創造論

2008年6月13日 (金)

科学者たち

先日、ある大学の教授をしている友人を久しぶりに訪問しました。キャンパス近くのイタリアン・レストランで昼食をご馳走になり、歓談の時を持ちましたが、何でも最近、村上陽一郎氏の講演を聴いたとのこと。同氏の著書、「科学史からキリスト教をみる」について私が話すと、その本の内容についても、村上氏は講演で語ったそうです。

(「科学史からキリスト教をみる」については、こちら→ http://lifestream.cocolog-nifty.com/blog/2008/03/post_51ee.html

啓蒙主義以降、多くの科学者たちは、神抜きの知識体系を構築しようとしてきました。しかし、それでは「科学的に」説明がつかない現象があることも確かです。科学が万能であるかのような現代にあっても、クリスチャンの科学者たちは、すべてが全知全能の神によって創造されたことを信じています。そして、創造論的な立場から科学的研究を進め、その仮説の是非を世に問う人たちも出て来ています。

米国ペンシルバニア州リーハイ大学で生化学を教えるマイケル・ビーヒー(Michael J. Behe)博士は、「ダーウィンのブラックボックス(Darwin's Black Box)」という著作で、進化論では説明不可能な「最低限の複雑さ(irreducible complexity)」について語っています。(この本の日本語訳は、古本ならアマゾンのマーケットプレイスで手に入るようですが、9,000円近くの値段がついています。苦笑)

最近の研究で明らかになってきたのは、ダーウィンが「見る」ことのなかったミクロの世界でさえ、突然変異ではまったく説明がつかない整然とした秩序があるとのこと。ビーヒー博士は、この「奇跡的」な秩序は偶然の産物ではあり得ず、「知的な存在」が設計したものとしか考えられないという説を展開します。いわゆる「インテリジェント・デザイン(Intelligent Design; 知的設計)」論です。

天文学者のヒュー・ロス(Hugh Ross)博士は、「宇宙の起源(The Creator and the Cosmos)」という本の中で、世界の主要な宗教の聖典を調べた経験について記しています。同博士はその調査の結果、聖書の天地創造の記述が、最新の科学的な宇宙研究、特にビッグバン理論とまさに合致していることを発見したのです。

「宇宙は、生命が誕生するためのさまざまな条件を、奇跡的に『ちょうど良い』ように備えている。数え切れないほどの諸条件がみごとに調和する、宇宙の奇跡的な秩序を目のあたりにすれば、創造主なる神が存在することは明らかである」というのが、ロス博士の主張です。(「宇宙の起源」日本語版は、こちらで購入できるようです。→ http://www.konkyo.org/

ひたむきに研究を進める科学者たちの中にも、創造主なる神様の秩序と愛を告げ知らせる「証し人」たちがいます。聖霊なる神様は、彼らの声を通しても、人々に真理とは何かを語りかけられています。私たちは、神様の素晴らしい栄光のわざを喜び、いつも感謝をもって生きていきたいですね。

「神はお造りになったすべてのものを見られた。見よ。それは非常に良かった。」(創世記1:31、新改訳第3版)

P.S. こちらのDVD「生命の謎に迫る」-岐路に立った進化論-もオススメです。→ http://www.ffj.gr.jp/new/video.htm

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2007年12月11日 (火)

アメリカ人と進化論

「アメリカでは、ダーウィンの進化論より悪魔の存在を信じる人の方が多い」と、最近のロイター通信が伝えています。(http://www.excite.co.jp/News/odd/00081196394217.htmlhttp://uk.reuters.com/article/lifestyleMolt/idUKN2922875820071129?sp=true

成人2455人を対象としたアンケート調査によると、82%が神の存在を信じ、79%が奇跡を信じ、75%が天国を信じ、72%がイエスを神または神の子と信じているとのこと。62%が地獄や悪魔の存在を信じているのに対し、ダーウィンの進化論を信じる人は、42%だそうです。進化論をテーマにしたテレビ番組は、日本ほどウケないかもしれませんね。

クリスチャンとして米国に何年か住んだ人なら、この結果は、それほど「予想外」ではありません。面白いのは、メディアの取り上げ方で、日本語の「エキサイトニュース」では、「世界びっくりニュース」のカテゴリーに入っています。イギリスのロイター通信社記者も、この数字は、他の先進国には見られないアメリカ人の宗教性をあらわしていると記しています。

ヨーロッパ人には不可解な米国の政治的論争についても、この数字を見ると理解することができると、ロイターの記者は続けます。それは、進化論とともに、創造論や「知的デザイン理論(Intelligent Design theory)」を学校で教えるべきかどうかの議論です。進化論の支持率が半数以下なら、別な考え方も教えるべきだとする主張する人も多いはずですね。ヨーロッパでは、創造論者はアメリカほど多くないようですが、増加しているという指摘もあります。(http://uk.reuters.com/article/scienceNews/idUKL0417855220071004?sp=true

人生がすべて偶然に支配され、誕生にも死にも何の意味もなく、ただ生存競争を勝ち抜くだけのものだとしたら、実につまらないですね。「人生ゲーム」に失敗し、「負け組」の烙印を押された人は、たとえ自殺したとしても、自然淘汰の法則だと冷たくあしらわれるだけです。そのような考え方が支配的な社会は、たとえ物質的に充足していたとしても、愛も希望もありません。

進化論は、ただの科学的仮説ではありません。それは、多くの人々の生き方を左右し、現代社会のあり方を規定するパラダイムとなっています。進化論を支持しないアメリカ人たちは、そのことをよく知っています。信仰の自由を求めて新大陸に移住した、ピルグリム・ファーザーズの古き良き伝統を受け継いでいるのでしょう。海の向こうの「びっくりニュース」として受け取る日本人は、今後はたして、創造論の意義を理解していくことができるのでしょうか。

創造主なる神様を信じ、人生の意味と目的を知り、将来に希望を見出す人が、この日本にも増えていってほしいと願っています。

「神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。」(創世記1:27、新改訳第3版)

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2007年7月 6日 (金)

歴史観

時折、新聞国際面の小さな記事の中に、米国公教育の場における進化論と創造論の議論が紹介されています。キリスト教系の私立学校では、おそらく何の問題もなく、聖書と創造論を教えているのでしょうが、公立学校は日本と同じで、進化論が主流なのでしょう。

創造論を支持する人は、公教育の場で進化論を教えるなら、創造論についても、その代替理論として紹介すべきだと主張するようです。しかし、進化論支持者は、創造論は宗教だから、公教育の場から排除すべきだと言って、譲りません。記事を書く記者は、ほとんどクリスチャンではなさそうなので、たいてい創造論について否定的です。科学の発達した現代でもなお、このような時代錯誤の考えに固執する奇妙な人たちがいる、といった論調ですね。

もし、進化論が科学理論であるなら、それは仮説に過ぎません。仮説は、いつでも反証可能で、より優れた(説得力のある)理論によって、くつがえされることにより、科学は発展していくはずです。天動説が地動説になったり、ニュートン力学が相対性理論や量子力学によって、位置付けがまったく「転換」したのと同じです。ですから、主流となっている理論に対する反対意見は、本来は歓迎されてしかるべきだと思います。

ところが、進化論に対する反対意見は、あまり歓迎されず、創造論との対話は、いつも感情的な議論の平行線に終わってしまうように見受けられます。それは、実は進化論も創造論も、理性的議論によって反証可能な科学的仮説ではなく、人類および宇宙全体の起源と将来に関する歴史観だからではないかと、私は考えています。

歴史観というのは、人々が「事実」をどのように解釈し、人生の意味をどう理解し、いかに生きていくべきかを考えるための基本的な枠組みです。昨日のブログの言葉を使えば、世界観であり、パラダイムであり、公理です。自分が何者かという、「アイデンティティ(identity)」を支える基盤でもあります。

創造主の存在を認めない(世俗主義的な)進化論では、すべてが偶然に発生し、偶然に突然変異を起こし、適者生存の原則に従って、優れたものが勝ち残っていくという歴史観になるのでしょう。人類の起源に何の意味もなく、格差が出来ても当然で、将来の行方は偶然に支配されており、不明です。

未来の世界では、サルが人類を支配するのか、ロボットと人類が全面戦争するのか、異星人が攻めて来るのか、フォースをあやつる「騎士」たちが登場するのか、はたまたミュータントが活躍するのか、映画の題材には事欠きませんね(笑)。

これに対して、創造論では、時間と物的世界を超越した知的存在が宇宙と人類を設計(デザイン)し、組み立て、その進む方向を導き、将来についてもすでに周到な計画が用意されていると考えます。イエス・キリストによる人類の救いという、大きなテーマに貫かれているため、「救済史観」とも呼ばれます。人はすべて創造主なる神様に愛されている存在として造られ、大切に養われ、救い主によってもたらされる栄光の未来が約束されています。

唯物史観が魅力を失い、バラ色の進歩史観が色あせてきた今、日本では戦後史観の見直しとともに、皇国史観がまた頭をもたげてきているように感じます。「過ちは繰り返しませんから」という言葉を重く受け止め、何が正しい歴史観なのか、よく考えていきたいですね。

「なぜなら、万物は御子(キリスト)にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。」(コロサイ1:16、新改訳第3版)

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2007年7月 3日 (火)

信じる理由

昨日のブログで、「幸せに暮らすことができる場所を用意し、元気に生きていくための食べ物を与える」というのは、難しい言葉で、「一般啓示」と言います。これに対して、「直接語りかける」というのは、「特別啓示」と呼ばれます。創造主なる神様は、さまざまな方法で、私たちにその愛を伝えて(啓示して)下さっています。

最近、ヒュー・ロスというクリスチャンの天文学者が日本を訪れました。この方はPh.D.(哲学博士号)をもつ科学者ですが、聖書を信じるクリスチャンとして、宇宙全体が創造主なる神様によって造られたと信じています。ビッグバン理論は、宇宙を超越した神の存在を指し示す説得力ある証拠であり、それは旧約聖書・創世記1章の記述と全く一致する、という立場です。

日本では、青山学院大学や東京大学などで講演したようで、私も行ってみたかったのですが、残念ながらスケジュールの都合がつきませんでした。ロス博士は、「Reasons To Believe(信仰の根拠)」という団体の創設者で、イエス・キリストを信じることには、大きな科学的な理由がいくつもあることを、一般の人々に紹介しているとのことです。(詳しくは、こちら→ http://www.reasons.org/、またはhttp://www.konkyo.org/

科学は、クリスチャンたちの手によって始められました。一般には、信仰と科学は、互いに相容れないものとして対比されることが多いですが、実は、コペルニクスもガリレオもニュートンも皆、クリスチャンでした。彼らは、創造主なる神様こそが秩序ある自然界を造られたと信じており、彼らにとって科学は、神様の「一般啓示」を解明する手段だったのです。

神様が定められた「自然法則」の精緻さを発見した初期の科学者たちは、天地創造の偉大さにあらためて思いを馳せ、神様の素晴らしさをほめたたえたことでしょう。私たちも、自然界の中にも神様の愛を見出し、感謝をもって生きていきたいですね。

「天は神の栄光を語り告げ、大空は御手のわざを告げ知らせる。」(詩篇19:1、新改訳第3版)

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2006年12月26日 (火)

今年の漢字・「命」

年末になると、毎年恒例のように、「今年の漢字」が発表されます。いつも清水寺で、お坊さんが、みごとな筆さばきで大きな字を書き上げるので、お寺でやっている行事かと思いきや、財団法人・日本漢字能力検定教会が、その年をイメージする漢字一字を、一般公募した結果だそうです。

今年の漢字は、「命」だとのこと。悠仁親王のご誕生、自殺、虐待、交通事故死、竜巻、そして臓器移植や北朝鮮の核問題など、「2006年は、『命』に笑い、『命』に泣き、『命』に不安を覚えた年」であり、また「ひとつしかない命の重み、大切さを痛感した年」だったと、同協会が総括しています。

いのちは、確かに、たった一つしかありません。宝石でいうなら、こんなに大きな希少価値をもった「石」は、ないでしょう。世界中に、たった一つしかないのです。しかも、一つなくしたから、別な命に代える、というわけにもいきません。一人ひとりが、本当に大切な存在として、神様に「オーダーメイド」されているのです。

人間が、ただ偶然に、アメーバから進化してきただけの存在なら、一人ひとりの人生には、ほとんど価値も意味も目的も、見出せないでしょう。弱肉強食の生存競争で、強い者だけが生き残り、種が保存されさえすれば良いわけです。格差社会の「負け組」になり、「再チャレンジ」もできない者は、ただ静かに滅んでいくしかないのでしょうか。

しかし、実は、一人ひとりの命は、神様が永遠の愛をもって愛して下さっている、かけがえのないものであり、キリストが十字架上で身代わりとなったほどの、大きな価値があるのです。私たちの命は、それ自体、神様の喜びであり、人生は、天国に行くための選択期間です。また私たちには、自らの命を活かし、他の人を愛するという人生の使命があります。神様に与えられている自分の命、そして周りの人々の命を、大切にして生きていきたいですね。

「…あなたが私の内臓を造り、母の胎のうちで私を組み立てられたからです。」(詩篇139:13、新改訳第3版)

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2006年8月28日 (月)

とうきび狩り

きのうは、教会でとうきび(とうもろこし)狩りに行きました。教会員の中に農家の方がいて、毎年、収穫の終わった畑で自由に取らせて下さいます。収穫が終わったといっても、ただ規格に合わなかったというだけで、ごく普通の、というより、スーパーで売っているものとは比べものにならないほど、美味しいとうきびです。

うちの家族だけで、150本くらい取り、近所の方々や、お世話になっている人たちに配ってきました。残った分は、ゆでた後に実をとったり、コーンスープ用にすりおろしたりして、冷凍しておきます。この作業が、結構たいへんなのですが、何と言っても美味しさには代えられません。今年のとうきびは特に甘く、果物を食べているようです。

農業をしていると、特に神様の恵みを感じるそうです。みごとに調和した生態系の中、日の光がエネルギーを与え、雨が水を与え、そして土から必要な栄養分を吸収し、農作物は育ちます。そのバランスが少しでも崩れると、実は豊かに実らないのです。この調和は、偶然に生まれたものでしょうか。すべてのいのちは、ただ意味もなく、偶然に存在しているのでしょうか。

聖書には、すべては神様(主)の永遠の計画の下に創られ、保たれていると、記されています。

「主は家畜のために草を、また、人に役立つ植物を生えさせられます。人が地から食物を得るために。」(詩篇104:14、新改訳第3版)

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