訓練期間

2008年7月24日 (木)

召命の「お試し期間」

牧師になるには、神学校で必要な知識や技能を習得し、卒業後、所属する教会や教団から牧師資格を取得するというのが一般的なプロセスです。中には、教会での実践と独学によって、牧師として認定される「たたき上げ」の人もいます。しかし、それらはただ、牧師になる手続きや訓練の話に過ぎません。

牧師になるために最も重要なのは、どの学校で何の勉強をし、どんな学位を取得し、あるいはどのような訓練を受けてきたかではありません。一番大切なのは、もちろん、イエス・キリストを信じるクリスチャンであること、次に「聖霊の実」としての品性を身に付けていること、そして神様から牧師としての「召命」を受けていることの三つだと思われます。

クリスチャンでなければ、教会に集うクリスチャンたちがどんなことを考え、何を必要としているか分からない部分が多くあります。クリスチャン以外の人たちに、イエス・キリストの「証人」となることもできません。キリストを信じていない人が、ただ「牧師」という肩書きをもらっても、その立場に求められる働きは不十分になるでしょう。

品性については、ずいぶん書いてきたように思いますので、今日は省略します。例えば、こちらの記事を参照して下さい。→ http://lifestream.cocolog-nifty.com/blog/2006/10/3116_8fe6.html

「召命」(「召し」)とは、神様が人を特定の働きのために任命することです。召命によって与えられる仕事のことを、「天職」と言います。もちろん牧師以外の仕事であっても、神様から任命された場合は、それを「召命」、「天職」と言うことができるでしょう。自分の天職への召命を信じる心は、「召命感」と呼ばれます。

「召命」は、任命権者である神様にしか分からない部分があります。召命を受けた本人も、最初から自分の召命の全貌を理解しているわけではありません。周りの人には、もっと分かりません。という意味では、受けた召命が本物かどうか、しばらく「試す」期間が必要なのかもしれません。

私は、召命感を持ってから実際に牧師になるまで、10年かかりました。そのうち7年間は教会での実地訓練、あとの3年間は神学校での知的訓練でした。当初は、まさかそんなに時間がかかるとは思っていませんでした。しかし、振り返ってみれば、本気で神様からの召命に従うかどうか、試された期間だったのでしょう。

神様が、10年の「お試し期間」を通して、「天職」への召命を私に確認させて下さったことを感謝します。

「主よ。私を調べ、私を試みてください。私の思いと私の心をためしてください。」(詩篇26:2、新改訳第3版)

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2008年3月26日 (水)

知識の組み換え

イエス・キリストを信じ、牧師を志した20数年前、丁稚のように住み込んだ教会堂の2階の部屋で、いつも夜一人だった私は、あることを考えていました。自分がそれまで学んできたことは、何だったのか。これから学んでいかなければならないことは、何か。そして、信仰を持つ前に得た知識は、信じた以降に得る知識とどのようにつながり、どのように生かされていくのか、ということです。

高校までの学校教育で学んだ5教科、国語、数学、社会、理科、英語のうち、すぐに役立ちそうなものは、国語と英語でした。聖書や解説書、神学書を読むためには、まずは日本語の読解力が必要です。英語は大学でも専門的に学びましたが、英文の参考文献も日本語とは比べ物にならないほど多いので、英語力はすぐに生かせます。海外からのゲストが来た場合は、通訳をする機会もあります。

数学は、学校で解く問題がそのまま役に立つわけではありませんが、論理的思考をするための基礎訓練だったと考えれば、何年にも及ぶ訓練(!)を積んで来たと言えるでしょう。算数というレベルなら、もちろん、教会にも日々のお金の計算があり、年間の予算決算もきちんと数字を合わせていかなければなりません。

問題は、理科と社会でした。この二つについては、大学に進んだ後も自然科学、社会科学、人文科学という分野に区分された、細分化された知識を習得しました。さらに大学卒業後は、「塾」で政治学、経済学の基礎をおさらいしました。「つまみ食い」も多かったように思いますが、それにしても、ずいぶん雑多な知識を詰め込んで来たものです。(笑)

高校までの理科、社会、そして大学以降の諸科学は、ほとんどの場合、啓蒙主義的な人間中心主義、理性主義、そして無神論的な基盤の上に立っています。唯物論的自然観や進化論、社会契約説、進歩史観など、近現代社会に大きな影響を与えた「仮説」の正しさが暗黙のうちに前提とされ、教科として教えられたりします。それらは、現代日本に支配的な「パラダイム」だからです。

(「パラダイム」については、こちら参照→ http://lifestream.cocolog-nifty.com/blog/2007/07/post_ed3b.html

人間中心的世界観から神中心の世界観にパラダイムが転換した私は、それまでに学んだ知識を総ざらいし、神中心の知識に組み替えていかなければならないと感じました。そう考えたのは、ひょっとしたら当時読んでいたフランシス・A・シェーファーの本、「それでは如何に生きるべきか」("How Should We Then Live?"の邦訳、いのちのことば社)の影響があったかもしれません。

それから早、20年強。「知識の組み換え」が順調に進み、神中心の知識体系が自分の頭の中で十分組み立てられたかと言うと、「欠け」が大きく、非常に心もとないものを感じます。まことに、「少年老いやすく学なりがたし」です。(苦笑)まだまだ学ぶべきことは多くあり、道半ばですが、いつか納得のいくレベルに達したいですね。

創造主なる神様が、私たちに必要な知識を与えて下さることを感謝します。

「もしあなたが悟りを呼び求め、英知を求めて声をあげ、銀のように、これを捜し、隠された宝のように、これを探り出すなら、そのとき、あなたは、(創造)主を恐れることを悟り、神の知識を見いだそう。」(箴言2:3-5、新改訳第3版)

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2008年3月13日 (木)

分裂と成長

90年代初頭、所沢の教会は大きな傷を受けていました。牧師が、ある問題を巡って教団理事会の決定に異を唱え、教会員たちとともに教団を脱退することを決めたのです。私は、しばらく成り行きを見た結果、フォースクエア教団にとどまることにしました。双方の主張を聞き比べ、教団側の方が筋が通っていると判断したからです。

しばらく、同じ教団に属する近くの教会に通っていると、当時の教団代表から連絡がありました。教団に残る人たちで、また新たに所沢の教会を立ち上げるので、手伝ってほしいというのです。以前の所沢教会のスタッフで教団に残ったのは、私と妻の二人だけでしたので、そうお願いされればやるしかありません。(笑)

91年の秋、再び所沢教会に集まった人々は、子どもも合わせて20人ほどでした。私は87年春、最初に教会開拓チームが集まった頃のことを思い出しました。その時も、家族の人数を含めると、ちょうど同じくらいの人数だったのです。分裂前は100名を越えていましたが、また振り出しに戻ったかのようでした。

翌年の3月に、次の牧師がハワイから赴任してきました。そして6月末までに引継ぎを終え、私たち家族は渡米します。もう、それから16年。所沢教会のメンバーも、すっかり入れ替わり、今はまったく新しい教会として着実に歩んでいます。教会の分裂は、大きな痛みをともなうものでした。しかし、その傷を神様がいやしてくださり、新しい牧師の下、所沢教会が健全に成長し、新たな実を結んでいるのを見ることは、大きな励ましです。

初代教会の時代、バルナバとパウロも、一つのチームで一緒に働く期間が終わった後、別々のチームに分かれて行動するようになります。二つに増えたチームのそれぞれの働きを、神様は豊かに祝福して下さいました。生物の細胞が分裂を繰り返し、増殖していくように、創造主なる神様が、教会の分裂をも神の国の働きを広げるために用いて下さったことを感謝します。

「…バルナバは、マルコとも呼ばれるヨハネもいっしょに連れて行くつもりであった。しかしパウロは、パンフリヤで一行から離れてしまい、仕事のために同行しなかったような者はいっしょに連れて行かないほうがよいと考えた。そして激しい反目となり、その結果、互いに別行動をとることになって、バルナバはマルコを連れて、船でキプロスに渡って行った。パウロはシラスを選び、兄弟たちから主の恵みにゆだねられて出発した。」(使徒15:37-40、新改訳第3版)

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2007年11月 6日 (火)

結婚披露宴

日曜夜は、知り合いの結婚祝賀会に出席しました。新郎は、函館の教会に属するクリスチャンで、教会学校に通っていた子ども時代から顔見知りの好青年です。新郎のお父様は建築士で、私たちの教会の会堂やお墓を設計していただきました。新婦もクリスチャンで、札幌で看護師をしていたそうですが、教会のある方の仲立ちで親しくなり、結婚に至ったそうです。美男美女のカップルでしたね。

会場のホテルには、150人近い出席者が集い、お二人を祝福しました。結婚祝賀会に参加するのは、久しぶりです。若いお二人を見ていて、20年前の私たちの結婚披露宴を思い出していました。

私たちの披露宴会場は、札幌プリンスホテルでした。父の仕事上のつながりがあったようですが、結婚式は大通の教会だったため、近くて便利ということもありました。ご招待したのは70名ほどで、こじんまりとした宴でした。普段食べられないようなフランス料理のディナーコースを注文し、たいへん美味しかったです。新婦は、胸が一杯だったせいか(笑)あまり食べられず、後で悔しがっていました。(残念!)

司会は、牧師家庭の長男で、本人も牧師となった私の幼馴染み。音楽ゲストには、当時、函館の教会にいたアメリカ人の宣教師を招き、ギター弾き語りで歌ってもらいました。もう一人、私の従妹が桐朋学園でピアノを学んでいたので、彼女にもみごとな演奏を披露していただきました。

お世話になった方々の祝辞をいただき、最後に私が、感謝の言葉と将来の抱負を語りました。披露宴の間中、私の番になる直前まで、何をどのように話そうか迷っていて、あまりうまくお話しできたとは思えません。ただ将来、牧師となって、神様のことばを伝えていきたいという「志」については、出席して下さった皆様の前で、しっかりと決意表明させていただいたように覚えています。後から出席者の一人に、「伝道集会のようだった」と言われました。

神の国は、婚姻の宴に例えられています。新郎である「小羊」は、もちろん、イエス・キリスト。「きよく正しい行い」で美しく着飾った「花嫁」は教会、つまり、キリストを信じる人々のことです。「小羊」と「花嫁」の結婚は、永遠の愛によって結ばれた契約関係を表しています。

神様が、私たちを天の祝福に満ちた結婚披露宴に招いて下さり、信仰によって花嫁とされた者たちに対し、永遠に変わることのないキリストの愛を約束して下さっていることを感謝します。

「『私たちは喜び楽しみ、神をほめたたえよう。小羊の婚姻の時が来て、花嫁はその用意ができたのだから。花嫁は、光り輝く、きよい麻布の衣を着ることを許された。その麻布とは、聖徒たちの正しい行いである。』御使いは私に『小羊の婚宴に招かれた者は幸いだ、と書きなさい』と言い、また、『これは神の真実のことばです』と言った。」(黙示録19:7-9、新改訳第3版)

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2007年6月 1日 (金)

へその緒

母親のお腹の中が、よっぽど居心地が良かったのか、長男はなかなか出てきませんでした。予定日の数日前に、「おしるし(bloody show)」があったので、もうそろそろかと思いきや、予定日を過ぎても、陣痛(contractions)がちょっとあっても、赤ん坊はお腹の中でのんびりしています(笑)。

予定日の3日後、定期検診に行くと、ドクターが、「今日、生まれさせましょう」と言いました。私は、「そんなのアリか?」とあっけにとられつつ、妻を連れて、そのまま車で病院に向かいます。アメリカでは、担当医のオフィスと分娩をする病院は、別な場所にあるのです。

昼ごろ、陣痛室(labor room)に入り、胎児の頭にモニターをつけ、破水させ、陣痛促進剤をうちました。羊水を抜いて大丈夫なのかと思っていたところ、4時半ころ、胎児の心拍数が突然、半分くらい(70)に落ちます。緊急事態に気づいた看護師は、すぐさまスタッフを集め、医師に連絡し、帝王切開の準備が始まりました。

また帝王切開かと、妻はがっかりし、胎児のために祈りました。点滴で羊水にかわるものを補給すると、心拍数は元通りに回復します。回復後に到着した医師の診断では、へその緒(umbilical cord)が首を締めたのだろう、という話でした。

もうそろそろ生まれそうだということで、陣痛促進剤をやめ、そのまま普通分娩でいくことにしました。陣痛が来るたびに、「コーチ」は、妊婦の目の前で指を立てながら数を数え、適切な呼吸をするよう励まします。分娩室(delivery room)では、病院のサービスで、生まれるまでの様子をビデオに録画して下さいました。

誕生は、6時半ころです。医師は、私にハサミを手渡し、「へその緒を切れ」と言います。(後で聞くと、日本では「医療行為」にあたり、「素人」は切れないそうです。)母との「ライフライン」を父が断ち切るのかと、何だか複雑な思いを抱えつつ(笑)、ハサミで切ると、「ジョキン」と肉を切るような、何ともいえない感覚でした。

生命の誕生は、創造主なる神様の不思議な「神秘」です。神様が私たち一人ひとりを、素晴らしい「傑作」として、造って下さっていることに感謝します。

「私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。」(エペソ2:10、新改訳第3版)

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2007年5月31日 (木)

ラマーズ法

第一子誕生の時は、所沢に住んでいて、妻は函館の実家に帰って出産しました。最初から帰郷するつもりであり、しかも予定日より3週間も前、私が知らないうちに、帝王切開で生まれたので、立会いも何もありませんでした。

ところがアメリカでは、父親がいる場合、立ち会うのが普通だと聞きます。しかも、妻は、病院から指導を受け、ラマーズ法で産みたいので、夫婦一緒にクラスに出なければならないと言い出しました。

私は勉強に追いまくられ、スケジュール的に目一杯だったので、難色を示すと、妻は悲しげな顔をします。日本に帰って産むという選択肢も事実上、無理な話であり、異国でお産をする不安感もあったかもしれません。そこで、意を決して、クラスに出ることにしました。

初めてのクラスが開かれる土曜日、朝早くに長女を友人の家に預け、近くの病院に行きました。30代前半くらいで自分も出産経験がある、日系女性の看護師の方が講師です。集まったのは、10人ほどのお腹の大きな妊婦たちと、その夫や家族、友人たちのようでした。立会人は「コーチ」と呼ばれ、必ずしも夫でなくても良いそうです。

ラマーズ法は、1)お産に対する正しい知識、2)産むことに対する前向きな意志、3)呼吸法による痛みの軽減、4)立会いによるリラックスの4つにより、出産の苦痛や不安をできるだけ軽くしようというものだそうです。最初に渡された「読書課題」の分厚い資料は、妊娠・出産用語ばかりで何を書いているのかさっぱり分からず、読むのにたいへん苦労しました(笑)。

5、6回のクラスで、まったくの「素人」を妊婦の「コーチ」として育成し、あたかも医療スタッフの一人であるかのような扱いをするのは、さすがにアメリカ社会です。どこに行っても、「専門家に任せて素人は引っ込んでいろ」という態度が見え隠れする、どこかの国の文化とはまったく違った、自由と自発性に満ちた国の底力を感じました。

私たちも、人を育てる時、専門家か素人かにやたらとこだわらず、神様が与えて下さる自由と自発性を尊重していきたいですね。「キリストのからだ」と呼ばれる教会は、人格的に成長するコミュニティです。神様が、一人ひとりの個性と主体性を尊重しつつ、育てて下さることを感謝します。

「キリストによって、からだ(教会)全体は、一つ一つの部分がその力量にふさわしく働く力により、また、備えられたあらゆる結び目によって、しっかりと組み合わされ、結び合わされ、成長して、愛のうちに建てられるのです。」(エペソ4:16、新改訳第3版)

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2007年5月30日 (水)

イッツ・ア・ボーイ!

米国留学中、妻が第二子を身ごもったことが分かりました。私は、結婚当初から、子どもは3人くらいほしいと思っていましたが、妻は自分自身が一人っ子で、子どもは一人でいいと言っていました。アメリカの教会で、3人以上子どもがいる多くの楽しげな家族と接するうち、妻の心が変えられたようです。

留学して最初の1年間は、海外旅行者用の保険しか入っておらず、出産はカバーされていなかったようです。友人が、妊娠しているかどうかを無料で調べてくれる施設に、妻を連れて行ってくれました。「Pro-Life(プロ・ライフ=中絶反対派)」と「Pro-Choice(プロ・チョイス=中絶賛成派)」の二つの施設があり、プロ・チョイス側に行くと、何をされるか分からないという話で、プロ・ライフの施設に行ったそうです(笑)。

妊娠が分かった後、その友人の家に行き、プールとガレージのあるバックヤード(裏庭)で、乾杯したそうです。5月の暑い日で、真っ青な南カリフォルニアの空の下、そよ風が心地よかったとのこと。グラスに注がれたのは、ビールでも、ワインでも、シャンパンでもなく、「クールエイド」という、粉末を水に溶かしてつくるジュースだったそうです(笑)。

米国で出産するということが、どういう意味があるのか、私はよく知りませんでした。ですから、教会の牧師の一人から、「計画したのか」と聞かれても、ピンときません。よく聞くと、アメリカ生まれの場合は、自動的に米国籍が得られるという話です。成人後に、どちらの国籍にするか、選択するのだそうです。

5歳くらいになっていた長女は、弟がほしいと言いましたが、1回150ドルも払って、超音波で調べると、女の子だそうです。長女は、ちょっとがっかりしました。私が神学大学院に行くようになり、ちゃんとした保険に入ると、病院が変わりました。もう一度、超音波で調べたところ、今度は、「It's a boy!(男の子です)」と言われます。「グッドニュース」に、長女は、大喜びでした。

男の子でも女の子でも、私と妻にとっては、第二子が与えられて嬉しかったです。いのちを与えて下さった神様に、感謝します。

「全能の神がおまえを祝福し、多くの子どもを与え、おまえをふえさせてくださるように。そして、おまえが多くの民のつどいとなるように。」(創世記28:3、新改訳第3版)

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2007年5月11日 (金)

親と教師の協力関係

長女の幼稚園は、小学校と同じく、午前8時30分から午後3時まででした。ただ、幼稚園生の場合は、「お昼寝」の時間がありました。それにしても、幼稚園としては長い「就学時間」ですね。帰ってきてからも、たくさん宿題がありました。

最初は、「フォニックス(Phonics)」という、つづり字と発音のお勉強です。これは、日本でも最近、英語学習の上で注目されているようです。保護者も宿題を一緒にして下さいということで、「フォニックス」は、私と妻にとっても勉強になりました。教会学校のように、毎週、聖書の一節の暗記(暗唱聖句)もありましたね。

中休みの時間には、おやつも食べて良いということで、毎日、お菓子とお弁当を持っていきました。ごはんと卵焼き、唐揚げ、そしてウサギさんの形に切ったリンゴを、キティちゃんのお弁当箱に入れて持っていったところ、先生が感激して、「これこそ日本のお弁当だ」と、子どもたちに紹介したそうです。

おにぎりを持っていった時は、周りの子どもたちが、「スッシー(sushi)!」と叫んでいたとのこと(笑)。中身のタラコを見た子に「それは何だ」と聞かれ、「魚の卵(fish egg)」と答えると、今度は「ヤック(yuk=キモイ)!」という反応だったそうです(笑)。これこそ草の根日米文化交流ですね。

ちなみに、アメリカ人のお弁当は、手作りのサンドイッチがあれば手が込んでいる方でした。一番簡単なのは、スーパーで売っている「ランチャブル(Lunchables)」という、クラッカーでハムとチーズをサンドイッチするセットです。これにリンゴまるごと1個とか、バナナ1本だけというのが、いかにもアメリカ風のお手軽ランチセットでした。

保護者と教師の「垣根」が低く、親はいつでも、授業の参観ができました。先生のアシスタントをするボランティアも募集していました。遠足などの行事にも、親はついていくことができます。誕生日の子がいると、親は、クラスメート全員に、おやつの差し入れをしました。「バースデー・スパンキング(birthday spanking)」が、メイン・イベントです。これは、年の数だけお尻を叩かれるというもの。もちろんジョークで、軽く叩いたようですが(笑)。

聖書では、子どもの教育の責任は、親にあると教えています。教会付属「クリスチャン・スクール&キンダーガーテン」の先生たちは、それをよく理解していて、保護者との良好な協力関係を築こうとしておられたようです。

「あなたがたは、私が、きょう、あなたがたを戒めるこのすべてのことばを心に納めなさい。それをあなたがたの子どもたちに命じて、このみおしえのすべてのことばを守り行わせなさい。」(申命記32:46、新改訳第3版)

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2007年5月10日 (木)

3つの誓い

長女が2年間通った幼稚園と小学校では、日本人が考えるような「入学式」がありませんでした。青空の下で行われた最初の「朝礼」で、ビデオを撮っている親はいましたが、歌を歌うこともなく、校長先生の言葉もほんの一言で、子どもたちはすぐに教室に入ります。長々と続く「式」を予想していた私は、拍子抜けしました。

最初の「朝礼」にあったどうか、記憶していませんが、普段行われる全校の「朝礼」では、子どもたちが、3つの誓いの言葉を唱和しました。どの順番だったか分かりませんが、「アメリカ国旗への誓い」、「クリスチャン旗への誓い」、そして「聖書への誓い」です。

「アメリカ国旗への誓い」は、よく耳にしますね。「私は、アメリカ合衆国の旗と、それが表す共和国――すべてに自由と正義をもたらす、不可分の、神の下の一つの国への忠誠を誓います」(私訳)というセリフです。

「クリスチャン旗への誓い」は、こういう文言でした。「私は、クリスチャンの旗と、それが表す神の国の救い主――十字架につかれ、よみがえり、再び来られ、信じる者すべてにいのちと自由を与えられる、唯一の救い主への忠誠を誓います。」(私訳)

「聖書への誓い」は、こうです。「私は、神の聖いみことばである聖書に忠誠を誓います。私は、それを私の足のともしびとし、私の道の光とし、神様に罪を犯さないよう、私の心のうちにそのみことばを隠し持ちます。」(私訳)

可愛らしく唱和していた幼稚園児や小学校低学年の子たちが、これらの誓いの意味を、どれだけ理解していたかは不明です。そこにいた多くの子どもたちは、もう成人になっていると思いますが、大人になっても、神様のみことばに従い、真のいのちと自由を自分のものにしていってほしいですね。

「あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。」(詩篇119:105、新改訳第3版)

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2007年5月 9日 (水)

教会付属幼稚園&小学校

長女が入園した幼稚園は、教会の敷地内にある付属幼稚園でした。渡米1年後、93年9月のことです。当時は、幼稚園年長クラスと小学校が併設されていました。(今は、中学校もあるようです。)私たちが住んでいたアパートのすぐ裏手が学校で、家の玄関を出て階段を下りると、すぐ横に学校の門がありました。通園・通学時間0分です。

もちろん、聖書に基づいた教育を行う私立校で、制服があり、それなりの学費も決まっていました。支払うつもりで入園させたところ、感謝なことに学校側のご厚意で、学費は無料にして下さいました。最近、話題の「特待生」です。留学期間中、私は無職でしたから、たいへん助かりました。

入学前に、契約を交わします。「体罰」に関する内容でした。担任からの注意が5回になった子は、校長室に連れて行かれます。1回目は、校長先生が口頭で注意するだけですが、次に連れて来られた時は、専用の棒でお尻を1回、叩かれるということでした。校長と子どもが1対1ではなく、必ず、他のスタッフ立会いの下です。

言うことを聞かない子というのは、世界中どこに行ってもいるのでしょうが、この「体罰契約」には驚きました。親と教師の合意の下、はっきりと決まった形の体罰が行われる、というのは、実に合理的な方法ですね。たいていの子は、恐れをなして(笑)、叩かれるまで行かなかったようです。

愛をもって子育てをする、というのは、ただ甘やかすということではありません。正しい生き方を自分で選択していくことができるよう、教え導くということですね。先生やスタッフの方々は、そのような意味で、たいへん愛に満ちた人たちのようでした。

「むちを控える者はその子を憎む者である。子を愛する者はつとめてこれを懲らしめる。」(箴言13:24、新改訳第3版)

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