神学は絶対的真理とは言えません。歴史上のある時点で正しいと思われていた神学が、後の時代に修正され、一部変更されることもあり得るのです。神学が「神の学」である限り、それは人間の知的営みであり、「科学」と同様、仮説に過ぎないと言えるのかもしれません。

もちろん、私たちは、自分たちの神学が、かなり信頼度の高い「仮説」だと信じています。そして、例えば「イエスは救い主である」というような根本的な教義については、未来永劫、変わりようがないと確信しています。しかし、神学の細部については、将来、修正の可能性もあり得るということさえ認めていれば、細かい点で違いのある他のキリスト教会とも一致し、協力していく道が開けるのではないでしょうか。

創造主なる神様が、永遠の愛をもって私たちに語りかけて下さっていることを感謝します。「真理の御霊(聖霊)」なる神様は、私たちに今、神の真理を教えようとしておられます。神様がどのようなお方かを知るためには、先ず、神の語りかけを聴こうとする、へりくだった姿勢が大切ですね。そうでないと、かつてのパリサイ人たちのように自らの神学を絶対化し、細事にとらわれて、重要な真実を見失う危険性があります。

「しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます。御霊は自分から語るのではなく、聞くままを話し、また、やがて起ころうとしていることをあなたがたに示すからです。」(ヨハネ16:13、新改訳第3版)

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2007年2月28日 (水)

教育

「教育再生」を語る指導者の見識が、今、問われています。国家主導による教育の目的は、つきつめて言えば、国づくりのために有用な人材を育てるということになるのでしょう。明治維新以降、政府が国民教化に力を入れたのは、欧米列強に肩を並べる近代国家を形成しようとしたからでした。学校教育の場で、「公共の精神を尊び」、愛国心を植えつけようという最近の動向も、「国家形成」という大義名分に沿ったものと言えます。

明治維新が契機となったモノの考え方には、「立身出世主義」もありました。「士農工商」の身分制から解き放たれた人々は、「教育」によって身を立て、世に出て行くことが可能となったのです。これにより「教育」は、人間的成長の機会以上に、「より上の社会」に入るための手段となってしまいます。戦後、すべての学校は偏差値によってランク付けされ、受験競争を勝ち抜いて「いい学校」に進学することは、バラ色の将来を約束するかのようになりました。

これに対して、聖書が語る「教育」は、創造主なる神様によって主導される訓練です。その目的は、神様を信じ、神の国の民とされた人が、人格的に成長し、愛をもって与えられた使命を果たす生き方をするようになることです。それは、もちろん「民族国家」とか「国民国家」といった枠組みを超越しています。どの時代のどこの国に生きる、どんな民族の人であっても、同じ「神の家族」の一員として、愛に満ちた神様のことばにより、教え育てられていくのです。

一人ひとりの人間は、神様から与えられた能力や才能を、それぞれ違った分野で生かし、愛をもって互いに仕え合う者とされています。どこで何を学んだ、どの民族の人であるかが、人間の優劣を決めるものでは一切ありません。神を愛する人はすべて、出世の階段を必死で上らなくても、イエス・キリストにより、すでに圧倒的な「勝ち組」に属していると、聖書に約束されています。

私が聖書大学や神学大学院で学んだのも、決して、「さらに上を目指した」からではありませんでした。神様に与えられている使命を果たしていく上で、より十分な知的訓練の必要を覚えたからです。神様を全身全霊をもって愛し、人々に仕えていくためには、知性をも総動員することが不可欠なのです。

「心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。」(マルコ12:30、新改訳第3版)

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