文化・芸術

2007年7月17日 (火)

和の国

何年か前、確か、「日本国憲法」という本がベストセラーになりました。占領軍の押し付けだとか、日本語として分かりづらいとか、非現実的な理想主義だとか、いろいろ言う人はいますが、国民として、折にふれ、読み返すことが必要ですね。私は、昨日前文を再読して、たいへん立派で気品のある文章だと感じました。

「平和」という言葉は、現憲法を制定した終戦直後のみならず、今でも多くの日本人の心に強く響くのではないでしょうか。日本人は「平和ボケ」したという批判の声もありますが、日本文化を理解する上で欠かせないキーワードの一つは、「和」だと思います。

「日本」という国名は、もともと「倭(ヤマト)」だったようですが、日本人のことは、「和人」と書かれますね。聖徳太子による憲法十七条の冒頭、「和をもって貴しとなす」は、論語からの引用だそうですが、その精神は、日本文化の中に深く浸透しているようです。

東京大学名誉教授の京極純一氏は、「日本の政治」と題する著書の中で、「和の秩序」についてふれています。1924年生まれの同氏は、ある紹介文によると、「学徒動員中に入信した筋金入りのクリスチャン」だそうです。京極氏の分析によれば、集団内で「和」を保つ政治的な方法は、「長老型リーダーの人柄」と「根回しによるコンセンサス」とのこと。集団の成員は「空気」を読み、全員一致による「和」の維持に務めなければなりません。

全体が心から一致しており、それが集団外の世界との良好な関係につながっていれば良いですが、現実は、なかなかそうはいきません。第二次大戦の時は、国外には戦火を広げ、国内にあっては、「空気」に反対する少数者を「非国民」として弾圧しました。クリスチャンとなった京極氏は、それを身をもって体験したに違いありません。

本当に大切な「和」は、創造主なる神様との「和」であると、聖書は教えています。神様は、愛に満ちた「人柄」を持つ、世界で一番の「長老」です。そしてもちろん、世界中に、愛の「和(=輪)」を広げていきたいと願っておられます。私たちは、神様のみこころの「空気」を読み、真の「和の国」を築いていきたいですね。

「さあ、あなたは神と和らぎ、平和を得よ。そうすればあなたに幸いが来よう。」(ヨブ22:21、新改訳第3版)

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2007年2月 6日 (火)

書道

070203 「塾」で学んだ「日本の伝統文化」は、先日お話した通り、剣道、茶道、書道、座禅でした。このうち剣道は、高校の時に体育の授業で少しやったことがありましたが、茶道と座禅は、全く初めてでした。

書道は、もちろん小学校の授業で誰もが経験しますが、実は私は、小学生の頃、学校以外でも習字を習っていました。あの頃は、英語とピアノ、習字の教室に通い、一時期、絵画も習い、外では野球、家ではプラモデル作りで、さらにテレビや読書、そして時々宿題をやるという生活ですから、よく時間がありましたね。

「塾」では、講師の先生が熱心に指導して下さいましたが、どんな文字を書いたか、残念ながら覚えていません。ただ、寮の共同スペースの和室に、「大忍」と書かれた塾創設者の色紙が飾られていたことを覚えています。志を成し遂げるには、大きな忍耐が必要である、という意味だったのでしょう。そう言えば、座禅の指導に来られていた円覚寺のお坊さんも、「良いものは、すぐには出来ない」というのが口癖でした。

「塾」の自室でも何か書いてみたくなり、「写経」を始めました。といっても、仏教の経典は、どうも読んでもピンと来なかったため、わざわざ中国語の聖書を買いに行き、その聖書のことばを書いてみたりしました。今は、「聖句書道」の講座があったりしますが、当時は、私自身まだクリスチャンでもなく、ちょっと試しに書いてみた程度でした。

米国留学から帰り、七飯に住むようになると、義母が、孫に習字を教えてくれると言います。義母は、長い間、函館で書道教室を開いていました。そこで、私も一緒に行き、習字を再開することにしました。私の希望は、聖書のことばをできれば色紙に書くことでしたので、なかなか上達しない一般の講座はそこそこにして、神様のみことばを書き続けています。

いつまで書いても、さっぱり上手くはなりませんが、主の教えを、昼も夜も口ずさむように何度も「書」き記し、神様から与えられている「道」を、喜んで歩き続けていきたいですね。

「まことに、その人は主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ。」(詩篇1:2、新改訳第3版)

(写真は、先週土曜日に書いてきたものです。)

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2006年10月31日 (火)

学習発表会

先週金曜日は、小学校の学習発表会を見に行きました。5年生の発表は、自分勝手でわがままな男の子が、その欠点に気づき、反省するというテーマを、オムニバス形式の劇で表現していました。小5の次女は、劇には登場せず、BGMの音楽隊でピアノを弾きました。朝からヘアスタイルと服装に気をつかい、出かけていきましたが、観客席に対して、ずっと後向きに座っていたので、表情は見えません。ただ、練習どおりに大きなミスもせず、弾きこなすことができたようで、親としてはホッとしました。

オムニバスには、七夕の織姫・彦星、桃太郎と花咲か爺さん、浦島太郎、宇宙探検隊、ターザンと、いろいろな人たちが出てきましたが、最後の話は、芥川龍之介の「蜘蛛の糸」でした。日本人なら誰もが知っていると言っていいような、有名な短編ですが、クリスチャンになって再びそのストーリーにふれると、考えさせられるところが多々あります。

聖書によれば、地獄に落ち、手遅れになる前、この世を生きる一人ひとりにイエス・キリストという、天国へ通じる「糸」がたらされています。その糸による救いを信じ、自らの手でつかみさえすれば、自分で必死に登らなくても、神様が天国に引き上げて下さるのです。(自力で登るのは、不可能です。)それは、大勢の人がしがみつくと、切れてしまいそうな弱々しい糸ではなく、世界中の人がつかまっても決して切れない、丈夫な「命綱」です。他の人をけ落とす必要はまったくなく、すべての人がつかまるようにと、「神の糸」なるイエス・キリストは呼びかけておられます。

芥川龍之介は、聖書にふれたことがあったようですが、残念ながら、この「糸」を手にすることがなかったのか、35歳の若さで自殺してしまいました。最近は、痛ましい自殺のニュースが続きます。人々が「神の糸」のことを知り、しっかりとその手で握ってほしいと願ってやみません。

「神は唯一です。また、神と人との間の仲介者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです。」(Iテモテ2:5、新改訳第3版)

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