救いの証し

2018年10月18日 (木)

それらで何かできるのではないか

 以下は、月刊誌「舟の右側」9月号に掲載された文章です。出版社の了解が得られたので、このブログに再掲します。冒頭に出て来るバレー部顧問の阿部浩羊先生は8月に亡くなられ、先週土曜日に札幌で元バレー部員たちによる「偲ぶ会」が開かれました。私が将来の進路に悩んだ末、「牧師になることにした」と報告に行くと、先生は「やっと落ち着いたようだな」と言って下さいました。大きな試練の直後だったので、私はその言葉に励まされた覚えがあります。神様が与えて下さった貴重な出会いを感謝します。

****************************

 「東大を受けてみないか」。高3の春、所属するバレー部の顧問から、突然そう言われました。その先生は、担任でも進路指導担当でもありませんでした。でもなぜかその時、「自分は東大に受かるのか」と初めて考えました。チャレンジしたいと思いました。神様は、その先生の言葉を用い、「神のことば」と出会う旅に私を招いて下さったのです。

 高2の終わりまでは、漠然と医者になろうと思い、地元・北海道の大学を受けるつもりでした。東大医学部は、どう考えても無理でした。東大なら工学部、理学部系しか、受かる可能性がないと思いました。そして私は、医者の道を諦めたのです。将来、何になるかは、大学に行ってからじっくり考えることにしました。

 有難いことに翌年3月、なんとか合格できました。大学の友人に将来の夢を聞くと、たいていの人は技術者か研究者になりたいと言いました。私の祖父は医者、父は技術者でしたが、私自身は研究者を目指そうと思いました。どの分野に進むかさんざん悩んだ挙句、理系から文系に移り、言語学を専攻することにしました。言葉と文化の関わりに関心を持ったからです。

 ただその一方で、私には、成功の頂を目指す山登り競争に、ためらいもありました。先を争い、長く急な坂道をひたすら上る人生は、苦しいだけのように思えたのです。苦行の末、死んで終わりなら、そんな人生に意味があるのか、大いに疑問でした。それが人生なら、今すぐ死んで、レースを棄権しようかとも思いました。でも、息子を札幌から東京に送り出した両親を思うと、自殺はできませんでした。

 大学3年のあるクラスで、神様は一人のクリスチャンとの遭遇を用意されていました。東大女子バレー部の主将です。聖書を読み、教会に来るよう熱心に勧められましたが、私は元来へそ曲がりで強情です。仏教の本を何冊か買い込み、読み始めました。でも結局、人生の意味を教えてくれる本は、その中にありませんでした。

 4年生になった私は、卒業論文のテーマを考え始めました。研究者を目指すなら、将来の研究につながるようなテーマを選びたいと思いました。でも、いくら探しても、何が良いか分かりません。そのうち、重大なことに気が付きました。自分には、ライフワークにしたいテーマがないということです。研究者にはなれないと思いました。何を目指したら良いのか、全く先が見えなくなりました。

 池袋の薄暗いアパートで、私は絶望感を抱き、一人うずくまりました。気力を失い、もう何もできないように思いました。その時、心にこう語りかける「ことば」を感じたのです。「あなたは何もできないと思っているけれど、あなたには目があって見ることができるし、耳があって聞くことができる。手があって物をつかむことができるし、足があって歩くことができる。頭で考えることもできる。それらで何かできるのではないか」。その瞬間、不思議なことに、それは創造主なる神のことばだと直感しました。深い愛に包まれていると感じたのです。目から涙が溢れて来ました。「この神様のために生きよう」。そう思いました。

 それから長い年月が流れ、私のライフワークは、「神のことばを語ること」になりました。今なお悪戦苦闘中の研究テーマは、「聖書のことばを日本文化の中でどう伝えるか」です。その後も、何度も行き詰まりました。でもその度に、あの深い愛に満ちた神のことばを思い出しました。そのことばに、今も私は生かされています。永遠の天の都に続く、長いゆるやかな坂道を、旅の仲間とともに楽しみつつ上っているのです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年7月23日 (水)

「自分探し」の道なき道

大学入学後、人生の目的と自らの「天職」を見出すまで、6年かかりました。どこに行って何をしたら良いのか皆目見当がつかず、道なき道を突き進むような苦難の行路でした。まったく暗中模索の6年間でしたが、今の言葉を使うと、「自分探し」の旅路だったと言えます。

大学教養の数学につまずいて文学部に移り、卒論で挫折して政治・経済分野へと方向を変え、将来が見えないまま就職活動をして失敗し、ボランティア団体の手伝いに行くとそこも自分の居場所ではないように感じました。

これからどうしたらいいだろうと思い悩んでいる時、洗礼を受け、クリスチャンとなり、牧師の道を志す導きが与えられたのです。それは、人生の目的と「天職」が明らかになった、「自分探し」の終着点でした。(その「導き」については、こちら→ http://lifestream.cocolog-nifty.com/blog/2006/09/post_b39c.html

大学の頃、確か友人から、「The Missing Piece」(邦訳「ぼくを探しに」)という絵本を紹介されました。パックマンのような形の主人公が、自分の欠けた部分を満たす「かけら」を探して旅に出る話です。その続編、「The Missing Piece Meets the Big O」(邦訳「ビッグ・オーとの出会い」)では、「かけら」を探し回る人生ではなく、模範にならって自ら前進していく生き方の大切さが描かれていました。

私の欠けた部分を満たして下さったのは、創造主なる神様です。求めていた人生の目的と自らの「天職」について、答えを与えて下さいました。足りなかった「かけら」は、私を創造し、永遠の愛をもって見守り、生かして下さっている神様との関係だったのです。

私にとって、生き方の模範を示す「ビッグ・オー」となったのは、イエス・キリストでした。創造主なる神様の愛を伝え、自らのいのちを懸けてその愛をあらわされたキリストの姿は、私たちがどのように生きるべきかを力強く語っています。

辛く苦しい「自分探し」の旅でしたが、求め続けた私に、創造主なる神様が答えを下さったことを感謝します。

「わたしは、あなたがたに言います。求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。」(ルカ11:9、新改訳第3版)

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2008年7月22日 (火)

大学受験

もう2年くらいブログを書いていると、何を書いて何を書かなかったのか、分からなくなって来ています(笑)。今日の話は、すでにあちこちでお話ししている内容ですが、たぶん、ブログにはまだ書いていないように思います。どこかに書いていたとしたら、ごめんなさいね。

日曜日の礼拝メッセージは、「信仰のゆえに強くされる」というテーマでした。もちろん、それはイエス・キリストを信じる信仰を通して、新しい力が与えられることを意味しています。しかし、メッセージを準備する中、私が思い出していたのは大学受験の頃の経験でした。

高校生の時、私は将来、医者になることを漠然と考えていました。すでに亡くなっていた祖父がへき地医療に従事した医者だったことが、大きな要因だったと思います。三者面談でも地元の某大学医学部が第一志望だと伝え、親もすっかりその気でいたようです。

ところが高校3年の春、所属していたバレーボール部顧問の先生が私のところに来て、どの大学を志望しているか質問しました。私が某大医学部だと言うと、先生は、こう言ったのです。「(うちの高校で)医者を志望しているのは、たくさんいる。お前は、東大を受けてみないか。」

私はそれまで、東大を受験するなど考えてみたこともありませんでした。受かると思っていなかったのです。高校は進学校でしたが、ほとんどバレー漬けの学校生活でした。バレー部顧問の先生は、体育が専門で、進路指導の担当でもありませんでした。

しかし、不思議なことに、なぜかその先生の言葉に説得力を感じたのです(笑)。ひょっとして受かるんだろうかと、その時、初めて思ったのでした。親元を離れて、東京に行ってみたいという気持ちもありました。

それから少しずつ、受験準備を始めます。友人たちが薦めていた参考書、問題集、模試、ラジオ講座など、手当たり次第に試してみました。6月の高体連までは、部活との両立がたいへんでした。今から考えると、バレー部顧問の先生の言葉により、最後の高体連に向け、部活に集中しきれなくなったのですから、皮肉なものです。(最後の試合については、こちら→ http://lifestream.cocolog-nifty.com/blog/2006/09/post_cf38_1.html

何度模試を受けても、合格率が出ませんでした。最後まで、「圏外」だったのです。それでも受かる可能性を信じていたのは、いま思えば、素晴らしい「信仰」だったかもしれません(笑)。現役で合格したのは、まさに奇跡のようです。しかし、その「奇跡への信仰」が、受験勉強に集中する力を生み出したように思えます。

東大(理科一類)への入学は、私のその後の人生に大きな変化をもたらしました。医学部に進まなかった私は、将来の進路選択に悩むことになります。そして、「何のために生きるのか」という人生の目的を探し求める大学生活となります。当時はまったくの手探り状態でしたが、そのような苦悶の時期も、すべて神様の救いの計画の中にあったのでしょう。

私たちは、最善の方向へと導いて下さり、前進する力を与えて下さる神様にいつも信頼し、示された道をしっかり歩んでいきたいですね。

「人の歩みは(創造)主によって確かにされる。主はその人の道を喜ばれる。」(詩篇37:23、新改訳第3版)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年2月 6日 (水)

禅宗

クリスチャンになる前、鎌倉にある円覚寺の座禅会に参加したことがあります。20数年前、私が所属していた「塾」では、日本と日本文化を学ぶことを目的とした研修がいくつかありましたが、その一つが座禅研修でした。普段は、塾内で座禅を組む時間があり、お坊さんが指導に来られていました。そして年一回、円覚寺に「宿泊研修」に行ったのです。

私は大学の頃、少々、禅仏教に関心をもって、鈴木大拙の著作を拾い読みしていたこともありましたが、実際に座禅を組むのは初めてでした。般若心経を暗記し、足の痛みと眠たさをこらえつつ座禅を組み、警策(きょうさく)と呼ばれる棒で背中をしっかり叩かれました。泊り込みの研修では、一汁一菜のシンプルな精進料理をいただき、早朝から座禅を組み、掃除をしたように記憶しています。

「公案」と呼ばれる対話や瞑想、そして掃除等の修行を通して、悟りを開こうとする禅仏教のあり方は、釈迦が最初に教えた仏教に近いように私には思えました。そして、過去仏や未来仏、あるいは如来、菩薩、明王、天(梵天、帝釈天、弁天など)といった超越的存在を想定せず、ひたすら自らの悟りを求めるという姿勢は、他の仏教の宗派よりも理解しやすいように感じました。

ただ、私自身は当時、すでに創造主なる神の存在を信じていました。そして、その神様から与えられていた「公案」は、「創造主とイエス・キリストとの関係は何か」という問題だったのです。

聖書を読み進み、キリストは神のひとり子であり、創造主なる神ご自身だということを「悟った」時、私は洗礼を受け、クリスチャンになる決心をしました。神様が、真の「悟り」を与えて下さり、その悟りに至る「道」を人々に伝える者として下さったことを感謝します。

「わたしは、あなたがたに悟りを与え、行くべき道を教えよう。わたしはあなたがたに目を留めて、助言を与えよう。」(詩篇32:8、新改訳第3版)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年12月18日 (火)

クリスマスと初詣

先日、ある教会のクリスマス・コンサートの案内をいただきました。「本当のクリスマスをあなたに」というキャッチフレーズで、素晴らしい音楽ゲストが招かれているようです。表紙と中身はクリスマス一色なのですが、ふと裏面を見ると、元旦礼拝の案内があります。こちらは「初詣は教会で」といううたい文句で、なんとお雑煮も用意しているとのこと。お雑煮大好きで、「いやしい系」の私は、ヨソの教会の「初詣」に行きたい気もします。(笑)

クリスチャンになる前、友人にさそわれ、一度だけ成田山新勝寺に初詣に行った記憶があります。そこは何でも明治神宮、川崎大師とともに初詣者数のトップ3となっているようで、私が行った頃も、大勢の参拝者で賑わっていました。どうお参りしたかはまったく覚えていませんが、強烈な印象が残っているのは、おみくじでした。

おみくじなど引いたことがない私が、せっかく来たからと引いてみると、「凶」が出ます。新宿近辺から電車を乗り継いで来たほとんど初めての初詣で、「凶」はないだろうと思い、もう一度引くと、また「凶」が出ました。私には、「もう来なくて良い」という縁切りのメッセージのように思えました。

私の記憶が確かなら、その年、函館で洗礼を受けクリスチャンになり、牧師になる決心をしたように思います。妻と出会ったのも、同じ年。函館の教会堂2階に引っ越し、住み込みの「丁稚奉公」を始めたのは、その年の11月末。もう教会では、クリスマス準備が進められている頃でした。

クリスチャンになって以来、もう神社や仏閣に初詣に行くことはありません。クリスマスも元旦も、いつも教会でお祝いし、礼拝しています。結婚式も葬儀も教会で行い、恋愛、子宝、安産や入学祈願、病気平癒や「家内安全・商売繁盛」等についても、すべて創造主なる神様にお祈りします。このお方こそが私たちを愛し、いつくしみ、豊かに祝福しようと願われていること、そしてその力と権威がある(ご利益がある)ことを私たちは、知っているからです。

成田山のおみくじは、初詣で参拝される八百万の神々と諸仏からの絶縁状のようでした。しかし、それが一つのきっかけとなり、創造主なる神様、クリスマスの主人公である救い主イエス・キリストを信じるようになったことを感謝します。天地万物を創造された唯一の神様は、被造物である他のあらゆる神々の上に立つお方。クリスマスであろうと元旦であろうと、このお方に真摯な心で願掛けをする時、私たちは本当の祝福を手にすることができるのです。

「まことに、私は知る。主は大いなる方、私たちの主はすべての神々にまさっておられる。」(詩篇135:5、新改訳第3版)

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2007年7月11日 (水)

祖国

「クリスチャンになることは、『祖国』への背信行為にあたるのか」という疑問が長くありました。しかし、昨日のブログを書いていて、自分の「祖国」が日本だという根拠は、出生地と現国籍以外、はっきりとしていないことに気がつきました。

祖国とは、「先祖代々住んできた国」だそうです。では、私のように、先祖がどこに住んでいたのかよく分からない人は、どこが祖国になるのでしょうか。ただ漠然と、私の先祖は縄文・弥生時代以来、日本のどこかで暮らしてきたかのように考えてきましたが、そんな証拠はどこにも残っていません。

私の父は、サハリン生まれで、子どもの頃は満州や北京で暮らしました。母も、終戦までは、上海で生活しました。彼らのさらに先祖たちが、中国大陸で生まれたり、そこで人生の大半を過ごしたことが一切なかったと、言い切ることはできません。日本の大多数の人たちが、もし何代か前はどこで生活していたか分からないとしたら、「日本こそわが祖国」と考えるのは、ひょっとすると「共同幻想」なのかもしれませんね。

イエス・キリストを信じる人は、神の国(天国)に国籍が与えられます。つまり、天国が祖国となるのです。今、私は住民票は日本にありますが、本籍地は天国にある「天国人」となっています。でもきっと、役所に行って、本籍地が「天国」になりましたと主張しても、相手にしてくれないでしょうね(笑)。

神様が、幻想ではない「祖国」と、「天国人」としての明確なアイデンティティを与えて下さったことを感謝します。

「私たちの国籍は天にあります。」(ピリピ3:20、新改訳第3版)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年7月10日 (火)

先祖

「クリスチャンは、先祖を大切にしない」というイメージがあるようです。確かに、神社や仏壇に手を合わせることはなく、お墓参りもそれほど熱心でないかもしれません。しかし、振り返ってみると、私の育った家はもともとクリスチャンではなかったですが、仏壇もお墓もなく、初詣にも行きませんでした。日本人なら神道だとか、仏教だとか言われますが、私の家は「無宗教」だったのです。

私は、祖父は何をしていた人か知っていますが、曽祖父のことは何も知りません。札幌にある、父が建てた墓には、祖父と父の二人分の骨が納められているだけです。「○○家の墓」と書いてありますが、「先祖代々の墓」ではありません。だいたい、先祖がどんな人たちで、どこで何をしていたのか、まったく知らないのです。

「藤」のつく名字は、「藤原氏」と関わりがあるという話ですが、明治時代に適当に名字をつけた人たちが多かったため、本当にその血筋かと言うと、そうでもないようです。母はよく、父方の家系について、「どこの馬の骨か分からない」と口走っていました(笑)。

クリスチャンになった時、もう日本人でなくなってしまったかのような感覚を持ちましたが、よく考えれば、もともと私の家には、日本的な伝統など、ほとんどなかったのです(苦笑)。先祖もどこの国の人か(馬か?)、はっきりしません。でも、ひょっとすると、日本の多くの人々は、何代もさかのぼれば、似たところがあるかもしれません。日本人は、そもそもどこから来たのか、よく分からない民族ですね。

イエス・キリストを信じる人は、神の家族とされます。それは、アブラハムを共通の祖先とし、世界中に広がる一大ファミリーの中に、養子として迎えられるという意味です。その新しい家族には、素晴らしい生き方をした先祖たちがたくさんいたことが、聖書の中に記されています。私は、この家族の一員とされたことをたいへん誇りに思い、感謝しています。

新しい家族の養子となったことは、古い家族をないがしろにすることではありません。仏壇やお墓、あるいは神社で合掌しなくても、祖父や父たちの記憶は、心の中にしっかりと刻み込まれています。日本史に登場するヒーローたちの生き様も、決して忘れはしません。しかし、同時に、新しい家族の偉大な家系図の中に、私の名前が記されるようになったことは、身に余る光栄と感じているのです。

私たちがどのように生きたらよいのか、模範となる先祖たちが与えられたことを感謝します。

「もしあなたがたがキリストのものであれば、それによってアブラハムの子孫であり、約束による相続人なのです。」(ガラテヤ3:29、新改訳第3版)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年7月 5日 (木)

公理

廣松渉氏の講義をきっかけに、自らの科学観がひっくり返ってしまった私は、ある日、大学生協書籍部に、「西欧近代科学――その自然観の歴史と構造」と題する書籍を発見します。著者は村上陽一郎というクリスチャンの先生でした。

この先生の講義を聞いてみたいと願いましたが、残念ながら他の必修科目と重なっていて、登録することができません。そこで、休講か何かの時だけ、一度か二度、聴講させていただくことにしました。

廣松氏の授業も大教室でしたが、理系向けのクラスです。今はどうか知りませんが、当時、私の大学の理系学生は、ほとんど男ばかりでした。ところが、文系向けの村上氏の授業にもぐり込むと、大きな階段教室に、女の子たちが大勢座っています。わが大学に、こんなに女子学生がいたのかと、私は目を疑いました。(これも「パラダイム・シフト」? 笑)

私が聴講した時は、ケプラーの話をされたように思います。ヨハンネス・ケプラーは、惑星の運動理論を定式化し、コペルニクスの提唱した地動説の優位を決定的にするという功績を残しました。しかし、彼がその運動法則を発見するプロセスは、一般的に「科学的方法」と理解されているような、無心にデータを収集してそこから一般原理を導き出すという、純粋な帰納法ではなかったとのこと。神様が創造された宇宙の秩序は、数学的に調和しているはずだという「信仰」から導かれた、演繹的推論だったと言うのです。

「人は、自分の見たいものを見る」と言われます。ある出来事に遭遇した時、人は、自らの人生観、世界観(worldview)の基本的な枠組みに基づいて、感知すべき情報を取捨選択し、自分が重要と考えた情報だけを受け取って、「事実」として理解する傾向があります。この基本的な枠組みが、「パラダイム(paradigm)」と呼ばれたりもします。

このパラダイムは、多くの場合、検証されることはありません。それは、数学や論理学において「公理(axiom)」と呼ばれるようなもので、すべての議論の土台となる前提で、「証明する必要のない、自明な法則」なのです。つまり、どんな科学的推論も、検証されることのない「自ら明らかな法則」が前提となっていると言えます。ある人たちは、「唯一神による天地創造」をその前提とし、ある人たちは、「偶然による進化」を前提としているわけで、どちらも同じく「信仰」と呼ぶことができます。

村上陽一郎氏は、古畑任三郎のモデルとも言われているそうです。真偽のほどは分かりませんが、大教室の演壇にさっそうと登場し、多くの若い女性たちを前に、人々をあっと驚かせる新たな学説を説得力をもって語る姿は、とにかく格好良かったです(笑)。映画「インディ・ジョーンズ」の何作目か忘れましたが、ジョーンズ博士が大学で考古学を教える姿に、女子学生たちがうっとりするという場面が確かありました(マニアック? 笑)。そのシーンを連想させるほど、ダンディな方でした。

その授業の聴講から、私がクリスチャンになるまで、何年かかかりました。しかし、今でも思い出すくらいですから、かなりインパクトがあったのでしょうね。「一般啓示」を解明する自然科学の話から、「特別啓示」として聖書に記される「公理」へと、神様が次第に導いて下さったことを感謝します。

「初めに、神が天と地を創造した。」(創世記1:1、新改訳第3版)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年7月 4日 (水)

真理

科学について、いろいろと考えさせられるようになったのは、クリスチャンになる前、大学1年の頃からです。きっかけになったのは、教養の哲学の授業で、先生は廣松渉(ひろまつわたる)という方でした。今はどうされているのだろうかと、検索してみると、私が渡米中の1994年に亡くなられているようです。

先日、亡くなられたZARDの坂井泉水さんのヒット曲「負けないで」も、あまり聴いたことがないなと思っていたら、留学中の1993年のミリオンセラーだったとのこと。この頃、日本で起きたことは、すっぽり抜け落ちているのかと、あらためて感じました。

廣松渉氏は、もともとマルクス主義系の哲学者だったようですが、大学に入りたての私は、そんなことは何も知らず、「資本論」にも「民青」にもまったく関心がありませんでした。私が強いインパクトを受けたのは、理科系の学生向けに「教養」の一つとして教えられた、同氏の科学哲学の講義だったのです。

「20世紀の物理学を代表する相対性理論と量子力学は、哲学的に大きな問題を提起した。それは、観測者の『主観』から切り離された『客観的事実』は、もはや存在しないということだ」と廣松氏は語ったように思います。以前書いたように、パラダイム・シフトと「科学革命」の話もされました。(http://lifestream.cocolog-nifty.com/blog/2006/09/post_084d.html

「科学的真理」とは、実はいつでも反証可能な仮説に過ぎないことを知った私は、それでは「絶対的真理」は、どこにも存在しないのだろうかと探し求めるようになりました。

東京郊外にある素粒子研究施設に足を運び、研究者の方から、最先端の物理学研究のお話を伺ったこともあります。その方は、大きな加速器を見学させて下さり、クォークだとかニュートリノだとかの解説をされた後、「最後は仏教思想だ」と言われたように記憶しています。

私は、仏教の経典ではなく、聖書の中に「絶対的真理」を見出しました。真理とは何かを、神様が教えて下さっていることを感謝します。

「神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます。」(Iテモテ2:4、新改訳第3版)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年5月25日 (金)

中学の恩師

今晩は、東京で、札幌の中学校の同期会が開かれるようです。20人くらい参加しそうだと聞きましたが、残念ながら私は、出席することができません。どうも、昨日のブログの「楽しげなクラス」の人たちが、中心になっているようです。30年経った今でも、楽しそうですね。

私にとって中学3年間は、「激動」の期間でした。父の転勤で、住み慣れた札幌を離れ、千葉県の中学校に入学。1年と1学期をそこで過ごし、2年の2学期から、また札幌に戻ります。3年間を通して、4人の担任が受け持つ、4つのクラスに所属しました。

中1のクラスは、荒れていました。全体がバラバラで、まとまりがなく、大学を出て間もない女性の担任は、反抗期に入った子どもたちに手を焼いていました。確か、英語が専門でしたね。私は、生徒会書記に選ばれたことを口実に、クラスのことはノータッチで、「まとめ役になってほしい」と言う先生の要望には、まったく応えようとしませんでした。すべてが新しい環境で、小学校からの友人が一人もいない、という理由もありました。

中2の1学期のクラスは、美術を教えるベテランの男性教師が担任でした。この先生は、後から聞くと、良い先生だったらしいですが、私がいた3ヶ月間は、まだその本領を発揮されていないようでした。私は、「冤罪」でビンタされたことがあり、あまりいい思い出がありません(苦笑)。

中2の2学期から、転校生として札幌に戻りました。千葉にいた1年余り、荒れた中学校でもまれたせいか、私自身がすっかり変わっていました。誰に対しても身構えるようになり、他の人から見ると、雰囲気が恐かったそうです。担任は、数学が専門の男の先生でしたが、まとまりも、やる気もないクラスで、私以外に(笑)、「問題児」と言われた生徒もいました。千葉の中学から比べると、たいへん平和な学校で、「問題児」も、私にとっては心根の優しいクラスメートでしたが…。

中3になる時、クラスは持ち上がりだったのですが、担任だけが変わりました。新たな担任のT先生は、恐るべきスーパーウーマンで、クラス全体がメンバーチェンジしたかのように「変容」しました。何人かのリーダーを育て、彼らを中心に全体が一つとなり、目標にチャレンジするクラスに生まれ変わったのです。「問題のクラス」を、短期間で「優良クラス」に変身させてしまう手腕を持つスーパー教師は、このT先生しか見たことがありません。

国語が専門で、「本を読みなさい」と、よく言われました。ノートの作り方、文章読解の方法なども、しっかりと叩き込まれました。ケンカを仲裁し、リーダーの一人であった私のやり方にも、時々チェックが入りました。「問題児」を含め、クラス全員が現役高校入学を果たした時は、たいへん嬉しそうでした。いま思えば、T先生との出会いは、神様が用意して下さった特別な「邂逅」だったようです。

昨年、札幌で同期会があった時は、小樽から一人で車を運転して来られました。まだまだお元気で、パワフルですね。私は、教員免許を取っても、教師にはなりませんでした。もし教師になったとしても、T先生のレベルには、決して到達しなかったかもしれませんね。

「弟子はその師にまさらず、しもべはその主人にまさりません。弟子がその師のようになれたら十分だし、しもべがその主人のようになれたら十分です。」(マタイ10:24-25、新改訳第3版)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

より以前の記事一覧