礼拝

2019年8月25日 (日)

グッドニュースを語り継ぐ

 日本の8月は、戦争体験を語り継ぐ月となっています。8月6日は広島原爆の日。9日は長崎原爆の日。15日は終戦記念日。それぞれの日に平和を祈る式典があり、テレビで全国放送されます。他のメディアも、この時期に戦争特集を報道します。日本中の人が悲惨な戦争体験を振り返り、二度と同じ過ちを繰り返さないという決意を新たにします。第2次大戦では、全世界で数千万人の人が亡くなりました。そのうち日本人犠牲者は310万人。当時の人口の約4%です。銃弾や爆弾で死んだ人たち。船が沈み、水死した人たち。自ら命を絶った人たち。病気で死んだ人や餓死した人も、たいへん多かったと聞きます。8月半ばは、ちょうどお盆の時期と重なります。多くの人が墓参りをし、亡くなった人を偲ぶ時です。8月に戦争犠牲者を思い、平和を祈るのは、時にかなっているのかもしれません。

 8月15日は、日本に初めて平和の福音が伝わった日でもあるそうです。1549年のこの日、カトリックの宣教師フランシスコ・ザビエルが鹿児島に上陸。彼らの熱心な宣教活動により、70万人を超える日本人がキリシタンになったとも言われます。彼らの多くは厳しい迫害に屈せず、信仰を守り抜きました。平和の福音を子々孫々にも伝えました。キリシタンは、同じ信仰を持つ人たちと集落を作り、生活をともにするようになりました。

 そのような集落の一つが、長崎・浦上地区にありました。2発目の原爆が投下された場所です。多くのカトリック信者が、まるで呪いを引き受けてくれたかのように原爆の最後の犠牲者となりました。浦上天主堂にいた多くの信者は全員死亡。カトリックの医師だった永井隆夫妻も被爆。奥様は自宅で即死し、台所跡に骨のかけらだけ残りました。救護活動をした永井医師も、白血病で6年後に命を落とします。長崎原爆の直後、昭和天皇はとうとう戦争を終える決断を下しました。「平和をもたらしたい」と、ラジオで直接国民に語りかけました。8月15日は再び、平和の良い知らせが伝わった記念すべき日になったのです。

 世界の全てを造られた唯一の神は、平和を心から願っておられます。「一神教が戦争をもたらす」という言葉を、日本ではよく耳にします。でも実際は、多神教の人々も戦争を起こします。八百万の神々を信じる日本人は、中国や米国と戦争を始めました。神を信じない人々も、戦争を仕掛けます。共産主義のソ連は、何度も外国を侵略しました。「戦争が起きるのは唯一の神のせいだ」と考えるのは、責任転嫁です。神は、人類の平和を願われています。この世界に永遠の平和を築くため、神は、先ずアブラハムを全人類の代表として選ばれました。神との平和を保つなら、彼の子孫は平和に暮らせると約束されました。永遠の平和を完成させる王がいつか現れるとも、神は彼らに約束されたのです。


 イエス・キリストは、その約束の王として私たちの世界に来られました。武力でこの世を鎮圧せず、愛をもってご自身を犠牲にされました。神との平和を土台とし、世界に平和を築くためです。私たちはこれまでの大きな犠牲を思い、過ちを二度と繰り返すべきではありません。人の力によらず、キリストの力、全能の神の権威により永遠の平和が完成するという良い知らせを信じましょう。神の国のグッドニュースを心から喜び、後の世代に語り継いで行きましょう。

「行って、『天の御国が近づいた』と宣べ伝えなさい。」(マタイ10:7、新改訳2017

| | コメント (0)

2019年8月18日 (日)

ハブられた人とつながる

 「ハブられる」とは若者言葉で、仲間はずれにされるという意味だそうです。「省かれる」や「村八分にされる」などの言葉が語源とのこと。自分が仲間はずれにされたり、逆に他の誰かを仲間はずれにしたりという経験が全くない人は、少ないかもしれません。3年前、ある研究所がいじめの調査結果を発表しました。日本の小学4年生から中学3年生を対象にした調査です。その6年間、いじめの典型である「仲間はずれ」「無視」「陰口」があったかどうか聞きました。被害経験のない子は9.6%。一方、加害経験のない子も9.6%。90%の子供が、一度はいじめの被害にあったか、または加害者側になったということです。子供の世界だけではありません。「ハブる」「ハブられる」という行為は、高校や大学、職場やママ友の世界にもあるようです。数ヶ月前、村八分が原因で裁判になったとの報道もありました。

 小学生の頃、私のクラスに皆から嫌われている女の子がいました。その子は、不潔だと思われていました。アレルギーだったのか、いつも鼻をかんでいた。それだけなら問題なかったのですが、鼻をかんだ紙をゴミ箱ではなく、なぜかいつも机の物入れに入れたのです。その中は鼻紙で一杯でした。それが一番の理由で、誰もがその子と距離を置いていました。彼女と親しい友達はいなかった――。ハブられていたのです。ところがある日、皆に嫌われているその子に、あえて近づいた女の子がいました。小柄な彼女は、特に目立つ子ではありませんでした。クラスの人気者だったり、成績が良かったり、リーダーシップのあるような子でもなかった。でも彼女は、皆から嫌われている子を気づかい、自ら進んでその子の友達になったのです。私は、たいへん感銘を受けました。自分には、そんな勇気ある、優しい行動ができるだろうかと考えさせられました。

 どんな社会にも、嫌われ、ハブられる人がいます。1世紀のユダヤ人社会にも、そんな人たちがいました。汚らわしい病気にかかり、隔離された人。悪霊につかれ、人迷惑な行動をとる人。さまざまな罪を犯し、軽蔑されている人。ユダヤ人に敵対していたサマリア人やローマ軍兵士。ローマの片棒を担ぎ、税金集めで私腹を肥やす人。彼らは多くのユダヤ人から忌み嫌われ、ハブられるような人たちでした。でもイエス様は、彼らを除け者にはしませんでした。彼らに近づき、限りなく愛し、生きるべき道を示されたのです。ハブられていた多くの人の生き方は、イエス様により一変しました。病や悪霊から解放されました。罪深い生き方から離れ、人に信頼される生き方をするようになりました。ハブられていた人たちが、自ら新たなつながりをつくれるようになったのです。

 イエス・キリストを信じる人は、ハブったりハブられたりするような、空しい人間関係から解放されます。イエス様により、あらゆる関係が新しくされるからです。全ての人を造られた神は、どんな人をも限りなく愛しておられます。私たちをハブることは、決してなさいません。私たちは、この限りなく深い神の愛を知り、周りの人と新しい関係を築くことができます。ハブられている人とも、つながれます。どんな人をも、神の変わらない愛の中に招くことができるのです。

「・・・医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人です。『わたしが喜びとするのは真実の愛。いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためです。」(マタイ9:12-13)

| | コメント (0)

2019年8月 4日 (日)

奇跡をともに待望する

 「宗教改革は、聖書を読む運動だ」と、ある神学者が言っています。聖書を先ず一人で読む。次にみんなで一緒に読む。そして読んだことを互いに分かち合う――そういう運動です。マルティン・ルターがその運動を始め、彼の大学の学生に広まり、さらに一般の人にも広がって行きました。聖書も大学の講義も、当時は全てラテン語でした。でもドイツでラテン語の読み書きができた人は、10人に1人。一般民衆だと20~30人に1人だったそうです。一般人は、聖書が読めなかった。そこでルターは聖書をドイツ語に翻訳し、誰でも読めるようにしました。説教もドイツ語で語り、聖書のことばを説き明かしました。ルターの運動は、またたく間に世界中に広がりました。今では、部分訳を含めると3千以上の言語に聖書が翻訳されているそうです。500年以上経った今も、「聖書を読む運動」は全世界で続いています。日本でも多くのクリスチャンが今、この運動の参加者となっています。


 聖書は一人だけで読むと、分からないことがあります。勘違いもあるかもしれません。メッセージ(説教)の準備をする時、私は先ず一人で注意深く聖書を読みます。書かれた内容を正確に把握しようとします。いつ、どこで、誰が、何をどのようにしたのか。それは、なぜか。書かれた当時の状況を考えます。今の私たちにとって、どんな意味があるのかも考えます。何度読んでも、どうしてもよく分からないこともあります。聖書が書かれた時代や文化が、私たちのそれと大きく異なるからです。そうした違いを越え、聖書を理解するには、他の人の助けが必要です。私は注解書をいくつか読み、学者の先生たちによく助けを求めます。身近な人に意見を聞く場合もあります。皆さんも是非、自分で聖書を読んで下さい。読んで学んだことをみんなで分かち合いましょう。そのようにして私たちは、みんなで一緒に聖書を味わうことができるのです。

 日本の多くの人に理解されにくいエピソードの一つは、イエス・キリストの奇跡です。福音書を読むと、次から次へと奇跡が出て来ます。多くの人はこれを読むと、でたらめな作り話と思うかもしれません。でも書いた人たちにとっては、でたらめでも作り話でもなかったのです。旧約聖書の延長線上にある超マジな話です。1世紀のユダヤ人にとって、旧約時代の奇跡は常識でした。――神のことばにより、世界が造られた。モーセは、紅海を2つに分けた。エリヤやエリシャが祈ると、死んだ人がよみがえった。ダニエルの友人たちは、燃えさかる火の中でも焼け死なかった。――ユダヤ人たちは、神の奇跡を信じていたのです。「いつかメシアが来て、イスラエルを諸外国の支配から奇跡的に解放する。」彼らは、その日を待望していました。イエス様の奇跡は、そんな彼らの期待にまさに応えるものだったのです。

 聖書を読む私たちは、彼らの期待感を追体験することができます。旧約時代の神の奇跡。新約時代のイエス様の奇跡。それらの目撃証言が、聖書に記されています。その証言を読み、神の奇跡を私たちも信じることができます。イエス様は、昔も今も将来も驚くべき奇跡を行われると期待することができます。聖書を一緒に読む仲間とともに、奇跡を待望することができるのです。

「イエスはこれを聞いて驚き、ついて来た人たちに言われた。『まことに、あなたがたに言います。わたしはイスラエルのうちのだれにも、これほどの信仰を見たことがありません。』」(マタイ8:10、新改訳2017

| | コメント (0)

2019年7月28日 (日)

日々の実践を勧める

 所沢駅周辺は、再開発が進んでいます。32年前、私が初めて所沢に来た頃、駅舎は小さく控えめで、駅ビルもありませんでした。西口には、前の年にオープンした西武百貨店がドーンと目立っていました。東口は西武本社以外めぼしい建物がなく、空き地ばかり。駅から教会までの道沿いには、茶畑が広がっていました。高層マンションも、もちろんなし。「翔んで埼玉」を描いた漫画家の魔夜峰央さんは、その数年前に、所沢に住んでいたそうです。西武デパートも西武本社もまだない頃・・・。その頃は、東京との県境に関所があり、通行手形が必要だと感じたかもしれません(笑)。所沢は、その頃から大きく変わり、今も変化しつつあります。東口は駅ビルが整備され、今や全く別の街のようです。西口も一変し、さらに工事が進行中です。来月にはゴンチャもできるとのこと。タピオカティーの専門店だそうです。「これで、ダ埼玉から卒業だ」と喜んでいる人もいるようです(笑)。

 所沢の利点の一つは、地盤の良さだそうです。ある会社が、東京の鉄道沿線の地盤を調べました。地盤の良さ第一位にみごと輝いたのは、われらが西武池袋線!第二位は西武新宿線!所沢駅は石神井公園、ひばりヶ丘等とともにハイスコアをマークしています。地盤が良いためか、所沢市内にはタワーマンションが増えています。これまでもいくつかありましたが、今なお新たに建設中です。注目の一つは、駅前に建設中の29階建てのマンション。「億ション」が完売したと聞きました。(どんな人が買ったのかな?)この話を聞いたある雑誌記者は、こう言いました。「ダ埼玉の典型である所沢で、億ションが売れるのは驚きです。」私は首都圏暮らし20年以上で、そのうち所沢住まいが15年ですが、田舎者のせいか、未だに「ダ埼玉の典型」という感覚が良く分かりません(笑)。地震や大雨対策を考えれば、地盤の良い土地の方が間違いないはずです。地盤(と地価の安さ?)だけ考えるなら、所沢は家を建てるのに適した土地の一つと言えるようです。

 2000年前のユダヤ人は、ダ埼玉は知らないけれど、地盤の話は通じました。「家を建てるなら地盤の良い所。砂地に建てるのは愚かだ。」・・・そ~んなのジョーシキ~~♪でした。イエス様は、この常識を例えに用いられたのです。キリストの教えを実践する人は、地盤の良い地に家を建てる賢い人に例えられました。地震や嵐が来ても、地盤が良ければ家はびくともしない。そんな家は、私たちのあるべき姿を象徴しています。イエス様の弟子として生きる姿です。

 教えを聞くだけの人は、弟子とは言えません。弟子とは、師匠の教えを守り、実践する人です。イエス様は、どんな非常事態にも揺れ動かない大きな岩です。キリストの弟子として教えを守り、実践する人は、その岩にしっかりしがみついています。何が起きても揺れ動かない生き方ができます。雨にも負けず、風にも負けず、どんな試練や困難をも乗り切ることができます。

 一方、イエス様の教えを聞いても実践しない人は、大きな岩から離れた場所にいます。地盤の悪さに気づいていません。一見、良さそうな土地に見えます。他にもそこに家があるから、大丈夫だろうと思います。神の国のハザードマップも見ません。「ダ埼玉じゃないからいいや」とでも言って(笑)、そこに自分の家を建てます。でもそれは、残念な結果になります。試練が来ると、それまで築き上げたものを全て失ってしまうのです。

 イエス様はもちろん、私たちの幸いを心から願っておられます。あらゆる人がキリストの教えを日々実践し、神の国の祝福を手にしてほしいと願われています。他の人にもそんな生き方を勧めてほしいと、イエス様は願われています。そうする人は、固い地盤の上にそびえ建つ、頑丈なタワーマンションのような生き方ができるのです。

「ですから、わたしのこれらのことばを聞いて、それを行う者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人にたとえることができます。」(マタイ7:24)

| | コメント (0)

2019年7月21日 (日)

生き方の基準を示す

 何かを測ったり、評価するには、基準が必要です。長さの場合、昔は人の体が基準でした。古代メソポタミアやエジプト、ギリシア、ローマ等では、肘から中指の先までが長さの単位でした。キュビト(cubit)と呼ばれます。もちろん、腕の長さは人によって異なります。国王等、その土地の有力者の体が基準になったそうです。でも、大きい人も小さい人もいました。1キュビトは多くの場合、43~53センチで、10センチの幅がありました。(中には60センチ以上のこともあり、その場合は20センチの幅でした!)

 ちなみに私は、測ったら約45センチでした。キュビトとして使えそうです(笑)。古代イスラエルでも、キュビトが用いられました。やはり、45センチくらいです。ダビデ王やソロモン王も、ひょっとしたら私と同じくらいの背格好だったのでしょうか。

 多くの人が世界中を行き来し始めると、長さの単位を統一する必要が生まれました。その時、基準になったのは地球の大きさです。人体から地球ですから、規模が大きくなりました。1790年代、革命直後のフランスからチームが派遣され、地球を正確に測量しました。そして、北極から赤道までの距離の1千万分の1を1メートルと決めたのです。その後、金属製の「メートル原器」も作られました。世界中の長さの基準となる物差しです。

 でも今は、もっと正確に長さが測られています。地球の大きさではなく、光の速さが基準です。1メートルは、ある時間内に光が真空中を伝わる距離です。なんと299,792,458分の1秒間!まばたきする間もありません。この世界共通の基準を用い、現在はどこでも正確に長さを測れるとのこと。基準と比べ、どれ程大きいのか小さいのか、誰もが正しく判断することができます。

 私たちの生き方はどんな基準で測り、評価すれば良いのでしょう?どんな物差しが良いのか?クリスチャンになる前、私はこの問題を考えていました。どんな生き方が良いのか、分からなかったからです。子供の頃は、親や先生たちの教えが物差しでした。大人の言うことを聞いていれば、それで良かった。でも思春期に入ると、それまでの基準に疑問を持ち始めました。友人たちの物差しも、頼りにならない感じがしました。世間の「常識」とされる物差しも、無批判に受け入れる気にはなりませんでした。多くの人が正しいと考えても、間違っている可能性があるからです。どんどん戦争に深入りした戦前の日本が、まさにそうでした。国や時代を超え、誰もが自分の生き方を測り、点検できる正確な物差しは何か。私が最終的にこれだと思った基準は、聖書のことばでした。

 全てを造られた神は、私たちの人生に祝福の計画を持っておられます。私たちが祝福の道を歩めるように、生き方の基準が示されています。数え切れないほどの人々に、神はこれまで物差しを与えられました。アブラハムやイサク、ヤコブの家族に対して。モーセと荒野の民に対して。約束の地に入ったユダヤ人に対して。約束の地から追われたユダヤ人に対して。

 そしてイエス様は、全ての人がどう生きるべきか、その基準をさらに明確にされました。神との関係を最優先にしているか。神の愛を周りに伝え、神の国の平和を築いているか。天に満ちる神の愛を、地にも満たしているか。これが、私たちの生き方を測る物差しの一例です。私たちは自らの生き方を通し、他の人にもこの基準を示すことができるのです。

「ですから、あなたがたはこう祈りなさい。『天にいます私たちの父よ。御名が聖なるものとされますように。御国が来ますように。みこころが天で行われるように、地でも行われますように。』」(マタイ6:9-10)

| | コメント (0)

2019年7月14日 (日)

ミッションを共有する

 23年前、映画「ミッション:インポッシブル」が公開されました。私が留学から帰国し、北海道で教会開拓を始めた頃です。私は、この映画をぜひ見たいと思いました。昔のテレビドラマ「スパイ大作戦(原題“Mission: Impossible”)」の映画化作品だと聞いたからです。「スパイ大作戦」は、私が小学生の頃、日本のテレビで放映されていました。夜9時以降の放送で、私は見せてもらえませんでした。子供は9時に寝る決まりだったのです。でも寝る用意が遅れ、毎回テーマ曲を聞きました。(今も映画で使われる、あの曲です。)オープニングで、導火線にマッチで火をつける映像も見ました。「おはようフェルプス君」と始まる録音テープのシーンも見ました。「なおこのテープは自動的に消滅する」と言って、煙が出て来ました。でも、その先は残念ながら見ることができませんでした。「早く寝なさい」と言われ、しぶしぶ子供部屋に行ったのです。当時は録画もできなかったので、全く見る機会がありませんでした。

 そのドラマの映画化ですから、私は興味津々でした。シリーズの映画6作品は、全て見ました。タイトル通り、不可能に見える任務を毎回みごとに成功させるストーリーです。CGやスタントなしで撮影する主演トム・クルーズの驚異的なアクションも、毎回話題になります。天井裏からコンピュータールームに、忍者のように入ったり・・・猛スピードのバイクで追跡したり、されたり・・・断崖絶壁や超高層ビルの壁を命綱なし(?)で登ったり・・・離陸する飛行機にしがみついたり――。トム・クルーズは、先日57歳になったそうです。(私と2歳違いです。)今後も主演を続け、2年後、3年後には7作目、8作目を公開するとのこと。トム・クルーズが自らアクションシーンを演じること自体が不可能な任務、「ミッション:インポッシブル」になっているかもしれません。

 イエス様は、「不可能な任務(ミッションインポッシブル)」を果たすため、この世に来られました。神と人との関係を回復し、全人類を天の御国に連れ戻すミッションです。時間と空間を超越した神が人間になること自体、あり得ないことです。さらにイエス様は、旧約聖書に記されるあらゆる預言をことごとく成就されました。罪を犯さず、死ぬこともない神なのに、全ての人の罪を背負い、十字架の上で死なれました。そして復活の奇跡を起こされました。一握りの一般人を用い、世界中に天の御国のネットワークをつくられました。厳しい迫害のある地域でも、今なお弟子の数が増え続けています。人類は、エデンの園を失いました。でも神は、イエス・キリストを信じる人を新たな永遠の楽園に招き入れて下さったのです。人が自分の力で楽園に戻ることは、不可能でした。でもイエス様はみごとそのミッションを完了し、不可能を可能にされたのです。

 イエス様は、この「不可能な任務」を弟子たちと共有されました。任務の内容を彼らに伝え、働きの場へ送り出されました。今は私たちが、「ミッションインポッシブル」のために送り出されています。人を天の御国に連れ戻す「不可能な任務」です。驚異的なアクションシーンは、おそらくないでしょう。それでも私たちの力だけでは、任務を完了できません。聖霊の力により、私たちはこの不可能なミッションを成し遂げることができます。新たに力を受ける人々とミッションを共有することもできるのです。

「あなたがたは世の光です。・・・あなたがたの光を人々の前で輝かせなさい。人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようになるためです。」(マタイ5:14、16、新改訳2017

| | コメント (0)

2019年7月 7日 (日)

ビジョンを語る

 30年ほど前、東京の企業に勤めた頃、会社のビジョンづくりに関わりました。将来、どんな会社にしたいかというイメージを描く作業です。私は当時、アラサーの新米パパでした。トラック運転手の作業着を脱ぎ、ビジネススーツを着るようになりました。往復3時間の電車通勤で、たっぷり本が読めました。信仰書も読みました。ビジネス書も読みました。信仰と仕事がどう関わるのかと、考えていました。

 私の会社には、将来の目標がありました。何年後、売上や利益をこうしたいという数値目標です。上司や同僚は、売上や利益を上げることが仕事の目的のようでした。会社が生き残り、社員の生活が支えられるには、確かに必要でしょう。でも私はクリスチャンとして、それだけで納得がいきませんでした。聖書的な観点から、仕事の目的は何か、会社で働く理由は何なのか、納得のいく説明がほしかったのです。ビジョンづくりに積極的に関わったのも、そのためでした。

 結論から言うと、そのビジョンづくりは大失敗しました。多くの社員による提言を、会社のトップが完全にスルーしたのです。実はビジョンをまとめる途中で、社長の交代がありました。関係する役員も代わりました。新経営陣は、ビジョンづくりに関心がなかったのです。結局、私はその会社を4年で辞めました。(その後、留学して頭を冷やしました。笑)

 この経験を通し、私はいくつか教訓を学びました。その一つは、ビジョンはトップリーダーが語るべきだということです。周りの人が無理に語らせようとしてもダメです。但し、トップのビジョンも、いつも正しいとは限りません。人間だから、間違うこともあります。会社の場合は、間違えるとつぶれる恐れがあります。私が勤めた会社は、今も続いています。以前とほぼ変わらない会社の姿です。それがひょっとすると、当時の社長が心に思い描いたビジョンだったのかもしれません。以前の挑戦的な売上目標には、今も達していないようです。でも当時の経営陣が会社の安定を選択したことは、それはそれで間違っていなかったのかもしれません。

 聖書では、ビジョンは神から語られるものです。神がある人を用い、他の人々に伝えるメッセージの一種です。つまり、視覚的なイメージを通して語られる預言のことばです。日本語の聖書では、ビジョンは「幻」と訳されています。幻と言うと、すぐに消え去るような、はかないイメージがあります。でも聖書の幻、ビジョンは違います。神が語る、決して消えないメッセージなのです。神は預言者たちにビジョンを与え、イスラエルの人々にメッセージを伝えられました。預言者ナタンは、ダビデの子孫が永遠の王となるビジョンを語りました。エゼキエルは、破壊された神殿が建て直され、その下から水が流れ出すビジョンを語りました。イザヤは、全世界が新しくされるビジョンを語りました。この他にも数多くの預言者が遣わされ、神のビジョンを語りました。間違ったビジョンを語れば死刑だったので、語る人も命懸けでした。

 イエス様は、神が語ったあらゆるビジョンを実現するため、この世に来られました。イエス様が、改めて語られたビジョンもありました。例えば、全世界の行く末について。そして、私たち一人ひとりの生き方について。聖霊を通し、イエス様は今も私たちにビジョンを語られます。他の人にも伝えるべきビジョンを、私たちに教えて下さいます。世界は、どこに向かうのか。私たちは、どう生きるべきなのか。私たちが日々なすべきことは、何なのか。聖霊の助けにより、私たちは神のビジョンを受け取り、周りの人に語ることができるのです。

「イエスは彼らに言われた。『わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう。』彼らはすぐに網を捨ててイエスに従った。」(マタイ4:19-20)

| | コメント (0)

2019年6月30日 (日)

正しいことを実現する

 いよいよ選挙です。今回は参院選だけになりましたね。参議院議員は現在242名。今回は、半数の121名プラス定数増の3名、合計124名の選挙です。今週木曜に公示とのこと。また賑やかなキャンペーンが始まりそうです。

 日本には、「選挙の洗礼」という言葉があります。辞書には、こう書かれてます。「選挙の洗礼」=「政治家が選挙を通じて経験する、有権者による厳しい審査を意味する」。つまり「洗礼」は、厳しい審査、テストという考え方です。入学試験や入社試験のようですね。テストに合格すれば、議員バッジをつけて国会議事堂に入ることができる。国からお金をもらい、長く勤めればたくさん年金ももらえる。(2000万円貯金がなくても大丈夫かな?)

 この特権を手にできるかどうか、審査するのは有権者、つまり選挙権のある国民です。最近は残念ながら、有権者の半数近くが審査する権利を放棄しています。投票に行きません。例えばある候補者が50数%の有権者に審査され、その半数の票を得て当選したとします。その候補者を支持した人は、有権者全体の3割未満です。7割の人は、はっきり支持はしていません。この人は、厳しい審査に合格したと言えるのでしょうか?当選結果こそが「民意(国民の意思)」だという主張には、無理があるように思えます。有権者は棄権せず、ぜひ審査の権利を活かしてほしいですね。「選挙の洗礼」を受け、当選した議員の先生方は、「国民に仕えるしもべ」としてふさわしい働きをされるようにお祈りしています。

 「洗礼」は、「バプテスマ(βάπτισμα)」というギリシア語の日本語訳です。「沈めること、浸すこと」という意味の言葉です。「洗礼」という日本語は、文字通り読めば「洗う」ですから、「沈める、浸す」という意味になりません。そのため、この単語を使わない教会もあります。新改訳2017も「洗礼」ではなく、「バプテスマ」と訳しています。「選挙の洗礼」などとは違うので区別したいという、翻訳者の意図もあったのかもしれません。

 紀元30年頃、多くのユダヤ人がヨルダン川に集まり、バプテスマのヨハネからバプテスマ(洗礼)を受けました。バプテスマのヨハネは、人々に尊敬される預言者でした。彼は、こう預言しました。「もうすぐ約束の救い主が来られる。救い主を迎える準備をしなさい。悔い改めて、心の向きを神の方向に変えなさい。」バプテスマ(洗礼)は、悔い改めの宣言でした。「自分は神から離れていました。でも、これからは神の方向に向き直します。」神と人の前で、そう宣言することです。ですからバプテスマ(洗礼)自体は、テストとは違います。心の内側の変化を、外に表現することです。神は、私たちの心を見ておられます。形だけ水につかっても、神に喜ばれません。私たちの心が神の方向に向くことこそが、「神意(神のご意思、みこころ)」なのです。

 バプテスマ(洗礼)を受けるのは「正しいこと」だと、イエス様は言われました。「正しいこと」とは、何でしょう。それは、「神意(神のご意思、みこころ)」にかなうことです。天地創造の神だけが、唯一正しいお方です。人は皆、その正しさから離れ、間違ったことをしてしまいます。イエス様は、全ての人を正しい道に連れ戻すため、私たちの世界に来て下さいました。人として正しく生きる模範を自ら示して下さいました。バプテスマ(洗礼)も、その一つです。イエス様の弟子になる人は、聖霊の助けにより、正しい生き方ができます。正しいことは何かを理解し、それを実現できます。周りの人にも、正しい生き方の模範を示すことができるのです。

「しかし、イエスは答えられた。『今はそうさせてほしい。このようにして正しいことをすべて実現することが、わたしたちにはふさわしいのです。』」(マタイ3:15)

| | コメント (0)

2019年6月23日 (日)

人生のロールモデルとなる

 先月、休暇をとり、初めて長崎を訪問しました。昨年、世界遺産に登録されたキリシタン関連遺産を見るためです。一昨年、私は初めて広島に行き、原爆ドームを見て来ました。いつか長崎にも行きたいと考えていました。今年、その機会が訪れたことを感謝します。今回の旅行で最も印象に残ったのは、殉教したキリシタンたちの熱い信仰です。激しい迫害に負けず、彼らは信仰を守り抜きました。彼らの尊い犠牲が、今の日本社会の土台の一部になったのだと改めて考えさせられました。

 最初に大きな迫害の波が来たのは、カトリックの宣教師が来日して50年ほど経った頃でした。当時の支配者・豊臣秀吉は、キリシタンが増えると、日本はスペインやポルトガルの植民地になると考えたのです。キリシタン26名が逮捕され、長崎で十字架につけられました。4千人を超える群衆の前で、リーダーのパウロ三木は十字架上からこう叫んだそうです。「人の救いのために、キリシタンの道以外に他はないと断言する。私は、国王(秀吉)とこの死刑に関わった全ての人を赦す。王に対して憎しみはなく、むしろ彼と全ての日本人がキリスト信者になることを切望する。」その後、支配者が代わっても迫害は続きました。33名のキリシタンは、雲仙地獄で拷問されました。煮えたぎる湯壺に漬けられたり、体に熱湯をかけられたり・・・。でも彼らは、死ぬまで信仰を捨てませんでした。さらに、島原の乱も起きました。3万7千人のキリシタンが、厳しい税の取り立てとキリシタン弾圧に反対して起こした反乱です。政府側の圧倒的な攻撃により、キリシタン勢は全滅しました。(彼らが立てこもった原城跡は、世界遺産になりました。)キリシタンの取り締まりは、一層厳しくなりました。それでも、キリシタン信仰は日本から無くなりませんでした。潜伏し、信仰を守る人々がいたのです。

 2つ目の大きな迫害の波は、キリシタンの禁教が解かれる直前です。島原の乱から200年以上経ち、再び外国人が日本に来始めました。カトリック教会は、長崎で処刑された26聖人を記念する教会堂を建設。世界遺産となった大浦天主堂です。正式には「日本二十六聖殉教者聖堂」と言います。教会堂が完成して1ヶ月後、驚くべき出来事がありました。200年以上、代々信仰を受け継いだ潜伏キリシタン10数名が、フランス人神父に会いに来たのです。その後、再び迫害の波が押し寄せました。3千人を超えるキリシタンが拷問され、強制労働させられました。しかし今度は日本政府に対し、欧米各国から圧力がかかりました。そしてついに禁教が解かれ、キリシタン信仰が公認されたのです。今の日本には、「信教の自由」があります。私たちが当然のように思うこの権利は、実は多くの人の犠牲を通し、初めて認められたものです。(戦後、日本国憲法でも追認されました。)この権利を勝ち取った殉教者たちの姿は、私たちの偉大なロールモデルとなっているのです。

 使徒パウロも、弟子テモテのロールモデルになりました。彼はローマ帝国各地に福音を伝え、教会を開拓しました。自分に与えられた使命を全て全うしました。迫害され、殉教の時が近づいても、最期まで信仰を守り通しました。その勇敢な姿は、テモテに大きな影響を与えたはずです。聖霊の助けにより、私たちも同じような生き方ができます。新たに弟子となる人のロールモデルになれるのです。

「私は勇敢に戦い抜き、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。あとは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。」Ⅱテモテ4:7-8

| | コメント (0)

2019年6月 9日 (日)

新たなヒーローの油注ぎを祈る

 旧約の時代、ヒーローはごく一握りの人たちでした。神に特別に選ばれ、用いられた人々です。預言者エリヤも、その一人。エリヤの時代、イスラエルの国は2つに分裂していました。北のイスラエル王国と南のユダ王国です。エリヤは北王国にいました。そこでは、国を挙げて偶像の神々を拝んでいました。(残念ながら、日本と似ていますね。)国王夫妻が率先し、偶像礼拝を広めていたのです。王の名はアハブ、王妃はイゼベル。旧約時代を代表する、悪名高き国王夫妻です。エリヤは、たった一人で国の指導者たちと対決しました。カルメル山で、驚くべき奇跡を行いました。エリヤを遣わした神が本物で、偶像の神々は偽物だと証明したのです。エリヤは、歴史に残る偉大なヒーローの一人となりました。ところが国王夫妻は、自分たちの誤りを認めませんでした。偶像礼拝をやめるどころか、預言者エリヤを悪者にし、抹殺しようとしたのです。

 神はその時、エリヤに新たなミッションを与えられました。彼の働きを引き継ぐ、新たなヒーローをつくることです。「エリシャに油を注ぎ、あなたに代わる預言者としなさい」と、神は言われました。「油注ぎ」には、特別な意味がありました。神から重要な働きが委ねられたという意味です。当時はイスラエルの王や祭司、預言者等、一部のリーダーだけが油注ぎを受けました。エリシャの場合は、預言者エリヤの働きを引き継ぐための油注ぎでした。その後、エリシャはエリヤの弟子として数々の奇跡を行いました。神のことばを大胆に語りました。歴史的なヒーローが、新たなヒーローを生み出したのです。

 油注ぎの油は、聖霊を象徴しています。油自体に、魔法のような不思議な力があったのではありません。油注がれた人には、聖霊が注がれたのです。全能の神の霊的な力により、旧約時代のヒーローたちは偉大な働きを成し遂げました。モーセは海を2つに分け、ユダヤ人をエジプトから解放しました。ヨシュアは、約束の地を勝ち取りました。ダビデは、イスラエルの王国の基礎を築きました。エリヤは、偽預言者との戦いに圧勝しました。そしてエリシャも、預言者として大活躍しました。アハブ王家に代わる新たな国王にも、エリシャの命令で油が注がれました。神はヒーローたちに次々と聖霊の油を注ぎ、大きく用いて下さったのです。

 イエス様の到来とともに旧約時代は終わり、新約の時代が始まりました。一部の人でなく、全ての人がヒーローになる新しい時代です。イエス・キリストを信じるなら、誰にでも聖霊が注がれます。神の国の偉大な働きが委ねられます。ごく一部の偉い人だけに油が注がれる古き時代は、過ぎ去りました。どんな人も油注ぎを受け、神の国のヒーローになれる時代が来たのです。

 今日は、ペンテコステです。イエス様を信じるあらゆる人に、初めて聖霊が注がれた記念日です。聖霊の恵みを感謝しましょう。そして祈りましょう。聖霊の油が、新たにヒーローとなる人々にも溢れるばかりに注がれるように・・・。

「これは、預言者ヨエルによって語られたことです。『神は言われる。終わりの日に、わたしはすべての人にわたしの霊を注ぐ。あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。その日わたしは、わたしのしもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。すると彼らは預言する。』」(使徒2:16-18)

| | コメント (0)

より以前の記事一覧