スピリチュアル

2012年11月 8日 (木)

神の国の「お家芸」

 「お家芸」という言葉は、もともと能や狂言、歌舞伎などの伝統芸能の世界で生まれた言葉だそうです。宗家や家元とされるイエに代々伝えられる、そのイエが得意としている芸や演目のことだとか。私はこれまで、そのような伝統芸能の世界とはほとんど縁がなかったため、本来の意味での「お家芸」は残念ながら観たことはありません。

 特定の「イエ」に伝わる芸だから「お家芸」と呼ぶのは、理にかなっています。しかし日本という国に籍をおく特定の個人やグループがある分野において優れた功績をあげた場合、それを「日本のお家芸」と呼ぶのには、どうも違和感があります。オリンピックで日本人選手や日本チームが何年か続けて活躍すると、そのスポーツは「日本のお家芸」と呼ばれます。日本の経済成長を担って来たある産業分野において、日本企業(日本に本社がある企業?)が劣勢になると、「日本のお家芸衰退」と言われます。そこには、「クニ」と「イエ」とを同一視しているような響きを感じます。

 かつて日本は、皇室を宗家とする一大家族とみなされた時代がありました。「クニ」に属する人々はすべて天皇陛下の赤子(せきし)とされ、一つの「イエ」の一員であると考えられました。神道と祖先崇拝を精神的基盤とし、神社に参拝し、御真影に最敬礼しなければ非国民とされる「空気」が国全体をおおっていました。「クニ」と「イエ」が一つとなり、「ガラパゴス化」したような社会の中、グローバルな価値観を持つクリスチャンたちは「空気を読まない」異端児でした。御名御璽への拝礼や神社参拝を拒んだ人々は、不敬を理由に職を追われたり、当局から厳しい弾圧を受けました。「クニ」と「イエ」との同一視は、そのような暗い時代を想起させます。

 以前、ある方が「日本は天皇を中心とする神の国」と発言して問題になりました。聖書が語る「神の国」はもちろん日本のことではなく、天地創造の神を中心とし、その神が支配する領域のことです。主権は創造主なる神にあり、国民はその主権を信じ受け入れる人々、領土は全世界に及びます。創造主なる神は天の父でもあり、国民は御子イエス・キリストによって神の子どもとされた人々です。ですからこの「神の国」は「神の家族」によって成り立っており、「クニ」は同時に「イエ」でもあります。

 では神の子どもたちにとって「お家芸」は何かと言うと、ペンテコステの日の直後、エルサレム教会に見られた10項目の特徴なのではないかと考えています。すなわち1)教え、2)交わり、3)聖餐、4)祈り、5)奇跡、6)共有・分配、7)礼拝、8)食事、9)賛美、10)増殖の10項目です(以下の聖書箇所参照)。イエス・キリストを信じ、神の国の一員とされているクリスチャンは、代々伝わる「お家芸」を大切に伝承していきたいですね。

「そして、彼らは使徒たちの教えを堅く守り、交わりをし、パンを裂き、祈りをしていた。そして、一同の心に恐れが生じ、使徒たちによって多くの不思議としるしが行われた。信者となった者たちはみないっしょにいて、いっさいの物を共有にしていた。そして、資産や持ち物を売っては、それぞれの必要に応じて、みなに分配していた。そして毎日、心を一つにして宮に集まり、家でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、神を賛美し、すべての民に好意を持たれた。主も毎日救われる人々を仲間に加えてくださった。」(新約聖書・使徒の働き2章42ー47節、新改訳)

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2009年7月 4日 (土)

預言者ジーン

最近聞いた預言というと、5月の米国フォースクエア大会のことを思い出します。

今年の大会は5月25~28日。会場はアナハイムで、ディズニーランドすぐ横のコンベンションセンターでした。当然、ミッキーに会いに行く時間などなく、予定がぎっしりつまっていました。(苦笑)

2日目の朝、遅れてビジネスセッションに出席すると、ジャック・ヘイフォード夫妻がステージ上にいて、みんなスタンディングオベーションしています。米国教団総理の再任でも決まったのだろうかと思っていたら、そのまったく逆でした。ジャック牧師が次の任期を受けないことを決心したと言うのです。

何でも日曜夜に奥さんと二人で祈っていたら、そのように導かれ、平安があったとのこと。米国教団の理事たちが聞いたのは、大会初日の月曜日だったようで、大混乱だった模様です。私はそんなことは何も知らず、ただ初日夜にジャック牧師が、「明日のビジネスセッションには、海外のリーダーも出た方がいいと思う」と言っていたので、遅刻しつつも顔を出したのでした。

数千人(?)の出席者たちの中にはすぐに受け入れられない人もいたようで、「どうして続けないのか」と質問し、涙を流し、食い下がる人もいました。そんな中でステージ脇のマイクの場所に出てきたのが、ジーンという名前のお婆ちゃんです。

この人、ジャック牧師とは長年の知り合いのようで、数週間前にある別の牧師の誕生会に同席したそうです。その時、神様から一つのことばが与えられたとのこと。ところが、その場で伝える機会を逸してしまったようで、すぐに伝えられなくてごめんなさいと謝っていました。

それは、こういうことばだったそうです。「あなたが総理の次の任期を受けようとしているのは、義務感からか、それとも神様の導きなのか。」

ためらいがちに語られたこのことばは実にパワフルで、会場全体がシーンと静まりかえり、人々がジャック牧師の決断に納得したように感じました。ジャック牧師自身は、「このことばが語られたのは遅かったわけではない、パーフェクトタイミングだ」と感謝していました。

なんだか、ルカ福音書2章に登場する女預言者アンナのようですね。私たちは、神様が人を通して語られることばを注意深く聞き、吟味していきたいと思います。

「あなたがたは、みながかわるがわる預言できるのであって、すべての人が学ぶことができ、すべての人が勧めを受けることができるのです。」(Iコリント14:31、新改訳第3版)

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2009年7月 1日 (水)

根こぎ

(昨日は私の手違い&ココログのトラブルで、最初の段落だけ記事がアップされていました。読まれた方は、どうも失礼いたしました。)

月曜日、お茶の水で会議があったので、久しぶりにCLCをのぞいてみました。前回いつごろ行ったのか、まったく記憶にありませんが、10年くらい訪れていないかもしれません。お茶の水駅に降り立つのも、久しぶりです。

ずいぶんレイアウトの変わったCLCの店内をうろうろしていると、あることに気がつきました。以前、雑誌や書籍のコーナーに必ず置いてあった(はずの)一連の出版物が一切ないのです。先日、新宿の「オアシス」に行った時もそうでした。

その光景は、私にとって感慨深いものでした。それはある預言の成就であり、また一つの時の終わりを意味していたのです。

私は預言者ではないし、特に預言の賜物が与えられているわけでもありません。近しい人たちがよく知っている通り、すばらしく霊的なわけでもありません。しかし、時に神様が語って下さる「ことば」を受け取ることがあります。そのような時は、その「ことば」が本当に神様からのものかどうか、場合によっては長い期間をかけて吟味することになります。

10年以上前、あるセミナーを受けた時から、私はある霊的な戦いに加わることになりました。そのセミナーの講師が「偽教師」だという「預言のことば」が、複数の参加者に与えられたからです。その預言は正しいのかどうかでたいへんな騒動になりました。一人の牧師はそれをきっかけにして病気になり、退職を余儀なくされました。

そのような混乱の中、私に与えられた「ことば」は、その働きを神様が「根こぎ」にされるという内容でした。当時、破竹の勢いで伸びていたその働きは、その後も日本中に拡大し、「根こぎ」になる気配など、まったくありませんでした。私も、自分が語られたように感じたのは、間違いだったのだろうかと思うようになりました。

ただ、「吟味」の期間は続いているように感じていたため、自分の教会が離れたその働きに、もう一度加わろうという思いにもなりませんでした。

それから10数年、状況が一変したのは今年に入ってからです。報道やクチコミで耳にする話は、私たちの想像を遙かに超えるほどひどいものでした。ただ七飯でクリスチャン書店に行く機会がなかったため、書店ではその後、どのような対応をしているのかまったく知らなかったのです。

新宿の「オアシス」とお茶の水のCLCで見た光景は、まさに「根こぎ」状態でした。神様がその光景を見せて下さり、語られることばに間違いがないことを教えて下さったことを感謝します。

被害をこうむった方々の回復のためにもお祈りいたします。私たちの力が足りず、10年以上もの間、問題が放置されたことがたいへん残念です。また、私たちの関連する教会でその働きとの関わりがあったことを悔い改め、神様の前に赦しを請いたいと思います。

「良い実を結ばない木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれます。こういうわけで、あなたがたは、実によって彼らを見分けることができるのです。」(マタイ7:19-20、新改訳第3版)

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2009年6月25日 (木)

祈りの力

私の高校の同窓会は、3年後が東京で私たちの幹事期になるのだそうです。先日、同窓会に行ったときに、「シゲキはどんな手伝いができる?」と聞かれたので、「背後で祈ってるから」と言ったら、聞いていたみんなが大爆笑でした。私は半分は本気だったのですが…(笑)

さて、今週火曜日、横浜のある教会に行って来ました。初めて行く場所で、誰も知っている人がいない教会です。実は日曜の深夜、うちの教会の人からメールがあったのです。知り合いの牧師がハワイから来て、火曜日にその教会でミーティングをするので、行ってみたらどうかという内容でした。その牧師に会うのも初めてだし、教会も初めてでちょっと勇気がいりましたが、とにかく行ってみることにしました。

教会につくと、アメリカ人のフレンドリーな若い宣教師が挨拶してきました。ちょっとホッとしてその人としばらく話をしていると、彼が別な人にどんどん紹介してくれました。(良かった!)そこの教会の主任牧師、スタッフ、同じグループの教会の人々、そしてハワイから来た講師の牧師たち。バイリンガルで開放的な雰囲気は、ホープトコとよく似ていました。

「ミーティング」は、祈りに関する短いセミナーでした。(それすら知らなかった! 笑 …実は聞いていたのは別のテーマでした。)ルカ福音書には、いつも祈っていたイエス様の姿が記されているという話がありました。そして、祈りがどのように私たち自身を変え、私たちの環境を変えていくかという証し(証言)がありました。

一人の牧師は、子どもたちのためにいつも「5つのC」について祈ってきたそうです。「Christ(キリストとの関係)」、「Class(小中高校)」、「College(大学進学)」、「Companion(結婚相手)」、「Career(仕事)」だそうです。その牧師夫妻は、ほんの2、3センテンスだけれども、毎日二人で祈ってきたそうです。

ある人は、神様から毎日2時間祈りなさいと言われ、祈り続けてきたとのこと。経営していた会社が売却しようかと思うほど経営不振だったそうですが、祈りの結果、業績が好転し、優良会社となったそうです。別なある人は、毎朝従業員と30分の祈りの時間を持っているとのこと。そのことにより、やはり会社の雰囲気が一変したそうです。

別な牧師は、今年5月31日のペンテコステの日に、ハワイ全体で行われた祈りのイベントについて話をしました。カトリックを含むあらゆる教会が、この日、それぞれの礼拝の場で祈りをささげたそうです。最初はアルゼンチンのエド・シルボソ牧師の指導を仰ぎ、何年も前にこの運動を始めたとのこと。この祈りの運動を通してハワイ全体が変えられ、今やホノルルは全米で一番安全な都市の一つだそうです。

私たちもこの日本で、祈りを通して働かれる神様の力を体験していきたいですね。

「そこで、まず初めに、このことを勧めます。すべての人のために、また王とすべての高い地位にある人たちのために願い、祈り、とりなし、感謝がささげられるようにしなさい。」(1テモテ2:1、新改訳第3版)

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2008年8月 7日 (木)

とりなし手

世界的に有名な宣教学者C・ピーター・ワグナー博士の「個人的なとりなし手」の一人に、以前お会いしたことがあります。「個人的なとりなし手」というのは、自らの生活や働きのさまざまな状況を率直に伝え、祈りをもって支えてもらう人のこと。霊の戦いを進めていく上で、とりなしの祈りは重要な役割を担っています。

ロス郊外の神学校で同じクラスをとっていたその人は、小柄で穏かな女性でした。分かち合いの時間か何かで、私が前日に一人で自室にこもり祈っていた内容を話すと、ほとんど初対面の彼女は、「あなたの祈りが聞こえていました」と言います。私は仰天して、もっと話を聞きたいと思い、わが家に招待しました。

私たちが日本に帰国し、道南で教会を開拓する話をすると、その地域での霊の戦いについて、的確なアドバイスをくれました。かなり激しい戦いになることも予見していたようです。内容の濃い話をした後、彼女と妻、私の三人で祈り、霊的な一つの備えをすることができました。

七飯シオン教会を正式に立ち上げるにあたり、とりなしの祈りは、重要な働きの一つとして位置づけられていました。親教会の役員会などに提出した資料にも、核となる働き人の中に「祈り手」が挙げられています。さまざまな人たちが、教会のために祈ってくれたと思いますが、私と妻のための「個人的なとりなし手」は、しばらく現れませんでした。

それは、実に不思議な「神の国の人事異動」でした。私たちがアメリカから帰国し、教会立ち上げ準備に入ってから5年後の2000年、大阪から一組のクリスチャン夫婦が引っ越してきます。私は、教団の新たな規約作成に携わり、教団事務局的な働きを兼務し始めた頃でした。

転勤でも何でもなく、また私や妻の知り合いでもありません。北海道には何度か来て、道南で結婚式も挙げ、好きな場所とのこと。それにしても大都市圏から田舎に来て、不況にあえぐ函館周辺で仕事を探すという無茶な話です。なぜかと聞くと、それが神様の導きだと言うのです。

このカップルは、私たちの「個人的なとりなし」をするミッション(使命)を帯びて、創造主なる神様が七飯に遣わされたのでした。ご主人は朝から晩まで目一杯仕事をして家計を支え、奥さんは私たちのために熱心に祈り続けてくれました。神様が、重要な働き人を私たちのもとに派遣して下さったことを感謝します。

かの王妃エステルは、自らの民族のためペルシヤ王にとりなし、命をかけて助けを求めました。私たちも神様が遣わされる場所に行き、とりなしの祈りを必要とする人たちのために祈り続けていきたいですね。

「あなたがこの王国に来たのは、もしかすると、この時のためであるかもしれない。」(エステル4:14、新改訳第3版)

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2008年6月12日 (木)

メッセンジャーたち

「メッセンジャー」という言葉は、普通は「伝言を伝える人」という意味です。もともとは、私信を届けるための使い走り役のことを言ったのでしょう。最近は、ネット経由でチャットや通話するためのサービスの意味だったりもしますが、「メッセージを伝える」という働きであることに変わりはありません。

ネットで検索すると、自転車で小さな荷物を配送するサービスがあることも分かりました。私は知りませんでしたが、1999年に自転車便を舞台にした「メッセンジャー」というラブコメ映画まで製作されていたのですね。主演は、飯島直子さんと草彅剛さんだそうです。「メッセンジャー」というお笑いコンビも活躍中のようです。きっと、聞いた人が笑えるようなメッセージを伝えているのでしょう。(笑)

日本の教会で「メッセンジャー」と言うと、通常、礼拝説教者や講演会講師のことです。英語では、それぞれ「preacher」、「speaker」と言うことが多いように思いますが、なぜか日本では「メッセンジャー」が多いですね。「プリーチャー」は通じないし、「スピーカー」と言うと、音響機器を連想するからでしょうか(笑)。

牧師は、教会で行われる礼拝その他の集会で、聖書に記される神様のメッセージを語ります。招かれれば、どこかで講演会をする人もいるでしょう。本を書く人もいます。日本の牧師の本は、時々、一般の出版社から発行され、普通の書店で売られる場合もあります。「元ヤクザ」だとか、「サラリーマン兼牧師」というようなちょっと変わった経歴だと、注目度が高かったりしますね。

しかし、海外の牧師の書籍は、私の知る限り、クリスチャン関係以外の出版社から出ることは少ないように感じます。これまで見たのは、ノーマン・ヴィンセント・ピールやロバート・シュラーなどの「積極思考」系の著作ですね。牧師が書いた本であっても、「自己啓発」方面の書籍なら売れるだろうと出版社が考えたのかもしれません。

最近は、ジョエル・オスティーン牧師の書籍が日本で翻訳され、「あなたはできる」というタイトルでPHPから出版されています。米国テキサス州ヒューストンにある同牧師の教会には、毎週3万人以上の人が集まり、テレビ伝道も行っています。原著「Your Best Life Now」は、全米で400万部以上のベストセラーとなり、世界19ヶ国で翻訳・出版され、韓国でも70万部のベストセラーになったとのこと。

私は、何年か前に来た韓国YWAMチームから、この本の英語版(ディボーション用=90日の聖書日課版)をプレゼントされ、読んでたいへん励まされました。神様からの励ましのメッセージをオスティーン牧師が多くの人々に伝え、それを韓国チームが私のもとに運んで来てくれたのです。

「あなたはできる」では、私たち一人ひとりが神様から与えられた力を十分に活かし、今、最高の人生を生きるための7つのステップについて記されています。1)視野を広げる、2)健全な自己イメージを育む、3)思考と言葉に潜むパワーに気づく、4)過去を捨て去る、5)逆境のときこそ強くあれ、6)与えるために生きる、7)幸せを選び取る、の7つです。

聖書に出てくるエピソードがふんだんに盛り込まれているので、聖書のちょっとした内容紹介にもなっているかもしれません。

創造主なる神は、私たちのもとに「メッセンジャー」たちを遣わし、愛と希望のメッセージを伝えて下さいます。神様は私たち一人ひとりに、素晴らしい将来の計画をお持ちであり、そのことを知ってほしいと願われているのです。私たちは、メッセンジャーたちを通して伝えられる聖霊なる神様の語りかけをしっかり聴き、受け取っていきたいですね。

「わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。──(創造)主の御告げ──それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。」(エレミヤ29:11、新改訳第3版)

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2008年6月11日 (水)

証し人たち

昨晩は、近隣の教会で行われた伝道集会に行って来ました。「Change Your Life(あなたの人生を変える)」と題する集会で、音楽のゲストがロン・ブラウンというサックス奏者とマキーダというR&Bシンガー。講師はご存知、伝道者の滝元明師。素晴らしい音楽と力強いメッセージが心に響いた一時でした。

3人とも、自らの「救いの証し(あかし)」を語っていました。「救いの証し(testimony)」とは、クリスチャンがどのようにして信仰を持つに至ったかを語る「証言」のこと。「証し」をする人のことを、「証し人(あかしびと; witness)」と言います。神様は、クリスチャン一人ひとりを、それぞれユニークな「証し」のある「証し人」として下さっています。

ロン・ブラウン氏は、子どもの頃からサックスが好きでプロとなり、ダイアナ・ロスやスティービー・ワンダー、ホィットニー・ヒューストンらのバックミュージシャンとして、世界中をツアーしたそうです。しかし、ある時、麻薬中毒となり、生活がどん底にまで落ち込みました。その時、イエス・キリストとの出会いがあり、生き方がまったく新しくされ、今はその喜びを音楽を通して表現しているそうです。

マキーダさんは、かつて破壊衝動があり、病院に隔離されて監視されたとのこと。自殺をしたり、他人を傷つけたりしないためでした。彼女はその中で、神様の語りかけを聞きます。「あなたは死んではならない。生きるのだ。そして、わたしの光を世に輝かせなさい」という「神の声」でした。彼女は、パワフルな歌声で今、神様の愛を歌っています。(お二人のCDは、こちらから購入できるようです。→ http://saxron.jp/index.htm

滝元明師は、愛知と長野の県境の山村で育ちましたが、終戦直後の焼け野原となっていた東京で勉強する中、あまりにお腹がすいて、友人たちとともに夜な夜な野菜を盗みに行ったそうです。ある時、なぜか人から「あなたは牧師が似合いそうだ」と言われたので、思い立って近くの教会に行ってみると、そこに集まっている人たちの澄んだ目に心を打たれます。自分は泥棒だけれど、彼らのような生き方をしたい、と思った滝元青年は悔い改め、すべての罪を告白し、まったく新しい生き方ができるようになりました。

救いの証しを聞くと、励まされますね。神様は、誰がどのような中にあろうと、限りなく愛しておられ、希望を与えて下さることを確認することができます。そして、証し人たちの言葉を通して、イエス・キリストを知らない人たちの心にも、聖霊なる神様が語りかけて下さいます。「わたしは、あなたのことも同じように愛しています。あなたにも希望があるのです」と。

最近、読んだ「証し」で感銘を受けたのは、淵田美津雄氏の自叙伝「真珠湾攻撃総隊長の回想」(講談社)です。パールハーバーの上空から「トラトラトラ(われ奇襲に成功せり)」を打電した海軍大佐が、なぜ戦後、イエス・キリストを信じ、伝道者としてアメリカ各地を回ったのか、その詳しい経緯を知ることができます。彼は、神による平和を訴え、憎しみの連鎖を断つことのために力を尽くしたのでした。

救い主イエスを信じる私たちは、神様が私たち自身に与えて下さった新しいいのち、新しい生き方を喜び、そのグッド・ニュースを伝える者として生きていきたいですね。まだ信じていない人は、聖霊の語りかけを受け取り、この恵みを体験することができるよう、お祈りいたします。

「イエスは私たちに命じて、このイエスこそ生きている者と死んだ者とのさばき主として、神によって定められた方であることを人々に宣べ伝え、そのあかしをするように、言われたのです。イエスについては、預言者たちもみな、この方を信じる者はだれでも、その名によって罪の赦しが受けられる、とあかししています。」(使徒10:42-43、新改訳第3版)

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2008年6月10日 (火)

驚くべき神の声

日本でトップクラスのある大学を卒業した、たいへん優秀な方から以前、「聖書を読んでもよく分からない」と言われたことがあります。

日本ではクリスチャンが数パーセントほどしかいないため、聖書の内容自体がよく知られていない面があります。また、2000年以上前の外国の出来事が記されているため、理解しにくい部分もあります。科学万能の現代において、聖書に出てくる数々の奇跡をどう解釈してよいのか、という側面もあるでしょう。

しかし実は、真の問題は、聖書のことばが人間の知力だけでは理解できないことなのです。神が語られる真理は、いくら勉強しても、深く研究しても、どれだけ頭が良くても、学識があっても、人知のはるかに及ばない領域にあります。聖書に「奥義(mystery)」と記されている通り、それは創造主なる神の「秘密(secret)」なのです。

この「奥義」を知り、理解するようになるには、聖書を読むと同時に、聖霊なる神様の語りかけに素直に耳を傾けようとする心が必要です。誰も聖霊によらなければ、救い主イエスを信じることはできません(1コリント12:3)。そして、「真理の御霊(みたま)」なる聖霊によって、私たちは、神様のすべての真理を悟るようになるのです(ヨハネ16:13)。聖霊の語りかけに心を開けば、小さな子どもでも聖書のことばを理解することができます。

聖霊はまた、私たちに別な方法でも語られます。日常生活の出来事、人の言葉、自分が受けた印象、夢や幻、試練や奇跡、あるいは直接、「声」をもって語りかけられる場合もあります。かつては、現代に奇跡などないと信じていた神学校教授ジャック・ディアー博士は、ある日、訪ねてきた学生の秘密を神様から超自然的に語られるという驚くべき体験をしたそうです。

ディアー博士は、その著書「神の声に驚かされる(Surprized by the Voice of God)」の中で、神の声を聞くには、次の3つが大切だと指摘しています。第一に、神様と親密な関係を築くこと。第二に、神様のみこころを喜んで行うこと。第三に、謙遜であること。まだクリスチャンでない場合は、そのような心を持つ準備のできている人が、「神の声」を聞くのかもしれません。

同博士はまた、その語りかけが本当に神様からのものかどうかを見分ける基準についても、三つ記しています。先ず、聖書のことばと矛盾していないかどうか。次に、神の愛に基づいているかどうか。そして、「良い実」を結んでいるかどうか、つまり人々を人格的に成長させるような結果につながっているかどうか、です。

私たちは、神の御霊なる聖霊の語りかけによって、創造主なる神の奥義を悟り、真理を明らかにされる聖霊の働きに協力する者となっていきたいですね。

「この奥義は、今は、御霊によって、キリストの聖なる使徒たちと預言者たちに啓示されていますが、前の時代には、今と同じようには人々に知らされていませんでした。その奥義とは、福音により、キリスト・イエスにあって、異邦人もまた共同の相続者となり、ともに一つのからだに連なり、ともに約束にあずかる者となるということです。」(エペソ3:5-6、新改訳第3版)

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2008年5月16日 (金)

聖霊のバプテスマのしるし

最近、聖霊のバプテスマの話題は、それほどメジャーではない感じがしますが(笑)、話のついでに、聖霊のバプテスマにともなう「しるし」についてもふれておきます。

4、5年前だったでしょうか、親しくなった福音派の教会のある牧師と二人で食事をした時、彼は私にこう質問しました。「そちらの教団では、異言を語らないと救われていないと言うんでしょう?」私はあまりに驚いて、一瞬、絶句しました。(笑)

「日本の福音派の教会では、今でもそのような噂が流れているのか。だから聖霊派が異端扱いされ、福音派と聖霊派の壁が今でも残っているのか」という思いが、その質問の瞬間、頭の中を駆け巡ったのです。

一昨日のブログ記事にも記した通り、救いの条件は、創造主であり、キリスト(救い主)である神の御子イエスを信じることです(ローマ10:9-10)。人の思いを導き、「信仰告白」に至らせるのは、聖霊なる神の働きであり(1コリント12:3)、信じる者の心のうち(奥底)には、神の御霊なる聖霊が宿って下さいます(1コリント3:16)。この点については、福音派も聖霊派も、その神学的理解にほとんど違いがないと思われます。

違いが出るのは、「聖霊のバプテスマ」をどう理解するかという点で、福音派の多くの教会では、おそらく「聖霊のバプテスマ」と「内住」は同じであるとしているのでしょう。これに対して聖霊派では、この二つは別個の体験であると主張しています。しかし、「聖霊のバプテスマ」が救いの証拠だとは言っていません。それは、救われた人に対する神様からの追加プレゼントだという理解です。

さらに両者の溝を深めたのが、「しるしとしての異言」問題でした。聖霊派の始まりと言える20世紀初頭のペンテコステ運動において、聖霊のバプテスマと異言は、切っても切り離せないトピックでした。

(異言については、こちらも参照→ http://lifestream.cocolog-nifty.com/blog/2008/02/post_73d3_1.html、ペンテコステ運動については、こちらもどうぞ→ http://lifestream.cocolog-nifty.com/blog/2008/02/post_73d3.html

米国カンザス州トピーカで始まり、ロサンゼルスのアズサストリートに飛び火したペンテコステ運動と呼ばれるリバイバル・ムーブメントは、聖霊が力強く注がれ、そこに集う人々に必ずと言って良いほど異言が与えられたようです。この運動から生まれた「ペンテコステ派」の多くの教会では、この原体験を土台とし、「聖霊のバプテスマの最初でかつ唯一のしるしは異言である」という教理を唱えました。

この辺りから、キリスト教界でたいへんな神学論争になります。長くなるので今日は詳しく書きませんが、もうそれから100年も経つので論争は収束し、世界的に見れば福音派と聖霊派は仲良くしています。

救いの条件について共通理解が得られれば、その他の細かな神学的相違点はただ違いとして認め、クリスチャンとして互いに受け入れ合っていきましょうということですね。日本は、この世界的潮流に少々乗り遅れつつも、次第に垣根が低くなって来ているように感じます。

ちなみに私たちの教団は、手前味噌ながらペンテコステ派の中では穏健な方で、「聖霊のバプテスマの最初で唯一のしるしは異言だ」とは明言していません。ただ、「聖書時代と同じような形で聖霊が注がれる」と信じています。もちろん多くの場合、異言が与えられるかもしれませんが、聖霊のバプテスマや満たしにそれ以外の「しるし」(預言、喜び、大胆さ等)がともなうことも同時に認めています。

私たちは、互いに愛をもって受け入れ合い、神様から与えられた「霊的プレゼント」を活かして仕え合っていきたいですね。細かな神学的相違から仲たがいし、愛と信頼関係を失ってしまうようなことがあれば、それは「すべてのことを適切に、秩序をもって行う」という姿ではなく、神様に喜ばれないことでしょう。

「それゆえ、私の兄弟たち。預言することを熱心に求めなさい。異言を話すことも禁じてはいけません。ただ、すべてのことを適切に、秩序をもって行いなさい。」(1コリント14:39-40、新改訳第3版)

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2008年5月15日 (木)

聖霊のバプテスマと満たし

先週教えた聖書学校のクラスは、リーダーシップがテーマだったのですが、最後の質疑応答の時間に聖霊のバプテスマに関する質問が続きました。昨日記した「内住との違い」に続く、次なる質問は、「聖霊のバプテスマと聖霊の満たしは、どう違うのか」という内容です。

イエス・キリストは天に昇られる前、弟子たちが間もなく、「聖霊のバプテスマを受ける」ことを予告されました(使徒1:5)。そして、その直後のペンテコステの日に起こった出来事こそが、史上初の「聖霊のバプテスマ」だと理解されています。しかし、その現象は「バプテスマされた」、つまり「浸された」ではなく、「聖霊に満たされた」(使徒2:4)、あるいは「聖霊が注がれた」(使徒2:17-18、33)と描写されています。

通常、「聖霊のバプテスマ」の例に挙げられる他の聖書箇所でも、「聖霊を受ける」(使徒8:15&17、10:47、19:2)、「聖霊が下る」(使徒8:16、10:44)、「聖霊の賜物が注がれる」(使徒10:45)、「聖霊が臨む(来る、現れる)」(使徒19:6、1:8参照)という表現のバリエーションがあります。

これらがすべて「聖霊のバプテスマ」だと解釈されるのなら、「聖霊のバプテスマ」と「聖霊の満たし」は、イエス・キリストを信じる者に対して神様が特別なプレゼントとして与えられる、ほぼ同一の体験を指していると言えるのではないでしょうか。私たちは、「聖霊が下り」、「注がれ」、「臨まれる」時、「聖霊を受け」、「聖霊に浸され」、そして「聖霊に満たされる」のです。

トロント・ブレッシングのリニューアル(霊的刷新)の流れでは、「soaking」という言葉があります。「soaking」は「浸すこと」ですから、これはギリシヤ語の「バプテスマ」に相当しますね。ジョン・アーノット牧師は、「soaking」とは「ともにおられる聖霊にふれられ、神の愛の中に安らぐこと」と説明しているようです。これは「聖霊の浸し(バプテスマ)」であり、同時に「聖霊の満たし」の体験なのでしょう。

ただ一般的には、「聖霊のバプテスマ」と言うと、各自が初めて体験する「聖霊の満たし」に意味を限定しています。聖霊派の多くの教会では、「聖霊のバプテスマ」はただ一度だけだが、「聖霊の満たし」は何度でもあり得ると、説明していると思われます。ですから、「聖霊のバプテスマ」は何度でもあり得ると主張すると、異端ではないかと変な顔をされる可能性があるので、ご注意下さい。(笑)

聖霊のバプテスマも聖霊の満たしも、イエス・キリストの証人として生きる私たちが、天与の力で強められる特別な体験です(使徒1:8、4:8&31、7:55-56)。創造主なる神様から授けられる特別な力により、私たちの言葉と行動を通して、神の愛を伝える者となっていきたいですね。

「御霊(聖霊)に満たされなさい。」(エペソ5:18、新改訳第3版)

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