礼拝

2019年2月17日 (日)

神の家族として成長する

 先日、妻と私は東京・府中の教会に招かれ、2人で一緒に話す機会をいただきました。夫婦関係と家庭についてというテーマです。自分の教会以外で、2人揃って話をするのは初めてでした。私たちは、結婚して31年以上になります。ここに至るまで神様は私たちを導かれ、大いに祝福して下さいました。3人の子は大人になり、それぞれ仕事を見つけました。娘たちは結婚し、初孫まで生まれました。その恵みを振り返る良い機会となったことを感謝しています。

 初めて出会った時、私たちは2人ともクリスチャンではありませんでした。私が洗礼を受けた数ヶ月後、幸いなことに妻も信仰を持ち、洗礼を受けてくれました。結婚した時は、クリスチャンホームとして聖書に基づく家庭づくりをしたいと、私たちは願いました。神のことばという揺れ動くことのない、共通の土台があれば、夫婦や家族の間にも揺るがない関係を築いていけると考えたからです。

 結婚前、私は問題のある家庭をいろいろ見ていました。似たような問題は、今も多くの家庭にあるようです。離婚する夫婦。浮気する夫や妻。すれ違いの家族。文句や争いの絶えない家。愛のない家庭。虐待される配偶者や子供。最近も、子供が虐待死した痛ましい事件が大きく報道されました。でも事件になるほどでなくても、問題はあちこちに見られます。せっかく結婚するなら、幸せな家庭をつくりたいと私は思いました。それには、聖書の土台が一番だと考えたのです。

 私は牧師になるつもりだったので、特に家庭づくりに気をつけた所もあります。教会のリーダー(監督や執事)になる人は、良い家庭を築かなければならないと聖書にあるからです。牧師になる前から、「家庭は小さな教会で、自分はそこの牧師だ」と考えていました。妻と2人で、「小さな羊」のお世話をしたのです。私は子供に厳しくする役、妻は優しくする役でした。いつも夫婦で話し合い、祈り、一致を保つようにしました。「子羊」のお世話はたいへんでしたが、思えば楽しい日々でした。今は親子から、人生の先輩後輩のような関係に移りつつあります。孫については、私たちは2人とも甘やかす役を希望しています。(笑)

 人が家族をつくるのは、神の計画です。(もちろん、神のみこころに従い、生涯独身を貫く人も中にはいます。)神は、アダムとエバの結婚を祝福されました。子供たちが世界中に増え広がるように計画されました。アブラハムとサラの夫婦も、神は祝福されました。彼らの子孫を空の星、海辺の砂のように増やすと、約束されました。その子孫はエジプトで数十万世帯になり、人数は数百万人に膨れ上がりました。エジプトを出た後、彼らは荒野で子供たちをしつけました。親が子に、神の教えを伝えました。子供たちは立派な大人になり、それぞれ家族ごとに約束の地を受け取りました。神はアブラハムへの約束を守り、イスラエルの家族を大いに祝福されたのです。神に選ばれた家族として、その祝福を全世界に広げるためでした。

 イエス様は、この「神の家族」を完成しに、私たちの世界に来られました。イエス・キリストを信じる人は、神の家族に加えられます。神の祝福を体験し、全世界にその恵みを伝える人になります。信じた人は、赤ん坊として神の家に誕生します。その家の子として愛され、大切に育てられます。一番上の兄であるイエス様が、どう生きるべきかを教えて下さいます。家族とされた者同士、私たちは互いに助け合いながら生きて行きます。一人ひとりに委ねられた役割を忠実に果たします。私たちは神の家の子として成長し、イエス様のような愛に満ちた大人になって行けるのです。

「こういうわけで、あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、聖徒たちと同じ国の民であり、神の家族なのです。」(エペソ2:19)

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2019年2月10日 (日)

祝福の神をほめたたえる

 平成の時代、カラオケで最も歌われた曲は、一青窈さんの「ハナミズキ」だそうです。2004年に発売後、多くの歌手にカバーされ、幅広い年齢層の人に親しまれた曲とのこと。私は聞いたことがありますが、歌ったことはありません。(平成になってから、カラオケも行っていません。笑)「ハナミズキ」は、9・11のテロ事件がきっかけで出来た作品だそうです。ニューヨークに住む友人に送ったメッセージが歌詞となり、それに曲をつけたとの話。歌詞は難解ですが、死に行く人が生き残る人に宛てた遺言のような内容に思えます。最後は、祈りのような言葉で歌が終わります。「果てない波がちゃんと止まりますように 君と好きな人が百年続きますように」。愛する人の平和と幸せを心から願うメッセージソングと言えます。それが、多くの人の心に響いたのかもしれません。

 メッセージソングとは、歌詞に強い主張が込められた曲のこと。誰か他の人に伝える重要なメッセージが込められてます。「ハナミズキ」の場合は、多くの人に平和の大切さを訴えています。ただ最後の「祈り」は、誰にお願いしているのか、はっきりしません。目に見えない存在へのメッセージなのかもしれません。自分の願いを言葉にして唱えることで、その実現を期待しているのかもしれません。あるいは単に、聞く人の共感を求めているのかもしれません。

 私たちも毎週、礼拝でメッセージソングを歌っています。カラオケではありません。生バンドつきです(笑)。私たちが歌う曲にも、人に伝えるメッセージがあります。♪♪「主は素晴らしい」、「イエスは十字架につき、よみがえられた」、「声を上げて喜び歌おう」♪♪――そのように歌い、周りの人の共感を求めます。人ではなく、神へのメッセージソングもあります。♪♪「あなたを愛します」、「あなたの恵みをほめたたえます」、「この国を救って下さい」♪♪――賛美を通し、そのように神に伝えます。歌詞に私たちの思いを込め、心を一つにして歌います。宗教的な儀式として歌うのではありません。ノリの良い曲を歌い、自分のテンションを上げるのでもありません。素晴らしい歌声や演奏を誰かにアピールするためでもありません。歌を通し、私たちの愛のメッセージを神に届けるのです。私たちが歌う心からのメッセージを、神は喜んで受け取って下さいます。

 礼拝賛美のモデルを作ったのは、イスラエルのダビデ王だと言われます。それまでの礼拝は、動物のいけにえを献げることが中心でした。ダビデ王は、音楽のいけにえを礼拝に導入したのです。あらゆる楽器を用い、神に賛美をささげ始めました。ダビデ自身が、ミュージシャンでした。彼は礼拝賛美の奉仕者を選び、訓練させました。彼らは、みな「達人」だったと記されています。旧約聖書の詩編も管楽器、弦楽器、打楽器など、あらゆる楽器を用いて神を賛美しようと呼びかけています。初代教会や中世の時代は、楽器伴奏のない賛美が中心でした。無伴奏の歌は「アカペラ」と言いますが、もともとはイタリア語で「教会風に」という意味でした。宗教改革以降、プロテスタント教会ではオルガンを弾くようになりました。今では多くの教会で、さまざまな楽器を用いた賛美がささげられています。

 全ての音は、神が創造されました。神にメッセージを伝えるのに、使えない楽器はないはずです。あらゆる楽器を通し、神の素晴らしさを賛美できます。イエス・キリストは十字架の上で死に行く時、全世界の人の平和と幸せを心から願われました。間違いを犯し、人殺しさえしてしまう人類の救いを祈られました。私たちはその驚くばかりの恵みを知り、神をほめたたえるメッセージソングを歌います。週1回だけでなく、いつでもどこでも神の祝福を感謝し、賛美できるのです。

「私たちの主イエス・キリストの父である神がほめたたえられますように。神はキリストにあって、天上にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。」(エペソ1:3)

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2019年2月 3日 (日)

天命を全うする

 旧約聖書に登場する信仰の勇者の一人、ヤコブの子ヨセフは、波瀾万丈の生涯を生きた人です。10人いた兄たちに憎まれ、奴隷として売られ、売却先のエジプトでは監獄に入れられました。ところが奇跡的な出会いを通し、ファラオの夢を解き明かすチャンスが与えられ、それがきっかけでエジプト全土の支配者にまで上り詰めます。家族をカナンから呼び寄せ、飢饉から救い、兄たちとも和解しました。それは、ヨセフの生涯のハイライトと言える感動的な名場面です。

 ところが、信仰の勇者を列挙する新約聖書・ヘブル人への手紙11章には、この感動的なシーンは出て来ません。ヨセフの話はたった一節だけ、臨終の場面です。創世記37章から50章までが、ほとんどヨセフ関連の話であるのと比べると、驚くばかりの簡潔さです。ヨセフは年老いて最期の時が近づくと、家族に将来の展望を語り、自らの埋葬場所を指定しました。「神は必ずアブラハムの子孫、ユダヤ人を約束の地に帰して下さる。だから自分の遺骸は、その地に埋葬してほしい。」彼は、そう遺言したのです。

 その遺言は、確かに守られました。数百年後、モーセに率いられたユダヤ人たちは、エジプトを脱出する際、ヨセフの遺骸も運び出しました。荒野を40年間さまよった時も、遺骸は彼らと一緒でした。約束の地を占領すると、遺骸はシェケムの地に埋葬されました。そこは、かつてヨセフが奴隷として売られる前、父に命じられて兄たちを捜しに行った土地でした。

 ユダヤ人をエジプトから約束の地に導かれたのは、もちろん創造主なる神です。その神の導きを象徴的に表したのは、荒野で彼らの先頭を進んだ契約の箱でした。神のことばを語るモーセの強力なリーダーシップも、ユダヤ人のサバイバル生活には不可欠でした。と同時にヨセフの遺骸は、彼らにとって大きな励ましとなったはずです。彼らのレジェンド、伝説の人物であるヨセフの遺骸は、荒野を行く民とともに約束の地を目指したのです。「必ずその地に帰ることができる。」ユダヤ人たちは遺骸を見るたび、ヨセフのその証言を思い起こすことができたはずです。

 ヨセフの天命は、エジプトの支配者となり、家族を救うことにとどまりませんでした。彼の伝説的な生涯とその遺言は、後世のユダヤ人を励まし、彼らが進むべき方向を指し示したのです。もちろんその姿は、私たちの信仰の模範でもあります。

 創造主なる神は、私たち一人ひとりにも果たすべき天命を用意されています。私たちの生涯と語ることばを通し、周りの人を励まし、人類に用意された約束の地を指し示す天命です。イエス・キリストを信じる人は、誰でもアブラハムの子孫に加えられ、ヨセフのように天命を全うすることができるのです。

「信仰によって、ヨセフは臨終のときに、イスラエルの子らの脱出について語り、自分の遺骸について指示を与えました。」(ヘブル11:22)

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2019年1月27日 (日)

喜びの人生を生きる

 朝日新聞日曜版のスポーツ面に、「未来ノート―202Xの君へ―」というコーナーがあります。子供向けの記事で、日本のトップアスリートを4回シリーズで特集しています。小さい頃どんな練習をしていたか、どんな人たちに支えられたか、将来どんな夢を持っているか等が紹介されています。これまでテニスの錦織圭選手、野球の大谷翔平選手、卓球の平野美宇選手等が登場しました。(そのうち、大坂なおみ選手も登場するかもしれません。)今月は、バレーボール女子の黒後愛選手です。黒後選手は20歳で、栃木県宇都宮市出身。(餃子は好きかな?)身長180cmで、かつてのエース、木村沙織選手の後継者とも言われるそうです。

 先週20日の記事は「笑顔」がテーマでした。黒後選手の笑顔は、たいへん印象的です。昨年、世界バレーで活躍した時、笑顔が輝いていました。でも彼女は子供の頃、感情の起伏が激しかったそうです。泣き虫で、すぐ泣くし、すぐ怒りました。(「泣き虫愛ちゃん」が、もう一人いたようです!)感情のコントロールができず、気持ちにムラがありました。試合中、つまらない態度を見せることもあったそうです。父からは、こう言われました。「試合では笑顔をつくらないとダメ。試合で華のある選手になってほしい。」姉は、こう言いました。「バレーボールは一人じゃできない。エースのあなたの顔色をうかがうチームになっちゃいけない。」姉と2人で、笑顔づくりの練習もしたそうです。朝日新聞の記者に対し、黒後選手はこう語りました。「笑っていれば、いいことがある。前向きでいたい。」

 笑顔には、確かにいいことがあるようです。フランスの哲学者アランは、こう言ったそうです。「幸福だから笑うのではない。笑うから幸福なのだ。」笑顔の表情をつくるだけで、脳の中でドーパミンが増えるそうです。幸せを感じさせる物質です。笑顔一つで、チョコバー2000個分幸せになるという話もあります。(チョコバーが大好きな人の場合でしょうね。笑)笑顔の人は、穏やかで有能そうな印象を与えるとも言われます。旧ソ連のユーリイ・ガガーリンは、人類初の宇宙飛行士に選ばれました。選出理由の一つは、彼の笑顔だったそうです。輝くような笑顔は、ヒーローになるのにふさわしいと判断されたとのこと。笑顔は、健康にも良いそうです。ストレスを発散させ、血行を良くし、ガンやウィルスへの抵抗力を高めると聞きます。もちろん笑顔は、人間関係も良くします。笑顔で写真に写る人は満足度の高い人生を送り、長生きするという調査結果もあるそうです。「笑う門には福来たる」ということわざ通りですね。

 聖書には、こう書かれています。「喜んでいる心は健康を良くし、打ちひしがれた霊は骨を枯らす。」旧約聖書の箴言17章22節です。私たちの地上の人生は、嬉しいことや楽しいことばかりではありません。悲しいことや辛いことも起きます。打ちひしがれた思いになる時も、あるかもしれません。でもイエス・キリストを信じる人は、どんな時にも喜ぶことができます。目の前に起きる出来事が、全てではないと知っているからです。

 私たちの人生がたとえ荒野の旅のようでも、永遠の世界に比べれば一瞬に過ぎません。時が来たら、クリスチャンは素晴らしい約束の地に到着できます。限りない喜びと楽しみに満ちた、永遠の神の国です。そこに向かう人は、旅の途中から喜びと楽しみの「味見」ができるようになります。荒野にデパ地下がオープンするかのようです。(食べるのが好きな人向けのたとえです。笑)そこを歩けば幸せな気持ちになり、笑顔になれます。永遠の神の家に着けば、大好物を好きなだけ食べられる――その時を楽しみに、喜びながら「デパ地下」を制覇できるのです!信仰によって人生の荒野を笑顔で進み、華のある生き方ができることを感謝します。

「いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。」(ピリピ4:4)

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2019年1月20日 (日)

天与のゴールを目指す

 今年のNHK大河ドラマは、オリンピックがテーマです。主役は2人で、一人はオリンピックに初めて参加した日本人。もう一人は、オリンピックを初めて日本に呼んだ人。(フランスで今、捜査中の人ではありません。)来年の東京オリンピックへ向け、いろいろ話題が尽きませんね。

 初めてオリンピックに参加した日本人は、金栗四三(かなくりしそう)さんとのことです。私は番組の宣伝が始まるまで、この方のことを何も知りませんでした。1891年、熊本生まれ。8人兄弟の下から2番目。父親が43歳の時に生まれたので、四三と名付けられたそうです。(うちの息子は、私が33歳の時に生まれました。同じ名付け方なら「三三(さんぞう)」だったかもしれません。笑)四三君は小学生になると、自宅から学校まで毎日走りました。皆さんの小学校は、家からどのくらい離れていましたか?私は、数百メートルだったと思います。四三君の場合は学校まで片道6キロ、往復12キロでした。そこを毎日走りました。冬はわら草履、夏は裸足だったそうです。すごいトレーニングですね。それだけ走った甲斐あって、日本で初めてオリンピックのマラソン代表に選ばれました。1912年に開催されたストックホルム五輪です。四三君が、東京高等師範学校(今の筑波大学)の学生の時です。

 マラソン当日の7月14日は、快晴。午後1時半のスタートで、最高気温40度になりました。参加者68名中、半数が途中棄権。レース中に倒れ、翌日死亡した人もいました。(来年の東京五輪も心配ですね。)金栗四三選手は、26キロを過ぎた辺りで熱中症に。コース近くの家に行って倒れ、介抱されました。残念ながら、ゴールできませんでした。ところが55年後の1967年、ストックホルム五輪の記念行事に四三さんは招待されました。オリンピックの時、四三さんは棄権ではなく、行方不明扱いになっていたのです。五輪スタジアムを少し走り、ゴールテープを切りました。すると、こうアナウンスが流れたそうです。「日本の金栗、ただいまゴールイン。タイムは、54年8ヶ月6日5時間32分20秒3。これをもって、ストックホルム五輪の全日程を終了します。」このマラソン最長記録は、今後おそらく破られないでしょう。四三さんはゴールの後、こう言ったそうです。「長い道のりでした。この間に孫が5人できました。」

 人生は、マラソンレースのようです。創造主なる神は、私たち一人ひとりに走るべきコースを用意されています。ゴールはどこか、どこをどう走るのが一番よいか、私たちの生まれる前から全て計画されています。でも私たちはほとんどの場合、何も分からないうちに走り出します。どんなコースなのか分かりません。ゴールがどこか分かりません。どのくらい長く走るのかも分かりません。多くの人は、神が計画された最善のコースから外れています。いつまで走っても、ゴールインできません。途中で疲れ果て、倒れる人もいます。目指すゴールを見失い、レースを投げ出す人もいます。

 イエス様は、そのような私たちに目指すべきゴールと正しいコースを教えに来られました。ゴールは、ストックホルムではありません。東京でもありません。永遠の神の都のスタジアムです。イエス・キリストを信じる人は誰でも、そのスタジアムにゴールインできます。ゴールを見失った人も、途中で倒れた人も、しばらく休んだ人も大丈夫です。大歓声に包まれた栄光のスタジアムに、世界中から無数のランナーが集まって来ます。レースを走り抜いた最高の喜びを、私たちは、イエス様とともにいつまでも味わうことができるのです。

「兄弟たち。私は、自分がすでに捕らえたなどと考えてはいません。ただ一つのこと、すなわち、うしろのものを忘れ、前のものに向かって身を伸ばし、キリスト・イエスにあって神が上に召してくださるという、その賞をいただくために、目標を目指して走っているのです。」(ピリピ3:13-14)

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2019年1月13日 (日)

新しい自分を生きる

 映画「ボヘミアン・ラプソディー」は先週、ゴールデン・グローブ賞の映画ドラマ部門で、最優秀作品賞と最優秀主演男優賞を獲得したそうです。ご存知、伝説のロックバンド「クィーン」のボーカル、フレディー・マーキュリーの生き方を描いた映画。日本では先週末までに600万人以上がこの映画を観て、84億円以上の入場料を支払いました。売上げは世界一とのこと。リピーターも多く、まだまだ大ヒット上映中だそうです。

 私はクィーンのファンではなく、映画も観ていません。(妻は関心があるようです。)でも先週、ネットを見ていたら、映画を観た人たちの感想に目が留まりました。その人たちは、フレディー・マーキュリーの次のような言葉に感動したそうです。「I decide who I am.(自分が何者かは自分で決める。)」彼が、自分の病気(エイズ)をバンドメンバーに告白するシーンだそうです。フレディーは、マイノリティ(社会的少数派)でした。アフリカ・タンザニアの島で生まれた、ペルシャ系インド人。ゾロアスター教を信じていたようです。そしてゲイ(同性愛者)でした。今風に言うと、LGBTです。17歳の時、イギリスに移住しましたが、社会の中で明らかに彼は少数派でした。「他の人々と全く違う自分は、一体何者なのか。」フレディーは、その答えを長い間、求めていたのかもしれません。

 「自分は何者か」という意識を、心理学で「アイデンティティ」と言います。私たちは、たいてい大人になるまでに、自分がどういう人間か意識するようになります。私は道産子(北海道出身)で、日本人です。無宗教の家に育ち、大学卒業後、クリスチャンになりました。今は所沢の教会の牧師です。プロテスタントの中でも、ペンテコステ(聖霊派)というグループに属しています。長男であり、夫であり、父であり、祖父です。それが、私のアイデンティティです。

 時々私たちは、自分が何者かを見失うことがあります。「アイデンティティ・クライシス」と呼ばれます。東京で一人暮らしを始めた頃、私は自分を見失いました。道産子は、マイノリティです。(どこの地方出身でも同じでしょう。)大都会の人混みで、自分だけ浮いている感じがしました。大学の難しい勉強について行けないように思いました。東京の有名私立高出身者に気おくれがしました。地方出身の友人たちと渋谷でさんざん飲み歩きましたが、何の解決にもなりませんでした。(お金を失くしただけです。笑)自分のアイデンティティを再発見したのは、創造主なる神と出会った時です。自分は神に造られ、愛されている存在だと、初めて分かりました。自分が何者かを、神に教えていただいたのです。その時、私は心に決めました。「そのアイデンティティを、自分は信じる」と。

 聖書の神を信じる人は、多くの場合、マイノリティです。アブラハムやその子孫のユダヤ人たちは、全世界のマイノリティとして神のことばを伝えました。イエス様と弟子たちも、社会の少数派でした。ヨーロッパに最初に福音が伝わった時も、信じる人は少数でした。今なお世界中の多くの国々で、クリスチャンはマイノリティです。日本もその国の一つです。全てを造られた神は、全ての人を愛しておられます。マジョリティ(多数派)の人も、マイノリティの人も、神は愛しておられます。その愛のゆえに、神は全ての人にこう言われています。「あなたにふさわしい、最善の人生を歩んでほしい。」でも神は、強制はしません。自分は何者かを選択する自由が、私たち一人ひとりに認められています。聖書が教えるアイデンティティを選択する人は、本来の自分の姿に回復することができます。人が自分たちの思いで決める姿でなく、神が計画し、完成して下さる新しい自分の姿です。どんな人であっても、神に受け入れられ、新しい人として生きる助けが与えられるのです。

「ただキリストの福音にふさわしく生活しなさい。」(ピリピ1:27)

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2019年1月 6日 (日)

完成への道を突き進む

 スペインのバルセロナに、サグラダ・ファミリアという未完成の教会堂があります。正式名称は、「聖家族贖罪教会」だそうです。ご存知の通り、アントニ・ガウディの作品で、建物の一部は世界遺産です。建設開始は1882年。ガウディは翌年1883年から、2代目の建築家としてこの教会の設計を始めました。それから40年以上にわたり、彼はこの建設プロジェクトに関わりましたが、1926年に73歳で亡くなった時、完成していたのは全体の4分の1以下だったそうです。費用は全て、個人の献金でまかなわれたため、建設が遅々として進まなかったのです。スペインの内戦もあり、反乱軍に建物の一部を破壊されたこともありました。完成には数百年かかると言われましたが、コンピュータ技術の飛躍的な発展により、2026年に完成予定とのこと。ガウディの死後100年にあたります。世界遺産になったためか、拝観料収入が大幅に増え、経済的な必要も満たされました。カトリック教会らしく、イエス・キリストの誕生や十字架・復活のエピソードを表現した彫刻がたくさんあるようです。大聖堂の内部も森の中をイメージしたような幻想的な空間との話。完成した頃、まだ元気だったら、一度見に行きたいですね。(笑)

 普通の建物は、建設着工から1年以内で完成します。高層ビルでも数年以内です。池袋のサンシャイン60は、建設に5年かかりました。新宿の東京都庁舎は2年半。スカイツリーは3年半で建ちました。建設に100年以上かかる建築物は、滅多にありません。ドイツのケルン大聖堂は、完成までになんと630年かかったそうです。イタリアのピサの斜塔は、200年かかって完成しました。実は教会関係の建物で、ピサ大聖堂の鐘を鳴らす塔だそうです。これらの設計を担当した人たちは、建物の完成した姿を実際に見ることはありませんでした。でも彼らの頭の中には、完成した建物がはっきりイメージされていたはずです。そのイメージに合わせ、彼らは設計図を描き、建設作業をする人たちに指示を出したのです。サグラダ・ファミリアの設計図や模型は、内戦の時になくなったそうです。でも、その後の設計者たちがガウディの完成イメージを推測し、建設は続けられました。ロマンに満ちた、壮大なプロジェクトですね。

 創造主なる神も、天地創造の前に、全てが完成した世界の設計図を描かれました。その世界は、永遠の祝福に満ちています。イエス・キリストが王として、全世界を治めておられます。そこに悪は存在しません。苦しみや悲しみもありません。あるのは良いことだけ。喜びや楽しみに満ち溢れた世界です。あらゆる国から集められた人々が、その世界に集っています。イエス様を王と認め、そこに入ることが許された人たちです。その世界で人々は、限りない祝福をいつまでも喜び、楽しむことができます。あらゆる束縛から解放されています。限りない自由と平和があります。神は、これまでイスラエルの預言者たちを通し、完成した世界の設計図を少しずつ人類に伝えて来られました。そこに描かれた素晴らしい世界は今、天のスケジュールに沿って完成されつつあります。悠久の時間をかけた史上最大のプロジェクトです。イエス様を救い主、全世界の王と信じる人は誰でも、その何よりも偉大なプロジェクトに参加可能です。私たち自身も完成した世界の一部とされ、その光り輝く美しさをいつまでも満喫できるのです。

「あなたがたの間で良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださると、私は確信しています。」(ピリピ1:6)

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2018年12月30日 (日)

心新たに新年を迎える

 伝統的に日本では、正月に特別な来客があると信じられて来ました。「年神」と呼ばれる神道の神です。一年の平和と繁栄をもたらすと言われます。年末には多くの人が、この訪問客を迎える準備をします。部屋を片付け、大掃除をします。しめ縄や門松などで飾り付けます。「どうぞお出で下さい」という神々への目印です。供え物も用意します。鏡餅も、その一つです。大晦日の除夜の鐘も、準備の一部のように思えます。新年を迎える前に、煩悩を祓うのです。煩悩とは、仏教の教えで汚れた心のことだそうです。汚れた心は、お寺の鐘の音で取り除かれると人々は考えました。鐘の音に神秘的なパワーがあると信じたのです。つまりお寺で鐘を鳴らすのは、神社でお祓いをする代わりです。大晦日の夜、一年の煩悩を全て取り除き、年神を迎える準備を終えるのです。

 年が明けると、人々は年神の来訪をお祝いします。年神は、先祖の霊と考えられています。その霊に自分たちの家が代々守られて来たことを、人々は感謝します。新しい年の平和と繁栄を願いつつ、人々は年神と一緒に食事をします。雑煮やおせち料理、鏡開きには、もともとそういう意味があったようです。特に鏡餅には、年神が宿ると考えられました。餅を食べると、年神の魂、力を得ると信じられて来たのです。

 創造主なる神は、ユダヤ人たちに新年の迎え方について教えられました。そのパターンには、私たちの見習うべき点があります。第一に新年は、神への礼拝から始まります。正月は1月でなく第7の月、日本の暦の9月か10月頃です。年が明けると、鐘ではなく角笛が吹き鳴らされます。「創造主なる神を礼拝しなさい」という呼びかけです。角笛の音は、イスラエルの人々に先祖たちのエピソードを思い出させました。角笛を吹くように、神はアダムに命の息を吹き込まれました。モリヤの山にいたアブラハムには、イサクの身代わりとして角のある羊が与えられました。シナイ山では角笛の音の中、モーセに十戒が与えられました。預言者たちは、角笛が鳴るように神の警告を伝えました。世界中に散らされた民は将来、角笛とともに集められ、ともに神を礼拝するという預言もありました。角笛の音自体に、神秘的なパワーはありません。でもその音は、神が先祖たちに良くして下さったという記憶にリンクするのです。「この恵み深い神を信じ、礼拝しなさい。」角笛の音は、そう呼びかけます。私たちにも、一年を神への礼拝から始めるように呼びかけるのです。

 礼拝とは、何かをささげる行為です。大掃除や正月飾りする人々は、年神に対してお金と時間、労力をささげています。神社やお寺へ初詣に行く人も、そこに祀られる神や仏等に時間と賽銭をささげます。ユダヤ人たちも、創造主なる神に時間と収穫物の一部をささげて来ました。しかし神は、こうも言われています。「最も大切なのは、形ではなく心だ。」神を愛する心です。うわべではなく、心を神はご覧になっています。ただ形だけの、人目を誤魔化すようなささげ物をしても、神は喜んで下さいません。私たちも愛のない、形だけのプレゼントをもらっても、あまり嬉しくないですね。それと同じです。聖書(ローマ人への手紙12章1節)には、自分自身を全て神にささげなさいと書かれています。私たちの心も、全てささげなさいという意味です。神を愛する心です。新たな年も祝福して下さる神に、私たちは愛する心をささげましょう。

 第二に年の初めは、悔い改めの時です。悔い改めとは、心を新たにし、神の方向に向き直すことです。神の完璧さを知ると、自分がいかに完璧でないかが分かります。その視点から、過去1年間の自分の歩みを見直します。1年を通して自分のしたことが全て完璧だった人は、いるでしょうか?自分の心に一点の曇りもなかった人は、いるでしょうか?おそらく、いなかったはずです。何か足りなかったかもしれない。ほんの少しでも、悪い思いを持ったかもしれません。ひょっとしたら自分も気づかない問題があったかもしれません。それら全てについて、神に謝ります。誰か他の人に迷惑をかけたなら、その人にも謝ります。角笛が鳴った日から10日間、ユダヤ人たちは悔い改めを求められます。私たちも、新年を悔い改めとともに迎えましょう。お寺の鐘を聞いても、心の汚れはなくなりません。私たちが悔い改める時、神が私たちの汚れた心をきよめて下さるのです。

 悔い改め最終日の10日目は、国を挙げて神の赦しを求める日、「宥めの日(贖いの日)」です。神殿のあった時代、イスラエルの国全体の汚れをきよめるため、大祭司が特別な生け贄をささげました。2匹の山羊です。1匹は屠られ、その死を告げるように、血が契約の箱に振りかけられました。もう1匹の山羊は、全国民の罪や汚れを背負い、荒野に追い払われました。いわゆるスケープゴートです。全ての人の罪や汚れが赦されるには、身代わりの生け贄が必要でした。イエス様は、全人類の身代わりをする山羊になって下さったのです。全ての人の罪を背負い、十字架の上で血を流されました。スケープゴートとして、死の世界に追い払われました。イエス様を自分の身代わりと認める人は、汚れた心がきよめられます。私たちの悔い改めは、イエス様の十字架を通し、神の赦しにつながっているのです。

 第三に年の初めは、感謝の時です。年が明けて15日目以降は、お祝い―収穫祭です。神から与えられた収穫を喜び、7日間お祝いの食事を食べます。蜂蜜付きのリンゴを食べ、甘い、祝福に満ちた一年であってほしいと願うそうです。ザクロも食べます。種が多いので、子孫繁栄という願いが込められているそうです。私たちも新年を迎える時、周りの人と神の恵みを喜び、お祝いしましょう。お雑煮でもおせちでも、すべての食材は創造主から与えられた恵みです。

 イスラエルの秋の収穫祭は、仮庵の祭りと呼ばれています。ユダヤ人たちは仮の小屋を作り、そこで時間を過ごします。エジプト脱出後、先祖たちが荒野でキャンプ生活をした時代に思いを寄せるのです。荒野の40年間、神は先祖たちを危険から守り、全ての必要を満たされました。仮庵の祭りは、その恵みを思い起こし、感謝する時です。新しい年、私たちの全ての必要も神が満たして下さいます。あらゆる危険から守って下さいます。荒野のユダヤ人を支えた神は、私たちの歩みも支えて下さいます。イエス様の別名はインマヌエルであり、「ともにおられる神」だからです。新しい年を、私たちも神に感謝して迎えましょう。

 イエス様は、永遠のいのちを与えるパンとして天から下られました。日本風に、「いのちを与える餅」とも言えるかもしれません。「イエス様の餅」を食べる人は、永遠のいのちが与えられ、天から特別な力を頂くことができます。その力により、私たちは生き方が変えられます。自分の思いではなく、神のみこころを行いたいと願うようになります。新しい年、「イエス様の餅」を頂きましょう。心を新たにし、祝福に満ちた新年を迎えましょう。

「この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分を変えていただきなさい。そうすれば、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります。」(ローマ12:2)

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2018年12月23日 (日)

飼葉桶に希望を見る

 今日は、天皇誕生日です。平成の天皇誕生日は、これが最後になります。今上天皇は85年前、東京都千代田区に誕生されました。当時、皇居の中に「産殿」と呼ばれるお産用の御殿があり、そこで生まれたそうです。天皇が神とされていた時代でした。生まれて来た皇太子様には特別室が用意され、皇室御用達の最上級の布団に寝たはずです。寒くないよう、十分に温かくされたに違いありません。何人もの医師や看護師、使用人たちに見守られ、当時としては最高の新生児ケアがなされたのでしょう。

 一方、2000年前にベツレヘムで生まれたイスラエルの王子様は、どこにも居場所がありませんでした。唯一いられたのは、家畜がつながれた暗い空間。牛やロバの臭いに満ちていました。干し草の入った飼葉桶があり、王子様はその上に寝かされました。医師も看護師も使用人もいません。なぜ、そうなったのでしょう。イスラエルの国は当時、ローマ帝国に占領されていました。ローマの皇帝は、ユダヤ人でない人をイスラエル国王に任命しました。その王様はやり手で、残虐でした。自分に代わって王になりそうな人を、次から次へと殺しました。誰も逆らえませんでした。イスラエル王家の血を引く王子様が生まれたら、王宮で歓迎されるどころか、命を狙われたのです。

 その時、王子様が寝た飼葉桶は、今もし残っていたら、たいへんなお宝だと思いませんか?どんな値段がつくか、想像もつきません。王宮や宿屋には、見た目も寝心地も素晴らしい、高級なベビーベッドがあったかもしれません。でも、天から下った特別な王子様が寝たのは、どこにでもあるごく普通の飼葉桶でした。その飼葉桶はその時、どんな高級ベッドにもはるかに勝る値打ち物になったのです。もし当時のベツレヘムの住民が赤ちゃんの素性を知っていたら、飼葉桶は蔵の中に大切にしまわれ、厳重に保管されたかもしれません。

 飼葉桶は、私たち人間を象徴すると考えられます。最初は、きれいです。でもしばらく使われると汚れ、臭いが漂います。(加齢臭?笑)飼葉桶として役目を終えたら、お別れの時を迎えます。私たち人間は、誰もが古い飼葉桶のように汚れ、臭いがしみ付いていました。そんな私たちのところに、イエス様は来て下さいました。私たちの汚れや臭いを取り去るためです。もし私たちが、このお方を喜んで心に迎え入れるなら、イエス様は私たちの心の大掃除をして下さいます。新品のようにピカピカに磨き上げ、麗しい香りを放つようにされます。どんなに汚れ、悪臭を放つ飼葉桶にも希望があります。永遠の値打ちを持つ、お宝の飼葉桶に変えられるのです。

 イエス様から与えられた希望には、3つの特徴があります。第一に、その希望はあらゆる立場を超越しています。イエス様がベツレヘムで生まれたのは、皇帝アウグストゥスがローマ帝国全土に住民登録を命じたからです。ナザレの大工ヨセフは、故郷ベツレヘムに向かいました。皇帝と大工は、全く立場、身分が違いました。でも創造主なる神は、この2人を用いて、キリストがベツレヘムで生まれるという預言を成就されたのです。アウグストゥス自身はイエス・キリストを信じませんでしたが、後のローマ皇帝はイエス様が治める神の国の希望を信じるようになります。ヨセフはもちろん、誕生する王子様に希望を抱いていました。皇帝たちにも大工にも、イエス様は希望となったのです。

 羊飼いにも、イエス様は希望となって下さいました。羊飼いは、落ち着く場所がどこにもない人の代表です。生まれたばかりのイエス様を誰よりも先に訪問したのは、彼らでした。イエス様は、落ち着く場所のない人に永遠の住まいを与えに来られました。立派な家に住む人もそうでない人も、あらゆる立場の人が、その永遠の希望を受け取ることができるのです。

 第二に、イエス様から与えられた希望は、時代を超越しています。生後40日経ち、ヨセフとマリアはイエス様をエルサレムの神殿に連れて行きました。そこにいたのは、シメオンとアンナという2人のお年寄りです。この出会いは、時代を超えた希望を象徴しています。若い夫婦にも2人のお年寄りにも、イエス様は希望だったのです。遠い昔になされた神の約束を、イエス様が実現されるという希望です。2000年後に生きる私たちにとっても、イエス様は希望です。イエス様が今、永遠の希望に満ちた神の国を築かれているからです。

 第三にイエス様から与えられた希望は、国境を超越しています。イエス様の誕生をお祝いし、遠い国から来た人たちもいました。東方の博士たちです。彼らは、ユダヤ人以外の全ての国の人を代表しています。日本に住む私たちの代表でもあります。イエス様はユダヤ人だけでなく、あらゆる国の人を神の国に招いて下さいました。神の国の王なるイエス様は、全世界の希望なのです。

 日本の今の天皇は、昭和天皇の5番目のお子様でした。皇室に初めて男の子が生まれ、日本の多くの人々は大喜びしました。「皇太子さまお生まれなつた」という歌まで作られました。作詞者は、あの北原白秋さんです。

 イエス様が生まれた時、賛美したのは天使と羊飼いたちだけでした。でも今や、全世界で20億以上の人々が救い主の誕生を喜び、賛美の歌を歌っています。私たちもともにイエス様のご降誕をお祝いし、賛美しましょう。どんなに粗末で汚い飼葉桶にも、私たちは希望を見ることができるのです。

「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。あなたがたは、布にくるまって飼葉桶に寝ているみどりごを見つけます。それが、あなたがたのためのしるしです。」(ルカ2:11-12)

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2018年12月16日 (日)

曙の光に導かれる

 今週土曜日は、冬至です。わが家では毎年、冬至にかぼちゃ入りのお汁粉を食べます。日本全国の家で普通に食べるのかと思っていたら、北海道や青森など北国の習慣だそうです。私と妻は二人とも道産子なので、子どもの頃から、冬至にはかぼちゃのお汁粉だと思っていました。お汁粉でなくても、冬至にかぼちゃや小豆を食べる習慣は、全国的に見られるようです。夜が長いためか、冬至は昔、死に一番近い日と言われたようです。そのため人々は、縁起の良い食べ物であるかぼちゃや小豆を食べたとのこと。もちろん、栄養をつけて寒い冬を乗り切るという意味もあったのでしょう。冬至に、ゆず湯に入る習慣もあります。ゆずの強い香りで、身を清めるという意味だそうです。血行を促進し、風邪の予防にもなるとも言われます。北海道ではゆずが高かったので、わが家では、湯船にみかんの皮を浮かべていました。

 クリスマスを12月25日に祝うのは、冬至の祭りが起源だと言われています。イエス・キリストがいつ生まれたのか、聖書にはっきり書かれていません。多くの人は、9月か10月の仮庵の祭りの頃だと考えています。ローマ帝国にキリスト教が広まった頃、冬至の祭りを盛大にお祝いする人がたくさんいました。太陽を神と信じる人たちのお祭りでした。冬至は一年で最も昼が短く、太陽の力が最も弱まります。この日が過ぎると、再び昼が長くなります。多くの人は、太陽の神の力がよみがえると考えたそうです。人々は、喜んで太陽の復活をお祝いしました。ローマ帝国のクリスチャンたちは、この偶像のお祭りを救い主の誕生をお祝いする日に変えました。ローマの人々にとって、それは分かりやすく、受け入れやすかったかもしれません。12月25日は太陽神の復活ではなく、イエス・キリストの誕生をお祝いする日になったのです。

 太陽の力は、偉大です。寒い季節には、特にそう感じます。その偉大な力を見て、太陽を神と信じ、拝む人々が現れました。古代エジプトやメソポタミア、インドやペルシア、そしてギリシアやローマにも。日本でも太陽を神と信じ、拝む人々がいます。アマテラス信仰です。伊勢神宮を初めとする多くの神社に、アマテラスが神として祀られています。所沢の中心的な神社にも祀られ、所沢の守り神と言われるようです。しかし太陽は神ではなく、意思を持たない物質に過ぎません。創造主なる神の偉大な作品の一つです。でも作品以上に偉大なのは、製作者です。創造主なる神は、太陽や他の星を宇宙空間で光と熱を出し続けるように造られました。核融合という仕組みを使いました。地球は太陽からちょうど良い距離に置かれ、ちょうど良い角度に傾きながら回転するように造られました。太陽が光を照らす仕組みを造ったのは、創造主なる神です。本当の光は太陽でなく、創造主なる神なのです。

 イエス様は、暗闇を照らす曙の光としてこの世に来られました。人類は、本当の光が何かを見失っていました。創造主なる神ではなく、神に造られた物を神と信じ、拝んで来たのです。創造主なる神に背を向け、神が造られた平和な秩序を破壊して来ました。そして、偶像の神々や自分たちの欲望に支配され、際限のない争いを繰り返して来ました。そんな私たち、暗闇に道を見失った人類を、イエス様はあわれんで下さったのです。天から地上の世界に来られ、正しい道が見えるように光を照らして下さいました。その道は、私たちが死に勝利し、永遠のいのちに至ることのできる道です。昼の時間が短くなっても、関係ありません。私たちはイエス様の光に照らされ、導かれる幸いを手にしているのです。

「これは私たちの神の深いあわれみによる。そのあわれみにより、曙の光が、いと高き所から私たちに訪れ、暗闇と死の陰に住んでいた者たちを照らし、私たちの足を平和の道に導く。」(ルカ1:78-79)

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