歴史

2012年10月27日 (土)

キリスト維新

 「維新」という言葉は、もともと中国の古典「詩経」に出てくるそうです。「周雖旧邦 其命維新(周は旧邦なりといえども、その命これ新たなり)」という一節から引用されたとのこと。「周という国は古くからある国だけれども、新たな天命を受けている」という意味になるようです。「天命」とは天の命令であり、この場合は天下を治める権威ということでしょうね。古代中国には、天帝(上帝)からの命を受けた者(天子)が国を統治するという考え方がありました。「維新」とは、天命が同じ王朝に改めて与えられること。これに対し「革命」とは、天命が革(あらた)まり、別な王朝に移ることを言うそうです。

 明治維新の土台となった考え方は、尊皇思想でした。徳川幕府は西洋列強の圧力に屈し、鎖国から開国へと大きく政策転換を図りましたが、これが攘夷論の高まりをもたらし、さらには倒幕運動へとつながります。徳川幕府の正当性の根拠は、天皇から任命された「征夷大将軍」という役職でした。それは、武士の棟梁としての役職であり、鎌倉幕府以降の「サムライの時代」には、事実上の最高権力者の称号でした。しかし、つきつめてみれば天皇から授けられた役職にすぎません。理論上は、天皇が征夷大将軍の上に位置しています。このことに気づき、天皇を第一とした新たな国づくりをすべきと考えた人たちが、徳川幕府を倒そうとしたのです。それは「革命」ではなく、王政復古であり、「維新」でした。

 明治維新体制の下、定められた憲法は当然、天皇主権という考え方でした。古くから日本を治める天皇が、引き続き天子としてこの国を統治するという思想です。これに対して、第2次世界大戦後に定められた新憲法は、国民に主権があるという考え方に基づいています。これは、古代中国式に考えれば「天命」が天皇から国民に移ったということになり、「革命」にあたるのでしょうか。王政復古(Restoration)を主張し、国民が持つ主権をまた天皇に戻すなどと言う人がもしいたとしたら、それは「維新」というより今度は「革命」になるのでしょうね。

 聖書的な考え方から言うと、すべては天地創造の神が治めています。一時的に別な勢力が権勢をふるうように見えたとしても、それはあくまでも神が許された範囲内のことであって、時が来たらそれらの勢力は追い払われるか滅ぼされます。イエス・キリストは天帝であると同時に天命を受けた天子であり、天地創造の神の権威をすべての国の人々に知らしめるために、この世に来られました。キリストがもたらしたのは「革命」ではなく、「維新」でした。天帝も天子も、永遠に変わらないからです。キリストは、私たちの人生の主権が実は私たちのものではなく、天地創造の神にあることを再認識する運動を推し進められたのです。

 私たちは、それぞれが自分の人生の主権者であるように考え、自分の考えや生活を第一とするような生き方をしていたかもしれません。しかし第一とすべきは、本当の主権者である天地創造の神様です。イエス・キリストが推進された維新の呼びかけに応答し、その運動に一身を献げる志士として生きて行きたいですね。(ま、「志士」と言うには、少し年を取り過ぎたようにも思いますが・・・苦笑)

「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。」(マルコ福音書1章15節、新改訳)

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2008年6月 6日 (金)

ペンテコステ・聖霊運動

1901年1月1日、米国カンザス州トピーカにあった小さな聖書学校で一人の若い女性が、特別な体験をしました。メソジストの牧師でホーリネス運動とも関わりのあったチャールズ・フォックス・パーハムが手をおいて祈ると、アグネス・オズマンというその女性に神の御霊(みたま)、聖霊が注がれ、彼女は天から奇跡的に与えられた言葉、「異言」を語り出したのです。

この小さな出来事が、新世紀を迎えたキリスト教界をゆるがし、教会史上最大のリバイバル運動、世界宣教運動へとつながるとは、当時、誰も予想できなかったでしょう。一握りの人々から始まった「ペンテコステ・聖霊運動」は、100年の歴史を経た現在、世界のプロテスタント教会における最大勢力となっているそうです。

その特別な「聖霊体験」で画期的だったのは、もちろん、異言が与えられたことでした。メソジスト運動の流れをくむ人々は、ジョン・ウェスレーが語った「聖霊体験」を真摯に求め、19世紀にホーリネス運動を開始していました。その体験は「聖霊のバプテスマ」と呼ばれるようになり、その不思議な体験とともに、使徒時代以降見られなくなった超自然的な力の回復を祈り求める人たちが次第に現れて来たのです。

トピーカの出来事は、「聖霊のバプテスマ」とともに、今まで話したこともない言語を突然話すようになったことが特徴的でした。それは異言だけにとどまらず、預言や奇跡的ないやし、悪霊追い出しなどの超自然的な力が聖書時代と同様、再び与えられるようになるという意味があったのです。聖書は、一部の知識人たちが主張するような「神話」では決してなく、そこに記されている奇跡的な出来事はそのまま事実であり、現代にも同じことが起こりうるのだと信じる新たな運動が始まりました。

この運動は、以前記したように、ウィリアム・セイモア(シーモア)によってロサンゼルスのアズサ・ストリートにおけるリバイバルを生み出し、それが後のカリスマ運動、第三の波運動へと続きます。(聖霊運動の三つの波については、こちら→ http://lifestream.cocolog-nifty.com/blog/2008/02/post_73d3.html

ペンテコステ・聖霊運動に詳しい歴史家、ヴィンセント・サイナン博士は、この運動の特色として次の5つを挙げています。(1)超自然的な力(「聖霊の賜物」)の回復、(2)人種間の和解、(3)女性の活躍、(4)新しい音楽、(5)世界宣教。

聖霊により超自然的な力が注がれるのは、人種も性別も(そして学歴や牧師資格を持っているかどうかも)関係ありませんでした。パーハムは白人、セイモアは黒人、そしていやしの伝道者であった私たちの教団の創始者エイミー・センプル・マクファーソンは女性です。聖霊によって与えられる喜びによって、新たな音楽が生まれ、そして人々は世界中にその喜びの福音(良い知らせ)を伝えに行きました。

ペンテコステ・聖霊運動に連なるクリスチャンは、20世紀の全世界で急速に増加し、世界の「キリスト教地図」を塗り替えました。南北アメリカはもちろん、アフリカ、ヨーロッパ、そしてアジア各地で、この運動が拡大しています。日本は、こうした部分でも世界的な動きにずいぶん乗り遅れてしまったかもしれません。

日本でも神様が定められた時に、聖霊による力強いリバイバル運動が開始されることを期待して、祈り続けていきたいですね。

「イエスは言われた。『…聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。』」(使徒1:7、新改訳第3版)

P.S. 今日のブログ記事は、ヴィンセント・サイナン博士が編さんした「聖霊の世紀(The Century of the Holy Spirit)」および同博士による講演を参考にしています。

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2008年6月 5日 (木)

リバイバル運動

キリスト教と関わりの少ない多くの日本人にとって、「リバイバル(信仰復興)運動」ほど、分かりにくい社会現象はないかもしれません。それは、生き生きとした信仰を失っていた教会において、人々が神様への思いを新たにし、活性化され、使徒たちの時代と同じような躍動的な姿へと再生する動きのことを言います。

リバイバル運動は通常、一つの教会や教団・教派の枠を超え、地域や国全体に影響を及ぼします。その運動を通し、大勢の人々が新たにイエス・キリストを信じたり、あるいはその信仰が回復し、深められる体験をします。最近ではリバイバル運動の結果、一国の政治・経済ばかりか自然環境まで奇跡的に改善される例が報告されており、それは特に「トランスフォーメーション(社会変革)」と呼ばれています。

アメリカのキリスト教会の一つの特徴は、このリバイバル運動が何度も繰り返し起こったことでした。新大陸に移住した人々は、すべての人が必ずしも熱心な信仰生活を続けたわけではありません。開拓地には無法地帯や戦争もあり、信仰が冷めてしまったり、道徳的に退廃する状況もありました。そのような傾向に歯止めをかけ、人々の心を新たに創造主なる神様へと向けたのが、信仰復興の動きだったのです。

最初の大きなリバイバル運動は、1730~40年代に起こった「(第一次)大覚醒(The Great Awakening)」です。改革派や長老派の教会で始まった信仰復興運動は、ジョナサン・エドワーズの力強い働きを通し、会衆派のニューイングランド全体に広がりました。さらに、イギリスから渡米したメソジストの伝道者ジョージ・ホィットフィールドは、新大陸の植民地各地に信仰復興をもたらしました。

第二次大覚醒は、1800~30年代に起こります。この時から野外の天幕集会(キャンプ・ミーティング)が始まり、チャールズ・フィニーらの活躍により、多くの回心者が生まれました。刑務所改革や禁酒、女性参政権、奴隷制撤廃への動きも、このリバイバル運動が発端だそうです。この運動を通し、メソジスト教会とバプテスト教会が大きく成長し、また聖霊の満たしときよめを求めるホーリネス運動も始まりました。

1850年以降には、ドワイト・ライマン・ムーディーらを中心とする第三次大覚醒が起こり、その後も米国各地において数々のリバイバル運動が発生しています。米国から世界各地に宣教師が派遣されるようになったのも、これらのリバイバル運動の結果と言ってよいでしょう。大統領選の度に動向が注目される「福音派」も、こうした信仰復興運動の流れをくむ教会です。

私たちは、イエス・キリストによって新しい生き方をする者とされています。創造主なる神様により、心の中に新しいいのちが注ぎ込まれ、喜びに満ち、生き生きとした新たな人生を歩んでいきたいですね。

「その教えとは、あなたがたの以前の生活について言うならば、人を欺く情欲によって滅びて行く古い人を脱ぎ捨てるべきこと、またあなたがたが心の霊において新しくされ、真理に基づく義と聖をもって神にかたどり造り出された、新しい人を身に着るべきことでした。」(エペソ4:22-24、新改訳第3版)

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2008年6月 4日 (水)

使徒ウェスレーとメソジスト運動

私たちの教会では、「愛(i)の流れ」を重視しています。神様の愛の「おしえ(instruction)」が心の中に流れ込み、神様と直接、「おはなし(intimacy)」をすることにより、一人ひとりが無限の愛によって「満たし(infilling)」を受け、それが周りの人々への愛の「おこない(impact)」となって流れ出すという考え方です。

メソジスト運動の創始者であるジョン・ウェスレーも、神様の愛が心に流れ込み、その愛に満たされることによって、産業革命期の混乱・退廃したイギリス社会に一大変革をもたらし、また開拓時代のアメリカにおけるリバイバル(信仰復興)運動の基礎を築きました。

今日の多くの福音派教会も聖霊派(ペンテコステ・カリスマ派)教会も、ウェスレーの偉大な霊的遺産を相続した子どもたちであるかのようです。彼は「英国の使徒」と呼ばれたようですが、世界中に広がる「福音主義教会の使徒」、あるいは「リバイバル運動の使徒」と呼んでも、おそらく過言ではないでしょう。

英国国教会の牧師の15番目の子として生まれたジョン・ウェスレーは、自らも牧師の道を選びます。弟のチャールズたちとともに「ホーリー・クラブ(Holy Club)」というグループを作り、規則正しい信仰生活を目指し、日々の聖書研究、祈り、断食、病人や囚人への訪問、貧民家庭での奉仕などを実践しました。周囲から半分馬鹿にされ、つけられた「Methodists(きちょうめん屋)」というあだ名が、彼らのその後の運動の名称となりました。

敬虔主義運動との出会いは、ウェスレーに一大転機をもたらします。彼は米国ジョージア植民地に赴任した際、船で一緒になったモラヴィア兄弟団の姿に感銘を受けます。彼らは嵐の中、死が迫っているように見える時にも決して動揺せず、静かに祈り、賛美していたのでした。ウェスレーは、モラヴィア兄弟団にある救いの確信が、自分にはないことを悟りました。

帰国後の1738年5月24日、ウェスレーは、ロンドンのアルダスゲイト街で行われたモラヴィア派の集会で不思議な体験をします。ルターが書いた「ローマ人への手紙講解」序文を司会者が読んでいると、心が温まるような感覚があり、その瞬間、キリストが自分を罪から救って下さった確信が与えられたのです。

1739年1月1日には、同じくロンドンのフェッター小路で、朝の3時に祈っていた人々が特別な「聖霊体験」をしました。ウェスレーの日誌は、こう記しています。「神の力が強く私たちに臨んだため、多くの者は非常な喜びをもって叫び、また多くの者が地に倒れた。神の威厳ある臨在に対する恐れと驚きから少し我に帰ると、私たちはすぐに一つの声で叫び出した。『神様、あなたを賛美します。あなたが主であることを認めます。』」

ジョン・ウェスレーは、その後、精力的な宣教活動により英国労働者の生活を一変させます。馬に乗って総計36万キロ余りを走破、4万回以上の説教をし、50冊以上の本を書いたそうです。弟のチャールズは、6,000以上の賛美歌を書き、その一部は今でも世界中で歌われています。

ウェスレーらの運動は、やがて英国上層階級にまで影響を与えました。イギリスにフランスのような暴動や血の革命が起きず、産業革命後の世界に「イギリスによる平和(パックス・ブリタニカ)」が築かれたのは、ウェスレー兄弟たちの働きが一端を担っていたとも言われているそうです。

メソジスト運動は、英国国教会内のリバイバル運動でしたが、ジョン・ウェスレーの死後、国教会から分離・独立します。19世紀のアメリカにおいては最大教派となり、日本にも宣教師が派遣されました。学校設立にも熱心で、青山学院、関西学院、遺愛学院、弘前学院、長崎の活水学院、そして福岡女学院などが生み出されています。

ジョン・ウェスレーとメソジスト運動は、「愛の流れ」により、創造主なる神様の愛を世界中の人々に伝えました。私たちも同じように、神様の愛を知り、その愛によって満たされ、愛を伝える者となっていきたいですね。それは「生ける水の川」の流れ、つまり、イエス・キリストを信じる者の心の奥底に宿って下さる聖霊なる神様の働きです。

「…イエスは立って、大声で言われた。『だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。』」(ヨハネ7:37-38、新改訳第3版)

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2008年6月 3日 (火)

敬虔主義運動

昨日引用したヨハネ17章のイエスの祈りは、キリスト教会が「一つであること」を願い求めています。キリスト教2000年の歴史においてクリスチャンたちは、師であるキリストの願い通りには、必ずしも歩んで来なかったように思えます。東方の正教会と西方のカトリック教会がまず二つに分かれ、宗教改革以降は、神学あるいは聖書理解の違いから、数多くの教派・教団が生まれました。

世界中に広がるキリスト教会を、組織上、一つに束ねるのは無理があります。大きな組織になれば小回りが利きづらくなり、問題が発生した場合も適切でかつ速やかな解決を得ることが難しくなるかもしれません。そういう意味では、カトリック教会に対する問題提起から宗教改革が起こり、志を同じくする小さな集まり(少なくとも当初)が組織上、分離独立したことは良かったのでしょう。

しかし、内面の信仰の相違が政治問題化し、戦争まで起きる事態は、イエス・キリストが弟子たちに願われたことではありませんでした。信教の自由がまだ保障されていなかったヨーロッパでは、ドイツ農民戦争、シュマルカルデン戦争、ユグノー戦争、オランダ独立戦争、そして30年戦争と血みどろの戦いが続きました。特に30年戦争ではドイツの国土は荒れ果て、ペストの流行もあり、人口が激減したそうです。このような争いは、キリストはもちろん、ルターが願ったことでもなかったでしょう。

16世紀のルターによる宗教改革は、先ずは彼自身の内面、心の渇きに対する神様の語りかけから始まりました。(ルターについては、こちら→ http://lifestream.cocolog-nifty.com/blog/2008/04/post_a787.html

神学者あるいは教会の組織者としてではなく、信仰者としてのルターの志を最も強く引き継いだのは、17~18世紀に生きた敬虔主義の人たちかもしれません。ルーテル(ルター派)教会牧師だったフィリップ・シュペーナーは、牧師や信徒の区別なく、クリスチャン一人ひとりが実践的な聖書研究と祈りを通して神に近づき、日々の生活において道徳的完全さを目指すための家庭集会を開始しました。これが、ドイツ敬虔主義運動の始まりとなります。

彼の影響を受けたアウグスト・ヘルマン・フランケは、ハレ大学を拠点として貧民の児童向けの学校や孤児院を設立し、インドに宣教師を派遣しました。フランケの学校で学んだフォン・ツィンツェンドルフ伯は、ボヘミアからのフス派難民(ボヘミア兄弟団)を領地にかくまい、その一団はモラヴィア兄弟団(ヘルンフート同胞教団)と呼ばれるようになります。モラヴィア兄弟団は宣教のビジョンに燃え、世界各地に宣教師を送り出し、メソジスト運動の創始者であるジョン・ウェスレーにも多大なる影響を与えました。

敬虔とは、創造主なる神を慕い求め、キリストと一つになって生きることです。そのような生き方をする同志たちにより、初めてキリスト教会は一つの方向を目指すことができるのかもしれません。私たち一人ひとり、敬虔な生き方を求めていきたいですね。

「俗悪で愚にもつかぬ空想話を避けなさい。むしろ、敬虔のために自分を鍛練しなさい。肉体の鍛練もいくらかは有益ですが、今のいのちと未来のいのちが約束されている敬虔は、すべてに有益です。」(1テモテ4:7-8、新改訳第3版)

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2008年5月30日 (金)

会衆派

「会衆(かいしゅう)」という言葉は、クリスチャンになるまでは、あまり使う機会がなかったように思います。記憶が確かなら、クリスチャンになりたての頃、教会で英語資料の翻訳を依頼され、「congregation」という見たこともないような単語を辞書で調べました。文脈の中では、「礼拝出席者」という意味で使っていたと思いますが、正式な教会用語では「会衆」という日本語になります。

教会における階層的な監督制度に疑問を持てば、階層的組織を認めない教会が出てきても不思議ではありません。特に17世紀のイギリスにおいては、国王や議会の方針によって国教会の方向性が左右されたため、政治から独立した教会のあり方が模索されました。

教会は、監督(主教)や長老によって運営されるのではなく、クリスチャン一人ひとりの集まりである「会衆」によって自治的に運営されるべきだ、と考えた人々が、「会衆派」の始まりとなります。1620年にメイフラワー号でアメリカに渡ったピルグリム・ファーザーズ(直訳すると「巡礼の父祖たち」)も会衆派。バプテスト教会もこの会衆派から派生し、クェーカー(フレンズ派)も思想的にはこの流れになるでしょう。

イギリスでピューリタン(清教徒)革命を率いたオリバー・クロムウェルは、会衆派です。新大陸ではニューイングランドに移住した人々が理想的なコミュニティづくりを目指し、ハーバード大学、イェール大学、アマースト大学等を設立しました。

明治初期の日本に、教育者として招聘された二人の米国人も、会衆派でした。一人は、札幌農学校に招かれたウィリアム・スミス・クラーク博士。彼は、アマースト大学教授時代に新島襄を教えています。南北戦争時には、北軍少佐として従軍。かつて軍人だったことで、招聘した明治維新の元勲たちや学生となる旧士族の子弟たちとの相性が良かったのでしょう。

もう一人は、熊本洋学校に招かれたリロイ・ランシング・ジェーンズです。彼はウェストポイント(米陸軍士官学校)卒業後、やはり南北戦争に北軍将校として従軍、母校の士官学校講師もしていたそうですから筋金入りです。札幌農学校は、北海道開拓という中央政府の意向を反映した学校でしたが、熊本洋学校は、薩長土肥の動きに一歩遅れた熊本の人々が、青年教育に力を入れたという背景があるようです。

クラークの弟子たちは「札幌バンド」、ジェーンズの弟子たちは「熊本バンド」と呼ばれ、ヘボンらの弟子である「横浜バンド」とともに、日本プロテスタント宣教初期の三大クリスチャングループとなっていきます。しかし、横浜バンドが長老派、改革派の宣教師たちによって生み出されたのに対し、札幌バンドと熊本バンドは、会衆派の一般信徒(つまり牧師、宣教師資格を持たない人)から始まりました。この違いは、3つのグループのその後の動きに少なからず影響を与えたように思えます。

札幌バンドは、クラーク博士帰国後、監督派の宣教師たちとウマが合わず、内村鑑三は無教会主義を唱え、新渡戸稲造はクェーカーとなります。熊本バンドは、新島襄が創立した同志社に合流し、新島とともに会衆派(組合派)教会を築いていきます。会衆主義のリベラルな傾向は、後に「新神学」と呼ばれる自由主義神学と結びつき、世界各国、そして日本においても、キリスト教界を二分する大きな神学論争へと発展することになります。

ちなみに、私が学んだ神学大学院の卒業式は、カリフォルニア州パサディナ市のキャンパスに隣接する巨大な会衆派教会の会堂で行われました。1896年に開拓された教会は、1980年代に教会員が3,500人を超え、4千人以上を収容する会堂を建設したそうです。

明治以降、キリスト教の諸教派がいっせいに押し寄せた日本では、何派と言ってもなかなか理解されにくいところがあります。日本に生きるクリスチャンは、何派であっても、神様から選ばれた「万人祭司」の一人として、創造主なる神様の愛を宣べ伝える者となっていきたいですね。それは監督、牧師、長老、会衆という立場の違いに関わらず、すべてのクリスチャンの使命です。

「しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。」(1ペテロ2:9、新改訳第3版)

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2008年5月29日 (木)

監督派

昨日のブログに書いた長老派(Presbyterian)の教会は、カトリック教会の階層的な監督制度が聖書的でないと主張したカルヴァンから始まっています。改革派教会(Reformed Church)と呼ばれることもあります。

これに対して東方正教会、カトリック教会、英国国教会、そして国教会から自然発生的に枝分かれしたメソジスト教会、ホーリネス教会、ペンテコステ教会の多くは、監督制をとっているようです。

監督制とは、簡単に言うと、各教会の牧師や長老の上に置かれる指導者を認める制度のこと。教会によって、司教や主教、監督(英語では"bishop")、あるいはただ機能的に「教区長」などと、さまざまな呼び名が用いられます。要するに、牧師の牧師にあたる監督者を組織として認めるという制度です。

最近では、「使徒」という役職名を用いるケースもあり、論議を呼んでいます。時折耳にする「バルナバ牧師」、「ネットワーク牧師」といった役職も、おそらく「牧師の牧師」としての働きであり、あまり階層的なニュアンスはないかもしれませんが、機能的には似ている部分があるのではないでしょうか。

ただ、「監督派教会(Episcopal Church)」と言うと、通常は、英国国教会(Church of England)の世界的ネットワーク(アングリカン・コミュニオン)である「聖公会」のことを指します。日本には、日米修好通商条約締結の翌1859年、米国監督教会からチャニング・ムーア・ウイリアムズ宣教師が派遣され、長崎、大阪、東京で宣教し、東京築地に立教学校(現在の立教大学)を開設しました。長老教会のヘボン宣教師来日も1859年であり、来年はちょうど宣教150周年にあたります。

私の妻は、かつて留学した頃、米国テネシー州の監督教会の礼拝に出席したことがあるそうです。台本のような交読文があり、立つ時も座る時もすべて指定されていて、礼拝最後の聖餐では、丸いウェハーのような「パン」を牧師が信徒一人ひとりの口の中に入れたそうですから、カトリックのミサのようですね。

私たちの教団は、ペンテコステ派ですから、基本的には監督制です。ただ実際には、教会ごとの独自性がかなり尊重されているので、長老派あるいは会衆派的な教会運営がなされている部分もあります。もちろん、礼拝はミサのようではなく、もっと賑やかで自由度があります。

私個人としては、一人ひとりの牧師には公式、非公式のどちらにせよ、上に立つ監督者が必要なのではないかと痛感しています。初代教会の時代には、使徒たちが牧師や長老たちを指導していました。現代の牧師たちにとっても、彼らの霊的ケアに心を砕き、その健全な成長を助ける「牧師の牧師」たちの存在は、大きな意味を持つのではないでしょうか。

いずれにせよ、監督や牧師の条件は、第一に品性です。リーダーは、自分と同じレベルまでしか人を育てられません。監督や牧師の品性に問題があれば、教会も品性の問題に手をつけられないことになります。監督、牧師、長老、その他教会のリーダーとされている人は、何よりキリストの品性に近づいていくことを祈り求めていきたいですね。

「『人がもし監督の職につきたいと思うなら、それはすばらしい仕事を求めることである』ということばは真実です。ですから、監督はこういう人でなければなりません。すなわち、非難されるところがなく、ひとりの妻の夫であり、自分を制し、慎み深く、品位があり、よくもてなし、教える能力があり、酒飲みでなく、暴力をふるわず、温和で、争わず、金銭に無欲で、自分の家庭をよく治め、十分な威厳をもって子どもを従わせている人です。

──自分自身の家庭を治めることを知らない人が、どうして神の教会の世話をすることができるでしょう──

また、信者になったばかりの人であってはいけません。高慢になって、悪魔と同じさばきを受けることにならないためです。また、教会外の人々にも評判の良い人でなければいけません。そしりを受け、悪魔のわなに陥らないためです。」(1テモテ3:1-7、新改訳第3版)

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2008年5月28日 (水)

長老派

昨日は、長老教会のサラ・C・スミス宣教師が、函館でメソジスト教会の女学校設立に「感化された」のではないかと書きました。しかし、ひょっとしたら「感化」ではなく、「触発」だったかもしれません。メソジスト教会が函館の女学校なら、長老教会は札幌にという流れだったとも考えられます。

私の妻はかつて、「赤毛のアン」の大ファンでした。私はまったく読んだことがないのですが、妻によると、アンは長老派の教会に通い、その教会には素晴らしい牧師夫妻が赴任してくるとのこと。対照的に近くのメソジスト教会の牧師については、とやかく言う年配女性が長老教会の中にいたそうです。

とやかく言う人は、どこにでもいるので、あまり気にする必要はありません(笑)。ただ、手元にある教会史のクラスの資料によると、長老派の牧師は概して高学歴だったのに対し、メソジスト派は牧師資格を持たない(つまり、神学の学位を取得していない)人も説教者として用いられたそうです。

このメソジスト派は、米国独立時には一番小さなグループだったのが、19世紀半ばには米国で最大の教派となったようです。長老派は、会衆派についで2番目だったのが、3番目のグループとなりました。この辺が、教派や教会間の関係に微妙に影響していたかもしれませんね。ちなみに、「赤毛のアン」の著者ルーシー・モード・モンゴメリは、長老派教会の牧師夫人でした。

長老派は、カルヴァンによる宗教改革に端を発する由緒正しい教会です。ジョン・ノックスらの働きによりスコットランドに根付いた長老派の信仰は、アイルランドにも伝わり、その後、多くの信徒たちが北米に移住します。18世紀に長老教会で起きたリバイバル(信仰復興運動)は、米国の教会を再生させる大覚醒(Great Awakening)へとつながり、また第二次大覚醒の時には、長老派でキャンプミーティング(天幕集会)が始まったそうです。

日本に来た長老派教会の宣教師で、最も有名なのは、おそらくジェームズ・カーティス・ヘボン(ヘップバーン)でしょう。医療伝道を志して1859年、神奈川に上陸。ヘボン式ローマ字を考案し、辞書や日本語訳聖書出版に関わり、また明治学院の初代総理となりました。

一方、韓国に伝わった長老派の信仰は、日本占領時の迫害を耐え忍び、現在、韓国のキリスト教界において最大のグループとなっていると聞きます。日本各地に「ラブ・ソナタ」という大集会を展開中のオンヌリ教会(ハ・ヨンジョ牧師)も、長老派ですね。ハ・ヨンジョ牧師は「人格的な聖霊」を慕い求め、使徒たちの時代と同じような教会を形成していくことを目指しているようです。

使徒パウロは、ローマ帝国内に新たな教会を次々と生み出し、それぞれの教会に長老を任命しました。弟子のテトスに対しても、クレテ(クレタ)島の教会で長老を任命するよう書き送っています。それらの長老たちは、必ずしも高学歴の人たちばかりではなかったでしょう。一番の条件に挙げられているのは、品性です。

私たちも、自らの品性が神様によって変えられていくことを求めていきたいですね。

「私があなたをクレテに残したのは、あなたが残っている仕事の整理をし、また、私が指図したように、町ごとに長老たちを任命するためでした。それには、その人が、非難されるところがなく、ひとりの妻の夫であり、その子どもは不品行を責められたり、反抗的であったりしない信者であることが条件です。」(テトス1:5-6、新改訳第3版)

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2008年5月27日 (火)

ライラックと北の星

Flower080522 先週、札幌に行くと、ライラック祭りが始まったところでした。暖かな日差しの下、大通公園では海外から来た(?)ミュージシャンたちが路上ライブをし、彼らを囲むように人だかりができていました。時間がなかったので、私は急いで通り過ぎただけでしたが、のんびりと日向ぼっこも良かったでしょうね。

かつて、ほとんど花に関心のなかった私は、ライラックがどんな花かもよく知りませんでしたが、大通で薄紫の花がたくさん咲いているのを見ると、いくらなんでも分かります。(ちなみに、わが家の庭にも毎年、白いライラックが咲いています。 笑)七飯に帰ってから、ネットでライラック祭りをググッてみたら、何と、キリスト教宣教と関わりのあることが判明しました。

札幌にライラックの苗木を持ち込んだのは、米国ニューヨーク州のエルマイラ第一長老教会から宣教師として派遣されたサラ・クララ・スミス女史とのこと。彼女はもともと小学校の教師でしたが、兄が牧師就任直後に病死したことが宣教師として召命を受けるきっかけになったそうです。スミス女史は、1880年来日。東京から函館に向かい、その後、女学校創立のビジョンに燃え、7名の少女を連れ、札幌に移り住みました。

函館では、今の函館相生教会を助け、日曜学校を開いていました。ちょうどその頃、函館ではメソジスト教会のフローラ・ハリス宣教師夫人の私塾が発展し、関東以北で最初の女学校(今の遺愛学院)としてスタートしたばかりでした。そのような動きに、おそらくスミス女史も感化されたのでしょう。(遺愛学院については、こちら→ http://lifestream.cocolog-nifty.com/blog/2007/10/post_2bd1.html

札幌ではクラーク博士の弟子たちである佐藤昌介、大島正建、宮部金吾、新渡戸稲造などのクリスチャンの支援を得、1887年に女学校を開校。「スミス女学校」という校名は、後に新渡戸の助言などをもとに「北星女学校」と改名されました。現在の「北星学園」です。

学校の運営資金を募るため一時帰国した際、スミス女史は、自宅からライラックの苗木を持ち帰り、女学校と北大植物園に植えたのだそうです。花言葉は「友情」、「思い出」など。ライラックを見ながら、友なるイエス・キリストを思い、異国の友人たちを喜び、また故国と宣教地のよき思い出に感謝したのでしょうか。

「北星」の校名は、「暗い世にあって星のように輝きなさい」という聖書のことばに由来するようです。もちろん、それは学生たちのために選んだ言葉です。しかし、きっとスミス女史自身が、男尊女卑の気風の残る明治時代、最果ての地に生きる少女たちに希望の光を照らし、夜空の星のように明るく輝いていたに違いありません。

1795年に設立されたエルマイラ第一長老教会のホームページには、札幌に派遣され、女学校を創設した宣教師として、今でもサラ・C・スミス女史の名前が紹介されています。派遣教会の人たちにとっても、彼女は輝ける「北の星」だったのでしょう。

私たちも、暗い世に光を輝かせる生き方をしていきたいですね。

「それは、あなたがたが、非難されるところのない純真な者となり、また、曲がった邪悪な世代の中にあって傷のない神の子どもとなり、いのちのことばをしっかり握って、彼らの間で世の光として輝くためです。」(ピリピ2:15-16、新改訳第3版)

「そうすれば、とがめられるところのない清い者となり、よこしまな曲がった時代の中で、非のうちどころのない神の子として、世にあって星のように輝き、命の言葉をしっかり保つでしょう。こうしてわたしは、自分が走ったことが無駄でなく、労苦したことも無駄ではなかったと、キリストの日に誇ることができるでしょう。」(フィリピ2:15-16、新共同訳)

(写真は、先週の大通公園)

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2008年5月 2日 (金)

洗足の教え

カトリック教会では、今でも「洗足式」があるそうです。ローマ教皇ベネディクト16世も米国訪問前の3月20日、受難週の聖木曜日(洗足木曜日)に、ローマの聖ヨハネ教会(ラテラノ大聖堂)におけるミサで洗足式を行ったと報道されています。

プロテスタント教会では、「聖書のみ」という宗教改革の原則に基づき、正式な礼典(儀式)は洗礼式と聖餐式の二つに絞っています。聖書の記録によれば、イエス・キリストが弟子たちに守るようにはっきり教えているのは、この二つだからです。

キリストは、弟子たちが「互いに足を洗い合うべきです」とも語られています。「洗足式」は、このことばに基づいているのでしょう。しかし、この教えは、どちらかと言うと「洗足式」のように実際に足を洗う行為というより、「しもべのように互いに仕え合う」という教えだと理解されます。

しかも、「互いに」ですから、そこに上下関係は想定されていません。教皇が他の司祭の足を洗ったり、神父が信徒の足を洗ったりするだけでなく、イエスの弟子であるクリスチャンは、すべて他のクリスチャンや周りの人々に仕える生き方が求められているのです。

この「洗足の教え」を校名に掲げた学校が、神奈川県にあります。「洗足学園」は、裁縫女学校を前身とし、高等女学校として創立されていますが、今では幼稚園から大学院まである総合学園で、音楽教育、特にジャズ・コースがあることで有名です。歌手の平原綾香もここの出身。最近では、確かTVドラマ「のだめ」のロケ地にもなっていました。

創立者の前田若尾女史は、熱心なクリスチャンだったようで、キリストが弟子たちの足を洗ったエピソードに基づき、校名を「洗足」としたとのこと。同氏が作詞した校歌には、「互いに足を洗えと宣(の)りし み教え守るここの学び舎」という一節があるそうです。

洗足学園建学の理想には、「若き学徒をして、真の人生の目的に目覚めさせ、さらに人間の天職を悟らせ、謙虚にして慈愛に充ちた心情(謙愛の徳)を養い、気品高く、かつ実行力に富む有為な人物を育成する」とあります。

真の人生の目的とは、神と人を愛し、与えられた「天職」を通して、足を洗うように互いに仕え合うことでしょうか。そのような生き方を、私たちもしていきたいですね。

「…主であり師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのですから、あなたがたもまた互いに足を洗い合うべきです。」(ヨハネ13:14、新改訳第3版)

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