礼拝

2018年12月 9日 (日)

喜びを拡散する人になる

 今週、私の孫は6か月の「ハーフバースデー」を迎えます。多くの牧師は、孫が生まれると孫の話ばかりすると聞いたことがあります。以前は、その感覚が分かりませんでした。でも今は分かります。(笑)私と妻の最近の楽しみの一つは、LINEで孫の写真や動画を見ることです。私が動画を見ていると、その音をキャッチして妻がそばに寄って来ます。あるいは自分のタブレットに手を伸ばし、同じ動画を見始めます。私が感じている喜びを、妻も同じように味わいたいからです。

 感情は伝染するそうです。産婦人科で何人もの赤ちゃんが並んでいたら、一人が泣き出すと周りの赤ちゃんも泣きだすそうです。逆に一人がニコニコしだすと、周りの赤ちゃんもニコニコするとのこと。大人でもそういうことがあります。一人の人がピリピリしていると、周りにもその緊張が伝わり、ケンカが起きそうになります。パリのシャンゼリゼは今、そんな雰囲気なのかもしれません。逆に、新婚ほやほやのカップルがいると、そのラブラブな雰囲気が周りに伝わり、心がほんわかと温かくなります。可愛らしい赤ちゃんがいて、周りの大人たちを和ませる場合もそうです。

 Facebookは、6年前にある実験をしました。英語を使う人68万9千人を選び、その人の目にふれるニュースを細工しました。肯定的なニュースが減った人は、否定的な言葉を書くことが多くなりました。一方、否定的なニュースが減った人は、肯定的な言葉を書くことが増えました。Facebookはこの実験結果を見て、「SNSでも感情の伝染が証明された」と発表しました。(この実験は無断で行われたため、Facebookは批判されたようです。)私たちは、感情の伝染に注意しなければなりません。「自分は、誰からどんな感情の影響を受けているのか。そして、誰にどんな影響を与えているのか。」日々の生活の中で、自分の感情をチェックする必要があります。怒りや憎しみなど、ネガティブな感情をスポンジのように全て吸い込む必要はありません。吸い込んだ感情をそのまま周りに吐き出す必要もありません。イエス様が、私たちにあらゆるネガティブな感情に勝る喜びを与えておられるからです。

 聖霊によりマリアが身ごもった時、喜んで踊った人がいました。エリサベツのお腹にいた赤ちゃん、バプテスマのヨハネです。マリアが、エリサベツを訪問した時のことです。マリア自身も救い主の偉大な奇跡を喜び、神をたたえました。イエス様が生まれた時は、天使たちが喜んで賛美しました。羊飼いたちもイエス様にお会いして、喜んで賛美しました。東方の博士たちも、喜んで贈り物をささげました。大人になってからのイエス様の働きは、多くの人に喜びを与えました。病人は癒され、悪霊の働きに悩む人は自由にされました。罪深い生き方から解放された人もいました。そしてイエス様は、地上の生涯の最期に、史上最大の喜びを私たちにもたらされました。死からの復活です。奇跡的な大逆転勝利。それは当時の弟子たちだけでなく、今や全世界の喜びとなっています。

 イエス様誕生のお祝いは、全人類を代表して十字架につき、死に勝利する救い主が来られたお祝いでもあります。私たちには、何にも勝る喜びが与えられています。どんな最悪の事態にも、決して消え去らない喜び。この喜びの強力なウィルスに私たちは感染しています。周りの人に伝染します。喜びウィルスを拡散するため、日常生活の場に私たちは遣わされています。LINEでもFacebookでもInstagramでも世界中に拡散できます。イエス様に変えられた私たちの喜びが、インスタ映え、SNS映えするのです。アーメン!(今年風に言うと、「そだねー」。)

「彼らはイエスを礼拝した後、大きな喜びとともにエルサレムに帰り、いつも宮にいて神をほめたたえていた。」(ルカ24:52-53)

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2018年12月 2日 (日)

愚かな道から救われる

 ハワイでは、毎年12月7日に特別な催しがあります。日本の真珠湾攻撃で亡くなった兵士を追悼する式典で、今年77回目です。77年前のその日、ハワイにいた2,400人以上の米国人が命を落としました。レイ・チャベスさんという退役軍人の方は、その様子を目撃した一人でした。真珠湾攻撃の生存者で最高齢でしたが、つい先日106歳で亡くなったと報道がありました。昨年まで追悼式典に出席しましたが、今年はかないませんでした。

 私は33年前、洗礼を受けた年の秋、パールハーバーを訪問しました。アリゾナ記念館に向かう船内には、当時の新聞が置いてありました。1面トップが真珠湾攻撃の記事で、大きな見出しがついていました。「Blasphemy」、神への冒涜という言葉です。見出しを見た私は、心が痛みました。その年の12月7日はアドベント2週目の日曜日で、クリスマスが近づく頃でした。その朝、多くの人が教会に集まり、救い主を礼拝しようとしていたはずです。ところが日本の奇襲攻撃により、その喜びの日は悲しみと憎しみの日になりました。海に沈む戦艦アリゾナには、今も1,100人以上の遺体が残されているとのこと。そこから流れ出し、海面に浮かび上がって来るオイルも見ました。「アリゾナの涙」、「黒い涙」と呼ばれるそうです。真っ白な記念館の周りには、平和で静かな海と真っ青な空が広がっていました。そこに日本の飛行機が何百機もやって来て、爆弾や魚雷で攻撃したなど、信じられない思いがしました。なんて愚かなことをしたのかとも思いました。

 ジェイコブ・ディシェイザーという人は、オレゴンで真珠湾攻撃のニュースを聞き、日本人を激しく憎みました。自ら志願して、日本本土を空襲する爆撃隊に加わりました。空襲は成功でしたが、その後、燃料切れで中国に不時着しました。ディシェイザー軍曹は日本軍に捕えられ、収容所に入れられました。ところが彼は、そこで聖書を読み、イエス・キリストを信じたのです。日本人を憎んだ罪を悔い改め、神に赦しを求めました。自分をひどい目に遭わせた日本兵たちへの憎しみは、愛と憐れみに変わりました。イエス様が十字架の上で祈られたように、日本人が神に赦されるように祈ったそうです。戦後、彼は宣教師になり、日本に来ました。「私は日本の捕虜であった」という冊子も作り、日本で100万部以上配布しました。

 それを読んだ一人が、淵田美津雄さんです。淵田さんは、日本軍の真珠湾攻撃隊長でした。あの12月7日、真珠湾上空で全軍突撃の命令を出したその人。日本の司令部に向け、「トラトラトラ(我奇襲に成功せり)」と発信した本人です。日本が戦争に負け、淵田さんは絶望していました。しかしディシェイザーの冊子を読み、心が揺さぶられました。聖書を買って、自分でも読んでみました。すると、彼もイエス様の十字架上の祈りに心をとらえられたのです。イエス様が祈られた人々の中に、自分も含まれているように感じました。愛国心の名の下に、彼は多くの人の命を奪いました。その罪の赦しを神に求め、祈りました。すると人への憎しみが、愛とあわれみに変えられて行きました。淵田さんもその後、イエス・キリストの恵みを伝える伝道者になりました。ディシェイザー宣教師とも友人になり、一緒に奉仕する機会もあったようです。

 イエス様は、ご自身を十字架につけた人々を憎みませんでした。彼らを愛し、憐れまれたのです。全世界の創造主であり、王である神ご自身を十字架につけるほど、愚かな行為はありませんでした。でもイエス様は、人々がその愚かさから救われるように祈られたのです。私たちは誰もが、神に逆らう愚かな道を歩んでいました。イエス様はそんな私たちを愚かな生き方から解放し、新たな道を示して下さったのです。

「そのとき、イエスはこう言われた。『父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。』」(ルカ23:34)

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2018年11月18日 (日)

みこころの成就を求める

 今月から吉野屋は、「牛すき鍋膳」を始めました。これに合わせ、新しいテレビCMを流しています。ドラマ「北の国から」のパロディです。元々のラーメン屋のシーンは、なんと34年前の放送です。パロディにするくらいですから、見た人には今でも強烈な印象が残っているのかもしれません。

 「北の国から」は、1981年から21年間放送されたTVドラマです。第一話では、主人公の黒板五郎さんが、東京から故郷の北海道・富良野に帰ります。浮気した奥さんと別れ、2人の子供、純と蛍を連れて行きます。東京の都会生活しか知らない子供たちは、北海道のド田舎の暮らしに戸惑います。壊れた山小屋のような家で、電気もガスも水道もありません。熊が出るとも言われます。夜になると、何者かが外を歩いている音がしました。子供たちは「熊が来た」と思います。その時、彼らはどうしたでしょう?手を組んで、必死に祈りました。「天にまします我らの父よ」と祈ったのです。マタイ福音書6章にある、いわゆる「主の祈り」です。東京にいた頃、2人は日曜学校に通ったという設定だったようです。この祈りのシーンは、ラーメン屋のシーンと同じく、私の印象に残っています。

 「主の祈り」は、イエス様が弟子たちに「こう祈りなさい」と教えられた祈りです。その中に、こんな一節があります。「みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ。」新改訳2017では、「みこころが天で行われるように、地でも行われますように」です。天とは、創造主なる神のおられる世界。地とは、私たちが住むこの世界です。天では全ての物事が、神のみこころ通りに完璧に動いています。ところが地上の世界は、必ずしもそうではありません。多くの人が神のみこころを無視し、神を悲しませています。神は、ご自身が造られた世界に壮大な計画をお持ちです。その計画に沿って生きる人々を、神は求めておられます。天と同じように、この地上の世界にも神の完璧な計画の実現を願う人々。自分の願いではなく、神のみこころの成就を求める人々です。先ほどの「主の祈り」の一節は、神社やお寺で多くの人が祈る祈りと全く違います。180度視点が異なります。地上から天を見上げ、ひたすら助けを求めるのでなく、天から地を見降ろすような祈りです。純と蛍は、「そんなことは何も知らなかった」のでしょう。

 旧約の時代にも、みこころの成就を求めた人々がいました。アブラハムは神のみこころを求め、一度も見たことのない約束の地に旅立ちました。もちろん、電気もガスも水道もない地です。みこころに従い、彼は大切な跡継ぎ息子イサクを神にささげようとしました。モーセはみこころの成就を求め、ユダヤ人奴隷をエジプトから解放しました。救われた人々がみこころに従うよう、神の教えを彼らに伝えました。彼らとともに荒野で40年間過ごし、みこころに従う訓練も一緒に受けました。ダビデはみこころの成就を求め、ペリシテ人の巨人ゴリヤテと戦い、みごとに勝利しました。みこころに従い、自分がイスラエルの王になる時を辛抱強く待ち続けました。みこころの成就を求め、エルサレムの神殿建設を息子ソロモンに委ねました。そんな信仰の勇者たちも、時には失敗しました。でも生涯を通し、彼らは一つのことを求め続けました。みこころが天で行われるように、地でも行われることです。

 イエス様も、みこころの成就を願われました。「杯」は神のさばき、死を意味しています。神に従わない罪に対する刑罰、死刑です。本来それは、イエス様が受ける罰ではありません。イエス様以外の全ての人が受けるべき刑罰です。イエス様は完璧に父なる神に従いましたが、私たちは誰も完璧ではありません。ところがイエス様は、私たちに代わって死刑になって下さったのです。その十字架の死により、全ての人の罪が帳消しになりました。イエス様は命を懸け、死の杯を私たちの手から取り去られたのです。神は、私たちもイエス様の後に続いてほしいと願われています。自分の願いではなく、みこころの成就を求める人を、神は喜んで下さるのです。

「父よ、みこころなら、この杯をわたしから取り去ってください。しかし、わたしの願いではなく、みこころがなりますように。」(ルカ22:41-42)

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2018年11月11日 (日)

永遠の世界に備える

 9月に北海道で大地震が起きた時、私のある友人は札幌のホテルに一人で宿泊していました。高校で私の同級生だった女性で、今は青森県のお医者さんです。ジャズピアニストでもあり、最近CDを自主制作しましたが、その時は自分のコンサートのため札幌訪問中でした。地震発生は午前3時頃で、すぐ停電になりました。ホテル内に非常放送が流れました。「非常電源が尽きる前に、バスタブに水を張って下さい。」トイレの水を流すためです。その放送の後、何の案内もありませんでした。真っ暗な中、彼女は不安になりました。12階のその部屋は、不気味な静けさでした。様子を見るため、非常階段で下に降りようとしました。ところが階段は何も明かりがなく、真っ暗な洞窟のようでした。部屋に備え付けてある懐中電灯では、何も見えません。か弱い光で、1階に着く前にバッテリーがなくなりそうでした。急に息苦しくなり、パニックになりかけました。すると幸いなことに、反対側にも非常階段があると、別の部屋の人が教えてくれました。そちらは、少し明るかったようです。

 その日の夕方、彼女の親友がホテルに来てくれました。ランタンとラジオを持ってです。親友は、「自分の家に泊まりにおいで」と言ってくれました。でも彼女は、もう一晩ホテルで頑張ってみようと思いました。その夜も停電でしたが、ランタンとラジオはたいへん役立ったようです。コンサートは中止になり、彼女は青森に戻りました。そして、Facebookのページに今回の体験と教訓を書き込みました。教訓その1、旅行には必ずポータブル電源を持ち歩く。無料の充電所は4時間待ちでした。教訓2、懐中電灯、ランタン、ラジオも持ち歩く。教訓3、カップ麺があれば、水に20分浸して食べられる。鴨そばが美味しいそうです。教訓4、停電になったらバスタブに水を貯める。教訓5、地域の具体的な情報を得るには、昔からのラジオが良い。インターネットラジオでは、被災者に役立つ情報は聞けないとのこと。教訓6、災害の時には、遠慮なく他の人に聞く。部屋に閉じこもっていない方が良いようです。私はその投稿を読み、すぐに旅行用の懐中電灯とランタン、ラジオを買いました。バッグやスーツケースが少し重くなりました。でも非常時の備えは大切です。

 聖書には、「永遠の世界が来る」という約束があります。「その前に今の世は終わる」という警告もあります。創造主なる神は、私たちが住むこの世界を造られました。でも今の世界は、このまま永遠に続くのではありません。この世界には「消費期限(使用期限)」があります。期限切れになると、今のこの世はなくなります。今と同じように住むことは、できなくなります。ここで一つ、非常に大きな問題があります。「消費期限」がいつなのか、誰も知らないことです。スーパーやコンビニで売っている食べ物には、賞味期限や消費期限がはっきり書かれています。期限が過ぎたら味が落ちます。食べるとお腹をこわす場合もあります。なので私たちは、できるだけ期限内に食べようとします。ところがこの世界全体は、どこにも「消費期限」が書いてありません。いつなくなるのか、誰も知りません。神の国のトップシークレットです。私たちは、この世の終わりとその後の世界に常に備えておく必要があります。

 イエス様は、暗闇を照らすまことの光です。世界がどんなに真っ暗になっても、私たちの進む道は明るく照らされます。イエス様は、「聖霊放送」のパーソナリティーでもあります。天のスタジオから流れる放送で、私たちに重要な情報を伝えて下さいます。私たちが世の終わりを生き延び、その後、永遠の世界の祝福を満喫するための貴重な情報です。「聖霊放送」に心の耳を傾け、永遠の世界への備えをしましょう。

「しかし、あなたがたは、必ず起こるこれらすべてのことから逃れて、人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈っていなさい。」(ルカ21:36)

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2018年11月 4日 (日)

天の命を帯びる

 先日、「林先生が驚く初耳学!」というTV番組で面白いコーナーがあったそうです。3人の外国人男性が現れ、誰が本物の牧師か当てるコーナーです。残念ながら私は、番組を見ませんでした。3人のうち1人は本物で、後の2人は偽物だったそうです。なぜそんなことをしたかと言うと、結婚式の司式牧師は偽物が多いという話が紹介されたからです。アルバイトの求人サイトで、牧師を募集しているそうです。日給8千円から5万円!何組挙式するかにより、おそらく金額が違うのでしょう。林修先生は初耳ではなく、驚かなかったようです。でもゲストの中には、ショックを受けた人もいたとのこと。日本のクリスチャン人口は、1%以下です。牧師の数は、さらに一桁は少ないはずです。しかも「本物の牧師」は、普通、自分の教会の働きが中心です。全く知らない人の結婚式は、たとえ引き受けても片手間になります。以前ここにも書いたように、もし日本で結婚する過半数のカップルがキリスト教式ウェディングを望むとしたら、「本物の牧師」だけでは全く手が足りないはずです。

 興味深かったのは、クリスチャンでない人が「本物の牧師」にこだわる点です。キリスト教式の結婚式を行うホテルやウェディングチャペルは、「本物の教会堂」ではありません。新郎新婦も参列者も式場スタッフも、ほとんどが「本物のクリスチャン」ではありません。なのに、なぜ牧師だけは本物が良いのでしょう。北海道にいた頃、私も複数のウェディングチャペルで司式をお手伝いしました。もちろん教会奉仕の合間にです。私は一応「本物の牧師」だったので、偽物とばれる心配はありませんでした。(笑)でも全く別の場所で、「偽牧師」と呼ばれたことがあります。よその教会のクリスチャンからです。その人の考えでは、ギリシア語で聖書を読まない牧師は偽物でした。私は、それほどギリシア語に詳しくありません。時々、気になるキーワードを調べるくらいです。私を偽牧師と決めつけたその人は、私のFacebookのページにそう書き込みました。すぐに対処しましたが、私はひょっとして「偽牧師」なのかと考えさせられました。

 日本語(新改訳)の聖書には、「牧師」という言葉は1か所しか出て来ません。エペソ書4章11節です。それは「ポイメン(poimen)」というギリシア語の翻訳で、「羊飼い」という意味です。羊飼いの仕事は、羊の群れのお世話です。羊が健やかに育つよう、食べたり飲んだりできる場所に群れを連れて行きます。狼などの敵から守られるよう、注意深く見張ります。弱った羊や病気の羊がいたら、介抱します。迷子の羊は、群れに連れ戻します。これが羊飼いの主な仕事です。聖書の中で人は羊に、創造主なる神は羊飼いに例えられています。全ての人は生まれてから死ぬまで、ずっと神のお世話になっています。本人が知らなくてもそうです。神は羊一匹一匹を全てご存知で、深く愛されています。最高の羊飼いです。羊同士でも互いにケアできるよう、神は羊の中にリーダーを任命されています。牧師はそのようなリーダーの一人で、すべきことは自分のグループに属する羊のお世話です。お世話するのにギリシア語が役立つこともありますが、必須ではありません。牧師以外にも、さまざまなリーダーがいます。旧約時代には祭司や王、預言者たちが神に任命されました。新約の時代には使徒、預言者、伝道者、牧師、教師などのリーダーがいます。どんな働きをしても、天から任命されたら「本物の働き人」です。

 イエス様は、信じる人一人ひとりに何らかの働きを委ねておられます。私たちは天の命を帯びて、地上に遣わされているのです。忠実に使命を果たす人を、神は喜んで下さいます。「あなたは本物だよ」と、イエス様が言って下さるのです。

「イエスは彼らに答えられた。『わたしも一言尋ねましょう。それに答えなさい。ヨハネのバプテスマは、天から来たのですか、それとも人から出たのですか。』」(ルカ20:3-4)

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2018年10月28日 (日)

救いのために遣わされる

 私の友人の一人は、東京で精神科医をしています。今年7月、彼は自分の弟が出版した本をFacebookで紹介しました。「うつ病九段:プロ棋士が将棋を失くした一年間」というタイトルです。私は弟さんには会ったことがありませんが、関心あるテーマなので、すぐ買って読みました。最近、うつになって自殺する人の話をよく聞くからです。他人事ではありません。本の著者、先崎学さんは昨年6月、突然うつになりました。前日まで元気で、忙しい毎日を送っていました。ところがある朝、起きると疲れを感じ、一日中頭が重く、気分が暗かったそうです。その日から症状はどんどん重くなり、よく眠れなくなりました。仕事(将棋)に集中できなくなり、猛烈な不安に襲われました。毎日何十回も、電車に飛び込むイメージが頭を駆け巡りました。寝る前に睡眠薬を飲み、「明日は元の自分に戻っていますように」と神に祈ったそうです。祈るしかありませんでした。

 奇跡的な癒しの代わりに、神から遣わされたのはお兄さんだったようです。お兄さんは、弟の自殺を恐れ、全く入院する気のなかった学さんを説得しました。そして発症の1か月後、学さんは入院し、1か月間病院で過ごしました。お兄さんからは、LINEでいつも一言メッセージが届いたそうです。「必ず治ります。」ゆっくり休み、次第に生活のリズムが戻って来ました。他の入院患者と話もできるようになりました。退院後は毎日散歩をし、本を読み、時には落語も聞きに行きました。少しずつ将棋も指し始めました。でもプロの世界に復帰できるかどうかは、不安があったそうです。そんな時、兄からいつも送られてくるLINEのメッセージに励まされました。「必ず治ります。」お兄さんは、こうも言いました。「人間は、不思議なことに誰でもうつ病になるけど、不思議なことにそれを治す自然治癒力を誰でも持っている。だから絶対に自殺だけはいけない。」発病から1年後、学さんは公式戦に復帰できました。うつ病と自殺から救われるため、お兄さんが弟のもとに遣わされたようです。

 イエス様は、全ての人を救うため、私たちの世界に遣わされました。イエス様が訪れた1世紀のエリコの町にも、救いの必要な人がいました。ザアカイという名の人です。うつや自殺からの救いではありません。罪と罪責感、人々の冷たい視線からの救いです。ザアカイは取税人でしたが、あくどいやり方で金儲けをしていました。税金を集める時、多くとって余ったお金を自分の物にしていたのです。彼は、悪人としてよく知られていました。でも彼は、人知れず救いを求めていたようです。イエス様がエリコに来ると、木に登ってまでその様子を見たいと思いました。イエス様はザアカイの心を見抜き、声を掛けられました。「今日はあなたの家に泊まるから、そこから降りておいで」と言われました。ザアカイは、イエス様の愛と気遣いに感動しました。そして彼は、自分が不正に儲けたお金を人々に返し、社会に還元すると言いました。生き方が180度変わりました。イエス様がエリコに遣わされたことにより、ザアカイは自らを破滅させる生き方から救われたのです。

 イエス様は今、私たちをこの世界に遣わされています。イエス・キリストを信じる人は、破滅的な生き方から救われます。私たちは、周りの人にこの救いの喜びを伝えられます。信じる仲間とともに、永遠の救いを喜ぶことができるのです。

「イエスは彼に言われた。『今日、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。人の子は、失われた者を捜して救うために来たのです。』」(ルカ19:9-10)

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2018年10月21日 (日)

子どものように神に近づく

 「チコちゃんに叱られる!」というTV番組が、人気だそうです。NHKのクイズバラエティ番組です。チコちゃんとは着ぐるみの女の子で、5歳という設定。好奇心旺盛で、何でも知っています。大人たちに素朴な疑問を投げかけます。例えば、こうです。「なぜヒトはパンツをはくのか。なぜ大人になると、1年があっという間に過ぎるのか。日本の中心はどこか。」答えられないと、チコちゃんの顔が真っ赤になり、巨大化します。そして、こう言って大人たちを叱ります。「ボーっと生きてんじゃねえよ!」この決めゼリフが人気なようで、多くの人がこの番組を見ています。5歳の女の子が叱るので、あまり嫌味を感じないそうです。でも私は、この番組を見る気がしません。クイズに答えられないだけで、小さな子から「ボーっと生きてんじゃねえよ」と言われたくないからです。(笑)何でも知っていて「上から目線」で話す子は、子供らしくないようにも思います。

 ツイッターでは数か月前、10歳の女の子が書いたメモが話題になったそうです。「全世界の子供が思っている大人への不満」というタイトルです。メモには、3つの不満が書いてありました。1つ目、「子供が水やお茶などをこぼすと、大人は子供をおこるクセに、大人がこぼすと、笑ってごまかし、だれにもおこられない。」2つ目、「子供がリビングなどで寝ていると、『ふとんで寝なさい!』と注意するクセに、大人もリビングなどで寝ている。」3つ目、「大人は子供に、『ゲームは1時間だけ!』とか言うクセに、大人は7時間ほどゲームをしている。」まとめ「大人は、人の事(子供の事)を言えない!」こういう視点は、私は好きです。小さい頃、同じように感じたからです。皆さんもそうかもしれません。これは子供らしい「下から目線」の観察結果で、知識があるないの話ではありません。子供を指導する大人は、子供の目線から自分を見ることも大切です。「ボーっと生きてんじゃ」いけません。(笑)

 聖書の中の子供は、大人に指導される立場です。モーセは、約束の地を目の前にしたユダヤ人たちに、こう語りました。「子供たちに、神のことばを教え込みなさい。家にいる時も外に出た時も、起きた時も寝る時も、子供たちに教えなさい。」大人はもちろん、子供たちのお手本になるべきです。でも時には、子供が大人のお手本になることもあります。ペリシテ軍と戦ったイスラエル兵士は、みな怖じ気づいていました。ゴリヤテという巨人が現れると、大人は誰も戦おうとしませんでした。お手本になったのは、兄たちに弁当を届けに来た羊飼いの少年ダビデです。彼は見事勝利を収め、信仰による戦いの模範を大人に示しました。新約聖書にも、小さなヒーローが登場します。その子も、弁当を持っていました。5つのパンと2匹の魚です。少年がその弁当を差し出すと、イエス様は5千人以上の大人に食事を振る舞われました。自分が持つわずかな物をささげた子は、神に大きく用いられました。その姿は、今も世界中の大人や子供のお手本になっています。

 イエス様は、小さい頃から聖霊の英才教育を受け、何でも知っていました。エルサレムの神殿に行くと、大人と神学論争できるほどでした。でも子供のうちは、両親の指導を受けました。「ボーっと生きてんじゃねえよ!」と、大人を叱らなかったはずです。大人になると、イエス様は子供たちの人気者でした。そばに寄って来る子供を歓迎されました。大人に対しては、「子供のようにわたしに近づきなさい」と言われました。イエス様は、誰が寄って来ても歓迎して下さいます。大人風に、近づき方のマナーを考える必要はありません。何も考えず、子供のように懐に飛び込めば良いのです。イエス様のそばにいれば、ボーっと生きることもなくなります。

「子どもたちを、わたしのところに来させなさい。邪魔してはいけません。神の国はこのような者たちのものなのです。まことに、あなたがたに言います。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに入ることはできません。」(ルカ18:16-17)

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2018年10月14日 (日)

自らの生き方をチェックする

 昨日、札幌で開かれたある集まりに出席して来ました。私の出身高校で、長年バレーボール部を指導した顧問の先生を偲ぶ会です。その先生は、今年8月に亡くなりました。私は夏休みに帰省した時、友人と2人でご自宅を訪ね、奥様としばらくお話して来ました。その時、「舟の右側」という雑誌に最近掲載された、私の文章(証)もお渡ししました。その冒頭は、亡くなった先生の言葉から始まるのです。「東大を受けてみないか」という言葉です。それを書いた時、先生の最期が迫っていることを私は全く知りませんでした。40年前を振り返り、先生の言葉でいかに自分の進路が大きく変わったかと考えました。その言葉がなければ、私は医者を目指し、牧師にならなかったかもしれません。今の妻と出会わず、3人の子供や孫もこの世にいなかったかもしれません。先生の言葉は、私の人生に大きな影響をもたらしたのです。

 影響を受けたのは、私だけではありませんでした。昨日の「偲ぶ会」には、40代から60代の元バレー部員が50人近く集まりました。献花をし、奥様やその他の何人かが挨拶をしました。各年代の代表が、短く思い出を語るコーナーもありました。私も一言お話させていただきました。ビデオレターが上映され、お別れのメッセージをまとめた文集が奥様に手渡されました。私は、先生から学んだ3つの教訓について書きました。1つは、常にチャレンジャーであること。全く勝てない相手でも、全力を尽くしてチャレンジすれば、何か得るものがあります。2つ目は、チームプレイヤーであること。個人ではなくチームで力を合わせて、初めて敵に勝利することができます。3つ目は、互いにコーチであること。仲間同士で励まし、学び、教え合うことにより、互いに向上することができます。「偲ぶ会」では、他の人たちも先生から学んだことを語っていました。学んだ教訓は、それぞれがその後の人生を生きるための指針になったようです。その指針に照らし、自らの生き方をチェックすることができたのです。

 聖書のことばは、ある高校でバレーをした一部の人だけでなく、全ての人に与えられた人生の指針です。神が昔、誰かに語られたことばが、他の人の指針にもなっています。神はアダムに、こう命じられました。「地上で増え広がり、全ての生き物を管理しなさい。神の教えに従いなさい。そうでないと、あなたは死んでしまう。」アブラハムには、こう命じられました。「故郷を出て、わたしの示す地へ行きなさい。あなたを通して世界中の人々が祝福される。」モーセには、こう命じられました。「人々に、わたしの教えを伝えなさい。わたしを愛し、教えを守る人は祝福される。」罪を犯した人には、神はこう命じられました。「悔い改めなさい。わたしの方を向くなら、あなたの罪は赦される。あなたは、本来の姿に回復する。」これらのことばは、聖書時代の人だけでなく、今の私たちにとっても重要な人生の指針です。

 イエス様は、正しい生き方を見失った私たちに、人生の指針を与えに来られました。イエス・キリストを信じる人は、創造主なる神の教えに導かれ、生きることができます。心に聖霊が住まわれ、聖書にある神の教えを思い起こせます。神の教えは、全ての経験や教訓の土台になります。その基準に基づき、自分が学んだことが間違っていないか判断できます。人によって違う考え方に振り回されることもありません。例えばチャレンジャー、チームプレイヤー、互いのコーチという考え方も、神の教えに即していると判断できます。世界共通の基準を用い、私たちは自らの生き方をチェックできるのです。

「あなたがたは、自分自身に気をつけなさい。…」(ルカ17:3)

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2018年10月 7日 (日)

天の信頼を得る

 先日、ある牧師からサイン入りの著書を頂きました。「主の霊が私たちの上にある」というタイトルの本で、著者はレスリー・キーグルというスリランカ人牧師。私たちフォースクエア教団では、全世界的にその名が知られている方です。キーグル牧師は18歳の時、牧師になる決心をしました。フィリピンの聖書学校を卒業後、仏教国スリランカで伝道する予定でした。すると首都コロンボの大きな教会から、主任牧師にならないかと話がありました。新婚の妻と楽しく快適な生活をするチャンスでした。でもそれは、神の計画ではなかったのです。断食して祈り、導かれたのは、スラム地域での教会開拓でした。地球上で最も暗い場所の一つだそうです。

 しかし、そこから神の奇跡が始まりました。ある日、一人の男性と出会いました。耳が聴こえず、言葉も話せない人です。導きを感じ、その人のために祈りました。すると彼は生まれて初めて口をきき、母親と話し始めたのです。その人は、後に牧師になったそうです。その後も数々の奇跡が起こりました。聖書時代と同じ超自然的な伝道により、スラム地域に家の教会が拡がって行きました。迫害にも耐え、スリランカのフォースクエア教会は現在2,000近くに増えています。キーグル牧師は今、スリランカ以外にも世界各地のフォースクエア教会を訪れ、人々を励ます使徒的な役割を果たしています。

 私がキーグル牧師を初めて見たのは、日本フォースクエアの40周年大会だったかもしれません。1990年に千葉県で開催された大会で、私は受付やワーシップチームの奉仕をしました。集会中、キーグル牧師は、要約すると次のような預言のことばを語りました。「ここにいる人たちは今後、飲める水がなくなりそうになる。でも、ある人たちが水のある場所を発見し、他の人々にその恵みを分かち合う。」私はその時、預言を初めて聞いたので、深く印象に残りました。

 スリランカの教会では、礼拝賛美中に人から悪霊が出て行くという話も耳にしました。キーグル牧師は物静かで、謙遜な方です。超自然的で力強い働きの秘訣がどこにあるのか、私はずっと関心を持っていました。今回頂いた本に、その秘訣がいくつか書かれていたように思います。祈りを通して、神に近づくこと。必要を満たす神を信頼し、導きに忠実に従うこと。そして、そのように生きる人として、神から信頼されることです。その信頼の度合いに応じ、神は私たちに大切な働きを委ねられるようです。

 信仰の父アブラハムは、神の信頼を得ていました。偶像の神々を拝む国に生まれ育ったのに、彼は創造主の声を聞き分けました。導きに従い、約束の地を目指しました。失敗もしましたが、肝心な時には神に祈り、みもとに近づきました。神はアブラハムを信頼し、2千年後に生まれる子孫の秘密を打ち明けて下さいました。モーセも、神に信頼されていました。彼は逃亡中の殺人犯でしたが、ある時、天の声を聞きました。導きに従い、ユダヤ人をエジプトから解放しました。いつも神と対話をし、その顔は神の栄光で光り輝いていました。神はモーセを信頼し、十戒を始めとする重要な教えをたくさん語って下さいました。イスラエル王となったダビデも、神から信頼されていました。数々の試練をくぐり抜け、祈りを通して神に近づきました。神の導きに従い、王になる時を待ち続けました。神はダビデを信頼し、彼の子孫が永遠の国の王となる秘密を告げて下さいました。

 イエス様はアブラハムの子孫、ダビデの子孫としてこの世に来られました。モーセのような預言者として、地上での働きを忠実に果たされました。イエス・キリストを信じる人は、天の信頼を得る生き方ができます。神に祈り、近づくことができます。導きに従い、必要を満たす神を信頼することができます。神との関係が深まれば深まるほど、神は私たちを信頼し、さらに秘密を打ち明けて下さいます。神が計画されている大切な働きを、私たちに委ねて下さるのです。

「ですから、あなたがたが不正の富に忠実でなければ、だれがあなたがたに、まことの富を任せるでしょうか。また、他人のものに忠実でなければ、だれがあなたがたに、あなたがた自身のものを持たせるでしょうか。」(ルカ16:11-12)

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2018年9月30日 (日)

神と一緒に喜び祝う

 先週、私は末娘夫婦の結婚披露宴に出席しました。結婚式は今年2月に私たちの教会で行われましたが、披露宴会場は池袋のレストランでした。テーブル10卓に、食器や花が美しく飾り付けられていました。時間が来ると、新郎はシルバーのタキシード、新婦は純白のウェディングドレスで入場。乾杯の後、洋風のコース料理が振る舞われました。新郎新婦が参加したサックス四重奏の演奏もありました。お決まりのケーキカットや両親へのプレゼントもありました。集まったのは新郎新婦の親族、友人、職場や吹奏楽団の人たちなど、80名ほど。出席した皆さんに、二人の結婚を喜びお祝いしていただきました。お祈りいただいた方々にも感謝します。

 日本では、遠い昔から結婚披露宴が開かれていたそうです。平安の貴族の時代は、男性が女性の家に3日通うと、結婚が決まったとのこと。女性の親は、婿になる男性を親族に披露する宴会を開きました。武士の時代が始まると、逆に女性が男性の家に入るという考え方が強くなりました。結婚は、家と家との結び付きと考えられました。婿の家が両家の親族を招き、結婚披露宴を行いました。お見合いや婚約、披露宴の儀式などに、細かいルールができました。戦後は、新しくできた憲法に基づき、結婚の考え方が変わりました。結婚は家と家ではなく、個人と個人の結び付きになったのです。結婚式や披露宴の会場も、家よりホテルやウェディングチャペル、レストラン等が多くなりました。

 結婚式自体の形も変わりました。ある調査によると、1960年代の日本の結婚式は84.4%が神前式、つまり神社で行われたそうです。その頃、キリスト教式の結婚式は2.2%。ところがその後、キリスト教式が大躍進します。1970年代には6.8%。1980年代は14.5%。1990年代は38.3%。2000年代には、なんとキリスト教式が64.2%になりました。最近は減少傾向のようですが、それでもキリスト教式結婚式は55%を占めています。クリスチャンが1%以下の国で、結婚式だけはキリスト教式で喜びをお祝いする人が過半数です。ちょっと不思議な感じがしますね。

 聖書の教える結婚は、家と家の結び付きではありません。一人の男性と一人の女性が、神の前で結ぶ契約です。全てを造られた神は、私たち一人ひとりに命を与えて下さいました。私たちがこの世に誕生するずっと前から、一人ひとりを豊かに祝福する計画が立てられています。神は人に出会いを与え、結婚へと導いて下さいます。ご計画に従い、新しい命も授けて下さいます。結婚した2人が、神の教えに基づいて家庭を築いて行く時、神はその家庭を喜び、お祝いして下さいます。祝福で満たして下さいます。神の家族に属する他の人たちもその祝福を見て喜び、一緒にお祝いすることができます。

 神の国は、結婚式や結婚披露宴に例えられます。定められた時刻ぴったりに、結婚式と披露宴が始まります。地上のどんな会場よりも、はるかに美しく飾り付けられています。世界中から、数えきれないほどの人が集まっています。新郎はイエス・キリスト。新婦は教会、つまり新郎にプロポーズされ、呼び出された人たちです。新婦は、純白のウェディングドレスを着ています。新郎が十字架を背負い、命懸けで真っ白にきよめてくれたドレスです。披露宴では、この世にないような絶品料理を堪能できます。天使たちは、天上の麗しい音楽を奏でてくれます。全ての人が、キリストからプロポーズされています。神の国の結婚式と披露宴に招待されています。ただ、定められた期限内に承諾の返事をしなければ、結婚式会場に入れません。プロポーズに応じる人は誰でも、神と暮らす永遠の祝福をともに喜び、お祝いすることができます。

 イエス様は、放蕩息子の帰宅を喜び祝う父の例え話をされました。でも私たちが実際に参加する祝宴は、たった一人の家出息子の帰還祝賀会にはるかに勝る、全世界的規模の盛大なパーテイーとなるのです!

「…子よ、おまえはいつも私と一緒にいる。私のものは全部おまえのものだ。だが、おまえの弟は死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから、喜び祝うのは当然ではないか。」(ルカ15:31-32)

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