コンセプト

2008年8月 8日 (金)

復活した「リーダー養成所」

アメリカの神学校で教会増殖運動について学んだ時、七飯での教会開拓について詳細な企画書をまとめました。(宿題の一つでした。)日本に帰ってからその要旨を翻訳し、函館の親教会に提出。正式な手続きを経て承認を受け、1996年夏から七飯シオン教会は、一つの教会として本格的にスタートします。

最初から教会増殖を視野に入れた開拓でしたから、企画書段階からリーダー育成が一つの柱でした。新たなリーダーが育たなければ、新たな教会も生み出せないからです。リーダー育成は勉強中心ではなく、ミニチャーチ(小グループ)を活用した現場での実地訓練と師弟関係(メンタリング、コーチング)によって行うというのが、七飯開拓の肝でした。

教会が始まってまもなく、函館の親教会から移ってきた人から、マクノートン宣教師の思い出話を聞きました。最初の七飯会堂が建った1960年代、同宣教師は、この地に神学校建設のビジョンを抱いていたというのです。次代を担うリーダー育成という点では、奇しくも方向性が共通しており、私はたいへん感銘を受けました。

七飯の教会は、「死んでよみがえった」教会です。函館で新会堂建設計画が持ち上がった時、七飯伝道にビジョンのなかった当時の牧師が、旧七飯会堂の土地建物を売却してしまいました。ところがその後、函館の新会堂建設が牧師交代等のさまざまな事情から、大幅に延期されます。

時はバブルの最盛期。銀行に預けておいた新会堂建設資金は、利子が大きく膨らみます。函館の新会堂は、元金だけで建設が可能でした。七飯会堂がなくなってしまったことに心を痛めていた古くからの教会員たちもおり、利息は七飯の新会堂建設のために用いられることになったのです。こうして1993年に会堂が建ち、七飯の伝道拠点がよみがえりました。

そこに一組の夫婦が遣わされます。ご主人は札幌の聖書学校に学び、伝道師となって一度札幌の教会をまかされますが、すぐに函館教会の一スタッフに転任します。その後、ブライダルの働きが中心となり、七飯開拓が始まった頃は、函館の牧会スタッフからも外れていました。

この夫婦は、忠実に七飯の働きを支えて来ました。いくつかのミニチャーチのリーダーを務め、礼拝賛美のリードと奏楽を担い、またあちこちに出かけて人々に福音を伝えて来ました。ご主人は、教団で新たに採択された規約に基づき2002年に教団教師と認定され、七飯シオン教会の正式な協力牧師となりました。来春から私が所沢に異動するにあたり、今度は彼が七飯教会の主任牧師に任命されることになります。

神様は、確かに七飯の教会を「リーダー養成所」として復活させ、用いて下さいました。私がこの七飯の地に遣わされたのは、ひょっとしたらマクノートン宣教師の「仕事の整理」をし、長老(牧師)を任命するためだったのかもしれませんね。創造主なる神様の「深謀遠慮」に感謝します。

「私があなたをクレテに残したのは、あなたが残っている仕事の整理をし、また、私が指図したように、町ごとに長老たちを任命するためでした。」(テトス1:5、新改訳第3版)

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2008年8月 1日 (金)

結実への訓練

私たちが「水路のそばに植わった木」となり、豊かな実を結んでいくための条件は、「愛(i)の流れ」だと昨日、書きました。それは、「おしえ(instruction)」、「おはなしと満たし(intimacy & infilling)」、「おこない(impact)」の三つからなる流れです。私たちが、天の父なる神様からいつも教えを受け、「親子」のコミュニケーションを欠かさず、その愛で満たされていく時、聖霊の水が心のうちから外側へと流れ出し、愛する生き方の実を結んでいくのです。

こうした生き方を一人ひとりがしていくため、神様は私たちに訓練の機会を与えて下さり、またその手助けをする人たちを遣わして下さいます。訓練には、大きく分けて三つの方法があります。非公式な「師弟関係」による訓練、短期的な講習会による訓練、そして正式な教育機関による訓練の三つです。

多くの場合、牧師などの教会指導者になるためには、聖書学校や神学校で勉強することが必要と考えられています。そのような正式な教育機関には通常、優秀な講師陣が集められ、総合的に多くの学びをすることができます。しかし、教育機関における訓練は、どうしても知識偏重になりやすく、また勉強のために奉仕の時間が犠牲になったり、教会を一時的に離れ都会に移り住まなければならなかったりします。

セミナーや特別集会などの短期的講習会は、正式な教育機関ほどの時間的制約はありません。そして、深い学びにふれられるメリットがあります。しかし、もちろん一回に学べることは特定のテーマに限定されていて、広い分野の学びをするには、たいへん長い期間を必要とするでしょう。

「非公式な師弟関係」というのは、親子や先輩・後輩の関係、師匠と内弟子の関係、指南役とインターンや丁稚などとの関係のことです。こうした関係を通して、日常生活と直接つながった「実地訓練」がなされるため、学ぶ内容は実践的・実用的です。しかし同時に、学べる範囲には自ずと限りがあり、また「師匠」の質(特に品性)に左右される弱点があります。

一つの教会で牧師や教師の働きをする人は、公式・非公式さまざまなケースがありますが、たいていの場合、「師弟関係」を通して人々を訓練していると言えるでしょう。「弟子」にあたる人が、「水路のそばに植わった木」として大きく成長し、豊かな実を結んでいく手助けをするため、大きな責任を担っています。

「師匠」の務めを与えられている人は、「弟子」にあたる人々が「いのちの水」によって健やかに成長し、「愛(i)の流れ」を体験・実践する訓練が受けられるよう、いつも心を配ってあげたいですね。そのためには先ず「師匠」たちが、「弟子」や教会全体の成長プロセスをすべて自分たちのコントロール下に置こうとする人間的な「支配欲」を捨て去り、自ら本当の「愛(i)の流れ」を体験し、日々の生活の中で実践する模範を示していかなければなりません。

「あなたがたのうちにいる、神の羊の群れを、牧しなさい。…卑しい利得を求める心からではなく、心を込めてそれをしなさい。あなたがたは、その割り当てられている人たちを支配するのではなく、むしろ群れの模範となりなさい。」(1ペテロ5:2-3、新改訳第3版)

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2008年7月31日 (木)

水路のそばに植わった木

教会駐車場のリンゴの木には、またたくさんの実がつき始めています。先日、教会員のある人に話を聞くと、本当はきちんと選別して刈り込みをした方が、美味しい実がなるとのこと。ただ、私たちの教会のリンゴは観賞用なので、たくさん実がなっていた方が嬉しい気持ちがします(笑)。(教会のリンゴの木については、こちらもどうぞ→ http://lifestream.cocolog-nifty.com/blog/2007/07/7_b753.html

聖書の中で、私たちのあるべき姿は、「水路のそばに植わった木」に例えられています。日本は水が豊かなので、土さえ良ければどこでも木は育ちそうですが、聖書が記された中東の地は砂漠が大きく広がる一帯です。樹木が育つためには、水の流れに近いかどうかが必須条件だったのでしょう。

「水の流れ」は、創造主なる神の霊、つまり聖霊の自由な働きを象徴しています。聖霊の流れによっていつも私たちの心が神様の愛で満たされ、潤っている時、神様は私たちを人格的に大きく成長させ、豊かな実を実らせて下さるのです。(「実」については、こちらもご参考まで→ http://lifestream.cocolog-nifty.com/blog/2008/05/15_11b7.html

「水路のそばに植わった木」になるためには、詩篇1篇に三つの条件が記されています。第一の条件は、「おしえ(instruction)」です。私たちが健やかに成長するため、創造主なる神様はどんなことを教えられているのか、私たちは聖書のことばを通して学んでいく必要があります。

第二の条件は、「おはなし(intimacy)」です。神様の教えをいつも「口ずさみ」、黙想し、それが自分の日々の生活にどのような意味を持っているのか、祈りをもって神様に直接お伺いします。私たちが神様に近づいて「おはなし」する時、神様は私たちの心を喜びで満たして(infilling)下さいます。

第三の条件は、「おこない(impact)」です。神様の愛を教えられ、その愛で満たされた私たちは、周りの人々に愛をあらわしていく生き方が期待されています。それは、「罪人の道」から方向転換した人生であり、「悪者のはかりごと」や隣人への嘲笑などとはまったく無縁の新しい生き方です。

私たちの教会では、この三つの条件を「愛(i)の流れ」と呼んでいます。「愛(i)の流れ」は、キリストを信じる私たちの心に住まわれる聖霊が、私たちに真理を教え、歩むべき道を示し、喜びで満たし、そして愛をあらわす行動となって外側に流れ出していく働きです。

この聖霊の自由な流れを、人間のくだらない私心によって押しとどめないようにしたいですね。私たち一人ひとりを造られ、育てて下さっている神様は、私たちが人格的に大きく成長し、素晴らしい実を結んでいくことを楽しみにしておられるのです。

「幸いなことよ。悪者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、あざける者の座に着かなかった、その人。まことに、その人は(創造)主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ。その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える。」(詩篇1:1-3、新改訳第3版)

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2008年7月25日 (金)

「郷づくり」のミッション

召命の「お試し期間」(昨日のブログ参照)が終了した1995年、私は米国留学から帰国し、沖縄で牧師認定の「按手礼」を受けました。ちょうど浦添市で私たちの教団会議が開かれ、アメリカとアジア各国から指導者たちが集まっていた時です。メイン・スピーカーは、ハワイのラルフ・モア牧師でした。(ラルフ・モア牧師については、こちら→ http://lifestream.cocolog-nifty.com/blog/2006/10/post_c6f9.html

私の新たな任地は、函館郊外の七飯町でした。七飯町は、幕末最初の開港地の一つである箱館近くに位置するため、意外と早くからプロテスタント宣教の種がまかれています。

1874年に函館を訪れたメソジストのM・C・ハリス宣教師と聖公会のデニング宣教師は、七飯を含む近郊の農村にも伝道しました。当時、七飯は明治新政府によるパイロット農場が建設され、欧米の先進的農業を北海道に広めるための拠点でした。(函館のプロテスタント宣教開始については、こちら→ http://lifestream.cocolog-nifty.com/blog/2007/10/post_133a.html

七飯シオン教会の前身となるのは、カナダから来たマクノートン宣教師による伝道です。同師は、1934年の函館大火後この地を訪れ、函館を中心とした宣教活動を進めるとともに、国立七飯療養所(現在の「ななえ新病院」)での伝道も開始。1963年には、旧七飯会堂を建設します。日曜学校や婦人会等を行い、将来的には七飯に神学校を建設するビジョンも抱いていたそうです。

単立教会から派遣されていたマクノートン師は、引退するにあたり、その働きを神学的に近かったフォースクエア教団に引き継ぎます。七飯においては定期的な家庭集会や教会学校、音楽伝道やミニチャーチなどが続けられてきました。1993年には新会堂が建設され、正式な教会設立に向け、準備が整いつつありました。

「いのちの水の郷(さと)」づくりのビジョンが与えられていた私は、函館の親教会の承認の下、「株分け」方式による教会開拓を始めます。開拓に重荷を持ち、ビジョンに賛同する人たちが、自由に開拓チームに参加または支援をするという方法でした。(「いのちの水の郷」については、こちら→ http://lifestream.cocolog-nifty.com/blog/2008/01/post_6808.html

それから、はや10年余りが経過しました。最初数年の「郷(さと)づくり」は、主として七飯町近辺のみの活動だったのですが、次第に全国各地の教会ネットワークとのつながりが深められてきました。そして私たちの歩みを通し、「郷づくり」は、次の4つの柱によって支えられることが徐々に明確になって来たように思います。

第一の柱は、聖霊の豊かな流れ(Current)。第二の柱は、コミュニティの形成(Community)。第三の柱は、リーダー育成と派遣(Change Agents)。そして第四の柱は、ネットワーキング(Connecting)です。私たちは、これを「4つのC」と呼んでいます。

創造主なる神様が、私たちを「郷づくり」のミッションのため、七飯に遣わして下さったことを感謝します。郷長(さとおさ)なるイエス・キリストの下、聖霊の流れに心いやされるオアシスのようなコミュニティが、少しずつ築かれて来ました。同じようなビジョンを共有する他教会とのネットワークが広がり、リーダーが成長し、新たなミッションのために各地へと遣わされつつあります。

私たちは信仰の父アブラハムのように、神様から示される任地へいつでも赴き、人々に祝福をもたらすミッションを完了していきたいですね。

「あなたがたは…神がアブラハムに、『あなたの子孫によって、地の諸民族はみな祝福を受ける』と言って、あなたがたの父祖たちと結ばれたあの契約の子孫です。」(使徒3:25、新改訳第3版)

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2008年1月18日 (金)

いのちの水の郷

「いのちの水の郷(さと)」というコンセプトは、七飯における教会設立準備の祈りの中で生まれました。

帰国する直前の1995年、私は新しい教会のビジョンを祈り求めていました。その時、LA郊外のパサディナ市で、ジョン・アーノット牧師によるリニューアル集会が開かれたのです。主催したのは、いわゆる「トロント・ブレッシング(Toronto Blessing)」の流れの中にあった韓国系のチェ・アン牧師(ハーベスト・ロック・チャーチ)で、そのリニューアル運動を南カリフォルニアにも波及させようとしているようでした。

私が出席した集会で、アーノット牧師は、旧約聖書・エゼキエル書の47章を開きました。そして、神殿から世界中に流れ出す「いのちの水の川」の話をしたのです。聖霊の「川」が流れ入る所には、いのちが与えられ、すべての回復がある。しかし、入らない場所、聖霊の流れを拒否した「沢」と「沼」には、いのちも回復もない、というメッセージでした。

集会には聖霊の圧倒的な臨在が感じられ、メッセージ後、いやしと回復、霊的な刷新を願う人々が祈りを求めて長蛇の列をなし、多くの人が神の力により倒れ、しばらく横たわり、涙を流し、また別な人たちは神様に叫び声を上げ、賛美し、あるいは踊っていました。私は、この聖霊の「いのちの水」の流れが、日本にも及んでほしいと切望しました。

私の赴任が内定していた七飯という場所は、LAや東京などの大都市とは違い、のどかな田舎町です。超教派の人々が大勢集まる都市型のリニューアル集会、リバイバル集会などとは、縁遠い場所に思えました。その代わり田舎は自然が豊かで、「故郷(ふるさと)」というイメージが丁度ぴったりです。聖書の中にも、「天の故郷」という言葉があります。

そこで、「いのちの水」が豊かに流れる「天の故郷」という意味を込めて、「いのちの水の郷(さと)」というコンセプトが生まれたのです。イエス・キリストは「郷長(さとおさ)」であり、救い主に従う私たちは、「郷(さと)の民」です。心に渇きを覚え、「いのちの水」を求める人は、いつでも誰でも、それを飲むことができます。今も再建中のこの郷は、時が来たらすべてが完成され、世界中から集められた郷の民は、この永遠の故郷で天上の祝福をいつまでも味わい続けることができるのです。

「lifestream community」というこのブログのタイトルも、もちろん、「いのちの水の郷」から来ています。創造主なる神様から与えられる「いのちの水」によって救われ、いやされ、回復が与えられる人が七飯、日本、そして全世界において、さらに増えていってほしいですね。

「渇く者は来なさい。いのちの水がほしい者は、それをただで受けなさい。」(黙示録22:17 、新改訳第3版)

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2008年1月17日 (木)

「いのちの水」の大波

韓国YWAMチームが今朝、高速バスに乗り、札幌に出発しました。そちらに1週間ほど滞在し、教会のお手伝いをした後、韓国に帰る予定のようです。2週間近くの七飯滞在が祝福され、無事に送り出すことができたことを感謝します。

私たちの教会に来るチームは、ソウルの大学生たちで、普段は毎週木曜日に大きな集会があり、何百名もの若者たちがともに神様を礼拝していると聞きました。彼らが日曜日に集う教会も、大きな教会が多いようです。私たちの教会に来た人たちは、小さな集まりの家族的な雰囲気を楽しんでくれるようです。都会の洗練された大集会とはまた一味違った、田舎の素朴な人情味が感じられるのではないでしょうか。

ソウルは、あまり雪が降らないそうです。チームの人は雪があると喜んでくれるようなので、毎年、この時期になると天候が気になります。今シーズンは、暮れの29日に大雨が降り、それまでに降り積もった雪がすっかり無くなってしまいました。「今年は雪なしかなぁ」と思っていると、不思議なことに、彼らの来訪に合わせたかのように、再び一面の雪景色となりました。チームの一人は、「北海道ではこんなに雪が降るとは思いませんでした」と言っていました。神様がきっと、雪を通しても、彼らの訪問を祝福して下さったのでしょう。

チームを札幌に送り出す直前、ふと彼らが、私たちの教会から流れ出す「水の流れ」のように感じました。YWAMのビジョンは、先日の記事に書いた通り、若い人たちが神様の愛のメッセージを携えて、世界中に押し寄せる波になることだそうです。(http://lifestream.cocolog-nifty.com/blog/2008/01/post_5ee3.html

私たちの教会のビジョンは、「いのちの水の郷(さと)」を築いていくことです。(http://homepage3.nifty.com/nanaezion/vision.htm

「いのちの水」とは、創造主なる神の霊(聖霊)の象徴です。イエス・キリストを信じる人は、聖霊が心のうちに住んで下さり、この神様の霊によって私たちは、愛と喜びで満たされた生き方ができるようになります。そのような人々が、互いに愛をもって支え合うコミュニティー(共同体)を、私たちは「いのちの水の郷」と呼んでいます。

今朝ふと感じたのは、世界中に溢れ流れて行く「いのちの水」のビジョンは、人の流れのことも言い表しているということです。聖霊に満たされた人々は、世界各地に遣わされ、悲しんでいる人、苦しんでいる人、困っている人、弱っている人たちに、「いのちの水」による新しい生き方の祝福を伝えることができます。

毎年来てくれる韓国YWAMチームは、神様の水の波となって、私たちの教会を潤してくれています。私たちの教会から出立するチームの一人ひとりが、さらに聖霊に豊かに満たされ、神様の愛を伝える大波、怒涛のような「水の流れ」として全世界に流れ出て行ってほしいと願っています。

「この川が流れて行く所はどこででも、そこに群がるあらゆる生物は生き、非常に多くの魚がいるようになる。この水が入ると、そこの水が良くなるからである。この川が入る所では、すべてのものが生きる。」(エゼキエル47:9、新改訳第3版)

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2006年8月17日 (木)

ココログスタート!

ココログを始めてみました。

続くかな?

神様の祝福が流れ出るようなブログになったら良いですね。

七飯シオン教会(http://homepage3.nifty.com/nanaezion/)は、神様の愛が心の奥底からいのちの水のように溢れ、一人ひとりを満たし、外側に流れ出していくようなコミュニティ――「いのちの水の郷」――づくりを目指しています。

このブログでも、そのようなコミュニティをつくっていきたいと思います。

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