学校
アメリカにいた頃、ホームスクーリングをしている家庭が多くありました。公立学校は反キリスト教的で荒れており、また私立学校は学費が高いため、クリスチャンの友人たちは、子どもたちを自宅で自ら教えていたのです。そのための教科書もカリキュラムも、しっかりしたものが整備されていたようです。
帰国した時、長女は小1でした。どのように育てるかについては、いくつか選択肢がありましたが、結局、近くの公立学校に通わせることにしました。聖書を土台とした価値観と人格形成については、家庭と教会が責任を負っています。「現代社会の基礎知識」と対人関係能力については、さまざまな子どもたちが集まる公教育の場で経験をつみ、習得した方が良いのではないかと考えたからです。
ある年の小学校の入学式で、学校関係の方が、このように言いました。「これまでは保護者の方々がお子さんたちを教え、育てて来られたわけですが、これからは私たちに任せて下さい。」たいへん申し訳ありませんが、私としては、先生方にすべてお任せするつもりはありませんでした。子どもの教育の責任は、親が負っているというのが、聖書的な原則だからです。
先生方が子どもたちに関わるのは、せいぜい数年間ですが、親は縁切りでもしない限り、一生です。一定期間、それも週日の日中だけ時間を過ごし、特定の限られた内容を学習したとしても、それが子どもたちが学ぶべきことのすべてではありません。何のために生きるのか、人生に意味があるのか、人はどこから来てどこに行くのか、世界はなぜ存在しているのか、については、国家主導による公教育は良くて口を閉ざし、悪ければ私たちの信じる聖書と違う内容を教えたりします。
幸い、うちの子どもたちが通ってきた公立学校は、ひどく荒れはせず、また先生方も私たちの信仰に理解を示してくださる、誠実な方々でした。子どもたちは、感謝なことに三人とも自らの意思で洗礼を受け、教会の集会に集い、朝は一言祈ってから学校に出かけます。「知識習得」以外にも、児童会書記局に選ばれたり、クラスや部活動でリーダーシップのあり方を学んできました。
いわば、家庭と拡大家族である教会をベースとして、「他流試合」か「武者修行」のために、学校に通わせて来たようなものかもしれません。しかし、あくまでも家庭と教会で教える聖書のことばが土台です。「主を恐れること」、つまり創造主なる神様を信じ、その教えに従うことが、人生の基本だからです。
子どもたちは、基本に忠実に歩み、神様の祝福をたくさん受けていってほしいですね。子どもたちのみならず、親である私たちも、子どもたちに良い模範を示していきたいものです。(冷汗)
「主を恐れることは知識の初めである。」(箴言1:7、新改訳第3版)
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