家族

2008年9月18日 (木)

見送りと秋の到来

火曜日は妻と二人で、京都に帰る長女を函館空港に送って来ました。途中、義母の家に立ち寄ると、長女は、ホタテの薫製をおみやげにもらいます。これは函館で作っているはずだと義母が製造元を見ると、東京と書いてあるのを発見(笑)! まあ、関西製でなければおみやげになるか、と爆笑していました。

空港でも、別のおみやげを買います。今回は、定番の「白い恋人」、「マルセイ・バターサンド」、「夕張メロンピュアゼリー」。教会の人たちやアパートの管理人さんなど、それぞれ行き先が決まっていたようです。

私たちが品定めをしていると、別のお客さんたちがレジに来て、「『花畑牧場』の生キャラメルはあるか」と聞いています。他の店では品切れ(入荷待ち)だったのですが、私たちがいた店では、レジの奥に在庫がありました。私は知りませんでしたが、ずいぶん人気商品のようですね。私たちも買って食べてみると、とろけるような食感で美味しかったです。

空港内を少し歩き、遺跡から出土した土器などを見回った後、長女はセキュリティーゲートを抜け、搭乗待合室に入りました。妻と私は家に戻り、宅配便で長女の荷物を6箱発送! 数時間後、長女からアパートに無事到着したと連絡がありました。

今回の夏休みで、長女はずいぶん活躍しました。妻と私が三沢と所沢にそれぞれ一泊二日で出掛けたため、学校と部活に出かける長男と次女のお世話を長女が担当したからです。(二人のお弁当も作りました。)それだけ大人になった「子ども」を見ることができたのは、感謝ですね。

長女を見送ると、妻と私の夏休みモードも終わり、秋の到来となります。季節にしたがって私たちを祝福して下さる創造主なる神様をほめたたえます。

「もし、あなたがたがわたしのおきてに従って歩み、わたしの命令を守り、それらを行うなら、わたしはその季節にしたがってあなたがたに雨を与え、地は産物を出し、畑の木々はその実を結び、あなたがたの麦打ちは、ぶどうの取り入れ時まで続き、ぶどうの取り入れ時は、種蒔きの時まで続く。あなたがたは満ち足りるまでパンを食べ、安らかにあなたがたの地に住む。(レビ26:3-5)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年9月 9日 (火)

成人の記念写真

昨日は、長女が成人の記念写真を撮りに行きました。成人式の時は地元にいないので、4ヶ月前倒しの写真撮影です。

着たのは、なんと妻が高校生の時、母親が自ら反物から仕立てた由緒ある(?)着物だそうです。妻は成人式の頃、ちょうど米国留学中だったため、式には出席しませんでした。しかし、大学4年のお正月に同じ着物を着て、写真撮りをした後、初釜に行ったそうです。

昨日はお昼頃、妻と長女は、美容室に行きました。午後2時頃、着付けが終わったと連絡が入ったので、私がワゴン車でお迎えに行き、すぐ近くの写真館まで連れて行きました。妻も私も、付き人状態です。(苦笑)

撮影終了後、すぐに撮ったばかりの写真をテレビに映し出して、プリントして台紙に貼るものを選びました。そして、妻と長女は函館の義母のところに「晴れ姿」を見せに行きました。成人の記念写真撮影も、一騒動です。(笑)

長女は、数日前には教会員でプロカメラマンの人に、函館のベイエリアで記念写真を撮ってもらっています。そちらはワンピースにレギンス姿でした(レギンスって何? 笑)。たくさん撮影して、写真集が出せそうなくらいです。

あの小さくて弱々しかった保育器の中の赤ん坊が、20歳になったなんて、何だか不思議ですね。(生まれた時の様子は、こちらの2年前の記事参照→ http://lifestream.cocolog-nifty.com/blog/2006/11/post_9202.html

神様は、私たち一人ひとりを育て、一人前の「大人」にして下さいます。成人して「大人」となった私たちは、大人らしい生き方をしていきたいですね。

「兄弟たち。物の考え方において子どもであってはなりません。悪事においては幼子でありなさい。しかし考え方においてはおとなになりなさい。」(1コリント14:20、新改訳第3版)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年8月21日 (木)

野外コンサート

夏休みは札幌訪問とファミリー・キャンピングというのが、2000年以降のわが家の「伝統」だったのですが、とうとう今年はキャンプができませんでした。長男と次女が中学校の吹奏楽部で、先週の木・金は朝から夕方まで練習。そして、土曜日には野外コンサートが予定されていたからです。

去年は大沼でキャンプし、部活のある長男を学校まで送迎しましたが、今年は中学生が二人となり、キャンプをしようという声もさすがに聞こえませんでした。天気も札幌・旭川訪問中はきれいに晴れていましたが、七飯に帰って来てからは雨模様。キャンプ日和でもなかったです。

土曜日は、コンサートに合わせたかのように雨が上がります。会場に行くと、青い空と白い雲、緑の芝生に白い洋館風の建物、譜面立てを飾るピンク、オレンジ、黄色、黄緑、水色の画用紙。そして、部員たちが着るピンクと紫2種類のTシャツ。実に鮮やかな彩りでした。

教会の人たちも、私たち以外に2家族が応援に駆けつけてくれました。トンボも飛び交うのどかな開放感のある会場で、見事な演奏を聞かせてもらい、感謝します。

すべての楽器は、本来、創造主なる神様を賛美するために存在しています。私たちは、あらゆる楽器を用いて、周囲が神の栄光の雲で満たされるような素晴らしい賛美をしていきたいですね。

「ラッパを吹き鳴らす者、歌うたいたちが、まるでひとりででもあるかのように一致して歌声を響かせ、(創造)主を賛美し、ほめたたえた。そして、ラッパとシンバルとさまざまの楽器をかなでて声をあげ、『主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで』と主に向かって賛美した。そのとき、その宮、すなわち主の宮は雲で満ちた。」(2歴代誌5:13、新改訳第3版)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年3月18日 (火)

小学校の卒業式

今日は、次女の小学校の卒業式でした。午前10時からの式で、保護者は9時40分までに来て下さいとのこと。妻と長女の3人連れで歩いて行こうか、車で行こうかなどと思案をしていると、またまた急な予定が入ります。中2の長男は先週から結膜炎だったのですが、まぶたの腫れが大きくなり痛みが出てきたので、朝一番で眼科に連れて行くことになったのです。

8時半過ぎに眼科に飛び込むと、幸い、一番乗りでした。診療開始とともにすぐ診てもらい、長男を中学校に送り届けてから、すぐ近くの小学校に向かいました。保護者控え室に入ったのが、ちょうど9時30分頃。そこで妻と長女が待っていました。

式が始まると、会場の体育館に卒業生たちが入場して来ます。最近の流行はダークスーツのようで、大多数が黒や紺のフォーマルっぽい服装でした。その中に2、3人、着物の子がいました。うちの次女は、白っぽいドレスに黒いカーディガンです。ドレスは実は、先月開催されたピアノ・コンクールのために用意したもので、明後日のコンサートにも着る予定になっています。ネットで安く買ったドレスですが、3回着てくれれば、さらにお得な気がしますね。(笑)

印象に残ったのは、校長先生が話されたクラーク博士のエピソードです。(クラーク博士については、こちら参照→ http://lifestream.cocolog-nifty.com/blog/2006/11/post_e0d0.html

北大の前身である札幌農学校を立ち上げるためクラーク博士が来日した際、農業試験場のあった七飯(七重)にも来訪しました。うちの子たちが学んだ小学校は、その農業試験場の事務所があった場所で、クラーク博士は当時、そこにいた人たちに次のような話をしたそうです。「失敗があっても、決してあきらめず、新しいことに取り組んでいって下さい。」

今日、同じ場所で卒業証書をもらった120人余りの子どもたちも、開拓者たちのスピリットを受け継ぎ、それぞれの未来を力強く切り開いて行ってほしいですね。神様が、子どもたち一人ひとりに「大志」を抱かせて下さり、その志を成就できるよう祝福して下さいますように。

「神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださるのです。」(ピリピ2:13、新改訳第3版)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年3月14日 (金)

お留守番

Img_49901 私たちが所沢を離れた時、4歳だった長女も今年、成人となります。今回、妻と私が二人で旅行するにあたり、まず最初に相談したのは、大学1年の長女でした。中2の長男と小6の次女は留守番させなければならないので、そのお世話を、春休みで帰省中の長女にお願いしようと考えたのです。

3人分の食事作りもあるので、どんな反応かと気を遣いながらメールしてみると、なんと意外なことに、「超楽しみ~っ♪ 2人でゆっくりしちゃってぇ~っっ」という返信です。(笑)子どもたちだけのキャンプといった感覚でしょうか。一年間、自炊をし続けたのが、長女にとっては良い訓練だったようです。

出発前の金曜日の夜、いらなくなった大きなカレンダーの裏に、長女が線を引き始めました。何を書くんだろうと見ていると、3日間の5人のスケジュール表です。私と妻の留守中、長男と次女はそれぞれ別々の行動で、長女は食事作り、弁当作りをしなければなりません。その他、こまごまとした家事についても、すべて表にメモしたようです。なるほど、こうすれば分かりやすいかと、ちょっと感心しました。(笑)

それでもアクシデントはつきもので、親の留守中、ブレーカーが落ちたそうです。トイレの暖房をつけたまま、炊飯器のスイッチを入れ、なおかつオーブンを使ったとのこと。以前、同じ経験のある親二人は、もうそんなことはしないのですが、こればっかりは伝え忘れていました。戻し方は特に教えていなかったのですが、なんとか自分たちで考えて、ブレーカーをもとに戻し、電化製品を再設定したようです。

長女が作ったスケジュール表には、一番左に3日間のテーマが大きく書かれていました。「協力する、成長する、楽しむ」という目標です。子どもたちだけで過ごす3日間をも、神様は訓練の機会として用いて下さったのかもしれません。3人で互いに協力し、ほんのちょっと成長し、そしてたいへん楽しかったようです。貴重な体験を与えて下さった神様に感謝します。

「あなたは、人がその子を訓練するように、あなたの神、(創造)主があなたを訓練されることを、知らなければならない。」(申命記8:5、新改訳第3版)

(写真は、長女が作ったパエリアと野菜炒め、わかめスープ。右上にちょっと見えるのは、焼き上がったバナナブレッドを置く場所。)

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2008年2月22日 (金)

健やかなる時も病める時も

非常事態は、いつでも突然やって来ます。昨日は午後、空き時間ができそうだったので、雑用を片付けようかと思っていたら、お昼過ぎに長男の中学校から電話がありました。保健室の先生からで、長男が急に熱を出して休んでいるため、迎えに来てほしいとのこと。急いで長男の部屋のふとんを敷き、車で中学校に向かいました。

聞くと3時間目の前あたりから寒気がし始め、保健室では8度8分まで体温が上がったのだそうです。とりあえず休ませ、近くの内科で午後の診療が始まる3時頃に、病院に連れて行きました。予防接種を済ませていたため、インフルエンザではないだろうとは思いましたが、「陰性」という検査結果にとりあえずホッとします。

処方箋をもらって薬局に行くと、お昼にJR駅に送ったばかりの長女からメールが来ました。「夕飯前に帰るけど、具合が悪いから食べられないかも」とのこと。「具合が悪い?」と聞き返すと、「頭痛、腹痛、熱、吐き気」という返信です。バスで帰るということだったので、ひとまず家に戻った後、すぐ近くのバス停まで車を出しました。

バスから降りてきた長女は、ガタガタと震えています。朝から具合が悪かったのに、友だちと会うため無理して出かけたようです。本人が保険証をもっていたので、そのまま、また内科に直行しました。体温を測ると、9度3分あります。「この子は予防接種を受けていません」と私が告げると、医師は、私の顔と長男のカルテをちらちらと見つつ、怪訝な表情で「では先ず、インフルエンザの検査をしましょう」と言いました。

結局、長女も「陰性」でした。ただ、ウィルス性の重い風邪の場合もあるので、少し様子を見て下さいとのこと。家に帰って来ると、居間でテレビを視ていた次女が、服の襟を立て、マスクのようにして「警戒態勢」をとっています。目からもウィルスが入るかもしれないから、「ゴーグルはどこか」と聞いていました。(笑)いくら家族でも、ウィルスは分かち合いたくないですね。

結婚時の誓約には、「喜びの時も悲しみの時も、健やかなる時も病める時も、富む時にも貧しい時にも」という言葉が含まれています。順境の時にも逆境の時にも、時が良くても悪くても、どんな状況に陥ったとしても、結婚する相手を愛し、敬い、慰め、助けること、そして命の日の限り(死に至るまで)堅く節操を守ること(つまり、浮気をしないこと)を誓うのです。

「健やかなる時も病める時も」愛し、助け続けるという約束は、配偶者のみならず、子どもたちにも適用されそうですね。神様が、弱っている人を支え、病をいやしてくださることを感謝します。

「幸いなことよ。弱っている者に心を配る人は。(創造)主はわざわいの日にその人を助け出される。…主は病の床で彼をささえられる。病むときにどうか彼を全くいやしてくださるように。」(詩篇41:1&3、新改訳第3版)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年2月21日 (木)

幸せ

高1の頃、「青春時代」という歌が流行りました。森田公一とトップギャランだったでしょうか。「青春時代が夢なんて あとからほのぼの想うもの 青春時代の真ん中は 道に迷っているばかり」というフレーズが印象的でした。今から「想えば」、高校や大学、そしてその後の「塾」の頃は、確かに「道に迷って」ばかりだったようです。

結婚相手の条件にしても、家族の牧師になろうと思ったことにしても、今だから頭の中を整理してお話しすることができますが、まさにその「真ん中」にいる時は、手探り状態です。数々の(?)失敗を重ね、痛い思いもしました。自分だけでなく、人を傷つけたりもしました。「被害」をこうむった方々には、たいへん申し訳なく思っています。

ようやく結婚相手の候補を見つけ、プロポーズの段になりましたが、私には決して言えない言葉がありました。最近は、プロポーズをしないで結婚する人が多いようで、それはそれで私には驚きです。なんとなく雰囲気で結婚して、その後、重要なことをうまく話し合い、折り合いをつけて行けるのだろうかと、ちょっと心配になりますね。オジサンの余計なお世話かもしれませんが。(笑)

私は、はっきりとプロポーズはしました。しかし、そこで決して言わなかったのは、「幸せにする」という言葉だったのです。

「幸せとは何か」ということを、大学に入った頃からずっと考えていました。いろいろと本を読みました。人の話に耳を傾けました。答えが見つからず、自殺を考えたこともありました。幸せに生きていけないなら、生きる意味がないように思えたからです。そしてとうとう聖書を通し、人間にとっての幸せは、創造主なる神様に愛されていることを知り、その愛の中を歩んでいくことだという結論に至ったのです。

とすれば、幸せにして下さるのは神様で、その幸せを受け取るのは本人です。いくら周りの人が愛をもって接したとしても、本人がその気持ちを受け取らなかったとしたら、幸せだとは感じないでしょう。「幸せにする」という約束は、神様の領域を侵すようで、私にはあまりに大それた言葉のように思えました。「二人で幸せになろう」とも言えませんでした。信仰が弱く、神様の愛の中をいつまでも一緒に歩み続ける自信がなかったのかもしれません。(苦笑)

それでも、「結婚してほしい」と伝え、色よい返事をもらえたことは感謝です。青春時代も、もう終わりに差しかかっていました。聖書のことばにより「迷い道」から救い出され、創造主なる神様に教えられつつ最善の道を歩んで行けるのは、真に幸いなことですね。

「幸いなことよ。全き道を行く人々、(創造)主のみおしえによって歩む人々。」(詩篇119:1、新改訳第3版)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年2月20日 (水)

「家の教会」の牧師

昨日のブログで「三つのC」のことを書いていたら、結婚前に自分が抱いていた「家庭のイメージ」を思い出しました。私は牧師になろうと思っていましたが、教会全体の牧師になる前に、家族の牧師になろうと考えていたのです。

聖書は、夫(そして父親)が、家庭の霊的なリーダーだと教えています。この場合、霊的リーダーとは神様に従い、家族のためにいつも祈り、その霊的状態に心を配り、一人ひとりの人格的成長のために手を差し伸べる人のこと。それは、ほぼ牧師の仕事と同じです。夫や父親は、「家の教会」の牧師なのです。

夫が牧師なら、妻は「家の教会」の「牧師夫人」になります。クリスチャン同士の結婚が、二人で新しい教会を立ち上げるようなものだとすると、プロポーズは、新しい教会のリーダーシップ・チームを作るため、メンバーをリクルートする行為になりますね。そこで大切なポイントが「三つのC」、つまり「品性(Character)」、「能力(Competence)」、「相性(Chemistry)」になるのは、当然の帰結と言えるでしょう。

「家の教会」の牧師の役割は、「牧師夫人」との良きチームワークをもとに愛に満ちた家庭を築き、その中で「子どもたち」を霊的に訓練し、新たな「家の教会」形成のために送り出す(巣立たせ独立させる)ことです。「子どもたち」は、実の子の場合も、法的な養子の場合も、「霊の子」(つまり霊的な「弟子」)の場合もあるでしょう。このようにすれば、次世代の「家の教会」を開拓し、クリスチャン・ホームのネットワークが広がっていくはずです。

家庭が簡単に崩壊する時代です。多くの人が神様の愛を土台とし、祝福に満ちた家庭を築いていってほしいですね。初代教会の時代も、人々は宮(エルサレム神殿)で礼拝する以外に、家庭での小さく、密度の濃い集まりを大切にしたようです。

「そして毎日、心を一つにして宮に集まり、家でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、神を賛美し、すべての民に好意を持たれた。」(使徒2:46-47、新改訳第3版)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年2月19日 (火)

結婚相手の条件

先日のバレンタイン・デーの前後、夕食時に子どもたちから、「なぜ(彼らの)お母さんを結婚相手として考えたか」と質問されました。男性側の視点ですから、特に長男に関心があったのかもしれません。突然の質問でしたが、もう20年以上も前のことを、少しずつ思い出しながら話しました。

最初に思い出した条件は、「私の母と仲良くしてくれそうな人」です。私の母は、嫁・姑の関係で苦労した人で、子どもの頃からそういった話を聞かされていました。父は嫁と姑の間にはさまれ、「嫁」の願うようには必ずしも行動しなかったようです。私自身、将来、両者の間にはさまれるのは嫌でしたし、姑と嫁の両方が不快な思いを抱くのを見るのも嫌だったのです。「わが家の長男には、姉と妹という『小姑』もいるんだよ」と言うと、長男は、「そんなのカンケーねぇ」と言っていました。(笑)

次に思い出した条件は、「同性(この場合は女性)の間で評判の悪くない人」です。男性は、どうしても女性の評価が甘くなり、「アバタもえくぼ」になりがちです。女性の方が、どちらかと言うと、他の女性を冷静に見ているようです。相手の女性が普段、どのような女性たちに囲まれていて、その人たちからどのように評価されているのか、という情報は、その人の人となりを判断する上で、たいへん参考になります。この条件は確か、若い頃、何かに書いてあったのを読んだのだと思います。

そして、私たちはクリスチャンですから、もちろん、「クリスチャンであること」という条件がつきます。これは、クリスチャン以外の人には分かりにくいかもしれませんが、クリスチャンにとっては重要な条件です。クリスチャンは、イエス・キリストの人格に近づくことを目標にして生きようとしています。そうでない人といつも一緒に暮らし、一つの家庭を築いていくのは、至難のわざと言えるからです。私の場合は特に、牧師になるつもりでしたから、牧師夫人がクリスチャンであることは必須条件でした。

ここまで話して、食事が終わってしまい、皆が席を立ち始めました。父親の話は、くどくて面白くなかったのかもしれません。(笑)しかし、座がお開きになった後、もう一つの条件を思い起こしました。それは、「二人でいい家庭を作れそうか」という大切な条件です。自分と相手の仕事と家事・育児の役割分担がどのようになり、将来、どのような家庭をイメージできるか、ということですね。二人のビジョンが、まったく別なものであったとしたら、結婚生活はうまくいきません。

その後、風呂に入りながら、最近読んでいるリーダーシップの本の内容を思い出しました。著者のビル・ハイベルズという牧師によると、彼の教会でリーダーシップ・チームを結成するメンバーの選出条件は、「三つのC」なのだそうです。第一は「品性(Character)」、第二は「能力(Competence)」、第三は「相性(Chemistry)」とのこと。なんだか結婚相手の条件とよく似ているな、と思いつつ、湯船につかっていました。

神様は、子どもたちに祝福の将来を計画されていると信じますが、私たちも、子どもたちがいつか良い結婚相手とめぐり合うよう、祈っていかなければなりませんね。神様が私に対して、最善の結婚相手を備えて下さっていたことを感謝します。

「良い妻を見つける者はしあわせを見つけ、主からの恵みをいただく。」(箴言18:22、新改訳第3版)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年2月15日 (金)

バレンタイン・チョコ

Img_12461 昨日のバレンタイン・デーは、家族でチョコを食べまくりました。(笑)妻と長女は、朝からトリュフ作り、午後に帰って来た次女は、学校から「友チョコ」を持って帰り、その後は3人で、密かにミルクレープの製作(&つまみ食い?)にいそしんでいたようです。長男が部活から帰って夕食をともに食べた後は、チョコレートのオンパレードでした。うちのは「本命」でも「義理」でも、ただ「自分」だけでもなく、「家族チョコ」ですね。

日本のバレンタイン・チョコの由来は、1936年のモロゾフの英字新聞広告が最初らしいのですが、チョコレートのバレンタイン・セールが始まったは1958年で、メリーチョコレートカムパニーが仕掛けたとのこと。確かにメリーチョコレートのサイトに行くと、「メリーのバレンタインは50周年を迎えました」とのメッセージがあります。

昨年1月のライブドア・ニュース(http://news.livedoor.com/article/detail/2993583/)によると、若き日のメリー社社長が、映画「誰が為に鐘は鳴る」のイングリッド・バーグマンの告白シーンに感動し、それがキャンペーンを始めるそもそもの発端になったとか。当時の日本の「シャイ」な女性でも、「バレンタイン・デー」なら男性にチョコレートを贈り、愛を告白できるのではないかと考えたそうです。

私の周りでバレンタイン・チョコの話題が始まったのは、よく覚えていませんが、中学生くらいの頃だったでしょうか。それからもう30年以上経ち、「義理」や「家族」の分を含めると、きっとこれまで膨大な量のチョコレートを食べてきたのでしょう。すっかりお菓子屋さんの術策に、はまっているような気がします。(笑)

イエス・キリストは、私たちに愛を伝えるため、チョコレートは下さいませんでした。しかし、私たちのため、いのちを捨てて下さったのです。十字架は当時、処刑場でしたが、今は私たちに対する、神様の愛のしるしとなっています。来年の「家族チョコ」や「教会チョコ」は、ひょっとしたら十字架の形のチョコレートがいいかもしれませんね。(笑)

イエス・キリストが十字架の上で私たちにして下さった、永遠の愛の告白を感謝します。

「人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。」(ヨハネ15:13、新改訳第3版)

(写真は、ハート型のミルクレープ)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

より以前の記事一覧