経済・政治・国際

2007年12月21日 (金)

自由からの逃走、自由への逃避

エーリッヒ・フロムという社会心理学者が、「自由からの逃走」という本を書いています。ユダヤ系ドイツ人で、ナチスが台頭してきた1934年、アメリカに亡命したとのこと。ドイツにそのまま住んでいたらホロコーストの犠牲になり、41年に発表したこの著作は、日の目を見なかったかもしれません。

フロムが分析したのは、近代社会における個人の自由が、なぜファシズムを支持する方向に向かったのかという「逃避のメカニズム」です。近代の到来とともに伝統的束縛から解き放たれた多くの人々は、自由のもたらす孤独感と無力感に耐えられず、自ら自由を放棄し、ナチズムなどの全体主義に身をゆだねるようになったと指摘されています。

私がこの本のことを知ったのは、クリスチャンになる少し前、「日本人論」に凝っていた頃だったと思います。第二次大戦後の日本は、「戦前レジーム」という伝統的価値観を否定し、自由と民主主義を土台として社会を形成してきました。しかし、同時に「日本人論」が人気を保ち続けるという状況は、多くの人々が伝統的価値観への郷愁を感じており、何かをきっかけとして再び国粋主義へ雪崩現象のように「逃避」し得る可能性を暗示しているのではないか、と私には思えました。

「いつか来た道」に戻るのが嫌だった私は、結局、イエス・キリストへ「逃避」することにしました。そして、それが間違いでなかったことを今、感謝しています。なぜならキリストは一般的な理解とは異なり、束縛(「奴隷のくびき」)ではなく、自由を与えて下さるお方だからです。フロムは、「自由の国」アメリカへと逃避しましたが、私は、天上の自由を保障する「のがれの地」、「神の国」へと亡命したわけです。

多くの人々は、自由を求め、かえって不自由に生きています。イエス・キリストこそが、創造主なる神様からすべての人に約束されている「真の自由」を回復して下さるのです。真の自由を享受する「日本人」がさらに増え広がり、心を合わせて、自由放棄への雪崩現象を未然に防いでいけることを願っています。

「キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは、しっかり立って、またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい。」(ガラテヤ5:1、新改訳第3版)

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2007年12月20日 (木)

アイデンティティ

大学入学以来、日本人論に関心をもって読んだのは、自らが抱えていたアイデンティティ・クライシスと関わりがあったかもしれません。初めて親元を離れ、東京で一人暮らしをし、将来どの方向に進んでいったらよいのか、見当がつきませんでした。自分は何者であって、どこへ行こうとしているのか、何を目指したらよいのか、行き先が見えなかったのです。

日本人論の扱うテーマは、もちろん、「日本人とは何か」です。日本人はどこから来て、どのような性格をもち、どちらの方向へ進むべきかが、多くの場合、記されています。そこに描かれる国民あるいは民族の特徴、あるべき姿は、「ナショナル・アイデンティティ」と呼ぶこともできるでしょう。「自分とは何か」という「セルフ・アイデンティティ」、「パーソナル・アイデンティティ」を考える上で、「わが国、わが同胞とは何か」という「ナショナル・アイデンティティ」の議論は、たいへん参考になりました。

「日本人」という感覚は、「ソトの世界」を意識するところから始まります。平安時代や鎌倉時代から、すでに「日本人意識」はあったようですが、それが確固たるナショナル・アイデンティティとして人々に共有されるようになったのは、やはり明治維新の頃でしょう。「ソト」の欧米列強の植民地にされそうだという危機感は、「日本人」自らの手による「近代的」な国民国家建設の動きへとつながりました。

ただ日本の明治維新の場合、「近代国民国家」と言っても古代から続く王政の復古であり、「王権」(皇位)の正当性は、古事記・日本書紀の国産み神話と「万世一系」を唱える皇国史観に基づいていました。西欧の「国民国家」が、王権神授説に基づく絶対王政を否定した市民革命の後に成立し、個人の自由を尊重する「近代的」市民社会を形成しようとしたのとは大きな違いがあります。日本では、「臣民」は「国体」を護持するために存在しましたが、西欧では、市民の自由と平等を保障するために国家が存在したのです。

第二次大戦後、「戦前レジーム」に基づくナショナル・アイデンティティは否定されました。しかし、日本人論が依然として根強い人気を保ってきたのは、多くの人々が「国際社会」という「ソトの世界」を意識しつつ、「日本人」のあるべき姿を求め続けているからではないでしょうか。そして、それはひょっとしたら、かつての私と同じように、自らのアイデンティティを模索し、それをナショナル・アイデンティティと重ね合わせようとしている人が多数いるということなのかもしれません。

私のアイデンティティ探索の旅は、「私は、『日本人』である前に、『一人の人間』である」という発想が転換点になりました。国籍も文化も伝統も、捨てることができます。しかし、それらすべてを捨て去ったとしても、「私」という存在は残ります。その「丸裸の私」のアイデンティティを支えるものは何か、と考えた時、それはナショナル・アイデンティティではあり得ませんでした。「日本」を超えた何か、全世界の人々にアイデンティティを提供する何か、が必要でした。

それはおそらく、仏教、キリスト教、イスラム教のどれかではないかと思い、聖書その他の文献に答えを求め続けました。今は、イエス・キリストにより、「神の子ども」というアイデンティティが与えられていることを感謝しています。キリストは、信じるすべての人に、天上の国のアイデンティティを与えて下さるのです。

「すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた。この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。」(ヨハネ1:9-12、新改訳第3版)

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2007年12月19日 (水)

刷り込みからの自由

高校3年の時の同級生が、本を出版しました。「スポーツニュースは恐い 刷り込まれる〈日本人〉」というタイトルの新書です。野球やサッカーなどのニュースを通し、メディアは、情報の受け手である私たちが気がつかないうちに、「日本人」としての意識づくりをしていると指摘しています。

その本の中で、ベネディクト・アンダーソンという人の「想像の共同体」という書籍が紹介されていました。83年に出版された本で、「ナショナリズム論の必読書のようになっているから、読んだ人も多いだろう」と書かれていますが、私は不勉強なため、読んでいません。(苦笑)

アンダーソンによると、「国民」とは「イメージとして心の中に描かれた想像の共同体」だとのこと。言語、文化、遺伝的近親性(血縁関係)によって「国民」が形成されるというのは「共同幻想」であり、その幻想を形作るのは、日々、「共同体」内外の情報を発信している新聞等のメディアだと言うのです。

新書の別な箇所には、「日本人論」についても言及がありました。アメリカの日本研究者ブライアン・マクベイは、日本人論を、日本人の「特殊性」に関する「国を挙げての思索」だと言っているそうです。「日本は小さな島国だから、私たち日本人は○○である」という論理はしばしば耳にしますが、よく考えると論証不十分ですね。

ハルミ・ベフという社会人類学者は、日本人論は「現代の修身の教科書」とまで言い切っているようです。それは、「国民の文化的アイデンティティー」の源となっており、日本人論で書かれた通りに行動しないと「日本人らしくない」とみなされると言います。

これらを読んでいて、ハッと思い出したのは、私が洗礼を受けた前後のことです。私は大学入学以来、「日本人論」が好きで、よく読んでいました。その中には、「日本人は八百万の神々や諸仏を信じる多神教で、砂漠地帯で生まれた一神教は、日本の風土に合わない」、あるいは「日本には先祖伝来の信仰、神道や仏教がある。欧米のキリスト教は、日本人向けでない」といった議論が、よくなされていました。

クリスチャンになった後は、「日本人でなくなってしまった」ような感覚がありました。しかし、よく考えてみれば、憲法には信教の自由が保障されていますし、日本国籍を喪失したわけでもありません。クリスチャンになって神社仏閣、あるいは神棚や仏壇の前で手を合わせないようになったとしても、遺伝子がすべて組み替えられてはいないし、日本語を話し、白米や味噌汁を食べ続けています。

「切支丹(キリシタン)」や「耶蘇(ヤソ)」になったら日本人でなくなる、という意識は、ひょっとすると日本人論を読んでいるうちに、知らず知らずの間に私の心の中に「刷り込まれていた」のかもしれませんね。イエス・キリストが、真理を教えて下さり、私たちを「ナショナリズム」の幻想による呪縛から自由にして下さっていることを感謝します。

「…イエスは、その信じたユダヤ人たちに言われた。『もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。』」(ヨハネ8:31-32、新改訳第3版)

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2007年12月14日 (金)

韓国人と日本人

昨日は、鈴木啓之牧師をお招きし、人生やり直しの実体験に基づく、感動的なお話を聞かせていただきました。絶望的な思いをかかえて新宿の教会にとび込んだのは、ちょうどクリスマスの時期だったそうです。数々の悪事に手を染め、人からは決して赦されないようなことをしてきた自分。そんな自分であっても、神様は「高価で尊い」と言って下さり、愛して下さっていることを知った時、鈴木啓之さんの心の中に、初めて本当のクリスマスが訪れました。

韓国人の奥様は、暴力をふるい、自分と娘を捨てた夫をずっと待ち続け、神様に祈っていました。夫が突然、帰ってきた時、韓国からお母さんも来ていました。二人は、帰って来た啓之さんを責めなかったそうです。妻は夫を気遣い、涙で頬をぬらし、義母は笑顔で夕飯を用意してくれたとのこと。日本人の夫に苦しめられ続けた韓国人の妻が、夫を赦すことができたのは、キリストから与えられた愛のゆえでした。

(お二人については、以前の記事参照→ http://lifestream.cocolog-nifty.com/blog/2007/11/post_e4c2.htmlhttp://lifestream.cocolog-nifty.com/blog/2007/11/post_b376.html

韓国と日本は、ともに中国文明の周辺国として、兄弟のような歴史を辿って来ているように思います。中国大陸の文化・文物の多くは、朝鮮半島(韓半島)を経由して日本に入ってきたわけですから、韓国は日本の兄貴分にあたります。弟分が国を挙げて兄貴を足蹴にしたのは、上下関係が崩壊した下克上時代の覇者、豊臣秀吉の時が最初でしょうか。「天下統一」をアジア諸国にまで広げようとした秀吉は、中国・明王朝の征服を企て、朝鮮半島に侵攻。その後の日韓関係を大きく変える象徴的出来事となりました。

「脱亜入欧」を唱えて西欧近代文明にいち早く乗り換えた日本は、アジア各国を見下すようになり、日清・日露戦争勝利の後、韓国を併合します。「日帝」36年の支配を通して、日本は韓国人から言葉や姓名、土地財産を奪い、男は強制労働、女は慰安婦として連れ去り、反抗する人々を拷問し、虐殺したそうです。韓国・天安市郊外にある広大な規模の「独立記念館」には、日本人には見るに耐えないような数々の展示物があるようです。

この日韓近代史の中で、対照的な展開をみせたのが、両国におけるキリスト教でした。日本は「和魂洋才」を唱え、西洋の物質文明は受け入れるが、精神文明は拒否する態度をとります。神道を国家建設の土台とし、一時は仏教まで「外国の宗教」として排斥しようとしました。これに対して朝鮮半島では、神社参拝の強要に反発するクリスチャンたちが、抗日独立運動の中心的役割を果たしたようです。日本のナショナリズムは、キリスト教を拒絶しましたが、韓国のナショナリズムは、キリスト教が土台となったわけです。

現在、韓国では、クリスチャンが仏教徒よりも多く、人口の30%ほどを占めるとのこと。世界最大のプロテスタント教会は、韓国にあるヨイド純福音教会で、会員数は約80万人だと言われています。海外宣教にも熱心で、150カ国以上の国で活躍する1万人以上の宣教師数も、アメリカに次いで世界第2位だそうです。最近は、アフガニスタンでの韓国人宣教チーム拉致事件が世界中の注目を浴びました。

今後の韓国と日本の友好関係は、キリスト教が重要な役割を果たすように思います。たとえ「ヤクザな日本人」であったとしても、心から悔い改めて新しい良好な関係を築きたいと願うなら、キリストの愛に満たされた韓国の人々は、赦してくれるはずです。実際、私がこれまで出会った韓国人クリスチャンたちは、そのような心をもった人たちでした。

「悔い改め」とは、自分中心の生き方・考え方から、創造主なる神様の方向に向きを変えることです。神様は、どんな人に対しても、新しい「やり直し」の生き方を与えて下さいます。このクリスマスの時、イエス・キリストが与えて下さった愛と赦しの人生、和解の人生を感謝して受け取っていきたいですね。

「イエスは答えて言われた。『医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招いて、悔い改めさせるために来たのです。』」(ルカ5:31-32、新改訳第3版)

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2007年12月13日 (木)

中国人と共産主義

1949年、中国が共産主義国家になると、数年のうちにすべての宣教師は国外追放となり、教会は閉鎖、何千人もの中国人牧師が投獄され、多くのクリスチャンが反革命分子として処刑されたそうです。毛沢東の妻であった江青は、外国人の訪問者に、こう宣言しました。「中国のキリスト教は、博物館の歴史コーナーに封じ込められました。キリスト教は、死んで埋められたのです。」

しかし、キリストは死んで、よみがえられたお方です。中国のキリスト教も、死んで埋められただけでは終わりませんでした。教会がなくなり、一度は信仰を失いかけたリウ・ツェニンの母も、文化大革命が猛威をふるう中、神様に再び祈りをささげます。かつて国民党軍の指揮官だった夫は肺ガンに侵され、医師にも見放されていました。5人の子どもをかかえ、自殺をも考えていた時、神様の愛を思い起こしたそうです。

「イエス様、お父さんをいやして下さい」と家族で一晩、祈り続けた翌朝、死の床に臥せっていた病人は食事を欲するだけ回復し、1週間後には完全にガンが消え失せていました。集会は非合法だったので、何も告げずに親戚や友人を呼ぶと、人々は喪服で集まって来たそうです。元気なお父さんを見た人々はみな驚き、キリストに祈ったらいやされたと説明すると、全員が救い主イエスを信じました。

これが伝道者リウ・ツェニン、通称「ブラザー・ユン」の「16歳の原点」です。毛沢東語録以外の本を読むことが許されなかった時代、父をいやしてくれたイエスの言行録(聖書)は、読むことができませんでした。別の村に住んでいた元牧師に教えられた通り、何ヶ月も断食をして聖書が与えられるように祈ると、ある日、二人の見知らぬ男たちが禁書であった聖書を届けに来ます。一度も会ったことのない牧師が、神様から幻を与えられ、地中深くに隠してあった聖書を幻で見た若者に届けなさいと語られたそうです。二人の男は、その牧師に依頼されて訪ねて来たのでした。

ブラザー・ユンは迫害の中、イエス・キリストの福音を宣べ伝え、繰り返し投獄された後、九死に一生を得て奇跡的にドイツへ亡命します。「西へ東へと行って、わたしの証人となりなさい」と命じられた神様に人生のすべてを捧げ、彼は今、世界各地で神様のことばと中国における奇跡のエピソードを伝えています。

共産主義が説得力を失ってしまった中国本土において、クリスチャンは増加しています。ブラザー・ユンのような伝道者は、特に珍しいわけではありません。クリスチャン総数は、「家の教会」(無神論の共産主義を信奉しないため非合法とされ、取締り対象となっている教会)を含めると、人口の10%にあたる1億3000万人に及ぶとも聞きます。このままのペースが続くと、クリスチャンの絶対数でアメリカをも抜き、世界最多になりそうだという予測もあります。

共産主義は、一切の財産を共有し、貧富の格差がなく、すべてが平等なユートピアを目指していたように思います。しかし、そのような理想郷建設運動は幻想に過ぎない、というのが、20世紀の社会主義各国における壮大な実験結果と言えるのではないでしょうか。

神様は、豊かな人も貧しい人も、同じように愛しておられます。神様の愛を知り、自分に与えられた力を十分に生かして働き、愛に基づいた社会を築こうとする時、それぞれの人が「神の国」というユートピアを体験できるのです。一部のエリートが社会全体の人や財産を管理しようとしても、うまくいきません。すべては、神様が恵みとして与えられ、神様が管理・監督されているからです。

「富む者と貧しい者とは互いに出会う。これらすべてを造られたのは主である。」(箴言22:2、新改訳第3版)

(本日のブログは、ブラザー・ユン著「天国の人」マルコーシュ・パブリケーションを参考にさせていただきました。)

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2007年12月12日 (水)

ロシア人と無神論

「宗教はアヘンである」という言葉を残したカール・マルクスは、ユダヤ系ドイツ人で、両親ともラビ(ユダヤ教指導者)の家系だったそうです。父は、キリスト教(プロテスタント)に改宗し、弁護士として活躍。カールも6歳の時に洗礼を受けたようですが、後に信仰を捨て、無神論者となります。

目に見えない世界を拒否し、目に見える世界だけで人類と社会のすべてを把握しようとした時、唯物史観と科学的社会主義が生まれました。そしてマルクスらの理論を土台として、1917年、ロシアに史上初の社会主義革命が勃発します。他国からの干渉戦争や内戦を鎮圧した5年後には、ソビエト連邦(ソ連)が誕生しました。

無神論を新社会建設の基盤とするソビエト政権にとって、教会は邪魔者です。スターリンは、「ソビエト宮殿」建設を名目として、クレムリン(旧ロシア帝国宮殿)の向かい側にあったロシア正教会の大聖堂を爆破し、破壊しました。連邦内の数々の迫害を象徴するような出来事でした。爆破された「救世主ハリストス大聖堂」は、ナポレオン戦争の勝利を記念し、コンスタンティノポリスの聖ソフィア大聖堂をモデルとして建設された聖堂だったそうです。

ところが、第二次大戦や軟弱な地盤などの問題により、結局、新宮殿は建設されず、同地には市民プールが造営されたとのこと。ソ連崩壊後の1994年に大聖堂再建が開始され、2000年に完成。細部に至るまで、忠実に再現されたそうです。正教会に集う人も増加しつつあり、ロシア正教会の総主教は数年前のクリスマスメッセージで、「教会の再生は奇跡であり、わが偉大な国がより強くなることはますます明確である」と語ったとのこと。ロシアにおいて無神論は、結局、正教会の信仰には勝てなかったようです。

プーチン大統領も、正教会の信者だと伝えられています。大統領は、ロシア社会に大きな影響力を保持する正教会に選挙協力を要請し、下院選に圧勝しました。後継大統領候補を指名し、自身は大統領の任期満了後、首相に就任しそうです。「モスクワは第三のローマである」と称したロシア帝国時代、国家は正教会の守護者という位置づけだったようです。無神論政権の崩壊と正教会の再生により、ロシアにおける国家と教会の復縁関係は、今後も蜜月状態が続きそうです。

マルクスとエンゲルスは、「科学的」な社会主義を唱えました。「科学(science)」とは、ラテン語の「知識(scientia)」を語源とする言葉です。一国の指導者は、正しい知識に基づいて国を治めてほしいですね。それは、無神論的な唯物史観からではなく、創造主なる神様から与えられるものだと、聖書は教えています。

「よい分別と知識を私に教えてください。私はあなたの仰せを信じていますから。」(詩篇119:66、新改訳第3版)

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2007年12月 7日 (金)

和の国の大祭司

7年ほど前、天皇の国事行為に責任をもつ内閣総理大臣が、日本は「天皇を中心としている神の国」だと発言し、論議をよびました。憲法の規定する国民主権や政教分離の原則に反するのではないか、という批判がなされたようです。天皇が「日本国と日本国民統合の象徴」とされている限り、天皇が日本の中心にいるという考え方には、一理あります。

私が引っかかったのは、「神の国」の方でした。発言の場は、神道関係の会合だったようで、それは明らかに、「八百万の神々を奉る国」という意味として理解されました。日本には、神道の神々を信じない人たちも多くいるわけですから、これは「日本は単一民族だ」という発言同様、内閣総理大臣の発言としては配慮がなさすぎます。

日本は、「神の国」より、「和の国」という呼称の方がふさわしいように思えます。「和」は、日本を表す言葉として古くから用いられており、「和をもって貴しとなす」という原則は、聖徳太子の時代以来、日本人のDNAに組み込まれてきているように感じます。「ソト」の世界に対しては攻撃的な側面を見せたりしますが、「ウチ」の世界においては、和を保つことが重要視されます。「平和主義」という日本国憲法の原則も、「和」の伝統とマッチしています。

天皇は、この「和の国」の象徴とされています。聞くところによると、天皇家で最優先されるのは、国事行為などのいわゆる公務ではなく、宮中祭祀を中心とした「神事」だそうです。君主として内閣が指定した政治活動に関わることよりも、祭司として神を礼拝し、祈りをささげることを第一の使命と考えている、ということですね。

古代イスラエルでは、祭司は世襲でした。祭司の長は「大祭司」と呼ばれ、モーセの兄・アロンの子孫が代々その職を継承しました。大祭司は、全国民を代表して神殿で礼拝をささげ、年に一回、神殿最奥部にあたる「至聖所」に入り、創造主なる神とその選びの民の「和」を特別な方法で祈り求めました。

皇室の宮中祭祀は、ブラックボックスのようで、中でどのようなことが行なわれているのか、実際はよく分かりません。政教分離の原則に沿い、天皇家の私的な活動として位置づけられているそうですが、日本の安寧と繁栄、世界の平和を祈願しているようです。これは、まさに「和の国の大祭司」のようですね。

もし、天皇家の私的な活動であるなら、信教の自由は保障されるはずです。皇室の方々がみな創造主なる神、救い主イエス・キリストを信じ、クリスチャンとなっても、それはご本人たちの選択であり、周りの人がとやかく言うべきでないということになります。神道の神々には、世界の平和をもたらす力があるかどうか、定かではありません。しかし、全能の神、「天の王」たるキリストには、その権威と力があります。

イエス・キリストは、全世界に広がる「神の国の大祭司」とされています。人類を代表して十字架につかれ、その血潮により人々の罪をつぐなわれ、永遠の「贖(あがな)い」、つまり創造主なる神様との「和」をもたらして下さいました。大祭司イエスを信じる私たちが、「キリストを中心とする神の国」の一員とされていることを感謝します。

皇室関係者には、すでに多くのクリスチャンがいる、という話も聞いたことがあります。本当かどうか確かめようがないですが、天皇家の人々も、創造主なる神様による永遠の祝福を受け取ってほしいですね。それは、象徴たる天皇家のみならず、確実に「和の国」全体の祝福へとつながります。

「しかしキリストは、すでに成就したすばらしい事がらの大祭司として来られ、…ご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられたのです。」(ヘブル9:11-12、新改訳第3版)

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2007年12月 6日 (木)

国の象徴

牧師の仕事の一つは、毎週の礼拝でお話しすることです。人によって、準備の仕方はいろいろあると思いますが、私の場合、先ず祈りをもって聖書箇所を決め、その部分を何度も繰り返し読み、気になる言葉の意味を調べ、中心のテーマと3つほどのサブテーマを抽出し、アウトラインを作成するというプロセスをふみます。学生の頃、よくやった「単語・熟語の意味調べ」を、毎週するわけです。

聖書を解釈するには、文脈と歴史的背景を理解した上で、意味を理解することが大切です。ある言葉や表現が、現代日本に生きる私たちとはまったく違った文化の中で、異なる意味やニュアンスをもっているかもしれないからです。海外や昔の小説を読む時は、描かれている世界に行ったつもりで、想像力を働かせて読まなければ、理解しにくい部分があります。聖書も同じことです。

昨日、日本国憲法を読んでいて気になった単語は、「象徴」でした。天皇は、「日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」だというのは、どういう意味なのでしょうか。私は、昨日のブログで書いた通り、憲法学はまったくの素人ですから、専門家の方々がこれをどう解釈するのか詳しくは知りません。ただ国民の一人として、憲法条文の意味を理解しておく必要はあります。

手元の辞書を開くと、「象徴」は「シンボル」の訳語で、「抽象的なものを具体的なもので例えること、また、その表したもの」とあります。「日本の国」を具体的に表すイメージとしては、日の丸や桜、富士山などがよく挙げられます。人物では、聖徳太子や福沢諭吉が、1万円札の肖像として選ばれています。憲法が規定する日本の代表的なイメージは、天皇だということですね。

ただ、調べていて、ちょっと気になることがありました。それは1942年6月、真珠湾攻撃から半年後のミッドウェイ海戦時に、米英両軍は、天皇を「平和のシンボル(象徴)」として利用する戦略をもっていたというのです。日本国憲法生みの親(?)のマッカーサー元帥も、それを承知していたと言います。

http://www.lib.hit-u.ac.jp/service/tenji/linebarger.html

とすれば、天皇が和平を希望し、米軍が「錦の御旗」を掲げる官軍となった瞬間、「天皇陛下万歳」と言って戦ってきた旧日本軍は「朝敵」、つまり賊軍になったことになります。確かに戦後の歴史は、そのように動いたわけですが、これは皮肉ですね。日本史と天皇の位置づけをよく研究していた当時のアメリカは、やはり一枚上でした。イラクにも「象徴」となる人がいたら、状況はずいぶん違っていたかもしれませんね。

神の国(天国)とその民を象徴するものの一つに、ぶどうの木があります。イエス・キリストは、「まことのぶどうの木」であり、神の国と神の民統合の象徴です。キリストを信じる世界中の人々が、一つの大きな木に連なる枝として、豊かな実を結ぶ者とされていることを感謝します。

「わたしはまことのぶどうの木であり、…あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。」(ヨハネ15:1&5、新改訳第3版)

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2007年12月 5日 (水)

天皇の人権

昨日のブログを書いた後、ふと気になったのは、天皇には基本的人権が保障されているのかということです。私は、法律の専門家でなく、小・中・高の社会科と大学教養の法学の授業を、それもずいぶん前に受けただけなので、詳しい解釈は分かりません。ただ、素直に日本国憲法を読む限り、天皇は日本国民統合の象徴であるにも関わらず、日本国民ではないようです。

とすると、日本国民に保障されている基本的人権が、憲法上、天皇には保障されていません。天皇は、主権の存する日本国民の総意にその地位がゆだねられ、日本国の象徴として生き、国事行為については、国民の代表である内閣の助言と承認が必要です。その一挙手一投足がすべて国民の監視下にあるようなもので、これでは見方を変えると、国民の奴隷のようです。

信教の自由や表現の自由、職業選択の自由も保障されていないのではないでしょうか。聖書的な観点からすると、信教の自由が与えられていないのは、たとえ本人が創造主なる神に救いを求めたとしても、それを周りの人がとどめていることになり、これ以上の奴隷的拘束はないように思えます。

皇太子が結婚される以前、妃候補の条件の一つに、「クリスチャンでないこと」という項目があったという話を聞いたことがあります。その真偽は確かめようがありませんが、皇室が関わる儀式がすべて神道に基づくものであり、天皇家の人々はそれを一切変更できないとしたら、神道の儀式を拒否するクリスチャンは、敬遠されるに違いありません。

しかし、もし天皇家の人々がイエス・キリストの救いを信じ、クリスチャンになりたいと言ったら、主権をもつ国民は、その人々の信教の自由を尊重してあげるのでしょうか。「私はイエス・キリストを信じます」と公表したいと言ったら、表現の自由を尊重するのでしょうか。天皇になりたくない、あるいは辞めたいと言ったら、職業選択の自由を守ってあげるのでしょうか。基本的人権が保障され、主権者とされた国民には、天皇家の基本的人権も尊重する責務があるはずです。

イエス・キリストは、すべての人に自由を与えるため、私たちのもとに来て下さいました。罪からの自由、奴隷状態からの自由、絶望の暗闇からの自由、死からの自由です。その対象者は、全世界の「国民」だけではありません。国民の象徴である天皇家の人々にも、神様の救いは約束されているのです。

キリストが、世界中の人々に恵みを注いで下さっていることを感謝します。

「主はわたしを遣わされた。捕らわれ人には赦免を、盲人には目の開かれることを告げるために。しいたげられている人々を自由にし、主の恵みの年を告げ知らせるために。」(ルカ4:18-19、新改訳第3版)

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2007年12月 4日 (火)

天皇制

私たちの教会が属する教団は、2000年に日本宣教50周年を迎え、それを機に内規をきちんと明文化し、明確なルールに基づく運営体制を整えていこうということになりました。私は、その前年に規約委員に選ばれ、内規案作成と制定のプロセスに深く関わりましたが、それはたいへんな作業でした。50年間、共有化されていなかったルールを新たに文章化し、考え方の異なる人々の間で議論を戦わせ、合意を得る作業というのは、クリスチャン同士であっても、そう簡単ではありません。

内規が制定されて良かったことは、上に立つ人の責任と権限が明確になったことです。牧師や教会役員はもちろん、理事や教区長といった教団役職者が具体的に何をすべきであり、その権限はどこまでの範囲なのか、今は内規にはっきり明記されています。ルールが明確でなければ、リーダーの権限が無限に拡大したり、あるいは逆に限りなくゼロに近づくことも、可能性としてあり得ます。

戦前の日本において、そのような状況が発生したのは、天皇の責任と権限に関してでした。大日本帝国憲法の規定では、「神聖不可侵」なる天皇が軍の統帥権を保持することになっていました。現人神(あらひとがみ)である天皇には、無限の権限があったようにも思えますが、しかし、明治新政府において実権を握っていたのは、よく知られているように薩長土肥出身者を中心とする藩閥、維新の元勲だったのです。

元勲たちがいなくなった後、天皇の統帥権を盾にとる軍部は、暴走していくことになります。中央政府が最前線の部隊に引っ張られるような形で、対外戦争に突入していった時、天皇の統帥権が十分に発揮されていたかというと、そうではありませんでした。実際の政治的権限は、限りなく縮小されていたのです。敗戦後、昭和天皇の戦争責任が問われなかったのも、そのような経緯によります。

日本国憲法では、天皇は日本国と日本国民統合の象徴と位置づけられ、その地位は国民の総意に基づく、と規定されています。また天皇は、国政に関与せず、定められた国事行為のみ行い、その責任は内閣が負っているとも記されています。責任と権限の明確化という意味では、これはたいへん良いことです。

古代イスラエル王国には、王、祭司、預言者という3種類のリーダーたちがいました。王はもちろん、政治的な権限を有する人。祭司は、神への礼拝を司る人。そして預言者は、神からのメッセージを語る人です。現代日本における王は内閣総理大臣(と行政組織?)、祭司は天皇、そして預言者に相当するのはマスコミに登場するコメンテーターたち、というところでしょうか。王や預言者的な働きをする人たちには、不満を感じることもありますが、天皇家と皇族の方々は、憲法に定められた役割を実に忠実に果たされてきたように思えます。

「天の王」たるイエス・キリストは、同時に祭司であり、預言者であると記されています。キリストは、神の愛のメッセージを伝えるため私たちのもとに来られ、自らいけにえの小羊となって人類を代表して神への礼拝をささげ、今や全世界の王として、すべてをその手に治めておられます。紀元前14~15世紀頃、モーセが次のように預言した通り、イエス・キリストが地上に来て下さったことを感謝します。

「あなたの神、主は、あなたのうちから、あなたの同胞の中から、私のようなひとりの預言者をあなたのために起こされる。彼に聞き従わなければならない。」(申命記18:15、新改訳第3版)

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