礼拝

2017年8月13日 (日)

人々の救いを願い求める

 あさって15日は、「終戦の日」です。日本では、この日に第2次大戦の終わりを記念し、特別な催しが開催されます。戦没者追悼式や平和集会などです。韓国や北朝鮮でもこの日、日本の支配の終わりをお祝いするそうです。でも実は、戦争が終わったのは8月15日ではありません。日本がポツダム宣言を受け入れると海外に伝えたのは、8月14日。降伏文書への調印は、9月2日です。欧米では、この日が対日戦勝利の日とされているとのこと。さらに平和条約が成立し、正式に戦争状態が終わったのは、7年後の4月28日でした。8月15日は、このどれにもあたりません。その日は、天皇が国民に終戦を告げた日でした。当時の日本は、天皇が中心の国でした。戦争開始や終了を決める最終的な権限は、天皇にありました。しかも天皇は、日本を治める神々の子孫として敬われていました。天皇の言葉は、絶大な影響力を持っていたのです。実際、終戦の発表を阻止しようとした人々もいました。戦争継続を主張した一部の軍人たちです。彼らのクーデターは失敗に終わりました。陸軍大臣は切腹しました。そして天皇の言葉は、ラジオで国民に伝えられたのです。

 その日、天皇は終戦についてこう語りました。「天皇家は先祖代々、日本国民の平穏無事と世界の繁栄を願って来た。この戦争は長く続き、日本には不利な状況となった。残虐な新型爆弾(原爆)も落とされた。このまま戦争が続けば、日本人は滅亡する。戦争で死んだ人々を思うと、内臓が引き裂かれるようだ。日本は、これからたいへんな苦難を経験するだろう。しかし耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍び、未来のため平和への道を開きたい。」たいへんな数の命が、すでに失われていました。その人たちが願った勝利は、得られませんでした。しかし戦争を継続すれば、さらに多くの犠牲が予想されました。そこで天皇は、国民に戦争の終わりを告げたのです。まだ生きている多くの人々の命を救いたいと願ったからです。

 イスラエルも、かつて戦争に負けました。もっとひどい負け方でした。ソロモン王の死後、彼らの国は南北に分裂しました。北の王国は、アッシリアとの戦争に負けました。国は滅ぼされ、人々は世界中に散らされました。その時以来、彼らは行方不明です。南の王国は、バビロニアとの戦争に負けました。国は滅亡し、ユダヤ人たちはバビロニアの国に連れ去られました。70年経って、彼らの一部は元の領土に戻ることができました。でも祖国は、滅んだままでした。バビロニアの後、ペルシア、ギリシア、そしてローマが彼らの支配者となりました。ユダヤ人たちは、祖国の復興を願い続けました。戦争状態が終わり、占領軍が立ち去る時を待ち続けました。救世主が現れ、「もはや戦後ではない」と宣言される時を求め続けたのです。

 イエス様は救世主として、その宣言をしに来られました。しかしそれは、イスラエルの独立宣言ではありませんでした。世界中の人々が争い、互いに傷つけ合う時代は終わったと宣言されたのです。人類は創造主なる神から離れ、無益な争いを繰り返して来ました。数えきれないほどの人が、尊い命を落として来ました。創造主は、人々の争いを終わらせ、できるだけ多くの命を救いたいと願われました。人類の代表としてイスラエルを選び、彼らを通して神の計画を伝えられました。そしてその約束通り、イエス様が来られたのです。イエス・キリストを信じる人は、無益な争いから救われます。神の平和を喜ぶことができます。その喜びを全世界の人と分かち合いたいと願うようになるのです。

「兄弟たち。私が心の望みとし、また彼らのために神に願い求めているのは、彼らの救われることです。」(ローマ10:1)

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2017年8月 6日 (日)

神のあわれみを感謝する

 大和ハウスのCMに、2年前から竹野内豊さんが出演しています。天井の高い家のCMです。その家には4人家族が住み、竹野内さんはお父さん役です。妻役は、女優の中村優子さん。双子の女の子がいて、家で遊んでいます。妻と子供たちは、天上の高い家を喜んでいます。お父さんも一緒に喜んでいるように見えます。しかし彼には、家族に言えない秘密がありました。本当は、天井の高さを喜んでいなかったのです。彼は子供のころから、天井が低く、狭い所が好きでした。好きな場所は、ダンボールで作った小さな家、押し入れの中、カプセルホテル、あるいは机の下のスペース・・・。天井の高い家を喜ぶ家族には、話せない秘密でした。ところが今年のCMで、新たな事実が判明しました。妻は、夫の秘密を知っていたのです。「私は全部知っている」と、妻は心の中でささやきます。「天井が高いって最高だな」と、夫は言います。妻は笑顔になりますが、心の中では「嘘つき」と言っています。ちょっと怖いですね。

 子供の多くは、狭い所で遊ぶのが好きなようです。ダンボールの中、部屋の隅、ソファの後ろ等です。いつもと違う暗く狭い場所に入ると、心がわくわくするという見方があります。一方、子供は狭い場所に安心感を持つという見方もあります。狭くて暗い、壁に閉ざされた空間は、お母さんのお腹の中のようだからです。竹野内さん演じるお父さんは、大人になっても子供の心を持ち続けているようですね。

 ヘブル語の「あわれむ」、「ラーハム(racham)」という単語は、「子宮(レヘム; rechem)」という言葉がもとになっているそうです。この単語は、3つの子音から成り立っています。「ר (レーシュ)」は人、「ח (ヘート)」は塀で囲まれている様子、「ם (メーム)」は水で隠されているものを表します。この3つが組み合わさると、「人が水の中に隠され、守られている場所」という意味になります。新しい世界に飛び出すまで、子供は母親のお腹の中でしっかり守られます。十分な栄養が与えられます。最初は目に見えないほど小さないのちが、誰の目にも明らかな大きさに成長します。同じように神のあわれみは、私たち一人ひとりをしっかり包み、霊的に大きく成長させてくれるのです。

 たいへん興味深いことに、神のあわれみを思い起こすため、ユダヤ人たちは毎年秋、「狭い場所」に入ります。仮庵の祭りです。彼らの先祖はエジプト脱出後、40年間荒野のキャンプで、テント生活をしました。次世代育成ブートキャンプです。神はその間、彼らの生活全てを守り、信仰を養い育てられました。神のあわれみが真実であることを彼らに示されたのです。その体験にちなみ、仮庵の祭りには仮小屋を作り、1週間そこで過ごします。「狭い場所」に入って神のあわれみを思い起こし、感謝するのです。

 神であるイエス様は、人間の体という狭い場所に入って下さいました。人類を代表し、暗く狭い墓の中にも入って下さいました。その場所は、神の限りないあわれみで包まれていました。イエス様はそこで少しだけ休み、新しい世の到来を告げるため、再び外に出て来られました。イエス・キリストを信じる人は、神のあわれみを知ることができます。地上の体という狭いテントで過ごしながら、永遠の世界に飛び出す準備を進めることができます。ひょっとしたらCMの竹野内さんのように、狭い場所が好きになるかもしれません。そこで神のあわれみを思い起こし、感謝できるからです。

「したがって、事は人間の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神によるのです。」(ローマ9:16)

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2017年7月30日 (日)

ぶっちぎりの勝利を手にする

 おもちゃメーカーのタカラトミーは今年4月、「人生ゲーム MOVE!(ムーブ)」を発売しました。人生ゲームシリーズ60作目です。今回初めて、ルーレットに歯車(ギヤ)が追加されました。運命の歯車を回すと、思いもよらない人生が体験できるそうです。これまでの人生ゲームは、自分の力や運で未来を切り開きました。しかし今の時代、景気その他の外的要因で人生が左右されることが多くあります。未来を見通すことは難しくなっています。そこで今回のゲームでは、運命の歯車が自分だけでなく、他の人の人生も大きく変える仕組みです。何が起こるか分からない、現実に即した人生を体験できるという話です。時代を反映した出来事も起こります。例えば、こうです。「ネットアイドルになり、2万ドルもらう。格安SIMで電話代が浮き、1万2千ドルもらう。婚活サイトに登録し、2千ドル払う。私生活が週刊誌に暴露され、2千ドル払う。(文春?いや先週は新潮でした!)」タカラトミーは発売を記念し、人生の歯車が狂ったエピソードも募集中。大賞をとると、世界に1つだけのオリジナル人生ゲームがもらえます。明日7月31日が応募締切りです!(笑)

 人生ゲームは、ルーレットを回して人生のマス目を進むゲームです。マス目には、人生のさまざまな出来事が記されています。就職や結婚、出産、家の購入など・・・。最終的に目指すゴールは、億万長者! 初代のゲームは、1960年に米国で発売されました。日本での発売開始は、1968年です。英語版をそのまま翻訳したので、日本にはなさそうな、こんな出来事も含まれていました。「牧場を売って16万ドルもらう。石油が出て1万ドルもらう。羊が隣の家の蘭を食べて、1千ドル払う。」このゲームは、米国の会社が創業100周年を記念して発売しました。会社が設立された1860年は、アブラハム・リンカーンが大統領に選ばれた年。創業者のミルトン・ブラッドレーという人は、リンカーンの肖像画を印刷・販売していました。その後、「Checkered Game of Life(人生の変化に富むゲーム)」というゲームを発売し、大ヒット。南北戦争の兵士たちも暇な時間に遊べるように、ポケット版も作られたそうです。

 実は、ブラッドレーのゲームには、モデルがありました。1800年に英国で発売された「The Mansion of Happiness(幸せの大邸宅)」というゲームです。このゲームは、ジョージ・フォックスという人が考案しました。米国でも発売され、ボードゲームの先駆けと呼ばれました。ゲームには、英国のピューリタン(清教徒)的な考え方が盛り込まれていました。目指すゴールは、「幸せの大邸宅」。それは、億万長者の家ではありません。天国です。ゲームをする人は、誰が最初に天国に行けるか競走したのです! 聖書的な「徳」が記されたマスに来ると、幸せの家に近づきました。「悪徳」が書かれたマスに来ると、幸せの家から遠ざかりました。幸せになるにはどう生きるべきかを、子どもたちに教えるゲームだったのです。ブラッドレーのゲームも、善い行いと悪い行いのマスでできていました。ただゴールは天国ではなく、「happy old age(幸せな老後)」でした。善い行いを通して、アメリカンドリームを実現させるという考え方だったのです。

 イエス・キリストを信じる人は、誰でも「幸せの大邸宅」にゴールインします。信仰により、ゴールが確定します。行いではありません。逆にゴールが決まることにより、私たちの行いは変わります。「幸せの大邸宅」に住む人として、幸せな生き方を選ぶようになります。悪い行いを遠ざけ、善い行いを選びます。幸せになるのは、老後や死後までおあずけではありません。ゴールに向かう途中から、永遠の幸せを喜ぶことができます。この世の富にはるかに勝る幸せです。イエス様とともに生きるなら、このぶっちぎりの勝利を手にできるのです。

「しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。」(ローマ8:37)

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2017年7月16日 (日)

プレミアムな実を結ぶ

 先日、金沢市の卸売市場でぶどう1房が111万円で売れたそうです。石川県が開発した高級ぶどう「ルビーロマン」の初競りでした。買ったのは、極上の「おもてなし」で知られる高級旅館・加賀屋さん。今年、創業111年だそうです。総支配人の手島さんは、こう語りました。「販売開始10周年の節目に何とか購入したかったので喜んでいる。たくさんの人に食べてもらいたい。」購入後は、すぐ旅館ロビーに飾られたそうです。1房30粒ほどなので、計算すると1粒37,000円。食べられた幸運な人は、誰だったのでしょうね?

 「ルビーロマン」は、22年前に開発が始まりました。石川県では、デラウェアなど小粒のぶどう栽培が盛んでした。ところが当時、大粒のぶどうが人気となり、小粒ぶどうは売れなくなりました。石川県のぶどう農家は、困り果てました。「赤くて大粒のぶどうがほしい」と強く願ったそうです。そこで県の農業研究センターは、黒い大粒ぶどうに赤いぶどうを掛け合わせる試みを始めました。400粒の種を蒔き、大切に育てました。その中で赤い実をつけたのは、たった4本。その4本について、実の味や色、大きさ、栽培しやすさなどを比べました。そして最終的に1本に絞りました。開発に14年かかりました。1粒の大きさは20グラム以上で、巨峰の2倍ほどになりました。酸味が少なく、甘味が非常に強い。皮はむきやすく、食べやすいそうです。名前は公募しました。「色はルビーのように輝き、大きさにロマンが感じられる。」そういう理由で、この名前になったそうです。1年目の競りでは、1房最高10万円の値がつきました。それ以降、価格は伸び続けて来たようです。育てるのが容易ではなく、農家の人たちは苦労しているようです。「言うことを聞かない憎い女のようだ」と言った人もいます。(なぜか「峰不二子」という名前が思い浮かびました 笑)労苦の末に美しいぶどうが実れば、育てた人は嬉しいでしょうね。特に優れたルビーロマンには、「プレミアム」シールが貼られるそうです。

 ぶどうは、古くから栽培されて来ました。創世記9章には、ノアがぶどう作りを始めたと記されています。大洪水の後、箱舟がとどまったアララテ山の近くだったかもしれません。今のトルコの一番東、アルメニアとイランとの国境付近です。古代エジプトにも、ぶどうがあったようです。監獄にいた献酌官長は、ぶどうの木の夢を見ました。ヨセフは、その夢の意味を解釈しました。カナンの地にも、ぶどうの木がありました。出エジプトの後、モーセは12人のスパイをその地に遣わしました。ちょうど、初ぶどうが熟する季節。彼らは、ぶどうが1房ついた枝を切り、持ち帰りました。約束の地の豊かさを示す証拠品でした。神は、ぶどうが豊かに実るカナンの地をアブラハムの子孫に与えられました。それ以来、ぶどうやぶどう畑はイスラエルの象徴となりました。神は畑を手入れし、そこに大切なぶどうを植えた農夫のようでした。甘いぶどうがなるのを楽しみにしていました。ところが、できたぶどうは甘くありませんでした。酸っぱかったのです。ユダヤ人たちは神から離れ、天の光を十分浴びませんでした。そのため、彼らの実は甘くならなかったのです。

 しかし神は、甘いぶどうを諦めませんでした。御子イエスを遣わし、ぶどう畑を作り直されました。イエス・キリストを信じる人は、たった1本に絞られたぶどうの木に接ぎ木される枝のようです。神の光を十分に受け、甘い実を結びます。その甘さや大きさは、ルビーロマンよりはるかに勝ります。言うことを聞かない憎い枝も、神が深く愛し、変えて下さいます。高価で尊い実を結ぶことができます。金曜日も目一杯働かれる神が、「プレミアム」シールを貼って下さるのです。

「私の兄弟たちよ。それと同じように、あなたがたも、キリストのからだによって、律法に対しては死んでいるのです。それは、あなたがたが他の人、すなわち死者の中からよみがえった方と結ばれて、神のために実を結ぶようになるためです。」(ローマ7:4)

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2017年7月 9日 (日)

新たな生き方をする

 最近は、将棋ブームだそうです。天才中学生・藤井聡太君が、プロ将棋公式戦の連勝記録を塗り替えたからです。彼がプロとして初めて対戦したのは、加藤一二三さん(愛称ひふみん)でした。それまで加藤さんは、最年少の14歳7か月でプロになった記録を持っていました。「神武以来の天才」と呼ばれたそうです。しかし今回の藤井君は14歳2か月で、新記録を樹立しました。二人が対戦した時、加藤さんは76歳で年齢差は64歳6か月。これも新記録とのこと。藤井君は、21世紀生まれです。加藤さんは、19世紀生まれの棋士や20世紀生まれの棋士とも対戦したことがあり、3つの世紀に生まれた棋士と対戦した記録を持つのは、唯一、加藤さんだけだそうです。藤井君との戦いに負けた後、加藤さんは引退が決まりました。藤井君はその時、こうコメントしました。「加藤先生とはデビュー戦で対局して、多くのことを学ぶことができました…もう迫力のある対局姿が見れないかと思うと、自分としても一抹の寂しさがあります。」これに対し、加藤さんはこうコメントしました。「あの少年棋士が引退する私に対して寂しいと言ってくれた…『素晴らしい後継者を得た』と感動しました。」藤井君の連勝がストップした時、加藤さんはこうツイートし、エールを送りました。「棋士人生はまだまだこれから!…人生も、将棋も、勝負はつねに負けた地点からはじまる。」

 加藤一二三さんは30歳の時、東京・下井草のカトリック教会で洗礼を受けました。洗礼名はパウロ。「パウロ先生」とも呼ばれるそうです。加藤さんが洗礼を受ける決心をしたのは、2つ理由があったようです。1つは当時、将棋に行き詰っていたこと。連戦連敗でした。もう1つの理由は、人生も将棋と同じではないかと考えたこと。幸せになるために、「最善手」があるのではないかと考えたそうです。いろいろ探し求め、たどり着いたのがキリスト教でした。クリスチャンになったことで、彼の心は変えられました。自分ができる限りのことをしたら、後は神様にゆだねるようになりました。もしクリスチャンにならなかったら、その後の多くの戦いで負けただろうと加藤さんは言っています。心に平安があったから、チャンスをつかむことができました。対局中、相手の前で賛美歌をハミングすることや、席をはずして祈ることもありました。麹町の教会では長年、夫婦で結婚講座を担当して来たそうです。三鷹の教会では、将棋を教えて来ました。将棋の本には、キリスト教の話を書きました。56歳の時は、当時のローマ教皇ヨハネ・パウロ2世から騎士団の勲章が授与されました。カトリック教会の活動に貢献した人が受ける勲章です。その時、こう挨拶したそうです。「私は棋士ですが、騎士にもなりました。ヴァチカンに事件が起きれば、白馬にまたがってはせ参じなければいけません。」

 聖書の中にも、多くの戦いが記録されています。アブラハムは、おいのロトを拉致した人々と戦いました。モーセたちは、荒野でアマレク人と戦いました。ヨシュアたちは約束の地に入り、カナンの人々と戦いました。ギデオンはミデヤン人と、サムソンやダビデはペリシテ人と戦いました。神を信じる時、彼らの心には平安がありました。そして彼らはチャンスをつかみ、勝利を得ることができたのです。

 イエス・キリストを信じる人は、心の平安が得られます。行き詰まりを乗り越え、チャンスをつかめます。ピンチが来たら祈り、賛美歌をハミングもできます!最高の幸せを手にするため、新たな生き方をすることができるのです。

「私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。」(ローマ6:4)

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2017年7月 2日 (日)

神の平和の使者となる

 先月23日、沖縄は「慰霊の日」を迎えました。第2次大戦末期の沖縄戦で、組織的な戦闘が終わった日です。毎年この日には、戦没者追悼式が糸満市の平和祈念公園で開催されるそうです。式典の日ではありませんが、私も何回かその公園に行ったことがあります。公園内には大きな黒い石の板が、数えきれないほど並んでいます。その石の板に、沖縄戦で亡くなった24万人余りの人の名前が刻まれています。日本人も米国人も、その他の国の人たちも、分け隔てなく記されています。軍人、民間人の区別もありません。その石の数を見ると、3か月ほどの戦闘でどれほど多くの命が失われたのか、実感することができます。沖縄戦は、日米の戦いで最も激しい地上戦でした。日本軍は戦力が足りなかったため、沖縄の住民を戦争に駆り出しました。中には、10代前半の子供も含まれていました。米軍に捕まりそうになり、集団自決した人もたくさんいました。スパイ容疑で日本軍に殺された沖縄の住民も多かったそうです。県民の4人に1人が亡くなったと聞きます。

 今年の追悼式では、高校3年生の上原愛音(ねね)さんが、自ら作った平和の詩を朗読しました。彼女は、親族に沖縄戦の経験者はいないそうです。しかし、幼いころから平和について学んで来ました。おじいやおばあたちが、教室で昔の話をしてくれました。爆音の中、裸足で砂利道を走った話。仲間の叫び声が聞こえた話。昨日まで温かかった手が、冷たくなっていた話。そのような話を聞き、彼女は二度と戦争をしてはならないと強く思いました。「昔の人たちの痛みを忘れてはならない。平和のために働きたい。」そう願いました。彼女は将来、看護師になりたいそうです。「国境なき医師団」に加わり、心身が傷ついた人の手当てをしたいとのこと。「私達は、…きっと愛しい人を守り抜くことができる。この地から私達は、平和の使者になることができる。」それが、上原愛音さんが私たちに投げかけた平和のメッセ―ジです。

 慰霊の日の翌日から、日本全国で「ハクソー・リッジ」という映画が公開されています。沖縄戦の実話に基づいた映画です。主人公のモデルは、デズモンド・ドスという米衛生兵。彼はクリスチャンで、武器を持たずに沖縄戦に参加しました。人を殺すのではなく、助けるために戦場に行ったのです。崖を登って頂上に立った時、仲間のために祈ったそうです。「彼らが無事に帰れるように」と。日本軍の攻撃は、非常に激しいものでした。彼の部隊は、撤退を決めました。ところが負傷した兵の中には、動けない人たちがいました。するとドスさんは、敵の猛攻撃の中、一人ひとりを助け出したのです。負傷者を崖の下におろす作業を4時間近く続けました。そして、75人を救出しました。その中には、2人の日本兵もいたそうです。ドスさん自身も足を負傷し、左腕に銃弾を浴びました。彼は、グアムの病院に移されました。入院中、自分や身近な人が死ぬ悪夢に悩まされたそうです。後に彼は、良心的兵役拒否者として、初めて名誉勲章を授けられました。銃弾が飛び交う戦場で、ドスさんはあえて戦わない選択をしました。神の平和の使者として、大切な人々の命を守り抜いたのです。

 イエス様は、戦いに明け暮れる私たちに平和を告げに来られました。争いの種は、私たち一人ひとりの心の中にあります。人の力では、その種をどうにもできません。私たちはその種にあやつられ、戦い続けます。いつか傷つき、戦場で動けなくなります。そのまま死を待つだけになります。イエス様は、そんな私たちをこの世の戦場から救いに来られました。心にある争いの種を取り除きに来られました。イエス・キリストを信じる人は、平和の使者になることができます。神が与えられた平和を、世界中に告げ知らせることができるのです。

「ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。」(ローマ5:1)

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2017年6月25日 (日)

あり得ない望みを抱く

 聖書には、あり得ない望みを抱いた人たちが、何人も登場します。アブラハムは神の約束を信じ、全世界の人々を祝福する望みを抱きました。その時、彼は75歳。今の日本では、後期高齢者です。若い頃と比べると、かなり体力が落ちていたはずです。もう引退して、どこかで静かに暮らしたいと思ってもおかしくありません。8年前のある調査によると、日本では65歳まで働きたいと考える人が41.5%とか。70歳までは27.1%。60歳までは11.8%。全部合わせると、90%以上の人が75歳までに引退を希望しているようです。その年齢になって外国の知らない土地に行き、新しいことを始める人は、ほとんどいないでしょう。ところがアブラハムは、75歳で新たな冒険旅行に乗り出しました。約束の地に向かい、全世界を祝福する旅です。神に示されたカナンの地に着くと、そこには住んでいる人たちがいました。にもかかわらず神は、その地をアブラハムとその子孫に与えると約束されました。全世界を祝福する国を造るためです。目の前の現実を見るなら、カナン全土の所有など、あり得ませんでした。そこに彼らの国ができるとは、全く思えない状況でした。それでもアブラハムは、望みを捨てませんでした。どんなにあり得なくても、神が必ず望みを実現して下さると信じたのです。

 モーセがあり得ない望みを抱いたのは、80歳の時です。彼は、エジプトの王女に拾われ、息子として育てられました。成人すると、王族としての公務も果たしたはずです。しかし40歳の時、ユダヤ人を虐待するエジプト人を殺してしまいました。それがエジプト王に伝わり、モーセは死刑にされそうでした。そこで彼は、エジプトから「高飛び」しました。40年間、ミデヤンの地で羊飼いをしました。おそらく彼は、最期までそこで静かに暮らすと考えていたでしょう。ところが神は、80歳のモーセにこう命じられました。「エジプト王と話をし、ユダヤ人奴隷を解放しなさい。」エジプトは超大国で、支配者の王は神とあがめられていました。一方のモーセはお尋ね者で、住所不定の放浪者です。エジプト王が、彼の言うことを聞くとは思えませんでした。それでもモーセは、神のみこころに従いました。数百万の奴隷を解放するという、あり得ない望みを抱いたのです。神は、その望みを実現させて下さいました。アブラハムの子孫に約束の地を与えられたのです。

 預言者ダニエルも、あり得ない望みを抱きました。長い間バビロニアとペルシャの王宮で働いた彼は、おそらく80代になっていたはずです。彼は、バビロン捕囚の生き残りでした。70年前、祖国が滅亡し、首都エルサレムは破壊されました。ダニエルたちは約束の地から連れ去られ、バビロニアで働かされました。しかしダニエルは、信仰を失いませんでした。何が起きても、神が必ず約束を守られると信じていました。ライオンのいる穴に投げ込まれても、彼の信仰は揺るぎませんでした。80歳を過ぎた頃、いよいよ約束の時が来たと彼は信じました。そして、エルサレムの復興を求めて祈ったのです。エルサレムは70年間、荒れ果てたままでした。現実を見れば、復興など考えられませんでした。それでもダニエルは、望みを抱きました。昔、与えられた予言が、必ず実現すると信じていたからです。ダニエルの望み通り、エルサレムは復興しました。アブラハムの子孫は、約束の地に戻れたのです。そしてイエス様が、その地に来て下さいました。

 イエス様も、あり得ない望みを抱かれました。全人類を罪の支配から解放し、永遠の約束の地に導くという望みです。イエス・キリストを信じる人は、アブラハムの後継者とされます。彼らと同じように、あり得ない望みを抱くことができます。望みを実現する神を信じることができます。イエス様とともに、不可能なミッションを可能にすることができるのです!

「彼は望みえないときに望みを抱いて信じました。それは、『あなたの子孫はこのようになる』と言われていたとおりに、彼があらゆる国の人々の父となるためでした。」(ローマ4:18)

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2017年6月18日 (日)

正しく生きる

 文部科学省のホームページには、学校における道徳教育について次のような説明があります。「児童生徒が,…善悪の判断などの…道徳性を身に付けることは,とても重要です。」この考え方に基づき、3年前から「私たちの道徳」という教材が小中学校で配布されているようです。この教材は学校だけでなく、家庭や地域での活用も期待されているとのこと。ホームページに掲載されているので、小学校1、2年生向けの「私たちの道徳」を見てみました。良いことがいろいろ書いてあります。例えば、こういう教えです。「自分でやらなければならないことを、しっかりとやろう。」「良いと思ったことは、どんなに小さなことでも進んでやろう。」してはならないことについても、書いてあります。「嘘をついてはいけません。」「悪口を言ってはいけません。」自分の生活を思い起こし、ちゃんとできたか書き込むページもあります。子供たちはこうした道徳性を身に付け、将来、立派な大人になってほしいですね。中には政治家や官僚など、国を指導する立場につく子もいるはずです。

 道徳性とは、何が正しいかを判断し、正しく生きようとする心のこと。白と黒の違いを見分け、正しい方を選ぶ心です。この心を養うことは、16世紀にドイツで始まった宗教改革のテーマでもありました。当時、人々は上から正しいと言われたことにただ従っていました。カトリック教会のトップ(「最高レベル」)であるローマ教皇が、白か黒かを決めました。一般の人々には、白黒を判断する基準がなかったのです。彼らは、ラテン語の聖書を読めませんでした。教皇や教会の教えが聖書と一致しているかどうか、分かりませんでした。しかし修道士ルターは、聖書を自由に読むことができました。ローマ教皇や教会の教えが、聖書から大きくずれていると感じ、こう主張しました。「指導者たちも間違える可能性がある。だから、聖書を正しさの基準にすべきだ。」そして一般の人々も聖書を読み、独自に判断できるように、聖書をドイツ語に翻訳しました。それは、飛ぶように売れたそうです。人々は聖書に基づき、白か黒か判断できるようになりました。誰もが道徳性を身に付け、正しく生きられる条件が整ったのです。

 ただ、正しさの基準を知ったからといって、その通り生きられるとは限りません。人は間違いを犯しやすいことを、聖書は証言しています。エデンの園でアダムとエバは、神との約束を破りました。食べてはいけない木の実をとって食べました。自分の間違いを人のせいにもしました。人類共通の祖先は、道徳性に問題があったのです。シナイ山でユダヤ人たちは、モーセの律法を授けられました。律法は、道徳性の完璧な基準でした。ところがユダヤ人たちは、しばらくすると律法を無視して生きるようになりました。律法のない異邦人と変わらなくなりました。国の指導者たちは白を黒、黒を白と言いくるめるようになりました。そして、国は滅びました。人々は、諸外国に散らされました。自分たちがどこで間違ったのかを反省する時が与えられたのです。

 イエス様は、誰もが正しく生きられるよう、助けに来られました。私たちはアダムやエバと同じく、道徳性に問題を抱えています。ユダヤ人たちのように、間違いを犯すかもしれません。そんな私たちに、イエス様は新しい生き方を示されました。正しく生きるため、天の助けを求める生き方です。イエス・キリストを信じる人は、天の完璧な正しさが心に刻まれ、生き方が変えられます。自分の力によらず、学校教育によらず、天地創造の神により、私たちの道徳性は磨かれるのです。

「しかし、今は、律法とは別に、しかも律法と預言者によってあかしされて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。」(ローマ3:21-22)

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2017年6月 4日 (日)

聖霊の恵みを受ける

 今日は、ペンテコステの日です。キリスト教会の誕生日です。イエス様が天に昇られた後、エルサレムで祈っていた120人の弟子たちにこの日、聖霊が注がれました。その奇跡に驚いた人3000人が、新たに弟子に加わりました。聖霊の恵みにより、エルサレムに突然、大きな教会が生まれたのです。

 この日は、ユダヤ人が神から律法を授けられた記念日とも言われます。エジプトを後にしたユダヤ人たちは、3か月目にシナイ山のふもとに到着しました。モーセが以前、燃える柴を見た山です。彼はエジプトの王宮から逃げ、40年間、羊飼いをしていました。殺人犯で、身を隠していたのです。そのモーセに、神はこう命じられました。「エジプトに戻り、ユダヤ人たちをここに連れて来なさい。」「そんなことは無理です」とモーセは最初、断りました。しかし神様は、数々の驚くべき奇跡を成し遂げて下さいました。そしてモーセは、数百万人のユダヤ人とともに、シナイ山に戻って来たのです。その山で、モーセは律法の土台となる十戒を受け取りました。律法は、創造主なる神がアブラハムの子孫に与えた契約書でした。古代イスラエルの憲法でもありました。イスラエルの国はこの時、誕生したと言えます。この憲法記念の日に、教会も誕生しました。聖霊の恵みを受けた人々により、神の国の新たな国づくりが始まったのです。

 ペンテコステの日は、小麦の収穫開始のお祝いでもあります。約束の地に入ったユダヤ人たちは、年に3回、収穫を祝いました。春は過越の祭り、初夏は七週(ペンテコステ)の祭り、そして秋は仮庵の祭りです。春の祭りでは大麦の収穫開始を祝い、ユダヤ人はパン種(イースト)を入れないパンを食べます。パン種は罪の象徴であり、種なしパンは罪のないお方=イエス様の象徴でした。イエス様が十字架につき、復活されたのは、この春の祭りの時です。ご自身は、人に永遠のいのちを与えるパンだと示して下さいました。一方、初夏のペンテコステには、パン種の入った小麦のパンが食べられます。それは、罪ある普通の人の象徴だと言えます。ペンテコステの日、祭司は2つのパンを天に向かって揺り動かし、神の恵みを感謝しました。この日誕生した教会は、律法を完璧に守る罪のない人の集まりではありません。罪ある普通の人が聖霊の恵みを受け、神の国の民とされました。2つのパンは、ユダヤ人と異邦人という人類の2つのグループを象徴すると考えられます。聖霊の恵みにより、ユダヤ人と異邦人がともに神の国の国民とされる時代が来たのです。

 聖霊は、父なる神や御子イエスとともに、全てを創造されました。イスラエルの国を造るため、指導者たちを導かれました。預言者を満たし、神のことばを語らせました。そして、みことばが人の心に記される時がいつか来ると約束されました。ペンテコステの日、その約束が実現したのです。聖霊が弟子たちを満たし、心のうちに住まわれるようになりました。ともにおられる聖霊は、いつでも神のことばを思い起こさせて下さいます。その恵みは、ごく一部の指導者だけのものではありません。イエス・キリストを信じる全ての人に、聖霊の恵みが与えられています。イエス様は聖霊に満たされ、新たな国づくりを始められました。弟子たちも聖霊に満たされ、世界中にその良い知らせを広めて来ました。私たちにも同じように、素晴らしい聖霊の恵みが分け与えられています。その恵みを心から喜び、ともにお祝いしましょう。喜ぶ私たちの姿を見て、神様も喜んで下さいます。

「外見上のユダヤ人がユダヤ人なのではなく、外見上のからだの割礼が割礼なのではありません。かえって人目に隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、文字ではなく、御霊による、心の割礼こそ割礼です。その誉れは、人からではなく、神から来るものです。」(ローマ2:28-29)

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2017年5月14日 (日)

勝利者の人生を全うする

 今日は、神の民のアイデンティティ・シリーズ最終回です。これまでのテーマは神の作品、旅人、祭司、王族、証人、弟子でした。今回のテーマは勝利者です。イエス・キリストを信じる人は、人生の勝利者とされています。

 東京のあるお寺では毎月、死を体験するワークショップを開催しているそうです。2時間で3,000円。30人くらいの人がお坊さんの話を聞き、死を前にした時の自分を想像するそうです。もともとは米国のホスピスで始まった、スタッフ教育のプログラムだったとのこと。参加者はまず、自分にとって大切なものを紙に20個書き出し、机に並べます。お坊さんの話が進むにつれ、その中の一枚、あるいは何枚かを選びます。選んだ紙をまるめ、床に捨てます。最後に残る紙は何か確かめ、それが自分の人生にどんな意味を持つか考えます。多くの人は、「家族」と書いた紙が最後に残るそうです。「iPhone」や「歌を歌う」と書いた紙を残す人もいるようです。このワークショップは人気が高く、チケットは完売になるとか。参加者は、次のようなコメントを残しています。「最後に残したものは、自分でも想像しないものでした。」「こんなにも多くの好きな物事に囲まれていたのかと、幸せな気持ちになりました。」「自分の中でさまざまな感情が揺れ動いた時間でした。また参加してみたいです。」このお寺以外でも、死を体験するイベントが開かれています。棺おけの中で、お経や弔辞を聞く体験もあるそうです。

 最近は、「終活」という日本語をよく目にするようになりました。この言葉は、2009年に週刊朝日が造った造語だそうです。最初は、葬儀やお墓の準備を意味しました。しかし今は、もっと広い意味で使われます。「人生のエンディングを考え、自分を見つめ直すことにより、今をより良く、自分らしく生きる。」そのような意味です。60歳以上を対象にしたある調査では、終活をすでにしている人は8.9%。近いうちに始めようと思う人は8.5%。時期が来たら行いたい人は56.2%。合わせて74%の人が、終活に関心を持っています。別の調査では、終活として具体的に何をするか聞きました。第1位は、物の整理・片づけ。第2位は、保険等のお金の準備。第3位は、今の人生を楽しむことです。やり残したことをしたい人も多いようです。圧倒的に多いのが旅行で世界一周、海外旅行、夫婦で旅行など。私も先週、夫婦で函館に行って来ました。終活の一環と言えますね(笑)。

 終活でほとんど語られないのは、死後の行き先です。あまり考えたくない人が多いのかもしれません。あるいは、自分の「信仰」を脅かされたくないのかもしれません。ある人たちは、死後の世界はないと信じています。死んだら全て無になるという考えです。別の人たちは、違う世界に生まれ変わると信じています。遺族がお経を唱えたら、より良い世界に行けると教えられています。さらに他の人たちは、死んだら自動的に天国だと信じています。みんな天国なら、そこに行くため必要なことは何もありません。これらの「信仰」は、どれかが正しいと言えるのでしょうか。もし死後の行き先を間違ったら、せっかくの終活も残念な結果に終わってしまいます。

 創造主の約束を記す聖書は、死後の行き先について明確に証言しています。イエス・キリストを信じる人は、永遠の天の御国にゴールインできます。輝かしいゴールを楽しみに、今を存分に生きることができます。イエス様とともに生きることこそが、最高の終活です。栄光に輝く勝利者として、私たちは、昨日も今日もいつまでも生きることができるのです。

「私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。かの日には、正しい審判者である主が、それを私に授けてくださるのです。私だけでなく、主の現れを慕っている者には、だれにでも授けてくださるのです。」(Ⅰテモテ4:7-8)

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