礼拝

2018年4月22日 (日)

天の助けを受ける

 昨年秋、私の良く知っていたある人が自殺しました。60代の男性です。最初に知らせを受けた時、私は「まさか」と思いました。自殺することなど、全く予期していなかったからです。その夏、私は本人に会いました。少し元気がなさそうでしたが、そこまで思い詰めているとは思いませんでした。何年か前、本人から悩みの相談を受けたこともあります。アドバイスもしました。しかし亡くなる直前は、残念ながら何の連絡もありませんでした。その人がどんなに深く悩んでいたのか、知ることができませんでした。葬儀の後しばらくして、奥様や他の知り合いの人々に話を伺いました。最期の2週間で、状態が急変したそうです。自殺をほのめかす発言もあったようです。ただ事態があまりにも急に進んだため、病院で診断を受ける間もなかったそうです。私が訪問した時、奥様は思ったより元気そうに見えました。ただ突然ご主人を亡くした現実を、まだ受け入れられない様子でした。ご遺族や近しかった人たちの傷ついた心を神様が癒して下さるよう、お祈りしています。

 自殺を防ぐには、どうしたら良いのでしょう。1つの方法は、自殺防止の相談窓口に電話することです。ネット上に、うつ病を患うある人の体験談が載っていました。勇気をもって電話すると、優しそうな女性が悩みを聞いてくれました。問題の解決には至りませんでした。でも、聞いてもらうだけで否定的な思いから解放され、心が少し軽くなったそうです。自殺を考える人は、視野が狭くなっている傾向があると聞きます。孤独や絶望を感じ、生きる意味がないと思うようです。心の中に激しい恨みや怒りを抱える人も多いそうです。例えば、こんな思いです。「なぜ自分がこんな目に遭うのか。」「なぜ自分は上手くやれないのか。」そんな思いを誰かに言うことができれば、危機を乗り越えられるそうです。最近は電話だけでなく、インターネットによる相談もあります。自殺を思いとどまった人が、「死なないで良かった」と後で思うケースも多いとのこと。日本で「いのちの電話」を始めた斎藤友紀雄牧師は、こう言っています。「自殺には、これをやればOKという決め手がない。医者は地道に治療し、宗教家は訪れた人と対話し、支えるしかない。社会全体で日常的に地道にやって、住みよい地域を作って行くしかない。」

 旧約の預言者エリヤも、人生の半ばで死を願いました。彼には、大きな挫折感がありました。自分が精一杯行った働きは大成功したのに、彼が期待したような変化は何も起きませんでした。イスラエルの国は、依然として偶像礼拝を推進する王と王妃が治めていました。うつ状態に陥ったエリヤの視野は、非常に狭くなっていました。孤独や絶望を感じ、生きる意味がないと考えました。「なぜ自分はこんな目に遭うのか。」「なぜ自分は上手くやれないのか。」そう思いました。荒野の木陰で休んだ時、彼の手にはガラケーもスマホもありませんでした。電話もネット相談もできません。そこで彼は、いつでもどこでも24時間対応する、天の相談窓口に連絡しました。エリヤは神に悩みを聞いてもらい、完璧なアドバイスをもらいました。そして彼は、人生後半の新たなミッションに向かうことができたのです。

 イエス様は父なる神を通し、私たちに聖霊を遣わされました。イエス・キリストを信じる人は、預言者エリヤと同じように、神の霊による助けが受けられます。天の相談窓口は、どんなトラブルでも24時間対応です。聖霊は私たちの悩みを聞き、的確なアドバイスを下さいます。緊急駆け付けサービスもあります。悩んでいる人のところに聖霊が誰かを遣わし、助けて下さるのです。疲れ果て、自分で相談できなくなった人を日常的に地道に支える仲間も、聖霊が与えて下さいます。聖霊は、私たちにとって最高の助け主であり、慰め主です。私たちは、「天の助けがあるよ」と、いつでも互いに励まし合うことができるのです。

「そしてわたしが父にお願いすると、父はもう一人の助け主をお与えくださり、その助け主がいつまでも、あなたがたとともにいるようにしてくださいます。」(ヨハネ14:16)

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2018年4月15日 (日)

創造主の霊をほめたたえる

 先月、英国の物理学者スティーブン・ホーキング博士が亡くなりました。76歳でした。相対性理論と量子力学を組み合わせた宇宙物理学の先駆者だそうです。宇宙はビッグバンで始まり、ブラックホールで終わると考えました。一般向けに書かれた本は、世界中でベストセラーになりました。テレビ番組にも本人がよく登場したそうです。21歳で神経系の病気になり、車椅子の生活を続けました。会話には、音声合成装置が必要だったそうです。博士は無神論者として有名で、生前こう言っていました。「宇宙の始まりを説明するのに神は必要ない。科学の法則で十分だ。自分が神という言葉を用いるなら、それは人格を持たない自然法則のことだ。」博士は、「天国もない」と明言したそうです。でも博士が亡くなると、彼の子供たちは大学の教会で葬儀を行いました。理由はこうです。「信仰を持つ人にも持たない人にも、私たちの父の生涯と研究は多くの意味があった。そのため参列者を制限せず、伝統に従った。」博士の遺灰はウェストミンスター寺院にある、ニュートンやダーウィンの墓のそばに埋葬されるそうです。同寺院では、今年中に博士を追悼する礼拝を行うとのこと。悲しみに暮れるご遺族やその他多くの人々が、神様の慰めを得られるようにお祈りします。

 ビッグバンとは、大きな爆発のことです。宇宙の始まりを説明する一つの仮説です。1920年代に、ジョルジュ・ルメートルというベルギーの科学者が発表したそうです。彼は、カトリックの神父でした。多くの科学者は当時、宇宙には始まりがないと考えていました。遠い昔から宇宙は変わっていないという考え方です。そのため大勢の人が、ルメートル博士の仮説を激しく批判しました。神父が言い始めたため、「科学に宗教を持ち込むべきでない」と主張する人々もいました。アインシュタインも、最初はそう考えたようです。しかしその後、アインシュタインは考えを変え、ルメートルの仮説を支持しました。他の科学者たちも同調しました。今は多くの人が、大爆発から宇宙が始まったと考えています。宗教的な理由でなく、科学的な理由からです。ホーキング博士のような無神論者も、おそらく多いのでしょう。「宇宙は神と関係なく、自然法則だけで始まった」と考える人々です。ただ、科学には限界があります。自然法則の背後に創造主なる神がいなかったと、科学的に断言できません。どんなに天才的な物理学者でも、目の届かない世界があります。科学の手が及ばない世界です。その世界について何か断言するなら、それは科学ではなく信仰の宣言になります。

 信仰の書である聖書は、こう語っています。「目に見える世界は、目に見えない神が造られた。」神は霊です。つまり私たちの世界は、目に見えない霊によって造られたのです。(もちろんこれは科学ではなく、信仰の宣言です。)創造主の霊ははっきりとした意思と計画を持って、全宇宙を造られました。巨大な宇宙全体を造り、ほんの小さな花粉やウィルスも造られました。(私たちの理解をはるかに越えています。)全てに詳細な設計図が用意されました。自然界に働くあらゆる力についても、創造主の霊は全て法則を定められました。大爆発によりこの精密機械のような宇宙が出来たとしたら、それは信じられないような奇跡です。私たちは毎日毎日、創造主の霊の奇跡を目の当たりにしているのです。

 イエス様は、創造主の霊の真実を人類に伝えに来られました。世界中の人が、その奇跡的な真実を見失っていました。創造主なる神を忘れ、宇宙の始まりを解説するありとあらゆるフェイクニュースを信じるようになりました。自然法則を神とする人も出て来ました。しかしイエス様は、目に見える世界を動かす目に見えない霊の力を示されたのです。イエス・キリストを信じる人は、創造主の霊の奇跡に気づくことができます。神の霊の偉大さに驚き、ほめたたえることができるのです。

「あなたが御霊を送られると彼らは創造されます。あなたは地の面を新しくされます。主の栄光がとこしえにありますように。主がご自分のみわざを喜ばれますように。」(詩篇104:30-31)

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2018年4月 8日 (日)

天来の力を待ち望む

 先週からお役所や多くの企業で、新年度が始まりました。新しい職場に配属された新人たちは、抱負を語ったようです。最近注目の財務省では、入省者の代表がこう宣誓したそうです。「私は国民全体の奉仕者として、公共の利益のために勤務すべき責務を深く自覚し…(中略)…公正に職務の遂行にあたることを固く誓います。」国家公務員は一部の人ではなく、国民全体に仕える姿勢が大切ですね。公文書改ざんについては、「二度と起こさないように頑張りたい」と言う人もいました。新しい力に期待したいと思います。一方、昨年夏に大雨で被害を受けた福岡県朝倉市では、新入職員の一人がこう言ったそうです。「微力ながら復興の力になりたいし、力になれることは何でもやりたい。」困難に見舞われた人々のため、力を十分に発揮してほしいですね。

 力は、何かの状態を変える働きをします。力自体は、目に見えません。力こぶを見せたとしても、目に見えるのは筋肉の状態の変化です。逞しい腕で重い荷物を運んでも、目に見えるのは力自体ではなく、人と荷物の移動です。ニュートンはリンゴが木から落ちるのを見て、そこに働く力を考えたと言われます。(実際は、本当の話かどうか分からないそうですが・・・)木から落ちる時、リンゴは木の枝にある状態から地面の上の状態へと変化します。その変化を見ると、リンゴを引っ張る目に見えない力があるはずだと考えられますね。同じように、もし財務省で前代未聞の大きな変化が起きたら、何か特別な力が働いたはずだと考えることができます。元の状態に戻すには、そのように願う人々が力を合わせなければなりません。大雨には破壊的な力があります。でも、もし破壊された地域が驚異的な速さで復興したら、そこに特別な力が働いたと分かります。多くの人々が注いだ力を感じ取ることができるはずです。

 イエス様が捕えられた後、弟子たちは身を隠しました。彼らは、絶望していました。イエス様こそが長い間待ち望んだイスラエルの王だと、彼らは信じていました。エルサレムの人々はほんの数日前、イエス様を王のように迎え入れました。ところが同じ人々が、手のひらを返したような態度をとりました。イエス様はあっけなく逮捕され、即座に有罪判決が下り、即日死刑が執行されました。弟子たちは、新しい王の側近を夢見ていました。ところが一晩で、彼らは反社会勢力の一味になったのです。親ガメがコケて、みなコケそうになりました。弟子たちは刑事訴追を恐れ、エルサレム市内に潜伏しました。お先真っ暗な状態でした。ところがその50日後、弟子たちの状態は大きく変化します。彼らは何も恐れずに、公衆の面前で自分たちの見聞きしたことを証言したのです。この変化には、2つの大きな力が働いていました。1つは、イエス・キリストをよみがえらせた力――新たないのちを授ける神の力です。その力は、弟子たちの絶望を希望に変えました。もう1つの力は、天から注がれた聖霊です。聖霊の力は、弟子たちの生き方を大きく変えました。死を恐れることなく、キリスト復活の真実を世界中に発信するようになったのです。

 復活後の40日間、イエス様は弟子たちとともに過ごされました。そして天に昇られる前、弟子たちに対し、首都エルサレムにしばらく留まるよう命じられました。弟子たちの多くは、地方出身者でした。彼らにとって大都市エルサレムは、イエス様を十字架につけた「呪いの地」でした。嫌なことを忘れるため、早くそこを立ち去りたい人もいたかもしれません。しかし神の計画は、その呪いの地を祝福の泉に変えることでした。弟子たちに恵みの水を飲ませ、その素晴らしい体験を世界中に伝えさせる計画だったのです。イエス・キリストを信じる人は、彼らと同じ体験が期待できます。呪いを祝福に変える天来の力を待ち望み、神の奇跡の証人となれるのです。

「見よ。わたしは、わたしの父が約束されたものをあなたがたに送ります。あなたがたは、いと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい。」(ルカ24:49)

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2018年4月 1日 (日)

復活の主イエスを礼拝する

 NHKの朝ドラ「わろてんか」は、昨日が最終回でした。先週火曜日の放送では、気になるセリフがありました。農家のお年寄りを演じる西川きよしさんが、こう言ったのです。「笑いの神様に拝んでみようかな。」戦争に行った孫が元気に帰って来るよう、「笑いの神」にお願いするというのです。それは感動的なシーンとして描かれていました。孫が心配で笑わなくなったお祖父ちゃんが、笑いを取り戻す話です。でも私はひねくれているので、こう思いました。「どうして、笑いの神にそんな力があると信じるのか?」私は、拝むのが専門です。誰に何をお願いするのか、いつも気をつけています。国の土地を買いたい人は、先ず役所にお願いに行きます。上手くいかなかったら、政治家や総理夫人に力添えをお願いする人もいるようです。その方面に力があると信じているからです。牧師のところには、まず来ません。お祈りをお願いしに来る人だけです。(笑)

 日本では、神々を拝む伝統的な行事があります。お正月は、初詣です。関東の人気スポットは明治神宮、浅草寺、川崎大師などです。明治神宮は、明治天皇ご夫妻を神々として祀っています。神道で天皇は神々の子孫なので、拝む人もいます。浅草の浅草寺は、観音菩薩を祀っています。英語では「Goddess of Mercy(慈悲の女神)」と言うそうです。仏教で観音菩薩は阿弥陀仏の助手とされ、人々を救う働きをすると信じられています。川崎大師では弘法大師・空海を祀っています。(現在、映画公開中ですね。)空海はたいへん尊敬されたお坊さんで、日本各地で奇跡を行った伝説があるそうです。所沢にも空海が開いた井戸の話があります。そうした伝説に基づき、空海を神のように拝む人がいたのでしょう。大阪に行くと、笑いの神を祀った神社もあるそうです。神社やお寺で拝まれる霊的な存在は、さまざまです。「どの神や仏にもそれなりに力があり、誰にお願いしても同じだ」と思う人は、おそらく多いのでしょう。初詣以外でも、多くの人は何かを拝んでいます。春、夏、秋にはお墓参りがあります。毎日毎日、仏壇や神棚に手を合わせる人もいます。先祖の霊や神々を拝めば、何かの助けがあると信じる人も多そうです。

 聖書は、こう教えています。「全てにおいて一番力のある神だけをひたすら拝みなさい。目移りしてはならない。」全てに一番力のある神は、全知全能の創造主なる神です。その真実を私たちに伝えるため、神はアブラハムとその子孫を選ばれました。ユダヤ人です。エジプトで奴隷となった彼らを、神は奇跡的に解放されました。当時の超大国エジプトの人々はさまざまな神々を拝み、その力を信じていました。エジプト王=ファラオも、人々は神として拝みました。しかし創造主なる神は、ファラオの意思に反することを行われました。全く無力だったユダヤ人の奴隷たちが、絶大な権力を誇るファラオの支配から解放されたのです。それは、創造主なる神がエジプトの神々にはるかに勝ることを象徴する出来事でした。ちょうど今、世界中のユダヤ人の家で、その記念行事が行われています。年に一度の「過越の祭り」です。それは、創造主なる神だけを拝む大切さを思い起こす時なのです。

 イエス様はこの祭りの時期に十字架につき、復活されました。ユダヤ人だけでなく、全ての人が創造主なる神だけを拝むようになるためです。世界中には、さまざまな神々を拝む人がいます。その人は、知らず知らずに自分が拝む神々に支配されています。神々の奴隷となる過ちを犯しています。創造主なる神は人となり、奴隷だった私たちを救いに来られました。イエス様です。十字架は、全ての過ちからの救いを象徴しています。復活は、過ちの結末である死からの救いを象徴します。今日は、イエス様の復活の記念日です。復活のイエス様と会った弟子たちは、創造主なる神を礼拝しました。私たちもこの日、創造主だけを拝む決意を新たにしましょう。

「さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示された山に登った。そしてイエスに会って礼拝した。…」(マタイ28:16-17)

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2018年3月25日 (日)

真心から神に近づく

 先週、妻と私は病院に入院中のある人をお見舞いしに行きました。初めての病院だったので、私は建物の中をあちこち見回しました。ふと目に着いたのは、玄関ロビーに飾ってあった雛人形です。3月ももう後半なのに、まだ飾ってあるのかと思いました。「雛祭りが終わるとすぐ片づけた方が良い」という言い伝えが、日本にはあるからです。「まだ飾ってていいのかな?ここにはもう、結婚しそうな人いないのかな?」と、妻と話をしました。(後で調べたら、3月3日の後、長い間飾る地方もあるそうです。)雛人形を見た妻は、あることに気が付きました。5段飾りの人形の並べ方が間違っていたのです。右大臣、左大臣が一番下で、その上に「仕丁(しちょう)」と呼ばれる雑用係が並べられていました。「下剋上」だったのでしょうか(笑)。

 雛人形は、中国や日本の古い信仰に由来するそうです。古代中国では、3月上旬に川の水で体をきよめ、災いを祓ったとのこと。日本では草木や紙で人の形を作り、それを撫でて自分の厄(災い)やケガレを移し、水に流しました。これが雛人形の起源とされています。今でも地方によっては、「流し雛」という習慣が残っていますね。時代とともに雛人形は、豪華になりました。そのため川に流さず、家の中に飾るだけになったようです。(その場合、厄やケガレはどうなるのでしょう? 笑)「ひとがた(人形)」を流すという信仰は、雛祭り以外にも見られます。多くの神社では年2回、大祓(おおはらえ)という行事をするようです。人々が知らずに犯した罪やケガレを祓いきよめる行事だそうです。紙を人の形に切り抜き、それに自分の罪やケガレを移して川や海に流します。そのようにして自らをきよめ、神々のみこころに近づくという信仰が、今でも神道にあるようです。

 この「ひとがた」信仰は、旧約聖書の「いけにえ」とよく似ています。人の罪は動物のいけにえに移され、その血により罪が洗い流されるのです。イスラエルの大祭司は、毎年秋に特別ないけにえをささげました。国全体の罪をきよめるため、山羊が2匹選ばれました。1匹はほふられ、その血は国立の礼拝所である幕屋や神殿に振り掛けられました。幕屋や神殿を1年間の汚れからきよめるためです。もう1匹の山羊は1年間のイスラエルの罪を背負い、荒野に追放されました。(この山羊が、いわゆるスケープゴートです。)こうして彼らの国は1年間の罪がきよめられ、人々は再び神に近づくことができました。この秋の「ひとがた」は、幕屋や神殿がなくなりささげられなくなりました。しかしユダヤ人は、今も毎年春に別のいけにえをささげます。今週金曜夜から始まる過越の祭りです。いけにえはもちろん、子羊。(私は道産子なので、ジンギスカンにしたいですね! 笑)出エジプトの時、子羊はユダヤ人の長子の身代わりになりました。羊の血を塗った家の長子は命が救われ、塗らなかった家の長子は命を落としました。いけにえの子羊は、長子の罪の身代わりをしたと言えます。イスラエルの春の「ひとがた」は、長子の罪を祓いきよめたのです。

 イエス様は、全ての人の「ひとがた」となるため、この世に来られました。私たちの罪やケガレを背負い、十字架の血で全て洗い流して下さいました。今週金曜日は、その記念日です。イエス様は新しい契約に基づく大祭司として、自分自身をいけにえにされました。全人類の罪を背負ったイエス様が死の世界に追放されることにより、私たちは神に近づけるようになったのです。イエス・キリストを信じる人は、神の祝福を受け継ぐ長子とされます。罪がきよめられ、死のさばきから救われ、神に近づく恵みを手にすることができるのです。

「また私たちには、神の家を治める、この偉大な祭司がおられるのですから、心に血が振りかけられて、邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われ、全き信仰をもって真心から神に近づこうではありませんか。」(ヘブル10:21-22)

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2018年3月18日 (日)

神の家を建て直す

 日本全国には、10万以上の神社があるそうです。コンビニの数は5万6千。教会の数はカトリック、オーソドックス(正教会)、プロテスタント合わせて9千です。教会は、コンビニの数を目指そうというビジョンがあります。1つの教会は、平均5つの教会を生み出さなければならない計算になります。その目標が達成できたら、次の目標は神社の数ですね。教会が5万以上になったら、1教会が平均1つの教会を生み出せば神社の数に達します。そうなれば日本中どこでもコンビニや神社があるように、教会もあることになります。日本の街並みは、ずいぶん変わるでしょうね。私が留学した頃、フラー神学校のチャールズ・クラフト博士はこんな提案をしていました。「日本の教会は、鳥居を建てたらどうか。」その方が、多くの日本人は来やすいのではないかという意味です。それを聞いた瞬間、私は何と答えたら良いか分からず、日本風に笑顔で返しました(笑)。「きっとアヤシイ教会に見られるだろう」とも思いました。日本の教会がみな鳥居を建てるようになったら、日本中、鳥居ばかりになるかもしれません。

 神社の構造は、イスラエルの幕屋や神殿によく似ていると言われます。なぜ似ているかは、歴史のミステリーです。女優の鶴田真由さんは神社巡りするうち、日本人の祖先はユダヤ人だと思うようになったそうです。(彼女がイスラエルに行ったツアーには、安倍昭恵首相夫人も参加予定だったとのこと。首相夫人はキャンセルしたようですが、昭恵さんもいろんな所に名前が出て来ますね。)イスラエルの幕屋や神殿と異なり、神社では神道の神々、つまり偶像が祀られています。日本神話に登場する神々や実在の人物、動物、山、川、木など。人体のある部分の場合もあります。何でも神として祀られます。神々が宿る物体、いわゆる「神体」は、神社の中心である本殿に置かれます。参拝者たちは、そこに近づくためまず鳥居をくぐります。その先に手や口を水で清める場所があります。さらに奥には拝殿と本殿があります。幕屋や神殿にも、入口を入ってすぐの祭壇の先にきよめの水が置かれていました。その奥に聖所と至聖所がありました。至聖所には契約の箱が置かれ、神がそこにおられると言われました。神社とは神を祀る場所、神がおられる場所という意味です。イスラエルの幕屋や神殿も神が住まわれる場所、「神の家」と呼ばれました。

 モーセの時代に作られた幕屋は、荒野で40年間過ごした後、約束の地に入りました。そしてダビデの時代、契約の箱だけが一足先にエルサレムに運び込まれました。ソロモンの時代には、壮大な神殿が完成しました。そこは、イスラエルの礼拝の中心地になりました。ところがユダヤ人は、天地創造の神ではなく、偶像を拝むようになりました。神との契約通り、彼らの国は滅び、神殿は廃墟になりました。しかしそれは、彼らが本来の信仰を取り戻すための厳しい訓練だったのです。異国の地で偶像礼拝の罪を悔い改めた時、ユダヤ人たちは帰国することができました。全てが神の恵みであると、彼らはよく理解できるようになりました。そして礼拝の中心地として神殿を再建することが、彼らの最優先課題になったのです。この時建てられた「第2神殿」は、後にヘロデ大王により大幅に改築され、目を見張るような建物になりました。イエス様や弟子たちが訪れたのは、この第2神殿です。

 イエス様は、神の家を建て直しに来られました。それは、エルサレムにあった建物のことではありません。神が新しく造られる人ひとりひとりと、そのような人々の集まりのことです。イエス・キリストを信じる人は、聖霊が心のうちに住まわれる神殿とされます。そのような人の集まりである「教会」(原語は“エクレシア”=呼び出された人たち)も、神の家と呼ばれます。イエス様による神の家の再建は、今も継続中です。その大切な働きに、希望者は誰でも加えていただけるのです。

「そして彼らは主を賛美し、感謝しながら『主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまでもイスラエルに』と歌い交わした。こうして、主の宮の礎が据えられたので、民はみな主を賛美して大声で叫んだ。」(エズラ3:11)

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2018年3月11日 (日)

約束の成就を祈る

 東日本大震災から7年が経ちました。熊本の地震からはもうすぐ2年です。その他にも私たちの周りには、予期せぬ困難に苦しむ人がたくさんいます。困っている人のため、祈り続けましょう。そして私たちのできる限りのお手伝いをしていきましょう。今年2月初めには、台湾で大きな地震がありました。死者17人、負傷者285人と報道がありました。俳優の阿部寛さんは地震の夜、台北にいたそうです。台湾のため、自分にできることはないかと考えました。そして2日後、台北の人々の前で、彼は1千万円の義援金を寄付すると約束したのです。先日、阿部さんは東京の台湾大使館を訪れ、約束の1千万円を手渡しました。台湾の人々からは、感謝の言葉がたくさん寄せられました。ある人は、「ありがとうローマ人」とネットに書き込んだそうです!約束を果たした阿部さんの好感度は、台湾で非常に高まったはずです。

 天地創造の神も約束を必ず守り、好感度を高めて来られました。神がどんな約束をし、どう守られたのかは、聖書に記されています。神はアダムに約束されました。「あなたは全世界に増え広がり、全ての生き物を支配する権限を手にする。」ノアには、こう約束されました。「二度と大洪水で人類が滅びることはない。」アブラハムには、こんな約束が与えられました。「あなたとあなたの子孫を通し、全人類が祝福される。」モーセに対する約束は、こうでした。「ユダヤ人は祭司の王国になる。」そして神はダビデ王に、こう約束されました。「あなたの子孫は永遠の国の王になる。」神は、これらの約束を全て果たされました。約束を必ず守るからこそ、私たちは神に絶大な信頼を置くことができます。

 ソロモン王も少なくとも最初の頃は、神が約束を果たすと信じていたはずです。神は、彼に知恵を授けると約束されました。富と誉れも与えると言われました。約束通りソロモンは、知恵に満たされました。彼の王国は、考えられないほどの平和と繁栄を手にしました。ソロモンの名声は、諸外国に知れ渡りました。彼が手に入れた莫大なお宝はどこに行ったのかと、今でも時々話題になるほどです。(映画版「名探偵コナン」に、「ソロモンの秘宝」というゲームが登場したこともあります。)彼の父ダビデに神が約束された通り、ソロモン王は壮大な神殿を完成させました。完成を祝う式典で、ソロモン王は神に祈りました。ダビデに与えられた他の約束も、全て成就するようにです。ソロモンはその時、祝福の約束が成就するように願ったはずです。しかし神の約束は、祝福だけではありませんでした。悪を行う人には、懲らしめがあるとも言われていたのです。残念ながらソロモンには、最後に懲らしめが待っていました。彼が偶像を拝んだため、ソロモンの子は王国のごく一部しか相続できないと神から宣告されたのです。神は、この時も約束を守られました。約束を破るのは常に人間の側だと、聖書ははっきり証言しています。

 イエス様は、約束を破った人、懲らしめの中にいる人を救いに来られました。アダムは神との約束を破り、人生の苦しみを味わうようになりました。私たちはみな、同じ懲らしめの中にいます。人類の代表として選ばれたユダヤ人は、神との約束を破り、偶像の神々を拝むようになりました。その結果、彼らの国は分裂し、後に滅亡しました。イエス様は、この「祭司の王国」を再建しに来られました。永遠の王イエス・キリストを信じる人は、人生の苦しみから解放されます。永遠の王国に加えられます。神の約束が全て成就し、イエス様の好感度がさらに高まるよう祈ることもできるのです。

「今、イスラエルの神よ。どうかあなたのしもべ、私の父ダビデに約束されたおことばが堅く立てられますように。」(Ⅰ列王記8:26)

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2018年3月 4日 (日)

神を中心とする

 今日は礼拝シリーズの3回目です。第1回は礼拝の心、第2回は私たちが礼拝する救い主について学びました。今週は、神を中心とする生き方について考えましょう。

 日本政府は、来春の天皇退位と新天皇の即位に向け、準備を進めています。先日、国として正式に行う儀式の概要が固まりました。退位する天皇は、天皇として最後のメッセージを国民に語ります。その後、新たに即位する天皇が新天皇として最初のメッセージを語ります。秋には、パレードやパーティーも予定されているようです。儀式の中で新天皇は、三種の神器のうち2つを継承するようです。剣と勾玉(まがたま)です。勾玉は璽(じ)とも呼ばれるため、2つ合わせて剣璽というそうです。剣は、天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)または草薙剣(くさなぎのつるぎ)と呼ばれます。日本神話で、スサノオがヤマタノオロチを退治した時、大蛇の体内に発見した剣と信じられています。この剣はアマテラスに贈られ、勾玉とともに、アマテラスの子孫である天皇家に受け継がれたと言われます。もう1つの神器は鏡です。鏡は、アマテラスの神体として皇居に祀られているそうです。継承の儀式を行わなくても、そこに住む人が自動的に受け継ぐのでしょう。勾玉は実物だそうですが、剣と鏡は複製とのこと。本物の剣は熱田神社、鏡は伊勢神宮にそれぞれアマテラスの神体として祀られているそうです。天皇は、憲法に「日本国の象徴」と記されています。国全体の象徴が皇位継承の儀式でアマテラス信仰を国内外に宣べ伝えるのは、クリスチャンとしてはたいへん残念です。

 明治の初め、国の指導者たちは神道に基づく、天皇を中心とした国づくりを目指しました。首都になった東京に天皇が移る時、御簾に覆われた輿に天皇が乗り、人々がそれを担ぎました。20日間500キロの輿の旅です。担いだ人も担がれた天皇も、疲れたでしょうね。東京入りした天皇は、アマテラスの子孫である現人神(あらひとがみ)として、人々に拝まれるようになりました。しかし、この神道に基づく国づくりは、無数の命を犠牲にした末、破たんしました。第2次大戦後、アマテラス信仰とは決別した、新たな国づくりが始まりました。昭和天皇も、自分は現人神ではなく人間だと宣言しました。ところが今、再び神道の影響力を取り戻そうとする動きが強まりつつあります。皇位継承の方法についても、政治的に強い働きかけがあるようです。過去の過ちを繰り返すのは、過ちを過ちと認めていないからです。私たちは、アマテラス信仰とは別の世界観に基づく国づくりを目指さなければなりません。

 ダビデ王は過去と決別し、天地創造の神を中心とした新たな国づくりを目指しました。前王サウルの時代は、天地創造の神が中心ではなく、人々が偶像の神々を拝みかねない状況でした。神に従わないサウルは、破滅的な結末を迎えました。ダビデは、過去の過ちを教訓としました。エルサレムを首都とし、創造主なる神を礼拝する中心地にしようと考えました。御輿のような形の「契約の箱」を、人々は担いで都に運び入れました。ダビデが目指した新たな国づくりは、神の大きな祝福を受けました。ダビデ王は、イスラエルが平和と繁栄の祝福を受けるため、しっかりとした土台を築いたのです。

 イエス様は、ダビデの子孫としてこの世に来られました。天地創造の神が人となった真の現人神です。イエス・キリストを信じる人は、創造主なる神を中心として生きることができます。神の箱を担いだ人たちのように、天のエルサレムを目指すことができます。イエス様が始められた新たな御国づくりは、この世の終わりに全て完成します。その時、私たちは永遠の平和と繁栄の恵みを、心から喜ぶことができるのです。

「『私たちの神の箱を私たちのもとに持ち帰ろう。私たちは、サウルの時代には、これを顧みなかったから。』すると全会衆は、そうしようと言った。このことが、すべての民の目には良いことに思えたからである。」(Ⅰ歴代誌13:3-4)

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2018年2月25日 (日)

救い主を礼拝する

 今日は礼拝シリーズの2回目です。先週はアブラハムから、礼拝の心について学びました。礼拝は、心から創造主にひれ伏し、自らをささげることです。今週は、私たちの礼拝する創造主が救い主でもある点について考えましょう。

 日本の伝統的信仰では、「救い」とか「救い主」という言葉はあまり使われません。神道で救いと言えば、おそらくたたりや呪いからの解放という意味になるのでしょう。救いを得るには、たたりや呪いをもたらす霊的存在を正しく祀る、つまり礼拝する必要があると言われます。そのような霊的存在は、数に限りがありません。人が思いつく限り、いくらでも増えて行きます。そのためあらゆる神々が、日本の多くの家やお店の神棚に祀られています。全国の至る所には、さまざまな神々を祀る神社があります。初詣に行ったり、お守りを買ったりするのも、災いからの救いを求める信仰です。人々は、神棚や神社に祀られる神々を「救い主」と信じているのです。

 仏教で救いと言えば、輪廻からの解放を意味するはずです。輪廻とは、人がさまざまな姿になって生まれ変わることです。今の世界では人間でも、次の世界では豚かもしれません。さらにその次の世界では、ゴキブリかもしれません。釈迦は悟りを開き、輪廻のサイクルから解放されたと言われています。悟りを開いた人のことを「仏」、悟りを開くことを「成仏」と言います。釈迦と同じ悟りを開くなら成仏し、輪廻から救われる・・・仏教は当初、そのような教えだったはずです。自力で悟りを開き、自力で救いを得るので、自分が自分の「救い主」です。ところが仏教が各地に広まるにつれ、各地で祀られる神々の教えが仏教に入り込んだように思われます。人々は自力ではなく、さまざまな仏や菩薩等に救いを求めるようになりました。日本の多くの人は、お経を十分唱えると死者が成仏すると信じています。「お経による救い」です。お経を唱えるのは自分ではなく、他の人です。この場合「救い主」は誰か、仏か菩薩か、お経を唱える人なのか、よく分かりません。

 聖書で「救い主」と言えば、創造主なる神のことです。旧約の時代、神は何度も何度も繰り返し、アブラハムの子孫を苦難の中から救い出されました。最大の救いは、偶像の神々が支配するエジプトからの解放でした。神は、綿密に計画を立てておられました。アブラハムにも、何百年も前にその計画を告げられました。不思議な方法を用い、神はヨセフをエジプトの王宮に遣わされました。そして飢饉を用い、彼の家族70人をエジプトに移住させました。彼らには、エジプトで豊かな土地が提供されました。数百年のうちに、ユダヤ人人口は何百万人にも膨れ上がりました。そして迫害が来ると、神はエジプトにモーセを遣わされました。さまざまな奇跡の末、神はあることをユダヤ人に命じられました。家族ごとに子羊一匹をいけにえとし、その血を家の門柱と鴨居に塗ることです。ユダヤ人たちは、珍しく(!)神の命令に従いました。そして彼らは、エジプトの災いと苦難から救われたのです。この時、彼らは創造主で救い主でもある神を礼拝しました。その礼拝は、ただひざまずき、感謝の祈りをささげるだけのシンプルな形だったかもしれません。

 その後、救い主なる神は人となり、この世に来て下さいました。全世界の救いのため、自らいけにえの子羊になって下さいました。このお方、イエス・キリストを信じる人は、偶像の神々の支配から解放されます。たたりや呪いから救われます。悟りを得て、輪廻からも解放されます。イエス様を救い主と信じ、礼拝する人は、永遠の救いを手にすることができるのです。

「あなたがたはこう答えなさい。『それは主の過越のいけにえだ。主がエジプトを打たれたとき、主はエジプトにいたイスラエルの子らの家を過ぎ越して、私たちの家々を救ってくださったのだ。』すると民はひざまずいて礼拝した。」(出エジプト12:27)

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2018年2月18日 (日)

創造主を礼拝する

 今週からシリーズで、礼拝について考えてみましょう。礼拝というと、皆さんはどんなイメージを思い浮かべるでしょうか。子供の頃、私は礼拝に厳かなイメージを抱いていました。私が初めて見た礼拝堂は、近所のルーテル教会でした。壁は白で、床やベンチ、窓枠、ドアが全てダークブラウン。置いてあった楽器は、オルガンだけだったように思います。私はその教会の幼稚園に通い、小学校低学年まで日曜学校に出席しました。6年生まで、教会の英語教室にも行きました。残念ながら、大人の礼拝には一度も出席しませんでした。でもその会堂の様子から、賑やかなノリのいい賛美を歌う集まりは、全く想像できませんでした。会堂に入るたびに、なぜかいつも厳粛な気持ちになったものです。

 20代の頃、カトリック教会のミサに一度行ったことがあります。誰かに誘われたのではなく、一人でふらっと行きました。残念ながら、その時の様子はおぼろげにしか覚えていません。ガウンを着た神父さんが登場し、ミサが始まったように思います。式次第に祈りの言葉が印刷され、出席者が声を合わせてその祈りを唱えました。賛美や聖書朗読の時間もあったと思われます。最後に、何人もの人がぞろぞろ前に出て行きました。何だろうと思い、私も一緒について行きました。すると神父さんが、白くて薄い、小さなせんべいのようなものを口の中に入れてくれました。ウェハースのようで、口の中で溶けてなくなりました。それは「聖体」、つまりキリストの体だったのです。プロテスタント教会の聖餐式にあたります。その時は知りませんでしたが、受けられるのは信者だけだったようです。ミサ全体は形式的な印象でしたが、私は特別な体験をして、何か得した気分になりました。

 その後、ペンテコステ教会の礼拝に行くと、とにかく賑やかでした。配られた週報には、式次第も祈りも書いてありませんでした。礼拝の最初の30分は、現代風の賛美です。伴奏はピアノにエレクトーン、ギター、ベース、ドラム、そして時々フルート。歌詞はOHPでスクリーンに映し出され(30数年前です!)、出席者は大きな声で歌いました。「霊の賛美」といって、一人ひとりが自由に歌う時間もありました。異言という、聞いたこともない言葉で祈る人たちもいました。歌う曲は事前に決まっていましたが、突然、予定にない曲が歌われることもありました。(OHP担当者があわててシートを探しました。)賛美の終わりに献金を集め、その後「メッセージ」が始まりました。スーツにネクタイを締めた牧師が登場し、40~50分聖書の話をしました。毎週毎週、手を変え品を変え、あらゆるジャンルの話がありました。あんなにたくさん話をするのは、私には無理だと思いました。(今、私の教会の人たちは神の奇跡の証人となっています! 笑)

 個人的な趣味から言えば、私は形式的な礼拝より、自由な雰囲気の方が好きです。歴史的な古い賛美より、歌詞が分かりやすい、新しい曲の方が好きです。パイプオルガンの伴奏で厳かに歌うより、ギターやドラム等に合わせ、楽しく賛美する方が好きです。でも礼拝のあり方は、私たちの好き嫌いで決めるべきではありません。礼拝とは、神の前にへりくだり、自分自身を神にささげることです。自らを神への贈り物、献上品にするのです。その時、最も大切なのは心がこもっているかどうかです。どんなにささやかな贈り物も、心がこもっているなら神は喜ばれます。逆にどんなに豪華な贈り物も、心が伴わないなら神は喜ばれません。神は、どんな形の礼拝も受け入れて下さいます。形よりも、心を見られるからです。

 アブラハムは、心から神を礼拝しようとしました。神に命じられた通り、ひとり子イサクを神への献上品にするつもりでした。その礼拝には音楽も聖書朗読もありませんでしたが、神はアブラハムの心を喜ばれました。私たちも、アブラハムの礼拝にならいましょう。どんな形やスタイルでも、心を込めて、神に喜ばれる礼拝をささげましょう。

「それで、アブラハムは若い者たちに、『おまえたちは、ろばと一緒に、ここに残っていなさい。私と息子はあそこに行き、礼拝をして、おまえたちのところに戻って来る』と言った。」(創世記22:5)

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